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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
38.独りになろうとしないで
しおりを挟む夏が終わりに近付いていた。
それは店舗のセールや入荷してくる商品でもわかるが、このときは言葉では言い表せない物悲しい空気で実感した気がする。
九月間近、多分それくらいだったと思う。
中番で出勤したある日、異変を肌で感じ取った。
スタッフの皆の様子がなんだかよそよそしかった。こちらが話しかけると返事はしてくれるものの、すぐに目を逸らされたり距離をとられたり。
山崎さんがツンとしているのはいつものことだから、そんなに違いがわからなかったけど。
私は不安になった。仕事でミスでもやらかしてしまったんだろうかと。鈍感な自分が信用できないからなのか、例え覚えがなくてもそう思えてきてしまう。
やるべき仕事には向き合うよう心がけたつもりだけど、本当は困惑の渦の中にいた。それは周りにも伝わっていたのかも知れない。
一回目の休憩の前にるみさんが声をかけてくれた。
いつもは元気いっぱいな彼女が、気まずそうないたたまれないような顔をしていた。
「トマリン、その、大丈夫?」
「るみさん、ごめんなさい。私まだ状況がわかってなくて……」
「そっか……」
「あのっ、私……っ」
「周りから何言われても気にしなくていいからね。だけどるみも心配なの。トマリンっておっとりしてるから、強く迫られると流されちゃうんじゃないかって。ましてや立場が上の人だと断れないんじゃないかって」
「えっと、それは誰のことでしょうか」
「多分、相原店長から話があると思う。だからちゃんと相談して。一人で抱え込まないでね。るみはトマリンのこと嫌いになったりしないから!」
きゅっと眉を寄せた直後、素早く踵を返した彼女に、私は指先を軽く伸ばすくらいしか出来なかった。
でも彼女は何か思い出したように一度立ち止まり、ぽつりと呟いたのだ。
「誰にも言えない気持ち、るみたちも知ってるんだ。トマリンたちとは違うってわかってるけど」
「るみさん……たち?」
るみさんは再び私に背を向ける。こちらから視線を外した寂しげな横顔の残像を置いて。
やがて彼女が小走りで向かっていった先には、あすか先輩が立っていた。
店内の賑やかな音がやっと私の耳に届くようになった。
その後いつもの休憩室へ行った。煙草を吸うのはやめておいた。
ドアを開けてすぐのところに相原店長が座っていた。
「ごめんね桂木さん。ちょっとだけ付き合ってくれるかしら」
やはり。私より数分前に休憩に出ていたなと思い出す。時間を合わせてくれたんだろうと察した。
いつかの面談のときみたいに休憩室の中でも後ろの方へ場所を移した。
良い話ではないだろうと思っているのに懐かしい気持ちでいっぱいになっていた。相原店長と二人で話すの久しぶりな気がするな、なんて呑気なことを。
「単刀直入に訊くわね。千秋くんと何かあった?」
本題に入るまでにそう時間はかからなくて、彼女の問いかけを受けた瞬間、ドク、と胸の奥が音を立てた。
肋骨を砕き、皮膚を突き破りそうなほどに速さを増していく鼓動。
るみさんと話していたときはまだわからなかった。でも席に着くまでの間には予感していた。
立場が上の人。彼のことを指しているとしか今は思えない。
「もう噂にはなってしまっているけど、これ以上は広まらないようにここで聞いたことは黙っておくわ。だから可能な範囲で話してほしいの」
「“何か”って、その……」
「少しくらいは心当たりがあるんでしょう?」
嫌な予感も的中だ。私は机の下でぎゅうと自分の服を握った。
大人がよく言う“何か”。曖昧に濁すのは言いづらいからだろう。
彼と親密な間柄になっていないか、おそらくそう確認したいのだろう。私でもさすがにわかった。
上手く説明できる自信はなかったけどこのままだと彼の立場が危ういのでは。そう思って焦った。
嫌な脈打ちは続いているけれど、なんとか勇気を振り絞って乾き切った唇を開く。
「誤解です。千秋さんはスカウトマンに付きまとわれていた私を助けてくれたんです。皆が疑っていることなんて何も……」
「…………」
「何も、ないはずです。その、覚えがないので」
「そう」
「だから千秋さんは悪くありません! “変なこと”をするような人じゃないです!」
相原店長が額に手をやり、深いため息をついた。
どうしよう、信じてもらえてないかも知れない。焦燥がつのっていく。
しかし彼女の考えはまた違うことがすぐにわかった。
顔を上げてこちらを見つめる、その瞳は凛々しくも温かい。さらりと揺れる漆黒の毛束の間で困ったような微笑みを浮かべていた。
「あなたたちって、本当によく似ているわ」
「と、言いますと?」
「千秋くんもね、自分の立場よりあなたの心配をしていたの。桂木さんは悪くない、原因は自分が作ってしまったんだと必死になって」
「そんな……」
私だって、そりゃあ噂を立てられるのは嫌だ。周りから冷たい目で見られれば傷付く。
でも問題になったとき失うものが大きいのはどう考えても千秋さんの方じゃないか。なのに……なのに何故。
あの人の優しい目の色を思い出すと涙が滲んできた。
「千秋くんにも同じ質問をしたの。桂木さんと何かあったかって。なんて言ったと思う?」
問いかけられて私は首を横に振った。
私を庇ったと今聞いたけど、それ以外にもあったというのか。怖いのに胸がじんわり熱くなる。
「それは事実かも知れない、自分にとってはって。そう答えたの」
「違います! どうして千秋さんはそんなこと……っ!」
思わず椅子から立ち上がった。大きな音が鳴った。
近くにいた他店の従業員数人の視線がサッとこちらへ集まる。私の息はすっかり乱れていた。
「わかった。あの人全部自分のせいにしようとしてるんだ。それしかない!」
「桂木さん」
「なんで。なんでいつもそこまで!?」
「桂木さん、落ち着いて」
強めの口調で言われて私はやっと我に返る。
熱は引かないまま、それでも居心地の悪さは実感できた。
「……ごめんなさい」
「とりあえず座って。少し経ってからまた話しましょうか」
「承知しました」
再び席に着いた私と入れ替わるように立ち上がった相原店長は、何か温かいものを買ってくると言ってくれた。
元より重力には逆らえない涙は、堪えきれずにぽとぽとと零れた。
千秋さん、お願い。
独りになろうとしないで。
あなた、本当は孤独に弱いでしょう。
何故かわかるような気がしてしまうんだ。自分でも変だとは思うけど。
たまらなく安心したんだ。自然と呼吸ができた。そして懐かしさと似た感覚があった。
あなたの隣にいるというのは、私にとってそういうことだった。
本当に、ただそれだけなのだよ。
自責の念とも後悔とも違う、後ろめたさとも違う。だからといって間違ってないとも言い切れない、グレーな空間の中で彷徨っている気分だった。
大丈夫? 戻ってきた相原店長はそう言いながら、温かい緑茶のペットボトルを私の前にそっと置いた。
私はすぐに財布を出したが、気にしないでとやんわり断られた。
「うちは社内恋愛禁止って訳じゃないんだけど、やっぱり暗黙のルールは存在すると思うのよね。千秋くんはエリアマネージャーになったばかりだし歳もまだ二十代でしょ。ここだけの話、彼が気に食わない社員もいるの。昇進してすぐに女性スタッフに手を出したなんて伝わり方したら、さすがにややこしいことになりそうなのよね」
「なのでそれは誤解です。千秋さんだって慎重に行動していると思います」
「もうそれはわかったわ。でも千秋くんが一部認めているのはやはり引っかかる。桂木さんは記憶になくても、世間一般では問題となる行動が彼の方にあったのかも知れない」
「でも……」
「私はあなたたち二人とも大切な仲間だと思っているわ。でも感情と事実は分けて考えないと、あなたたちは今後も無意識に誤解を招くような行動をとってしまうかも知れないでしょう」
無意識に。そう言われると何も返せない。
見事なほど言葉に詰まり、私は思わずうつむいた。
「ごめんなさいね。私、ドライな人間だからこんな言い方になってしまって」
相原店長は寂しげな声で言うのだけど、もちろん彼女のせいではないとわかっていた。
「私もいけなかったのよ。あなたたちの距離感がやけに近いと気付いていながら止めなかったもの。スタッフの間で噂になってしまったのは想定外だったけど」
言われて私は顔を上げた。
そうだ。今更だけど何故噂になっているんだ。
千秋さんと私はみんなの間で“兄妹のようだ”と認識されていたし、帰りのルートが途中まで同じなのも別に隠していた訳じゃない。なのに今になってみんなの認識がひっくり返った理由はなんだと疑問に思い始めた。
「特に噂好きな人からしてみたら気になってしょうがないんでしょうね、三角関係なんて。でもむやみに首を突っ込む訳にもいかないからあんなぎこちない態度になっているんだと思うわ」
「あの……三角関係って」
次の予感に合わせて鼓動がまた不安定になる。
真っ直ぐ私を見つめた相原店長も観念したような表情だった。
「今朝、あなたの恋人が店舗に訪ねてきたのよ。北島さんという人」
「肇くん、が」
「そう、やっぱり恋人で間違いないのね」
遅れて小さく頷いた。
来るなんて一言も聞いてない。一体なんのために。まだ理解できてないはずなのに、ペットボトルを握る手元がおのずと震えた。
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