tomari〜私の時計は進まない〜

七瀬渚

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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)

21.優しい大型犬と初めての約束(☆)

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 にわか雨の前兆のように、深い影が私の身体を丸ごと包んだ。

「あの……」

 ぽつりと滴り落ちてきた遠慮がちな声は、低音というほどではないものの明らかに男性とわかるものだった。

 ゆっくりと顔を上げて間もなく、私は思わずびくっと飛び上がった。
 とてつもなく背の高い人が目の前に立っていたからだ。
 こちらが体育座りだから尚更相手の顔は遠く、どんな表情をしているのかもわからなかったくらい。

「お疲れ様。君、うちのスタッフだよね?」

「……っ、……っ」

 問いかけを受けて私は唇を動かしたものの、どういう訳か声はまるで出てこなかった。

 その人は落ち着きなく辺りをキョロキョロ見回した後、ゆっくりと腰を屈めて私に視線を合わせてきた。
 ここでやっと相手の顔がはっきり見えた。印象的だったのはグレーの瞳と泣きぼくろ。

「えっと、 pupaピューパのスタッフで合ってるかな? 僕、本社から来た者なんだけど」

「あっ……はい」

「そうだよね? 良かったぁ。服が全身うちのブランドだし名札もついてるから迷わず声かけちゃったんだけどさ、びっくりさせてしまったみたいだね。ごめん」

「いえ、すみません」

 その人が首を横に振りながら見せてくれた微笑みは思いのほか優しくて、安心するタイミングであるはずなのに何故か鼓動が駆け足になった。

 かすかに届いた大人っぽい香りが私の意識に重なると、今度は指先がわずかに震え始めるのがわかった。突然のスコールに心をかき乱されている気分だ。

「どうして床に座っているの? 身体が冷えちゃうでしょ」

「すみません、その、なんとなく」

「はは、そうなの? せっかくこれだけ席が空いてるんだからこっちに座ろうよ。ね」

「はい……」

 先程の和希と同じようなことを言われているはずなのに、何故こんなにも落ち着かないのだろう。
 激しい鼓動が続く中でやがて思い出す。

 落ち着かない? それはそうだろう。
 だってこの人は本社から来たのだぞ。確実に私よりも上の役職だ。いや、おそらく店長よりも。

 そんなふうに正気に戻ったのは、差し伸べられた大きな手を取り立ち上がった後だった。

 今更とはわかりつつも私はシャンと姿勢を正し、素早く頭を下げた。

「失礼致しました。本社の方だとは気付かずに」

「え、どうしたの急に。そんなかしこまらなくて大丈夫だよ」

 上の人はよくそう言うけれど実際は大丈夫なはずがない。ましてやこんな……。
 私の視線はしばらくの間、繋がったままの手に釘付けになっていた。

 ちらりと上目で様子を 窺うかがう。
 ぽかんとした表情だった彼もやがて気が付いたようだ。

「あっごめん、僕の方こそ。心配だったからつい」

 素早く手を離して苦笑する。
 威厳の欠片もないような気の抜けた顔が私を不思議な気持ちにさせるけれど、あえてこのタイミングで呼吸を整えた。

 本来の私に備わっている警戒心が戻ってくる。
 どうやって彼の手に触れたのかよく覚えていない。どうかしていた。

 改めてその人を見て納得する。
 とてつもないのは身長だけではない。とてつもない雰囲気を持つ人だ。
 私の身体がドキドキソワソワとやかましくなったのも単なる脳の誤作動。この人はそうやって何度も“運命の出逢い”などという錯覚を相手に与えてきたのだろうな、恐ろしい。

 だけど私は平気だ。何故なら主観に踊らされないことをポリシーとしているから。

「あっ、そうそう、ちょっと待ってね」

 その人はおもむろにジャケットの内ポケットを漁り始めた。
 こちらから視線が逸れている隙に、私はその人を細かに観察していた。

 ウェーブのかかった柔らかそうな髪は8:2くらいの割合で片側に大きく流している。全体の形はアシンメトリー。色はアッシュブラウンといったところか。もみあげの部分に刈り上げが見える。長髪だからわかりづらいがおそらくツーブロックにしている。
 すっきりとした顔の形、そして明るめな肌の色とよく調和したヘアスタイルはまるでカリスマ美容師のそれだ。自分の魅力をよく理解しているのだろうな。

「あったあった。ごめんね、もたついてて。本当は名刺があれば良かったんだけどね。何せ役職が変わって間もないから、昔から使ってる社員証しかなくて」

 スラスラと、それも砕けた言葉が出てくる上に、何故か相手を不快にさせない柔らかさを感じさせる。多分コミュニケーション上級者。最初から本社勤務だったのではなく、店長を務めた経験があるのかも知れないな。

 その人の視線が再びこちらへ戻る。
 顔にうっすら汗を浮かべ困ったように笑っている。優雅な雰囲気の中でちらつく初々しさ。これは別名“愛嬌”と呼ばれるものだ。

 ある確信を得た私は、両方の拳にぐっと力を込めた。





 少しだけ理解できたよ、肇くん。
 君が気を付けろと言っていたのはこのような男なのだな。


「改めまして、本社から来た千秋と申します」

 彼はいつの間にか首にかけた社員証をこちらに見せつけるようにして持っている。

 しかし何故……いや、これくらいフレンドリーなキャラクターならこんな自己紹介もアリなのか?
 戸惑いながらも私は一礼し、口を開いた。

「トマリです。宜しくお願いします」

「とまり……さん?」

「はい」

「えっと……でも、その名札には……」

 千秋と名乗ったその人は何か迷っているように口ごもる。

 名札、と言ったか?
 私は自分の胸元に視線を落とし、桂木という二文字を確認した。

 理解が追いつかないまま再び彼の社員証に着目する。
 そこに“千秋カケル”というフルネームが書いてあることに気付いたとき全身が石膏のように固まった。時間差で顔面が熱くなる。

 閃いたような顔をした千秋カケルがピッと人差し指を立てて私を見た。

「わかった! 旧姓?」

「失礼しました! 桂木と申します」

「あっ、やっぱり桂木さん?」

「はい、桂木トマリです」

 いたたまれない気持ちになって、ついうつむいてしまった。

 簡単な話だ。“千秋”という響きが名前のように聞こえたから私も名前で名乗ってしまっただけのこと。失礼といえば失礼だが、機転の利く人なら笑い話にしてしまうところだろう。
 でも私にそんな器用なことは出来なかった。

「ああ、そういうこと」

 穏やかな声がして、恐る恐る顔を上げた。
 絶対、呆れられた。自己紹介もまともに出来ないのかって。

 そう思って身構えていたのに、私の目に映ったのは慈愛などと錯覚しそうになる完成度の高い微笑み。

「…………っ」

「ねぇ、休憩時間まだあるならちょっと座ろう?」

「……はい」

 テーブルの冷たい感触が手のひらを通じて私の意識を覚ます頃、隣の席で千秋さんが菩薩のように目を細めていた。

 なんなんだこの人は。別に怒られたかった訳じゃないけれど。

 というか、どうやって私を椅子まで誘導した。

 思わずパッと視線を逸らし、ひたすら自分の握り拳を凝視した。

 やっぱり変だ。この人と一緒にいると、ところどころ記憶が抜け落ちているような気がしてならない。
 大体、今日出会ったばかりの本社の人と並んで座って一体どうしろと……


「元気がなかったけど何かあったの?」

「え……」

「今日、ヘルプに行ってるスタッフがいるって相原店長から聞いたんだけど、それって桂木さんのことかな?」

「あ、はい」


 顔を上げざるを得なくなった。
 そうして再び隣を見ると、胸の奥が揺さぶられるほど儚げな眼差しがそこにある。物理的な距離は近いのに、感覚的には遠いような。

 あまり経験したことのない気持ちに戸惑う。だけど。

「僕が本社の人間だとか、それは一旦忘れていいよ。ただ、君が何か複雑な思いを抱えたまま売り場に戻るのだとしたらそれは心配だから、一言でもいい、良かったら気軽に吐き出して」

 だけど、この人自体が怪しい人間という訳ではなさそうだ。

 やっとわかってきたけれど、どうやら本当に心配してくれてるだけのようだし。

「失礼します」と一言告げて、素早くスマホの時計を確認する。
 あと十五分。頭の中でこの後の流れをイメージしたら、スマホを見える位置に置いて隣の彼に一礼する。

「では、遠慮なく」

「う、うん? どうぞ」

 訊かれたからには答えるのが筋だろう。そう判断して昼間あったことを話し始めた。
 口調をいつもの1.5倍速くらいにすることで会話の時間を3分の2くらいに短縮できる。休憩時間内におさめるにはこうするしかないのだ。
 その間、千秋さんは何度か頷きながらも時折目をぱちくりさせていた。

 ひと通りを説明し終えて、私はスマホに触れて時間を表示する。
 残り時間五分。なんとか間に合ったことに安堵する。できれば煙草一本くらい吸ってから戻りたかったからな。

「そっか、大変だったんだね。そんなに気に病む必要はないと思うよ。こういう場合は……」

 言葉で遮るのは申し訳ない気がして私は咄嗟に頭を下げた。

「すみません、今日はもう売り場に戻らなくてはなりません」

「あっ、そうか。ごめん、こっちこそ付き合わせちゃって」

 私は首を横に振る。付き合わせてしまったのはこちらの方だ。
 この人がどういう目的でここにいるのかはわからないけど、何かやらなければならないことがあっただろうに。貴重なお時間を頂いたのだ。話しっぱなしというのも良くないだろうと思った。
 だからこんな提案をしたのだ。


「それで千秋さん、また会えますか」

「えっ……また、って」


「ここに来ればまた千秋さんに会えるのでしょうか。そのときに先程の私の話に対するお返事を聞かせて頂くことは可能でしょうか」

「いや、僕そんな大したこと言えないけれど……」


 語尾がゴニョゴニョと濁っていて聞き取りづらい。
 何故ためらうのだ。さっき何か言おうとしていたではないか。

 彼の目をじっと見つめているとやがて顔を背けられた。
 私は短く息を飲んだ。胸がズキリと痛んだ。

 多分、図々しいことを言ってしまったんだと思った。もちろん悪気はなかったのだけど。
 やはりついてない日はとことんついてないということか。今日の私の対人運は最悪なのだろう。

「すみません、やっぱり大丈夫です。ありがとうございました」

 素早くスマホを手に取って立ち上げる。
 これ以上失礼なことをしてしまわないうちに彼の前から消えなくてはと思った。

 ところがしばらくしてガタンと椅子の動く音が響き渡った。

「待って! トマリ……じゃない、桂木さん」

 名を呼ばれて振り返る。
 私はもう歩き出していたのにたったの二歩で追いつかれた。

 ばつの悪そうな表情をした千秋さんが言う。

「ごめんね、不安にさせて。僕は近いうちにまたここに来るよ。だけどこれはまだ店長しか知らないことだったから……」

 そうだったのか。
 つまりお忍びで来ていたのに話しかけてしまったのか、この人は。

 身体の奥がくすぐったくなった。この人の面白い部分がまた一つわかったような気がして。
 気の優しい大型犬のようなしおらしいタレ目を見つめて、おのずと強く頷いていた。

「わかりました、誰にも言いません」

「ありがとう。でも桂木さんが僕なんかの返事を必要としてくれてるなら、それはちゃんと応えるよ」

 再び笑ってくれた彼に対し私がどんな表情をしていたのかはわからないが、手を取って立ち上がったときよりも距離が近くなったように思えた。

「次に来るときまで待っていてくれるかな」

「承知しました」

 これが千秋さんとの初めての約束。
 トラブルメーカーとして生きてきた私は、今度こそ良好な人間関係であってくれと密かに願っていた。
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