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8.涙
しおりを挟む「僕に逢いたかったって……それは本当かい?」
事実を直接耳にしたばかりのスノウが一番に放った言葉がこうでした。失望なんかとは程遠い、一層熱を帯びた眼差しが震えながらもカナタへ絡みつきます。
「そ、そうだけど……」
カナタは小さく身体を引きます。戸惑った表情で口ごもる。自分が言ったことを今更恥ずかしく思ったりでもしたのでしょうか、艶やかな頰が次第に色付いていきます。
手配書に写ったカナタの姿を見た時点で、スノウはほとんど全てを理解していました。それでも逢いたい気持ちに変わりはなかった。この想い、ありのまま伝えたい。スノウはぎゅっと拳を握ります。砂の圧力がゆるゆると緩み始めました。
「ど、どうして? あのとき君は人魚姫に逢えたと思ったから嬉しかったんでしょう? 私じゃお姫様になんてなりようがない。単なる偽りの……」
「あのね、確かに最初は勘違いだった。でも僕の中で君がずっと“姫”だったのは、身分や性別の問題じゃないんだ。知ってる? 人間たちは愛しいパートナーや大切な我が子をよく姫と称するんだ。人間たちから学ぶなんて皮肉な話ではあるけれど、それだけは素直に素敵だと思った」
砂から這い上がったスノウは両手を広げます。はらりと広がるマント。舞い上がった砂の粒が初夏の夜に雪の幻想をもたらします。
カナタが岩の上からひらりと身を投げました。そのまま吸い寄せられるように波打ち際まで泳いできます。スノウも駆け寄ります。指先一つ、やっと触れることが出来た二人。
「君の名前を教えて」
「……カナタ」
「そうか……やっと聞けた。これからはそう呼ぶね、カナタ」
痩せた身体をひったくるように抱き締めたスノウは、大きな手で何度も青い髪を撫でました。小刻みに震える感触が全身に伝わってきます。
「寒いの?」
「ううん、違う」
「じゃあ怖いの?」
「うん……多分。あっ、ちょっと待って」
カナタが何か焦ったような声を上げてスノウから身体を離しました。両手で自分の頰を撫で、心底驚いた顔をします。
「目から水が……何、これ」
そう、一生の大半を海中で過ごす人魚。こんな体験をする者はほとんどいない。
ついさっき人を殺してきた者とは思えないくらい優しい微笑みをスノウは浮かべます。長い指先で雫を拭って教えてあげます。
「涙と言うんだよ。ほら、見て。僕の目にも浮かんでる。悲しくて流すときもあれば嬉しくて流すときもある。カナタのはどっち?」
「私……私は……」
カナタが再びスノウの胸に縋り付きました。頭を擦り寄せ目を閉じて、頰に流れ星をつくり、途切れ途切れな声を零していきます。
「君に逢えて、嬉しい。だけど、怖い。私はこの気持ちの意味をまだ知らない。ねぇ、怖いよ。なんなのこれは」
大丈夫、僕が教えてあげるね。スノウはそう囁きました。潮風が二人を包み込む。優しい時間が続くかと思われました。
――いたぞ! あっちだ!!
だけどそれは唐突に終わりを告げた。
槍や鍬やナイフを持った街人たちがどやどやと忙しない足音を立てながら海辺へやってきたのです。血液を全て搾り取られた荒くれ者二人を誰かが見つけたのでしょう。
野蛮な吸血鬼め! 誰かが叫びます。ゆっくり振り向いたスノウの目が蛇のようになって彼らを捉えます。
「野蛮で結構だよ」
低く呟いて。今度はカナタの方に向き直ります。怯えているのでしょうか、肩が震えています。それを両手でしっかり掴んでスノウは言います。
「さぁ、君の血を頂戴。僕は今こそ変わらなければならない」
カナタは目を見開き弱々しくかぶりを振ります。
「でもそんなことしたら君は不老不死になってしまう。私にはわかるよ。君はあの人間たちとは違って心から不老不死の力なんて求めてない。それは永遠の孤独を意味するから」
「ああ、そうだね」
「それも私の為だなんて……私はいつか死ぬのに、君を置いていくのに……それもそう遠くないうちにだ。私は……っ」
「君が何を抱えているのかまだ全部はわからない。それでも選択は変わらないと断言するよ。カナタ、力を抜いて」
スノウの囁きはカナタに魔法をかけました。胸元を掴んでいた手ははらりと解け、胴体はスノウへ傾きました。図ったように潮風が吹き付けてカナタの白い首筋を惜しげもなくさらします。
スノウは歯を立てました。つうっと伝わる生温かい感触。その味は葡萄酒に似ていて酩酊状態に陥りそうになりました。
だけど今は酔っている場合じゃない。立ち上がったスノウは人間たちに向かい合います。灼熱に呻く身体を奮い立たせます。足元から旋風が巻き起こりました。異形の耳は更に伸び、赤の瞳は燃え盛り、爪も鋭利な形へ変わっていく。そして駆け出す。欲望の群れに向かって。
「美男子の人魚だ! 相当高値だぞ。こいつも一緒に捕らえろ!」
「そうはさせないよ。僕を敵に回したこと、後悔させてあげる。一瞬で楽にさせてあげるほど僕は甘くないよ」
悲鳴が幾つもこだまする。カナタは薔薇の花を握り締めて泣いていました。でも目を背けることはありませんでした。
月夜の下、紅の花弁と化した人々の残骸の中で踊り狂うヴァンパイアの姿をしかと見つめていました。
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