花魁吉野畢生

翔子

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第十一章 高尾の恋

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 太夫となってしばらく、うちはあるお方さんと出逢いんした
 
 おんなじ京の生まれいう事もあり、すぐに意気投合し、親しゅう間柄となりんした

 旦さんの目ぇを盗んでは逢瀬を重ね、熱う身体を交わらせ、互いを激しゅう求め合いんした

 けんど、旦さんが京へ戻る事が分かるとうちは泣く泣くそのお方さんと別れるいう事になりんした

 そのお方さんと再会した今、うちは覚悟を決めたのや

 二人きりになれる……あの場所へなぁ

───────────────────────

八月三日 ───────

 夏真っ盛りとなった吉原では毎度の事ながらうだる暑さに打ちひしがれる人々が続出した。
 
 対応策として、創始の頃より、見世ごとに茶の変わりに甘酒が配られた。それは登楼するお客にも同様に差し出す。もちろんタダではないのだがお客は喜んで口に運ぶ。
 やがて江戸で〈吉原で甘酒天満あまみつ柔肌か〉という洒落もへったくれもない詩が広まった。

 温かい甘酒を飲みながら、奈桜藤は二階の欄干に片腕を掛け、一階に集まる女郎らが話しているのを盗み聞きしていた。甘酒と煎餅という素晴らしい組み合わせに輪になりながら花咲かす話題を持ち寄り、呵々と笑っている。昼見世終わりの見世ならいつも通りの光景である。
 微かに聞こえる声に耳を欹てていると、奈桜藤は驚き入った。
 
 高尾花魁が久方ぶりに道中を行ったというのだ、

「いったいどんな風の吹き回しだろうかいねぇ? あの引っ籠りの高尾姐ッ様が道中だなんて」

「お相手は相当な間夫だいな」

「まっさか! 高尾姐さんに間夫なんていないだろ?」

 八朔にお得意様から頂いた煎餅の欠片を飛ばしながら不細工に笑う女郎たちを傍目に、奈桜藤は悲痛な気持ちになった。
 たとえ苦手な存在であっても、花魁となった奈桜藤にとって、高尾の気持ちは痛く分かる。推測の域しか出ないのだが、高尾は亡くなった夕顔太夫同様、考えを改めて上級女郎としての覚悟を持ち直したのかもしれない。
  かみの女郎の気持ちも考えないで噂に花を咲かせるしもの女郎らを奈桜藤は一瞥し、舌を突き出した。

 切見世出身の奈桜藤には、下の女郎に対し同情の思いもある。だが、いざ高い位置に立ってみると違った労苦があるのだということを身にしみて分かった。大助が話してくれた、廓の天下を手中に収めることが出来るという花魁。一見華やかに見えてもその地位の重責さに身が震える。
 その身震の種は、己の身の上もさりながら、付き従う新造と禿の教育であった。

「結局女郎はさ、生きて行くために銭を稼がなきゃなんねえんだ。大方、オヤジからおまんまの食い扶持を断つとでも脅されたんじゃないかい?」

「そうなのかなあ」

「そうさ、高尾姐さんもあんな済ました顔してるけど所詮は女郎なのさ」

『随分とデカい口を叩く様になりんしたなぁ、ひめ野』

 後ろに姐女郎が立っているとも知らず、草双紙を振り回しながら新入りの新造たちに面白おかしく噂を聞かせていたのは、今年の正月に禿から振袖新造になった、夕喜ゆき改めひめ野だ。
 廊下から自身の部屋に戻ってみると、高尾花魁に関するありもしない噂がここでも繰り広げられていたことに奈桜藤ははらわたが煮えくり返るのを感じた。

 一瞬にして冷や汗をかきながら涙目になるひめ野を見下ろし、奈桜藤は腕を組んだ、

『根も葉もない噂を話し合って、楽しもうとする女郎があちきの新造にいたとはねぇ。そんな教え方した覚えがないんだが、どうなんだい?』

「だ、だって! 四年ぶりに道中張るなんて、どう考えてもおかしいじゃありんせんか! ね、姐さんだってそう思わないかい?」

『お黙りな! 口答えはあちきが許さないよ?』

 意地でも噂を正当化しようとしているひめ野に対し、奈桜藤は声を低くして説き伏せた。ひめ野だけでなく、次の間にいた夕華やしず葉も「ひっ!」と声を上げ震えた。

『さぁ! お前たち、修練の途中だろ? 噂話はそれぐらいにして、お励みなんし!』

 話を終わらせるが如く、両手を打つと、輪がぞろぞろと解かれ、ひめ野たちは散り散りになり三味線や和歌の稽古に向かった。

 奈桜藤は噂を嫌った。切見世にいた頃も、くれ葉や浮ふねが繰り広げる噂話大会に参加したことは一度もない。女郎たちに慎むよう、強要するつもりはないが、根も葉もない言葉を並べ立て、人を貶めるような真似だけは許せなかった。
 それに、奈桜藤の気持ちとしては、中見世唯一の花魁である、高尾と共に「夕風屋」を盛り立てて行きたいと願ってもいるのだ。


八月四日 ───────

 昼見世の営業が終わり、汗を流しに巾着と風呂敷を抱え部屋を出ると、そこへ手拭いを目深に被った高尾花魁と鉢合わせた、

『あっ高尾姐さん……何処どっかへ行くのでありんすか?』

 奈桜藤が問うと、高尾は下唇を噛んでボソボソと何かを呟いた。焦っている様子で、いつもの毅然とした態度ではなかった。そういえば恰好も、華やかな金糸銀糸が入った裾引きではなく、地味な色合いの小袖を着ている。
 高尾は観念したかのように、手拭いを取り訥々と話し出した、

「ち……ちょいと、ゆ、湯屋へ……」

『なら、ちょうどあちきも行こうと思っていたところでありんす。良かったら一緒に──』

「あぁ……」

 高尾は、ばつが悪いとでもいうように手で制して言葉を遮った、

「悪うおざんすけんど、あちき一人で行きたいのでありんす」

『さ、さいでありんすか……』

 「では……」と言うと、高尾はそそくさと階段を下りて行き、手拭いを被り直して見世を出た。誰が見ても挙動不審な高尾の行動に奈桜藤は気になった。


 気付けば、奈桜藤は高尾の後を追ってしまっていた。どうしても、湯屋へ向かうにしては地味な姿をしており、髪型も銀杏髷に結い直している。
 足抜けをするようには見えなかったが、いったいどこへ行こうとしているのかどうしても知りたかった。もやもやとしたままでは湯屋で身体を洗ってもスッキリしないだろうと思ったのだ。

 昼見世が終わったとはいえ、仲之町ではたくさんの問屋の商人たちでごった返していた。時折、行き交う人の肩にぶつかりながら、奈桜藤は高尾の姿を目で捉えた。
 辺りを警戒しながら軽やかにかわす地味な小袖の柳腰が裏路地に消えて行くのが見えた。急いで奈桜藤が追いかけると、そこに続く路は「夕風屋」のある京町一丁目から真向いの【京町二丁目】だ。

 京町二丁目は仲之町より人数ひとかずはずっと少なかったが、それでも似たような色味が多くて探すのに一苦労した。徐々に人だかりが薄れていき、とうとう羅生門河岸まで差し当たる。しかし、河岸の左右の道に高尾の姿はなかった。思わず空を見上げ、もう一度丁町に引き返し、周りを見渡すも、空にでも舞って行ったかのように忽然と姿を消した。

 そう簡単に人が神隠しのように消えるわけがない。考えた奈桜藤は、京町二丁目にある見世々々を調べる事にした。
 立ち並ぶ建物の中には【太夫選出】の場に参加していた、中見世「宇螺屋うらや」や、惣籬の格子を構える大見世や茶屋などが立ち並んでいる。だが、何処も「夕風屋」とは関わりもない見世だ。高尾が足を踏み入れるとは考えにくい。
 見世が建ち並ぶ軒の反対方面に体を向けると、雰囲気が一気に変わった。陰鬱な雰囲気が垂れ込め、「宇螺屋」と比べて建物自体に活気を感じない。看板も無く、暖簾だけが掲げてある粗末な造りである。人の気配は微塵も感じなかったものの、暖簾の棒と格子が微かに揺れていた。

 不気味に感じた奈桜藤は、身体が震え出した。仕方なく、道中の準備もあるので高尾を探すのは諦め、湯屋へと向かった。

 身体を清め終えた奈桜藤だったが、どうしても高尾の行き先が気になった。女郎の事情について首を突っ込むつもりもないうえに、その資格も持ち合わせていないが、何年ぶりかしれない道中のこともあって高尾の心境の変化を追及したい思いが心の底から湧き出ていた。

 見世に戻り、ふと二階に目を向けてみると、廊下を通って行く高尾が見えた。どうやら湯浴みをしている間に京町二丁目で用を済ませたらしい。
 連れ去られたわけではなく、足抜けしたわけでもないことを知って安堵したが、京町二丁目で一体何をしていたのだろうか。

 部屋に戻る気も起きず、張り見世の座敷に座り込みながら考えを巡らせていると、求めていた人物の声が耳に入った。奥の渡り廊下で若い衆と話をしている恰幅の良い姿を発見し、奈桜藤は速足でその人物の後ろに立って声を掛けた、

『大助』

 台帳を開きながら振り返る、追い求めた顔に、奈桜藤は笑みが零れそうになった。

「花魁」

 「奈桜藤」でも「よし」でもない、お職の名で呼ばれたその瞬間、奈桜藤は胸に何かが突き刺さる様な感覚が走った。我に返り、かぶりを振った奈桜藤は、目線を外しつつ口を開いた、

『ちょいと聞きたいことがあるんだ……いいかい?』

「あ、あぁ、構わなえけど手短に頼むぜ」

 一呼吸置き、奈桜藤は先ほど京町二丁目で起きた事を包み隠さず話した。





 一部始終を聞いた大助は目を丸くして奈桜藤に顔を近づけた。優しい梅の香が奈桜藤の鼻をくすぐり、いたずらな胸の高鳴りを再度感じた。

「お前、また余計な真似事をしでかしたのか?」

『なっ、余計とはなんだい!?』

 高揚した胸の高鳴りが一気に堕ち崩れ、大助に対して歯をむき出しにした。大助は周りに聞こえないように声を潜めた、

「「追いかけた」って話だ。しかも同じ花魁の後をだって? お前はな、もう昔みてえにじゃねえんだ。天下の花魁なんだよ! 身の程を弁えれ!」

『あぁ、もう! 分かったから……─── とにかく、暖簾の棒っこが揺れてる理由が分かんないんだ……あの時、風も無かったのに、なんでカタカタと音させてたのか。そういえば、建物自体も揺れていたような……』

 顎に手を置いて考え出す肝の据わった奈桜藤を見て、大助は再び声の調子を取り戻し、聞いた話で気になったことを訊ねた、

「花魁が消えたのはどの辺りだって言ったか?」

『ここからすぐ先の、京町二丁目だけど……』

「かぁ……二丁目かい……」

 大助は頭に手を置き「信じられねえ」と呟いた。その態度の意図が分からず、問い詰めた。

『二丁目がどうした? 「宇螺屋」や大見世、茶屋があるくらいだったけど……』

「そのが問題なんだよなあ」

 低い声で眉をひそめた瞬間、大助は急に肩を掴んで耳元で囁いて来た、

「裏茶屋だ……」

『う、うらぢゃや?』
 
 思わず目を背け言葉を繰り返すと、大助は真剣な眼差しで頷く、

「交わっちゃいけねえ間柄の男と女が密かに会って睦み合う場所さ」

 一瞬何を言っているのか分からず、しばらく考えた後、奈桜藤はようやく事の次第を理解した。

『じゃ、じゃあ高尾姐さんは……ま、まさか!』

「そういう事だな」

『一体誰なんだい?! 花魁を買えないお客かい? それとも、見世の若い衆か幇間たいこもち……?』

「可能性はあるが、俺はどちらでもねえと思うぜ」

『ど、どういうことだい?』

 奈桜藤はそこで初めて、高尾花魁と楼主・遊佐がデキている事を知った。高尾が花魁になれたのも楼主の後押しがあったからで、ここしばらくお客を取らずにいたのも楼主の独占欲が高く、厳しく止められていたからだという。大助は、内証から遊佐が出て来はしないかと気にしながら事のすべてを語った。この噂話は「夕風屋」にいる全員が承知しているという。
 
 奈桜藤は、高尾と楼主が関係を結んでいたという事はもとより、自分のみが知らなかったことに心外に感じた。しかし、知った所でどうなるものではないし、もっとも、奈桜藤は噂話を嫌っている。たとえ耳に入っていたとしても軽く受け流していたことだろう。

 若い衆に呼ばれた大助は、肩を軽く叩いてその場を去って行った。大きな背中を見つめながら、奈桜藤はしばらく動けないでいた。大助が噂を鵜呑みにし奈桜藤に語って聞かせた。よもや噂を好む性格なのではないかと、胸騒ぎすら感じた。

 通りがかった夕華に手を引かれて部屋に戻った後、奈桜藤は余りの衝撃に煙管を吸う回数が増えた。部屋中を【上野堂こうずけどう】の煙で充満させ、ひめ野やしず葉たちは全開にした窓に向けて団扇で扇ぎ飛ばすも無駄であった。禿と新造たちの行動を気にも留めない程、奈桜藤は頭を熱くさせた。

 高尾と遊佐の件が話題に持ち込まれなければ、大助と言葉を交わしたことに喜びで打ち震えていたはずだった。しかし、世の中そう簡単に上手くいかないものだと頬杖をついた。鬱々とした刻を過ごしているうちに、とうとう夜見世が始まってしまった。


 二日とあげずに登楼したのは、通人な若旦那・直孝であった。夕顔太夫時代の常連客ばかりで退屈していた奈桜藤は直孝を歓迎した。

「久しぶりですね、奈桜藤花魁。おや? 少し痩せられましたか?」

 芸者の奏でる三味線を傍で聴きながら、直孝は奈桜藤に初めて声を掛けた。緊張もしておらず堂々とした口振りに奈桜藤は花魁らしく冷たくあしらった、

『旦さんは無粋なお方でありんすなぁ。女子おなごに、しかも女郎にそないな事を言わしゃるは失礼というものでありんしょう』

「いやぁ~これは失敬! そんなつもりは無かったのだが、ようやく話す事が出来るので、何を話題に持って行けば良いのか皆目見当もつかず、つまらぬ事を聞いてしまった」

 目を三日月のように細めて目尻に深い皺を作りながら直孝は笑った。急に笑い出すので控えていた禿が飛び上がった。直孝は目の前に出された仕出しの料理に手を付けながら、先ほどの朗らかな表情から一気に神妙な面持ちに変わった、

「花魁は皆同じ見姿をしておる。髪型や簪、裾引きや打掛を褒めても埒が明かない。言われ慣れてるだろうし、奈桜藤花魁にとっては当たり前だと思うからね? よって、顔映りについて訊ねてしまったのです。申し訳ないね」

 この人は何かが違う……。初めて会った時からそう感じていた。子供の様にあどけない表情を見せたかと思えば今の様に数々の辛酸を舐めた苦労人のような表情を途端に見せてくる。
 今宵の直孝の装いは鉄紺てつこんの着流しに錆色さびいろの絽羽織を合わせている。大店の商家の若旦那であるが決して驕らず、贅沢をしようという素振りがない。女郎に対しても気を遣えるこの人物に奈桜藤は一目で気に入ったのだった。
 
 その後は他愛のない会話が続き、直孝との【裏】は終わった。この次は花魁になって初の【馴染み】の儀式だ。女郎の頃の様に決して声は立ててはならないという更なる厳しい掟を守り、気を引き締めて行かなければならないと心に決めた。

───────────────────────

 大門前で直孝を見送った後、普段の装いに身を替えた奈桜藤は用を足しに雪隠へ向かった。その帰り、ある部屋の前を通り掛かると男女の話し声が聞こえた、

「ほんなら、明日、開運稲荷の前でな」
 
「へえ。あぁ……今すぐにでも幸次郎さんとここを出とうございます……」

「早まったらあかんで……とにかく今は堪えるんや。必ず一緒になれる……約束や」

「幸次郎さん……、へえ、約束でございます」

 高尾花魁の声だ。もう一つの声の主は幸次郎という名らしく、訛りからして西の方言であった。高尾も訛りを持った言葉遣いをしており、いつもとは違う優しい話し方をしていた。
 奈桜藤は、二人の会話をよく聞こうと襖に耳を近づけると、突然向こう側から勢いよく開けられ、高尾の室に崩れるようにして倒れ込んだ。
 男は急に女郎が現れたことに驚き、とっさに、あっ、と声を漏らした。

「奈桜藤!」

 急に現れた妹女郎に高尾は目を剥くと、すぐに怪訝そうな表情に変わった。奈桜藤は乱れた衿裾を直し、何事もなかったかのように笑みを見せた、
 
『ね、姐さん……お、お陰雨りなんし』

 しかし、男は開け放った襖を閉め直し、奈桜藤に突っかかって来た、

「あんた、今の話、聞いておったんとちゃうやろな!?」

 男── もとい幸次郎は、縞模様の木綿を着ており、見るからに侘しそうな三十代がらみの男であった。目の下には薄く隈が出来ており、何日も寝ていないように見えた。顔に唾が掛かるのも厭わず、奈桜藤は幸次郎に向かって謝った、

『申し訳ござんせん! 盗み聞きするつもりはありんせんした……ただ、声が聞こえたのでどういう話をされておられんのかと気になりんして……』

「さすがは女郎やな。客と太夫の話を盗み聞きするなんざ掟破りとちゃうんか! 亭主に言いつけてやるわ! 来ぃや」

 両手を付いて頭を垂れても、幸次郎はひどく慌てた様子で、数々の難癖を付けて来た。

 盗み聞きを好んでする者はこの吉原にはいない。部屋の外で女将、後ろに芸者と幇間が控え、中の状況を把握、そして判断して入る機会をうかがうのがこの界隈のやり方だ。聞きたくなくても耳に入ってしまう会話はしょうがないこと。そのため、客の秘密を誰かに漏らすなど言語道断だ。

 狼狽える幸次郎の素振りに、奈桜藤は心当たりがあった。自身は経験したことはないが、他の見世で起きたに見えた。しかし、よりにもよって高尾がと、信じたくなかった。
 奈桜藤は猫のように後ろ衿を掴まれ、部屋を出されそうになると、煙管を灰吹きに叩きつける音が幸次郎の動きを止めさせた、

「もうおやめよし、幸次郎さん。そん子もあちきと同じ花魁ですさかい、そこまでにしといとくれやす」

「せやけど藤乃! もしこやつが亭主にバラシてしもたらどないするん!」

「そん子には後できつう言うておくさかい、もうお帰りやす。間もなく大門が閉まる刻限どす」
 
「せ、せやけど、ふじっ──」

 幸次郎が何か言いかけると高尾は人差し指を厚い唇に当てがって目配せをした。それを見た幸次郎は肩を落とし、奈桜藤を睨みつけた後、そそくさと部屋を去って行った。 

 ぴしゃりと閉められた音が部屋中を貫いた。一階からの清搔すががきの音が覆い被さるように流れてくると、奈桜藤は膝の上で袖口を弄びながら高尾を見つめた。その表情からは、怒っているのか、平静を装っているのか読み取れなかったが寂しそうには見えた。
 高尾は、妹女郎と二人きりになった途端に、片膝座りから胡座に変え、一服し出した。煙をじっと眺めながら、奈桜藤に替えの煙管を無言で差し出し、一本勧めて来たが姐女郎の手前、遠慮した。艶やかに煙を吐くと徐に話をし出した、

「あの旦さんは、あちきの間夫でありんす」

 急な告白に奈桜藤は戸惑った。

 高尾花魁に間夫が居るというこの真実が「夕風屋」全体に知れ渡れば、皆一様に騒然となるに違いないと、奈桜藤は何故か偏った考えを頭の中に巡らせた。

「お前さんも聞きんした通り、あちきは、京の生まれでありんす。父は旗本でありんしたが、あちきらを伴って江戸に出府するも、勤めが低かったこともあり、侘しい暮らしを強いられんした。あちきは、妹たちのためになんとか豊かな暮らしをさせようと、とおの頃に自ら売られに行きんした。禿の頃から必死に歯を食いしばって耐え、ようやく先代高尾の引込禿となりんした。そっから新造となって十六で太夫の座を継ぎんした。信じられんかもしれんすが、周りの太夫とおんなじように上客を相手に欲を満たしてあげたもんでありんす」

 突然語り出した高尾に戸惑いながら、奈桜藤は十の頃の高尾を想像した。目の前にいる美形な姿ならば、禿のころからさぞ別嬪であったことだろう。
 そういえば、幸次郎は高尾を ”藤乃” と呼んでいた。奈桜藤がそのことを訊ねると、高尾は惜しげもなく答えてくれた、

「さいでありんす、藤乃とはあちきの真の名や。あぁ、そういえばおっかさんから聞きんした。お前さん、自分の名を知らんのやそうな。気の毒でありんすな」

 その事について、奈桜藤は何も答えなかった。気の毒に思ったことなど微塵もないからだ。「大生屋」に売られてからこのかた、初めてつけられた、”よし” という名が奈桜藤にとっての真の名なのだ。返事をしない奈桜藤を気にするでもなく高尾は言葉を続けた、

「太夫になってから四年、あちきはあるお人と出逢いんした。それが、あのお人や」
 
 今し方、幸次郎が去って行った襖を愛おしそうに見つめながら高尾が言った。尽きた火種を灰吹きに叩き、再度火皿に煙草を詰めた、

「あのお人は、友禅の職人弟子で、その師匠があちきの客でありんした。隅で小さくなりながら、新造が勧める酒にも料理にも手を付けず、気弱そうな様を、あちきは不思議に思いんした。旦さんが果てて寝込んでる隙に、裏で控えていた幸次郎さんに声をかけんした。女郎と廻し部屋へも赴かず、ただただ、旦さんが起きるのを待つその姿が、まるで主の帰りを待つ子犬のようで愛らしかったのでござんすよ。顔はあちきの好みではありんせんしたが、あのお人と久方ぶりに京言葉で語り合ったあの時間は、初めて桜を見た時のような、晴々とした気持ちになりんした」

 驚きを隠せなかった。その行いは太夫としてはあってはならない行動だからだ。下の女郎ならいざ知らず、太夫という、見世を背負って立つ存在の女郎が、お客が引き連れた付添人に手を付けるのは掟破りなことである。
 しかし、幸せそうに語る高尾にとって、たとえ罪に問われたとしても気にはならないのだろう。女郎である以前にただの女子おなごなのだ。

「幸次郎さんもあちきと同じ思いでござんした。「初めて見る太夫とはどんなものか。不器量であったらどないしよう」と考えていたらしゅうて、あちきは初めて心から笑いんした。それから数日間……あちきは裏茶屋で幸次郎さんと情を通じんした……」

『裏茶屋……』

「まぐわう事の許されぬ相手とまぐわえる唯一の場所……。髪型と化粧を替え、手拭いを被りなんとか周りから太夫とバレることなく、幸次郎さんと愛を交わし合いんした」

 奈桜藤はハッとした。しかし高尾はそんな奈桜藤の反応を気にする事なく続けた、

三月みつきが経ちんした頃、江戸での仕事を終えた旦さんは京に帰ると仰られ、あちきは心が苦しくなりんした。まるで、身体の一部が引きちぎられるような、そないな痛みでござんした。旦さんの傍に控えていた幸次郎さんは悲しい顔であちきを見んした……。同じ思いでいる、寂しいが仕方がないのや、と言っているように思いんした。そしてその後、見送る事も叶わぬまま、旦さんたちは京へと帰られんした」

 煙管から出る煙がもくもくと辺りを漂い、目の前の高尾の顔が薄くなった。目を凝らしてみると高尾は泣いている様にも見えた。灰吹きに勢いよく煙管を叩き付け、続けた、

「ところが、つい先日……あれは仮宅が終わってすぐの頃でありんしたかいなぁ……幸次郎さんと風貌の似る殿方を仲之町で見掛けたのや。そん時は禿と新造を連れて湯屋へ行く頃でありんした故、言葉は交わさず、目だけを合わせんした。すぐに幸次郎さんやと気付きんした。その後、開運稲荷の前で待っていんすと、幸次郎さんがふと現れ、あちきは思わずあのお人の胸に飛び込みんした。そこからすぐに幸次郎さんとあちきの日々が始まりんした。裏茶屋へ出向き、互いの思いを、気持ちを、心を……通わしたのや」

 昼間の不審な行動の理由はこれだったのだと分かった。楼主とデキてるなどただの噂に過ぎなかったのだ。
 花魁と客ではなく、の女と男として愛を確かめに行く姿を、知らなかったとはいえ、奈桜藤は詮索しようとした。下唇を噛みながら奈桜藤は己の追求心を反省した。

 俄かに立ち上がった高尾は、し掛けを脱いで衣桁に下げ掛けた。その姿を見つめながら、奈桜藤は「聞いてもよろしゅうありんすか?」と前置きをした、

『何故、今日、道中を張ったのでありんすか?』

 振り返りもせず、高尾ははっきりとした声色で答えた、

「花魁としての役目を果たすため、と言った方がよろしいおざんすかえ」

『幸次郎さんという間夫がいながらでありんすか?』

「これまで、見世には迷惑をかけっぱなしでありんした。何もせず、客も取らず、見世の為に成したことのない一端の女郎を、おっかさんと親父様は見ぬふりをして好き勝手させてくださいんした。借金は嵩みにかさみ、自分の首を絞める事になりんすなら見世にとって利になる事をしたいと思いんした。呼出をした旦那様は、名代高尾に会えたと喜び、五百両を落として頂けたでありんすよ」

 名代高尾を継承する女郎の揚げ代は規格外だ。大尽級のお客でしか買うことは出来ない。高尾が幸次郎という男に恋い焦がれることがなければ、中見世の「夕風屋」はすぐにでも大見世に昇格していただろう。

 奈桜藤はについて問い質そうと考えたが、言葉を選び出そうとしてる間に高尾が先に口を開いた、

「幸次郎さんとあちきの会話を聞いたのやろ。どないするつもりかえ? 親父様に告げ口しんすのか?」

『まさか、そんな事しんせん……』

 奈桜藤は高尾の口から言葉が出てくる前に、意を決して訊ねた、

『姐さん、まさかとは思いんすが……足抜け……する気ではありんせんよね?』

 胸の鼓動が速くなるのを感じた。こんなことを直接聞くのは明らかに無礼だ。もし高尾自身にその気が無かったどうする? 廊下で聞いた二人の会話は、ただ待ち合わせの場所を示し合わせていただけかもしれない。このままでは高尾の気分を害し、険悪の関係になることを覚悟した。ところが、 

「そないな阿呆なこと、念頭にもあらへんから安心しよし」

 じわじわと緊張していた糸が解かれて行くような心地がし、奈桜藤は高尾の背を見つめながら、胸を撫で下ろした。

「お前さんは、ここを出たいって思うたことはないかえ?」

 こちらを振り返って唐突に突き出された問いに、奈桜藤はたじろいだが、はっきりと答えた、

『あちきは、そんなこと一度も思った事はありんせん。ここ以外に行くところはありんせんゆえ』

「そうかい。しかし、今はそうでも、いずれ分かる日が来るさ。欲に任せて、あちきら女郎の身体を貪り、その女郎を使うて売り上げの事しか頭にない親父様方なんて……もうまっぴらごめんでござんす」

『姐さん……』

 目を伏せながら心からの訴えを明かす高尾に、奈桜藤は哀れにさえ思った。

 この人は他の女郎の誰よりも辛い思いをして花魁の地位に立っているのだと悟った。察するに最初に吉原に入った経緯も嘘であると分かった。自身を律して、それを正当化する事で誰よりも毅然とし、粋筋に生きる事を旨としているのだと。
 誰しも表と裏の顔は違う。愛する人の前では素直な自分でいられる、乙女の姿を残す女子おなごであれば不思議ではない。

「さぁ、もう部屋へお戻りやす。遣り手の婆さんに見つからはったら厄介やよって」

 帯に手を掛けて今にも寝間着に着替えようとする高尾に対し、奈桜藤は頭を下げて襖に手を掛けると、襦袢姿になった高尾から俄かに呼び止められた、

「奈桜藤」

『あい?』

「愛する人を大切にするんやで。一度失うたら、もう後戻りは出来ひんよって」

 高尾花魁が初めて優しい笑みを見せた。その笑みに奈桜藤は胸騒ぎを感じた。何もかもを悟り、何もかもを捨て去ろうとしているような笑みであった。


 日付が替わり八月五日── これが、高尾との最後の会話となった。

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前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
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