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3.さよなら、トマリ
しおりを挟む時が流れて翌年の春……
が、来る前にトマリはこの店から、そしてこの街から姿を消した。
一年の中の大勝負、初売りが終わった後に体調を崩したことは聞いていた。そこから随分と情緒不安定に陥ったことも。
しかし人間の身体は一つしかない。複数の店舗を抱える千秋もさすがにフォローすることは出来なかった。もう長らく帰路を共にしていなかったことを思い出す。
退職の申し出を受けた店長はいつになく動揺してしまったそうだ。トマリの思惑は定かでない。むしろこの店長の方に千秋は自然と同情することが出来た。
新たな一年の始まり。更なる飛躍を目指したいこんなときになんてことを言い出すのだ。辞めるにしたってもう少しタイミングをわきまえられないものなのか。皆で一丸となって店を大きくする為にどれ程悩んできたことか……こんなところだろう。向上心の乏しい部下や手抜きをしたがる同期と直面するたびに、千秋もそんなやるせなさに苦しんできた。
そして空気の読めないトマリには通用しなかったのだろう。
「目標を持っていない人間はここに居ちゃいけないんでしょう?」
抑揚の無い淡々とした物言いに店長は悲しみと落胆を覚えた。そんな言い方、頑張っている人間に対して失礼ではないかと叱ったそうなのだが……
「店長が私を嫌いになっても、私は店長を嫌いたくはありません。ですから……」
深く深く頭を下げたトマリはこう言い放ったそうだ。
「別れて下さい」
言うまでもないが言葉の使いどころが明らかにおかしい。何故私がフラれたみたいになっているの、と店長が苦笑するのはもっともだ。
ところがしばらくして顔を上げたトマリを前に、店長はそれ以上を語れなくなってしまったそうだ。
「何が失礼なのかわからなくてごめんなさい。目標を見つけられなくて、生きることしか出来なくて、ごめんなさい」
限りなく無表情なトマリの頰の上をつうっと一筋の雫が伝い落ちたそうだ。
高い向上心を持つ店長は去っていったスタッフのことも簡単に忘れられはしないらしく、私はあの子にどうしてあげれば良かったのだろう、などとか細い独り言を零す。しばらく隣で考えてみた千秋だったが、結局は……
「いいんですよ、そのままで」
こう返しただけだ。実際、トマリは周りに何かしてほしかった訳ではないと思う。
初売りが終わった後も店内はそれなりに賑わっている。去年よりも業績が上がったと本社からもお褒めの言葉を貰った。
なのに何かが足りない。
作り込んだ部分が多い程に欠けている部分を探してしまう。人の気配で埋め尽くされているにも関わらず、何処ぞから隙間風が吹き抜ける乾いた気分の中……
「ねぇねぇ、千秋さん」
一人のスタッフが悪戯な笑みで尋ねてくる。
「ぶっちゃけ千秋さんって、トマリンのこと狙ってませんでした?」
(ああ、何が細心の注意だ)
呆気にとられたのは無礼とも言える質問をしたスタッフに対してではない。やがてクックッと短い含み笑いを零した千秋が一瞬ばかり目頭を押さえた。
見上げるスタッフは驚いている。その顔に傷心の者を労わるような憐れみが滲んでくる。
だけど答えははっきりしている。自分だけが知っている、もうそれで良いと開き直った千秋はほんの短い言葉で返すのだ。
「そういうのじゃないよ」
口にしてみると呆気なくひっくり返る。答えなんて本当はわからないのかも知れないと感じる矛盾。いいや、わかってはいけないのかも知れないとさえ思った。
本社の期待する業績と、スタッフとの良好な関係性、エリアマネージャーへの昇進の話。
あれだけ欲しくてたまらなかったものを一通り手にしたはずの千秋が今、思い出すのはただ一つ。ただ1日だけの記憶だった。
「私の中で何かが止まっている」
すぐに理解へ至らなかった千秋は、へぇ~などという気の利かない相槌を打った。名乗り合った後に年齢を聞いてみると27と言うものだから、ああなるほどと勝手に理解して、勝手な推測で適切と思える言葉を紡ぎ出した。
「27には見えないね。若いって言われるでしょ?」
だけど実際のところ、それは適切ではなかったようだ。
ぎゅっと寄せたトマリの眉の間には深い縦皺が走った。胸元を握って妙な呻きを漏らした。そんなの欲しくない……今思えばこれだったのだろう。
「いつからか正直であることが罪になってしまった」
「そ、そうかな? 潔くっていいんじゃない?」
「元々はファッションイラストを描くのが好きでした。ここへ来る前は、知り合いに依頼されて地域新聞の挿絵を描いたりしてました」
「へぇ! 凄いじゃん!」
「でもすぐにやめました。だって依頼される絵のほとんどが円満な家族像だったから」
「駄目なの?」
「はい、だって私はそういう家庭を知りません。似たような絵を参考にして嘘の家族を描いていたんです。自分の描いた絵を見るたびに気持ち悪くなってきました。上手いと言われても嬉しくなかったです」
「そうなんだ……で、でもさ」
「知りもしない幸せそうな雰囲気なんて、求められるのも嫌だった。私は私の砂でお城を作りたかっただけ。そこを大人の大きな足で蹴散らされた気分でした。嘘を見せるのも悪いと思いました。イラストレーターには向きませんね」
「う、うん」
あの頃はまるで話が噛み合っていなかった。トマリの持ち出す話が唐突すぎて、千秋は声をかけたことを少し後悔したくらいなのだ。
「大人は完成されたものを求めているのかなって思いました。夢のお城なんて実際には存在しないと思ってる。そんなのきっと興味無いんでしょ?」
自分も大人のくせに大人は……などと言う。小ぶりな唇を尖らせる仕草は、まるでやさぐれている少女のようであった。
これだって今思えばわかる気がするのだ。
「今度本社でマネージャー同士の交流会があってね、なかなか凄いんだよ。割と有名なホテルのロビーを使って今後の抱負とか目指すところとか、一人一人スピーチするんだ」
何度でも何度でも覆い被さってくる記憶を紛らわせようと切り出した。自慢とも取れる話を千秋が語り出すと、スタッフの子がすご~い! などという黄色い声を上げてくれる。
「それで千秋さんはどんな話をするんですか!?」
だけど結局戻ってしまう。スタッフのせいじゃない、他でもない自分が戻りたがっているのだと千秋はもう気付いている。
「正直が罪とならない世の中の実現、かな」
「わぁ! なんか壮大!!」
「……そうでもないよ」
本当にそうでもないのだ。なんとか仕事にこじつけて説明するんだろうけど……と、千秋は小さく自嘲する。続けてこう口にする。
「皮肉なことに大人は正直であればあるほど誤解されやすくなるんだ。正直でいなさいと教わって育ったはずなのにね」
――そうでしょ? トマリ。
実際のところ、これを届けたいのはただ一人。
約束をすることも叶わなかった、内側ばかり時を止めた大きな子どもなのだともう気付いている。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
sekakoさんが以前、とてもお洒落でかっこいいトマリのイラストを描いて下さいました! ありがとうございます!
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