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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
20.目を逸らしてきた劣等感
しおりを挟む休憩室の片隅で深い深いため息をつく。
さっきから何度もそうしている。数えきれないほど、そう、帰る頃には空気の抜けた浮き輪のようにペラッペラになっているのではないかと思うくらいにだ。
蛍光灯の白っぽい光は広い室内を隈なく照らしているはずなのに何処か薄暗い。見慣れているはずの壁の質感が何処か冷たい。
人の少ない時間帯でもある。話し相手がいる訳でもない。だけど何より私の沈んだ気分が身の回りのあらゆるものを寂しく感じさせているのだろう。
体育座りの私はそのまま自分の膝に顔を伏せた。休憩が終わるまでになんとか気持ちを切り替えたいが……もう駄目かも知れない。
――あれ、トマリ?
覚えのある声に名を呼ばれてゆっくりと顔を上げた。
目を丸くした和希が早足でこちらに近付いてくる。
「やっぱりトマリだ。お疲れ。ってかこんだけ席空いてんのになんで床に座ってんだよ。尻が冷えるだろ」
「ああ……」
「どうした、なんかあったのか」
「ついさっきまでヘルプに行っていたのだが……やらかした」
「ええ? 何を」
和希は苦笑しながらすぐ隣に腰を下ろした。
私の顔を覗き込み、話してみるよう視線で促す。
しばらく経ってから私は乾いた口を開いた。
「他のスタッフのお戻りのお客様だと気付かずに接客し、そのまま自分の売上にしてしまった。一度目のときとアウターが違っていたから別の人に見えたのだ。どうも他の店で新しいアウターを買い、すぐに着替えていたらしい」
「ああ~、たまにあるよな、お客様がその場で着替えるやつ。アウターとか靴とか特にな。他は滅多にないけど」
「そうなのだ。私はお客様を顔だけで覚えるのが苦手だから服の特徴で記憶するよう努力してきたのだが、服そのものが変わってしまうともう気付かないのだ。ましてやヘルプ先のお客様じゃ仮に常連さんでもわかる訳がない……!」
「まぁそうだよな。しょうがないんじゃねぇか? 個人売のある店って売上取った取らないでギスギスしちまうことあるだろうけど、その度に気にしてたらキリがねぇぞ」
「でも私のせいでうちの店舗の印象は最悪だ。今後他のスタッフもあちらのヘルプに行くことがあるかも知れないのに……」
「そうかぁ? 向こうはもう忘れてると思うけどな。トマリは大袈裟に考えすぎだぞ」
私は意味もなく両膝をさすった。
確かに和希の言う通りかも知れない。私が気にするほど周りは気にしていないのかも知れないと考えながら。
実際、ヘルプ先の店長もあの後私に声をかけてくれたのだ。
――ごめんね、せっかく来てもらったのに嫌な思いをさせてしまって。あの子、入社して半年になるんだけど同期のスタッフより個人売が低いことを気にしてるから、一回一回の接客に過剰なほど神経を使ってるのよ。アパレル自体も初めてだし。まあ、あんなふてくされた態度で売り場に立つのはいけないことだから、私からも後で注意しておくわ――
そう、あれは紛れもなくフォローの言葉だった。それはわかっているのだけど、むしろ私の罪悪感はそこから更に加速した。
数分前の出来事を思い出しながら、二重の意味でダメージを受けていた。
お客様のお見送りの際、例のスタッフは凄い勢いで間に割って入り「先程はありがとうございました!」と笑顔でお客様に言った。
私が意味を理解した直後に冷たい目がこちらを一瞥した。お客様に向けた顔とはまるで別人と思うほどだった。
謝ろうとしたけれど、彼女は仏頂面を決め込んだまま無言で店内に戻っていった。
顔立ち、表情、言葉遣いなどから彼女が自分より若いことはそのときすでに察していたが、店長さんの口から出た情報と合わさることでそれは結構な衝撃となった。
若いだけじゃない、入社して半年。
それなのにアパレル販売歴六年目の私よりもお客様の見分けができているという事実だ。
普段できるだけ見ないようにしてきた自分の中の劣等感がむくむくと膨れ上がっていくのがわかった。
元凶はやはり私ではないか、私の実力が不足しているからではないかという実感も同時に迫ってきた。
そしてもう一つ、私が忘れてはならない大事なこと。
彼女が私のせいで叱られてしまうということだ。
ただただ後味が悪く、脳内で大反省会を開きながらここへ戻ってきたという訳だ。
「でもさ、こういう話してるとあんたと知り合った頃のことを思い出すな。もう半年くらい前になるっけ。私が異動してきたばっかの頃に、この休憩室であんたが先輩から嫌味言われまくっててさ。あれも同じようなトラブルだったよな」
和希の苦笑混じりの声を聞いているうちに私も思い出してきた。
「ああ、確かにそうだった。あのときは私を庇ってくれてありがとう」
「なぁに、いいってことよ」
「でもさすがに先輩に対して“うるさい”って怒ったのはびっくりした」
「はは、わりぃわりぃ。私、ああいうネチネチした奴見てるとイラついちまうんだよな」
「……でもあれだって、悪いのは私だから」
「それ。あんたのそういうとこ」
和希がこちらを指差したのに気付いて首を傾げた。
少し高い位置から届く視線はとても優しいものだった。
「私はもうわかってるつもりだよ。トマリは誤解されやすいけど、本当は謙虚なんだよな。あのときだって、個人売はただスタッフを競わせる為だけに存在している訳じゃないとか力説してただろ」
「ああ、モチベーションを高める為というのもあるとは思うがそれ以上に大事な意味がある。まず担当した販売員の名を明確に示すことでお客様へ対する責任を持つ。それから誰がどれくらい売上を立て、どのような構成比なのかわかれば接客の傾向を分析しやすくなるし、スタッフ個人の課題が見えてくる。それにより店長やサブリーダーは指導がしやすくなるのだ」
「それそれ。さすがトマリ、今でもちゃんと覚えてんだな。びっくりしたんだぜ、こんなチャラそうな女からそんな優等生みたいな言葉がスラスラと出てくるんだからよ。だから個人売にこだわる仲間たちの気持ちも大事にしたいんだよな」
「そうなのだ。なのに私は……」
温かい感触が程よい重さを伴って私の肩に降りてくる。
和希は一層朗らかな笑みを私に見せつけた。
「真面目だからこそつらいときも沢山あるんだろうけど、私はそんなあんただから仲良くしたいと思ったんだぜ」
「和希……」
「大丈夫だ。あんたの良さをわかってる奴は私以外にも絶対いるって」
不器用に笑い返しながらも私は少し切ない気持ちになった。
和希は他店のスタッフだから。迷惑をかけずに済む相手だから、良好な関係が成り立っているのではないかと、正直私は考えてしまったことがある。同じ職場で働いていたら、さすがの和希だって愛想を尽かしたのではないかと。
“私以外にも”
わざわざそう付け加えられたことで、そんな後ろ向きな気持ちを見透かされた気がしたのだ。
私を支えてくれていた頼もしい手が、やがて遠のいていく。
もうすぐ休憩時間が終わるという和希は、「元気出せよ」と言い残して去っていった。
心細さが再び胸を占めるかと思えた。
しかしどうだろう。あれほど冷たく感じていた壁や床の質感がいくらか柔らかくなったように思える。身体も心なしか軽くなったような。
スマホで時間を確認した。
普段、二度目の休憩は三十分なのだが、今日はヘルプから戻ったばかり疲れているだろうと店長が気遣ってくれた為、一時間の休憩がもらえた。残りもう二十五分ほどある。
この後は喫煙所で煙草を吸ってから少し早めに戻るかな。せっかく和希が元気付けてくれたのだ。また余計なことを考えないうちに。
そう思って手櫛で髪を整えたりなどしていた。
――お疲れ様。
遠くで誰かの声がした。そういえば夕方の休憩に入る人が増えてくるタイミングだ。
カツン、カツン、と足音が近付いてくる。
歩幅の広い人を思わせるような優雅な響き。
だけどそれは特に神経を集中させるような対象ではなく、ただ自分好みの曲をたまたま街中で聴いたときの感覚に近かった。
しかしその心地良さはすぐに緊張へと変わる。
私の元で音が途切れた、その瞬間に。
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