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6 突然の育児
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それから三ヶ月後、ムルドとピオニーが籍を入れた。ピオニーがおめでたとのことだ。知らせを受けた俺は祝いの品をイグニスと選んで、二人でそれを渡しに行った。
妊娠初期だというピオニーはつわりが酷いようで、少し話をしただけで俺とイグニスはすぐに帰ったのだが⋯⋯俺は心の底からピオニーとムルドにお祝いの言葉を伝えることができた。
「妊娠三ヶ月だと?てことはあの野郎、ジェノにバックハグかました日の前後に嫁を孕ませたんじゃねーか」
屋敷に帰ってからイグニスは、ムルドに対してまた腹を立てていたけれど。
そのバックハグの日以降は、ムルドが俺に接触することはなかった。お祝いしに行った日も前みたいに『戻ってこい』と言われず、幼馴染から離れて生きる俺の選択を認めてくれたんだと受け止めている。
それから更に二ヶ月後。領主補佐として実家に戻ることになったイグニスは騎士団を退団した。出会った日に決めてあったとおり、俺達はセフレ関係を解消した。
「ジェノは俺が『いい』って言うまで、彼氏もセフレも作ったら駄目だからな!俺の口利きがなくてもジェノの実力なら余裕で試験に合格するだろうが、騎士団の宿舎なんていう獣の群れにジェノみたいな可愛いのが入ったら間違いなく食われちまうからずっとこの屋敷に住むように。いいか、ずっとだぞ!もし上官や貴族の同僚に言い寄られたりセクハラされたらすぐ俺に連絡しろよ」
別れ際はイグニスからあれこれと言づけがあって、ちっともしんみりした空気にならなかった。
試験はその翌月で、イグニスの見立てどおり合格した俺は、合格の報せを受けた翌日から騎士団で働き始めた。
冒険者と違って厳しい規律に従って働くのは初めてで戸惑うことも多かったけれど、日々の忙しさのおかげで、イグニスと別れて一人になった寂しさをあまり感じなくて済んだ。
◇◇◇◇
騎士団に入団して一年が過ぎたある日。
イグニスに住めと言われて空き家の管理を兼ねて住み続けている屋敷に、見慣れない人物が訪ねて来た。冒険者ギルドの事務員の制服を着ている若い女性だ。彼女は小さな赤ん坊を腕に抱いていた。
「ジェノさんですか?冒険者ギルドの者です。冒険者のムルドさんとピオニーさん、お二方のパーティーがダンジョン内で消息不明となりましたので、彼らの息子さんをあなたの元に連れて参りました。この子の身元引き受け人はジェノさんでお間違いないですよね?」
ムルドとピオニーの息子の身元引き受け人は俺で間違いない。頼まれた時に二つ返事で書類にサインした。俺は酒も賭博も娼館通いもやらないから貯えはあるほうだ。ムルドとピオニーの身に何かあって子どもを引き取ることになっても大丈夫だろうと引き受けたが、その考えが甘かったと今まさに思い知らされている。
ギルドの職員から赤ん坊を受け取った俺は、屋敷の門の前で呆然と立ち尽くすしかない。
まず、この子を抱いたままでは屋敷の中に戻れないのだ。セフレの俺に愛着が湧いた嫉妬深いイグニスが、別れた後も俺が男を屋敷に連れ込まないようにと、屋敷にはイグニスが許可した人間以外は入れないよう魔法がかけられているのだ。
騎士団から帰宅して何時間も経っている今、商店はとっくに閉まっているからミルクもおむつも買いに行けない。ムルド達の子は、今はまだ俺の腕の中でぐっすり眠っているから良いものの、じきに腹を減らすだろうし排泄だってするだろう。
それに俺には明日も騎士団の仕事があるのに、赤ん坊を預けるあてなんてない。明日休みをもらって仕事中の預け先を探すにしても、子どもを育てる知識も経験もない俺が、こんな小さな子を一人で育てていけるのか。
いっぱいいっぱいになった俺は、いつも身に着けているネックレスを胸元から取り出した。『騎士の任務中に絶体絶命の危機に陥ったら迷わずこれに魔力を流せ。俺がすぐに助けに行くから』と、別れ際にイグニスが俺に手渡したものだ。
『すぐにって言うけど、領主になったらおいそれと身動き取れる立場じゃなくなるだろ』と茶化しながら受け取ったそれに、俺は藁にもすがる想いで魔力を流した。
「大丈夫かジェノ!何があった!?」
転移魔法を使い、たった数秒の内に現れたイグニス。
「イグニス⋯⋯?ほんとにすぐ助けに来てくれた⋯⋯」
「ジェノ⋯⋯この子はお前が産んだのか⋯⋯?相手は誰だ。騎士団のやつか?」
「ムルドとピオニーの子だよ。結婚のお祝い渡しに行った時、ピオニー妊娠してただろ」
「言われてみればそうだな。取り敢えず込み入った話は屋敷の中でしよう⋯⋯って、俺がかけた魔法のせいで赤ん坊と一緒じゃ中に入れないのか」
イグニスが魔法を操作してくれて俺達三人は屋敷に入ることができ、俺はイグニスにムルドとピオニーの子を預かった経緯を説明した。
「よく俺に助けを求めてくれたな。偉いぞ、ジェノ。全部何とかしてやるから、俺に任せとけ」
「イグニス⋯⋯忙しいだろうに、ごめんな。俺、他に頼れる人が思い付かなくて」
「そんなの思い付かなくていい。ジェノは困ったら俺にだけ頼ればいいんだ。今はムルド君とピオニーちゃんの生還を信じて待とう。その間は俺も一緒に子育てするよ」
「イグニス」
安心した俺の目から涙がこぼれた。ムルドやピオニーの前で泣いたことなんてないのに、イグニスの前だと子どもみたいに泣いてしまう。
「今ものすごくジェノを抱き締めたいんだが、赤ん坊を抱いてるからな」
抱き締める代わりなのか、イグニスが優しい手付きで俺の頭を撫でる。するとそれまで寝ていた赤ちゃんが「ふぇ⋯」と声をあげ始めた。
「まずいな。俺は育児に必要な物を調達してくるから、それまでこの子を何とかあやしてやってくれ」
転移魔法であちこちに飛びまわり、イグニスはミルクとおむつ、それに着替え等々を見る間に調達してきてくれた。
そして彼は最後に、品の良いワンピースに身を包んだ、小柄な老齢の女性を連れて来た。
「こちらは父の乳母だった人だ。現役時代は屋敷の侍女長をしていて、俺は婆やと呼んで慕っていたんだ。明日いっぱい滞在してもらえることになったから、彼女に子育てを教わるぞ」
婆やさんのこめかみはピクピクしていた。いきなり強引に連れて来られたに違いない。
「まったく、坊っちゃんは大きくなられても相変わらずですわね。夜会服をお召しのようですけれど、夜会の最中だったのでは?」
「えっ、そうなのか?」
夜会って貴族が広い屋敷に集まって踊ったりするあれのことだ。冒険者時代に領都から王都の夜会までの行き帰りの護衛の依頼を受けた覚えがあるから、何となくは知っている。今日のイグニスの装いはいつにも増して煌びやかだと思っていたら。
「気にしないでくれ。俺が抜けても何ら差し支えない夜会だよ。さあ婆や、そんなことよりミルクのあげ方とおしめの取り換え方を早速俺達に教えてもらいたい」
その晩、屋敷に宿泊させられた婆やさんは、翌日一日がかりで俺とイグニスに育児の初歩の初歩を厳しく指導してくれた。
俺の仕事のほうはと言えば、申請した覚えのない『育児休暇』という休暇中の扱いになった。子どもを養育している間は最長一年間、騎士団を休んでいてもクビにならない上、働いているのと同じだけの給与が支給される制度らしい。
「そんな制度、騎士団にあったんだな」
「昨日から施行開始したんだよ。ジェノは運が良かったな。騎士団のルールでは生後一歳未満の実子か籍を入れた養子じゃないと本来は適用外だが、ジェノは制度施行開始記念として特例措置にしてもらったぞ」
⋯⋯イグニスは領主補佐だ。ありがたいけど職権乱用なような。
「制度自体は以前から検討されていたんだよ。俺は施行を早めただけだから、そんな微妙そうな顔するな。さあ~ジェオたん、離乳食の時間でちゅよ~」
ムルドとピオニーの子ジェオを高い高いしながら、くるくると回るイグニス。ジェオはキャッキャと笑い喜んでいる。
ジェオの髪と目の色はムルドと同じ黒、顔はピオニーに似てとても愛らしい子だ。ジェオの名前は俺とピオニーから取ったと聞かされた時は気恥ずかしいながらも嬉しかった。
この子が生まれたのは俺が騎士団に入団して四ヶ月ほど経った頃だったから、ジェオはまだ生後一年にも満たない。これは婆やさんから教わったのだが、このくらいの年齢の赤ちゃんはミルクだけじゃなく離乳食も食べるらしい。言葉はまだ喋れないけれど、『あー』とか『だー』とか、赤ちゃんらしい声で一生懸命に何かを訴えてくるのがすごく可愛い。
俺とイグニスがこうしてわりと呑気に子育てをしているのは、ジェオの両親であるムルドとピオニーが近い内に戻って来るだろうと確信しているからだ。
婆やさんに育児を教わった日の翌日、イグニスにジェオを見てもらっている間に俺は冒険者ギルドに足を運んで、ムルドとピオニーの詳しい状況を確認してきた。
ピオニーは産後初の依頼だったようで、子守りを 生業にしている人にジェオを預け、近場のダンジョンで日帰りでこなせる依頼をムルドと二人で受けていた。
彼らが消息を絶った付近には最近になって下層階に飛ばされるトラップが発見されたばかりで、二人は知らずにそれを踏んでしまったのではないかという話だった。
そのダンジョンには俺も何度も潜った経験がある。比較的初心者向けのダンジョンだから、あの二人なら大きな怪我でも治せるポーションを持っているだろうし、水と食料さえ足りていれば下層階からでも余裕で戻って来られるはずだ。
ピオニーは大容量のインベントリを持っているので、水と食料の点は心配ない。十二歳だった俺とムルドとピオニーが隣領から無事に逃げてこられたのも、いつか売られる日が来ることを見越して、三人でピオニーのインベントリに水と食料をこつこつと貯めていたおかげだったのだから。
ムルドとピオニーが無傷で地上に戻って来たのは、俺がジェオを預かってから十日後のことだ。
「ムルドさんとピオニーさんが無事に生還されました。本日は念の為、丸一日治癒院に入院していただいていますが、明日にはお子さんを引き取りたいとのことです」
冒険者ギルドからの報告を受けた俺とイグニスは、治癒院を退院したムルドとピオニーのもとにジェオを送り届けた。ムルドもピオニーも大号泣する中、息子のジェオだけがきょとんとしていた。
別れ際にジェオは俺とイグニスに、にこっと笑いかけてくれた。たった十日間預かっただけなのに、ジェオと離れるのが寂しくてたまらない俺とイグニスは、屋敷に帰る道中をひたすら無言で歩いた。
屋敷に戻ると、居間にはジェオのためにイグニスが借りてきた衣類や玩具なんかがあって、乳幼児特有のミルクみたいな匂いも漂っていて。
「ううぅ⋯⋯ジェオォォ⋯⋯」
「イグニス?泣いてる?」
屋敷に戻るなりイグニスが号泣するものだから、泣きそうになっていた俺の涙は逆に引っ込んでしまった。
取り敢えず傷心の彼を慰めるため、大きな身体を抱き締めて背中を撫でさすってやる。
(あ⋯⋯イグニスの匂いがする。逞しい身体の感触も久しぶりだな⋯⋯って、こんなこと考えちゃダメだ。俺とイグニスはもうそういう関係じゃないんだし)
邪な気持ちを抱いてはいけない。俺がイグニスを抱き締めるのをやめて彼から離れようとすると、次の瞬間にはイグニスが俺を、むぎゅっと強めに抱き締めてきた。
「ジェノ⋯⋯今日いっぱいはまだ休暇中だよな?」
「うん。もう夕方だし。明日から復帰しますって騎士団には連絡しといたよ」
「エッチさして。ジェオを失った俺を慰めて」
「ジェオを失ったのは俺もなんだけど⋯⋯だけどちょうど俺も、イグニスとしたいなって思ってたところだよ」
妊娠初期だというピオニーはつわりが酷いようで、少し話をしただけで俺とイグニスはすぐに帰ったのだが⋯⋯俺は心の底からピオニーとムルドにお祝いの言葉を伝えることができた。
「妊娠三ヶ月だと?てことはあの野郎、ジェノにバックハグかました日の前後に嫁を孕ませたんじゃねーか」
屋敷に帰ってからイグニスは、ムルドに対してまた腹を立てていたけれど。
そのバックハグの日以降は、ムルドが俺に接触することはなかった。お祝いしに行った日も前みたいに『戻ってこい』と言われず、幼馴染から離れて生きる俺の選択を認めてくれたんだと受け止めている。
それから更に二ヶ月後。領主補佐として実家に戻ることになったイグニスは騎士団を退団した。出会った日に決めてあったとおり、俺達はセフレ関係を解消した。
「ジェノは俺が『いい』って言うまで、彼氏もセフレも作ったら駄目だからな!俺の口利きがなくてもジェノの実力なら余裕で試験に合格するだろうが、騎士団の宿舎なんていう獣の群れにジェノみたいな可愛いのが入ったら間違いなく食われちまうからずっとこの屋敷に住むように。いいか、ずっとだぞ!もし上官や貴族の同僚に言い寄られたりセクハラされたらすぐ俺に連絡しろよ」
別れ際はイグニスからあれこれと言づけがあって、ちっともしんみりした空気にならなかった。
試験はその翌月で、イグニスの見立てどおり合格した俺は、合格の報せを受けた翌日から騎士団で働き始めた。
冒険者と違って厳しい規律に従って働くのは初めてで戸惑うことも多かったけれど、日々の忙しさのおかげで、イグニスと別れて一人になった寂しさをあまり感じなくて済んだ。
◇◇◇◇
騎士団に入団して一年が過ぎたある日。
イグニスに住めと言われて空き家の管理を兼ねて住み続けている屋敷に、見慣れない人物が訪ねて来た。冒険者ギルドの事務員の制服を着ている若い女性だ。彼女は小さな赤ん坊を腕に抱いていた。
「ジェノさんですか?冒険者ギルドの者です。冒険者のムルドさんとピオニーさん、お二方のパーティーがダンジョン内で消息不明となりましたので、彼らの息子さんをあなたの元に連れて参りました。この子の身元引き受け人はジェノさんでお間違いないですよね?」
ムルドとピオニーの息子の身元引き受け人は俺で間違いない。頼まれた時に二つ返事で書類にサインした。俺は酒も賭博も娼館通いもやらないから貯えはあるほうだ。ムルドとピオニーの身に何かあって子どもを引き取ることになっても大丈夫だろうと引き受けたが、その考えが甘かったと今まさに思い知らされている。
ギルドの職員から赤ん坊を受け取った俺は、屋敷の門の前で呆然と立ち尽くすしかない。
まず、この子を抱いたままでは屋敷の中に戻れないのだ。セフレの俺に愛着が湧いた嫉妬深いイグニスが、別れた後も俺が男を屋敷に連れ込まないようにと、屋敷にはイグニスが許可した人間以外は入れないよう魔法がかけられているのだ。
騎士団から帰宅して何時間も経っている今、商店はとっくに閉まっているからミルクもおむつも買いに行けない。ムルド達の子は、今はまだ俺の腕の中でぐっすり眠っているから良いものの、じきに腹を減らすだろうし排泄だってするだろう。
それに俺には明日も騎士団の仕事があるのに、赤ん坊を預けるあてなんてない。明日休みをもらって仕事中の預け先を探すにしても、子どもを育てる知識も経験もない俺が、こんな小さな子を一人で育てていけるのか。
いっぱいいっぱいになった俺は、いつも身に着けているネックレスを胸元から取り出した。『騎士の任務中に絶体絶命の危機に陥ったら迷わずこれに魔力を流せ。俺がすぐに助けに行くから』と、別れ際にイグニスが俺に手渡したものだ。
『すぐにって言うけど、領主になったらおいそれと身動き取れる立場じゃなくなるだろ』と茶化しながら受け取ったそれに、俺は藁にもすがる想いで魔力を流した。
「大丈夫かジェノ!何があった!?」
転移魔法を使い、たった数秒の内に現れたイグニス。
「イグニス⋯⋯?ほんとにすぐ助けに来てくれた⋯⋯」
「ジェノ⋯⋯この子はお前が産んだのか⋯⋯?相手は誰だ。騎士団のやつか?」
「ムルドとピオニーの子だよ。結婚のお祝い渡しに行った時、ピオニー妊娠してただろ」
「言われてみればそうだな。取り敢えず込み入った話は屋敷の中でしよう⋯⋯って、俺がかけた魔法のせいで赤ん坊と一緒じゃ中に入れないのか」
イグニスが魔法を操作してくれて俺達三人は屋敷に入ることができ、俺はイグニスにムルドとピオニーの子を預かった経緯を説明した。
「よく俺に助けを求めてくれたな。偉いぞ、ジェノ。全部何とかしてやるから、俺に任せとけ」
「イグニス⋯⋯忙しいだろうに、ごめんな。俺、他に頼れる人が思い付かなくて」
「そんなの思い付かなくていい。ジェノは困ったら俺にだけ頼ればいいんだ。今はムルド君とピオニーちゃんの生還を信じて待とう。その間は俺も一緒に子育てするよ」
「イグニス」
安心した俺の目から涙がこぼれた。ムルドやピオニーの前で泣いたことなんてないのに、イグニスの前だと子どもみたいに泣いてしまう。
「今ものすごくジェノを抱き締めたいんだが、赤ん坊を抱いてるからな」
抱き締める代わりなのか、イグニスが優しい手付きで俺の頭を撫でる。するとそれまで寝ていた赤ちゃんが「ふぇ⋯」と声をあげ始めた。
「まずいな。俺は育児に必要な物を調達してくるから、それまでこの子を何とかあやしてやってくれ」
転移魔法であちこちに飛びまわり、イグニスはミルクとおむつ、それに着替え等々を見る間に調達してきてくれた。
そして彼は最後に、品の良いワンピースに身を包んだ、小柄な老齢の女性を連れて来た。
「こちらは父の乳母だった人だ。現役時代は屋敷の侍女長をしていて、俺は婆やと呼んで慕っていたんだ。明日いっぱい滞在してもらえることになったから、彼女に子育てを教わるぞ」
婆やさんのこめかみはピクピクしていた。いきなり強引に連れて来られたに違いない。
「まったく、坊っちゃんは大きくなられても相変わらずですわね。夜会服をお召しのようですけれど、夜会の最中だったのでは?」
「えっ、そうなのか?」
夜会って貴族が広い屋敷に集まって踊ったりするあれのことだ。冒険者時代に領都から王都の夜会までの行き帰りの護衛の依頼を受けた覚えがあるから、何となくは知っている。今日のイグニスの装いはいつにも増して煌びやかだと思っていたら。
「気にしないでくれ。俺が抜けても何ら差し支えない夜会だよ。さあ婆や、そんなことよりミルクのあげ方とおしめの取り換え方を早速俺達に教えてもらいたい」
その晩、屋敷に宿泊させられた婆やさんは、翌日一日がかりで俺とイグニスに育児の初歩の初歩を厳しく指導してくれた。
俺の仕事のほうはと言えば、申請した覚えのない『育児休暇』という休暇中の扱いになった。子どもを養育している間は最長一年間、騎士団を休んでいてもクビにならない上、働いているのと同じだけの給与が支給される制度らしい。
「そんな制度、騎士団にあったんだな」
「昨日から施行開始したんだよ。ジェノは運が良かったな。騎士団のルールでは生後一歳未満の実子か籍を入れた養子じゃないと本来は適用外だが、ジェノは制度施行開始記念として特例措置にしてもらったぞ」
⋯⋯イグニスは領主補佐だ。ありがたいけど職権乱用なような。
「制度自体は以前から検討されていたんだよ。俺は施行を早めただけだから、そんな微妙そうな顔するな。さあ~ジェオたん、離乳食の時間でちゅよ~」
ムルドとピオニーの子ジェオを高い高いしながら、くるくると回るイグニス。ジェオはキャッキャと笑い喜んでいる。
ジェオの髪と目の色はムルドと同じ黒、顔はピオニーに似てとても愛らしい子だ。ジェオの名前は俺とピオニーから取ったと聞かされた時は気恥ずかしいながらも嬉しかった。
この子が生まれたのは俺が騎士団に入団して四ヶ月ほど経った頃だったから、ジェオはまだ生後一年にも満たない。これは婆やさんから教わったのだが、このくらいの年齢の赤ちゃんはミルクだけじゃなく離乳食も食べるらしい。言葉はまだ喋れないけれど、『あー』とか『だー』とか、赤ちゃんらしい声で一生懸命に何かを訴えてくるのがすごく可愛い。
俺とイグニスがこうしてわりと呑気に子育てをしているのは、ジェオの両親であるムルドとピオニーが近い内に戻って来るだろうと確信しているからだ。
婆やさんに育児を教わった日の翌日、イグニスにジェオを見てもらっている間に俺は冒険者ギルドに足を運んで、ムルドとピオニーの詳しい状況を確認してきた。
ピオニーは産後初の依頼だったようで、子守りを 生業にしている人にジェオを預け、近場のダンジョンで日帰りでこなせる依頼をムルドと二人で受けていた。
彼らが消息を絶った付近には最近になって下層階に飛ばされるトラップが発見されたばかりで、二人は知らずにそれを踏んでしまったのではないかという話だった。
そのダンジョンには俺も何度も潜った経験がある。比較的初心者向けのダンジョンだから、あの二人なら大きな怪我でも治せるポーションを持っているだろうし、水と食料さえ足りていれば下層階からでも余裕で戻って来られるはずだ。
ピオニーは大容量のインベントリを持っているので、水と食料の点は心配ない。十二歳だった俺とムルドとピオニーが隣領から無事に逃げてこられたのも、いつか売られる日が来ることを見越して、三人でピオニーのインベントリに水と食料をこつこつと貯めていたおかげだったのだから。
ムルドとピオニーが無傷で地上に戻って来たのは、俺がジェオを預かってから十日後のことだ。
「ムルドさんとピオニーさんが無事に生還されました。本日は念の為、丸一日治癒院に入院していただいていますが、明日にはお子さんを引き取りたいとのことです」
冒険者ギルドからの報告を受けた俺とイグニスは、治癒院を退院したムルドとピオニーのもとにジェオを送り届けた。ムルドもピオニーも大号泣する中、息子のジェオだけがきょとんとしていた。
別れ際にジェオは俺とイグニスに、にこっと笑いかけてくれた。たった十日間預かっただけなのに、ジェオと離れるのが寂しくてたまらない俺とイグニスは、屋敷に帰る道中をひたすら無言で歩いた。
屋敷に戻ると、居間にはジェオのためにイグニスが借りてきた衣類や玩具なんかがあって、乳幼児特有のミルクみたいな匂いも漂っていて。
「ううぅ⋯⋯ジェオォォ⋯⋯」
「イグニス?泣いてる?」
屋敷に戻るなりイグニスが号泣するものだから、泣きそうになっていた俺の涙は逆に引っ込んでしまった。
取り敢えず傷心の彼を慰めるため、大きな身体を抱き締めて背中を撫でさすってやる。
(あ⋯⋯イグニスの匂いがする。逞しい身体の感触も久しぶりだな⋯⋯って、こんなこと考えちゃダメだ。俺とイグニスはもうそういう関係じゃないんだし)
邪な気持ちを抱いてはいけない。俺がイグニスを抱き締めるのをやめて彼から離れようとすると、次の瞬間にはイグニスが俺を、むぎゅっと強めに抱き締めてきた。
「ジェノ⋯⋯今日いっぱいはまだ休暇中だよな?」
「うん。もう夕方だし。明日から復帰しますって騎士団には連絡しといたよ」
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