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第1章/居場所を探して(Tomari Katsuragi)
11.今、守りたいもの(☆)
しおりを挟む本格的に交際を始めて三ヶ月くらいの頃、肇くんが自身の結婚願望について打ち明けてくれた。
私がすぐにそのことを思い出せたのは、それくらい印象に残る内容だったからだ。
――俺の両親とは、本当は血が繋がってないんだ。実の親にはどうやら捨てられたっぽくてさ、途中まで施設で育ったんだ――
――育ててくれた両親には感謝してる。俺だって、この人たちが俺の本当の家族だと思ってきたよ。今も同じ気持ちだ――
――だけど、やっぱり憧れはあるみたいなんだ。赤ん坊の頃からずっと俺のことを知っている人が身近に一人でもいたらな……と思ったことが何度かあるし、こういう気持ちってやっぱり痛みが伴うから、いつか自分に子どもが出来たとしたらそんな思いは絶対させたくないなって――
――あっ、絶対子どもがいなきゃとは思ってないから。ただ俺は最初から最後まで自分の家庭を大切にしたいなって気持ちで――
――なんかごめんな、重い話しちゃって――
明るくて、ひょうきんで、人気者であるはずの肇くんに、時々哀愁の陰(かげ)を感じていた私は、この話を聞いて少し納得がいった気がした。
だからあれから六年経った今でも、ある程度の確信は持てる。
彼の“自分の家庭を持つことへの憧れ”は生半可なものではないだろうと。
きっとその為にも具体的に動いてきたのだ。
少しでも給料が上がるよう努力し、実際に昇格したことも。健康維持の為に運動を怠らないことも。資格取得や自己啓発に積極的なことも。
未成年の頃のフワフワとした夢に見切りをつけ、年相応の振る舞いで立派な社会の一員となったことも。全ては明確な目的があってのこと。
わかっていたはずなのに、改めて思い知らされた気分だ。
まるで刹那を生きているかのような私とは、こんなにも大きな差があったのだと。
何故、何故、人というのは。
価値観が違っていても並んで歩くことが出来てしまうのだろう。
……リ
「トマリ……大丈夫?」
肇くんの声が私の意識を現在へと引き戻した。
心配そうな表情でこちらを見ている。
やがてその顔に苦笑が浮かんだ。
「ごめんな、急な話でそりゃびっくりするよな。俺としては今までも結構アピールしてきたつもりだったんだけど……」
何か言わなければと思う。だけどただでさえ流れの悪い思考回路に複雑な感情まで絡みついて適切な言葉へと持っていくのが難しい。考える時間が足りない。
「今すぐに返事が欲しいと言っている訳じゃないんだ。だって大事なことだから。トマリの無理ないペースで考えてくれてからでも……」
「肇くんに……っ、不満がある訳ではないんだ」
彼の眉が僅かに中央へ寄ったのを見て、気まずくなってついうつむいてしまった。
自分なりに言いたいことをまとめたつもりなのだが、第一声がこれか。もうちょっと上手い切り出し方もあっただろうに。
だけど勇気を出して、再び前を向く。黙っていては何も伝わらないのだから。
「ありがとう、肇くん。私も君とずっと一緒にいれたら嬉しいと思う」
「それじゃあ……!」
「だけど……私自身が……」
「トマリが、どうしたの?」
「私自身に至らないところが多過ぎて、妻としてやっていく自信が持てないのだ。肇くんの負担になってしまう気がしてならない」
ふっ、と軽く息を吐き、表情を緩めた肇くんが「ちょっと手を出して」と私に言う。
不思議に思いながら左手をテーブルの上に出すと、彼の両手がそれを優しく包み込んだ。
「まだ心配?」
首を軽く傾げて私を見つめる。
出会った頃のようなあどけない瞳だ。
「苦手なことくらい誰にだってあるよ。どんな人だって最初からなんでも出来る訳じゃない。俺の母さんだって料理下手だったんだよ、昔は。でも今ではすっかり慣れてる。トマリだっていつかきっと出来るようになるんだよ」
「でも……」
「トマリ一人に家事を任せるつもりもないよ。俺も出来るだけ協力するし、慣れないことは一緒に覚えていこうよ」
「……ありがとう」
彼の言葉のところどころに引っかかりを感じながらも、私はそれを誰にでもわかる言葉に変換するのがやはり不得意だ。
だから、今わかる範囲のことだけでも。
「肇くん、私はある程度、事前準備が整っていないと踏み出せないタイプなのだと思う。肇くんが将来のパートナーに私を選んでくれたことがとても嬉しいし、前向きに考えたいと思ってはいる。だけど、踏み出す勇気を持つ為にもまず、いろいろと練習する期間を貰えないだろうか? 料理とか、片付けとか、最低限は出来ないと心配だ」
「……そっか」
「はっきりとしない返事になってしまって、すまない」
私はまた下を向いてしまったけれど、肇くんは「ううん」と優しい声で返す。
私の手を包む彼の手は、さっきよりも随分熱く、しっとりとしているが。
「前向きに考えてはくれるんでしょ?」
「うん」
「それならさ、一緒に過ごす時間を増やしてみない?」
「増やす、というと?」
私の手を離し、彼は小さなグラスに手を伸ばす。口にしたのは白ワインではなく水の方だった。
「今まではさ、トマリが俺の部屋に泊まるのって月に一、二回くらいだったじゃん。それを週一回、日数にすると週二日は一緒にいることになるね。そうやって一緒に暮らすシミュレーションをしてみるのはどうかな」
「半同棲、みたいな感じだろうか」
「そうそう。実は同棲も提案しようと思ってたんだけど、トマリは自分の時間も大切にするタイプでしょ。イキナリ環境が大きく変わるのはさすがに負担になりそうだと思って。半同棲に近い過ごし方なら徐々に慣れていけるんじゃないかな」
確かに、一理あるように思う。私の性格をよく考えた上で提案してくれているのが伝わってくる。
きっとこの彼の歩み寄りが私の心を動かした。
「わかった。私もその方向で考えていこうと思う」
「……! ありがとう、トマリ。良かったぁ!」
結論が出たとはまだ言えない状態なのだが、私のひとまずの答えは彼を緊張から解き放つのに充分な効力を持っていたらしい。
今度はワインを一気に飲み干し、はぁっ、と勢いよくため息をついた彼。
更に濃く染まった頬。潤んで熱を帯びたような眼差しで私に言う。
「トマリ、この後俺の部屋来ない? もう少し一緒にいたい」
「……うん、わかった」
再びテーブルの上でお互いの手を重ねる。
やがてどちらからともなく細さの異なる指が絡み合った。
レストランで肇くんが言っていたように、私が彼の部屋に泊まるのは大体月に一、二回。
だけどこの頃は肇くんの仕事が特に忙しく、私は私で転職活動があり、先月なんかは一回だけ。今月もこれがやっと一回目だ。
もう随分長いこと、二人きりで過ごしていなかったように感じてしまう。
彼の住むマンションに着いた。
玄関のドアを閉めたすぐ後に、彼が後ろから私をぎゅうと抱き締める。やけに甘えん坊だ。まあ仕方がない。
それだけ毎日、毎日、気が張り詰めた日々を送っているのだろう。
まずはシャワーを浴びて、それからお茶でも淹れてゆっくりしようという話になった。
夜風に当たってきた為か彼の顔からはいくらか赤みが引いている。酔いは覚めてきているように見える。
とは言え少し心配なので、私も彼と一緒に入ってしまおうと思う。
先にメイクを落としておこうと、先程コンビニで買ったメイク落としシートを用意していたとき、彼が近付いてきて何かを差し出した。
「トマリのパジャマはこれ。新しく買っておいたんだ」
「え……新しいの?」
「そう、こっちの方が肌触りも良いし今のトマリに似合いそうだったから」
そっと受け取り広げてみると、それはゆるめのホイップクリームを思わせる滑らかな質感のクリーム色のパジャマ。
肇くんの言う通り、質感も見た目も落ち着いていて大人女子の服というイメージ。
だけど、きっと私では、選ばないようなデザイン。
「肇くん、前のパジャマは?」
「えっ……」
「これも大切にさせてもらう。だから前のパジャマは持って帰ろうと思うのだが」
私は以前から、泊まりに来たときの為にパジャマと部屋着を一着ずつ彼の部屋に置かせてもらっていた。私が言ったのはそちらのことだった。
だけど返ってきた言葉に私はしばらく呆気にとられることになる。
「あれは……だって、結構古かったから。もういいんじゃないかなって」
目を逸らし、ぎこちなく笑う肇くんの顔をしばらく見ていた。
…………。
「……そう、か」
私は遅れて理解した。
きっともう無いのだと。
確かに前のパジャマはもう毛玉もできていて、綺麗とは言えなくて、その上いかにも若い子が選びそうなポップな柄に明るい色。
でも私はそんな服にこだわりを持っていて、それは私のアイデンティティの一部でもあって……
なのに。
なのに、何故こんなに何も感じないんだろう。
自分でも怖くなるくらい気持ちの切り替えはすぐに出来て、手早くメイクを落とした後は肇くんと一緒に浴室へと向かった。
まだ身体を軽く流したくらいの頃だ。
シャワーの音が止まらずにずっと続いていることに気付いた。
立ち込める白い湯気の中で彼の寂しげな視線が私を捉えて離さない。
私の濡れた頬の上を彼の親指がゆっくりと滑っていく。
「ほら、トマリはやっぱりそのままでも可愛い。化粧なんかしていなくても。びしょ濡れだろうが、寝癖だらけだろうが、俺は君の全部を知っているし、全部が好きなんだ」
壁に追い詰められ、唇を重ねられるともう何も言えなくなった。
次第に加速し、深く深く、執拗な程に貪られても、為す術もない。
私が今、自分のアイデンティティ以上に守ろうとしているものが何なのかわかった。
雨に濡れた桜のような私の髪の毛先を手で掬った彼が、そこを見つめているのがわかる。顔は陰になっていて表情は窺い知れないけれど。
「……俺の方が知ってる。君の表面しか見ていない奴よりも」
ああ、やはり、まだあのことを引きずっているのだろうと察した。
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