サーシェ

天山敬法

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第八章 帰るべき場所

86話 愛の誓い

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 魔術師がズミ軍を裏切ったという報がもたらされ、その部下であったために嫌疑をかけられた僕は独房へと監禁され始め……、しかしそれが丸一日ほど経った頃、状況はにわかに変調を迎えた。
 たった一日の時間は、任務に追われていればすぐに過ぎ去ったが、閉じ込められたまま何もできずに過ごしていると異様に長かった。
 外にいる人間からすれば、その時間は短かっただろうか。突然小屋の外から近付いてきた足音は荒っぽく、何だろうと思って注意を向けたその瞬間には、ガチャガチャと錠を弄る音が鳴り、すぐに扉は乱暴に開かれた。
 膝を抱えて丸まったままそれを迎えると、奥から顔を出した兵士――確かモルズの側近のような者だ――は血相を抱えて叫んだ。
「ヨン! 怪我人の治療だ、来い!」
 その勢いの強さを見るに、何事かと問いただしている余裕はなさそうだった。僕は固くなった体を伸ばしつつ立ち上がり、すぐに早足で歩き出した兵士の後ろについて、小屋を飛び出した。
 小屋の外は何やらまた不自然などよめきに包まれていた。野営地の建設は引き続き行われているようだが、そこを行き来する兵士らは互いに顔を見合わせて何かをささやきあったり、眉をひそめて僕を睨んだりしている。
「何かあったのか」
 連れられるまま一応そう尋ねてみると、モルズの部下は躊躇いもせず答えた。
「魔術師が帰ってきた。負傷した敵を連れている。話を聞くために治療が必要だ」
 彼はこちらを振り向きもせずにそう口早に言う。僕は思わず眉を寄せたが、どうにもひと言で聞ける状況ではないらしい。
 それでもその瞬間、ずっと締め付けられるように痛んでいた胸がぱっと解けたような、そんな思いが確かにした。……パウルが帰ってきた、ただそれだけの事実に。
 やがて連れられたのは、これも野営地の中に建てられた小屋だった。閉じ込められていた独房よりは広いが、窓は屋根の近くに通気口程度のものがあるだけで、中の様子が分からない、閉鎖的な印象の建物だ。
 入口の周辺には周囲を警戒している様子の兵士が何人もいて、それをかき分けるようにして、ちょうど僕と同じタイミングにやってきたモルズの姿が見えた。
「いいか、中に人を入れるなよ」
 モルズはそう入口周辺の兵士らに言いつけてから、僕の顔をちらりと見て手招きをした。そのまま僕はその建物の中へと入る。
 中へ入ると、既にそこには複数の人間の姿があった。彼らの髪の色の明るさが、その場の空気に妙な異国情緒を漂わせている。
 幅の広い机は押しのけられるように壁に寄せられ、その床の真ん中に屈み込んでいるのは、長い髪を後頭部で束ねている金髪の男……フードを被っていないパウルだ。彼は床にしゃがみこんで、そこに墨のような塗料で魔法陣を書き込んでいた。
 いつか練習だとか言って書いていた回復魔法の陣を、どうやら彼も既に習得しているらしい。そしてその脇には血に濡れてぐったりと力を失っている様子の女性と、それを抱きかかえる男の姿があった。二人共が金色の髪……。
 じっくり顔を検めるよりも先に怪我の具合を見なければいけなかった。女性の顔色は蒼白で、息も細そうだ。怪我を負っているのは腹部のどこかだろう、着ている白い服が赤黒く染まっている。どうやら軽症というわけではないらしい。
「陣の上へ。そっと動かせよ」
 パウルがそう言ったのを聞いて、女性を抱いていた男がその体を魔法陣の上へそっと横たえる。
 僕はパウルと目を合わせさえせず、すぐに同じようにしゃがみこんでその魔法陣に手を触れた。
 どこをどうやって怪我した、怪我してからいどれぐらい経った、その辺りのことを詳しく確認している余裕もない。とにかく治せばいいんだろう、そんな乱暴な気持ちでありったけの魔力を流し込む。
「神聖なるトレント……」
 その言葉で胸の奥にある門を開く。途端にそこから流れ出る高圧の魔力を、そのまま生命力に換えて彼女の体に巡らせるように。
 僕の呟きを聞いて、傍らの男がハッと息を呑んだのは分かったが、今は気にしてもいられない。
 魔法の効き目を見るために、目はじっと女性の顔色を注視した。その時やっとその顔が知ったものであることに気付く。
 下ろせば腰まで届くだろう長い金髪を今は首の後ろでひと纏めにしている。二十歳から三十歳の間ぐらいと見える若いトレンティア人、名前をグロリア・エレアノールと言ったはずだ。
 その蒼白だった顔色はたちまちに赤みを取り戻し、瞼を閉じたまま苦しげに寄っていた眉間の皺も次第に薄まっていく。
 血門術を使ったために僕の血液は少し減った。一瞬だけくらりと目眩を感じる。まだこの魔術の加減には慣れていない……少しだけ魔力を絞り、丁寧に、一定にその癒やしを流し込んでいく。
 初めて出会ったのは、偶然に助けた奇妙な縁だった。彼女とジュリと三人で過ごした野営の日々を思い出す……、死ぬなよ、エレナ。そう胸の内で呼びかけながら。
 やがてエレアノールはうっすらと瞼を開け、その奥に隠れていた青い瞳でぼうっと部屋を眺めたようだ。
 意識を取り戻した彼女を見て、傍らにいた男も床に膝をついて屈みこんだまま、エレアノールの温もりの戻った手をぐっと両手で握った。
「エレアノール様、ご無事で……」
 そう噛み締めたような声には、彼女のことをきっと本気で案じていたのだろう、切実なものが滲んでいる。
 僕は血と魔力とを一気に消費してふらついた頭のまま、ぼんやりとその男に視線をやった。
 ……前後の話から誰かは予想がついていたが、こうして間近で顔を見る経験は新鮮だ。魔剣の使い手、恐ろしい敵だったはずのクラウス・フォス・カディアルがそこにいた。
 そして彼らを見ていたパウルも、どっと安心したように息を吐き、ふと儚げな微笑を僕に向けてきた。
「ああ、なんとか助かったか。さすがだなヨハン、ありがとう……本当に」
 僕は施術をゆっくりと終えると、しかしぎろりとパウルを睨みつけた。それはもう、これでもかというほどの恨みのこもった眼差しで。
 ともかく重症者の治療を優先したが、パウルには聞かねばならないこと、言いたいことがありすぎて何から言えばいいのか分からないぐらいだ。そんな僕を見て、しかしパウルは能天気にただ微笑んでいる。
「お前な……、一体どういう……どこへ! お前のせいで僕がどんな……!」
 そう言葉さえも詰まらせながら怒る僕を見て、パウルは不思議そうに目を瞬かせていた。まるで悪いことをしたという意識もなさそうだった。
 そんな僕達を、ため息ひとつしてから纏めにかかるのは、入口の扉の前に立って事態を眺めていたモルズだ。
「治療は無事にできたのか? それじゃあ報告を聞こうか、魔術師。これはどういう状況だ」
 当然彼の声色にも怒りが滲んでいる。パウルはそこに集まった面子をぐるりと見回してから立ち上がった。
「なんと説明したらいいかな、この二人は……少なくとも今は敵じゃない。トレンティアの本軍からはぐれて俺に保護を要請してきた。ま、捕虜ってことでいいか」
 そうパウルが喋ると、それに反応したのはクラウスだった。捕虜と呼ばれたのが不服だったようで、ぎろりと責めるような目でパウルを睨んだ。しかしその手はまだ愛おしそうにエレアノールの手を握っている。
 パウルは呆れた顔でクラウスを見下ろした。
「ジャック、今は贅沢言うなよ、保護してもらってグロリアも助かったんだからな」
 パウルに言われて、クラウスは険悪な表情のまま黙った。彼らの関係を元から知っている僕には大方の状況は察せた。
 エレアノールはトレンティア人でありながら同国人から密かに命を狙われる身だ。それに正規軍人であるクラウスがどの程度関わっているかはさだかではないが、どうやら彼にとってエレアノールは死なせたくない存在らしい。その命を救うため、不本意ながらズミ軍側にいたパウルに助けを求めざるを得なかった……ということだろう。
 確かに、エレアノールの生存を優先するなら不平などひと言も言えた立場ではないはずだ。助けてやっただけでも感謝してもらわないと困る。
「今はグロリアとお前の身の安全を第一にする。口出しはするな」
 パウルは目を細めてクラウスにそう言いつけ、すぐにモルズへと向き直った。
「どうせバレるだろうから言うが、こいつらは俺のトレンティアにいた頃の知己だ。男の方の名前はジャック・クラウス・フォス・カディアル……、パーティルやオーデルで俺達と一戦交えたあの魔剣士本人だ。こいつの恐ろしさはモルズ、お前もよく知っているだろう。その男が今俺の元へ下っている。……これは敵戦力を削ぐための重要な判断だ、分かるな? 彼らを捕虜としてここで保護することを認めてほしい」
 パウルははっきりと言った。モルズは真剣な顔でそれを見つめ返すが、穏やかな表情は浮かばない。
「魔術師よ、お前の働きぶりは私とてパーティルから見ていた。お前が我々にとって重要な協力者であるという認識は変えていないつもりだ。だが、だからと言って何でも頼み事を聞けるわけでもないことは理解しろ。……その魔剣士が、今までどれほどの同胞を殺めてきたのか分かっているのか」
 モルズには珍しく、そこに憎悪のような深い怒りが滲んでいる。……それも当然だろう。
 彼の言葉を聞いてクラウスの顔は苦しげに歪んだが、パウルは真剣な顔のまま表情を動かさなかった。
「分かっているさ、だからこそその戦力は欲しいだろう? これから挑むラズミルの戦いが、ズミにとってどれほど重要かはお前が一番分かっているはずだ。この魔剣士の腕のあるなしで歴史は変わる。その鍵が今目の前にあるんだ」
 その力強い言葉は、つまりクラウスをズミに味方させると、そう言っているようだ。思わず僕も眉をひそめてパウルを見つめた。そんなことが本当に可能なのか、と。
 しかしクラウスは現に目の前にいるし、彼の立場を考えるなら僕達に逆らうこともできないはずだ。……本当にあの魔剣士を味方につけることができるのなら、確かにその恩恵の大きさは計り知れないだろう。
 モルズは真剣な顔のまま、どうやら考え込んでいるらしく固まってしまった。そうすぐに判断がつくことではないのも察しがつく。彼は賢明な男だ。
 やがてモルズは大きなため息をついて片手で頭を押さえた。
「まったく、ややこしい話ばかり起こしやがって。……お前がその魔剣士と連れたって行くところをこちらの部隊員が確認している。魔術師が敵軍に寝返った、などと大騒ぎになったんだぞ、分かっているのか」
 その恨み言を言いたいのは僕も同じだ。しかしパウルにとっては驚くような話だったのだろうか、眉をひそめてそれを見つめ返した。
「俺が敵軍に寝返る? そんなことあるわけねえだろ」
 あっけらかんに言ってみせる彼を、僕もモルズも半ば呆れたように見る。
「私だってお前が寝返るなどとは思っとらん。だが今や我が部隊も大所帯だ、お前のことを何も知らない者だって多くいるんだぞ、そういう者からすれば疑わしくなるのは当然だろうが! もう少し自分の立場を自覚して行動を起こせ、馬鹿者が!」
 そう叱責するモルズに対して、しかしパウルは納得もしないらしい。
「立場ってなんだよ、俺はヒューグのジジイが生きてた頃からの古参だぞ? オーデルでもパーティルでも、それ以前からも! この魔法の腕でどれほど部隊に貢献してきたと思っとるんだ、俺のことを知らない新参どもの方が失礼だろうが!」
 そんな不満を言うパウルに、モルズの怒鳴り声は覆いかぶさる。
「どれだけ功績を上げたとてお前はトレンティア人だ!」
 その声が胸を刺したように、走った痛みが僕にまで伝染ったような、そんな気がした。
 パウルはぐっと顔をしかめて、次第に表情を苦しげに歪めていった。それでも彼は諦めない。
「……それで、答えはどうなんだ、モルズ。“トレンティア人だから”のひと言で、この千載一遇の機会を逃すほどお前は愚かな男じゃないはずだ。分かっているだろうが、お前がそれを認めないと言ったらその時は……」
 重みを持った言葉で、凄むような気迫でパウルは言う。彼にしては饒舌で……、モルズが「認めない」と言ったらその時は、どうなるのだろう。
 モルズは疲れた顔で声を荒げた。
「分かっている! 私とてお前を敵になど回したくない。だが他の者はいい顔をしない……、それを納得させるのがどれほど大変か想像ぐらいつくだろう。少し時間を寄越せ、なんとか幹部連中に説明をするから」
 その答えを聞くに、どうやら彼はパウルに折れたらしい。それが僕にとっては喜ぶべきことなのか……今いち判断がつかないが、何故か少しの安堵を覚えた。
「だが、少なくとも話が全体で纏まるまでは魔剣士は拘束させてもらう。それぐらいは譲れよ」
 モルズはぎっと表情を引き締めて言った。パウルは仏頂面になって数秒黙ったが、やがて頷いた。
「お前は腕が不自由だろ、俺がやる」
 そう言ってパウルは携帯している荷物の中からロープを取り出し、まだエレアノールの手を握っているクラウスの元へじりと寄った。
 クラウスはびくりとして目を開き、上から見下ろしてくるパウルを見上げたようだが……、さすがに抵抗する姿勢は見せない。
「ジャック、すまないが少し我慢してくれ。……フォス・カディアルの騎士であるお前が軍を裏切っている、その重みは私とて重々に理解しているつもりだ。そこまでさせているからには責任は必ず取る。今は私を信じてほしい」
 パウルがクラウスに語りかける、その言葉に僕は言い得ぬ違和感を覚えて息を呑んだ。僕の知っているパウルとは様子が違う……おそらくそれは、トレンティア人としてのパウル・イグノールの顔……。
 そんなパウルへ向かって、クラウスの表情からやがて力が抜けていくのが分かった。
「……私は近衛騎士だ。お前に神聖なるトレントの血が確かに流れているのなら、その盟約に従おう」
 穏やかにさえ言ったその言葉の意味を、僕は全て理解できたわけではないが……、どうやら大人しくパウルに従うと、そういう意思表明らしかった。
 その言葉通りに彼はされるがままに両腕を体の後ろで縛られた。……あの猪のように猛進してきた魔剣士がまんまと目の前で拘束されている、その光景に僕は奇妙な感慨を抱く。
「私は早速皆に説明をするために会議をしてくる。言うまでもないが大人しくしてろよ」
 モルズはそうパウルに言いつけた。しかし彼はやはり悪びれもなく答える。
「俺は急な任務に駆り出されてそのままなんだ、少し持ち物の整理ぐらいさせてくれ。こいつらはここで大人しくさせておくから」
 彼は拘束される気は更々無いらしいのを聞いて、モルズはまた疲れたため息をついた。部下からの不平とパウルからの主張の間に挟まれて、恐らく苦労が絶えないことだろう。これ以上言い合うのもうんざりだ、と言うようにモルズは仕方無さそうに頷いた。
「ヨハン、お前も血門術を使って消耗しただろ、宿へ戻っていろ」
 そしてパウルは当たり前のように僕にもそんな指図をしてくる。
 ……当然血門術を使って消耗しているのは事実だ、それができるならそうしたいが……今の状況でパウルに何かを言いつけられるのはなんとなく面白くない……。
 それに僕だって監禁されていたところなのだ、それを解かれてしまっていいのかどうかはモルズの判断を仰ぐ必要があった。無言でモルズに視線をやると、彼はやはりため息をつく。
「正直言って今回の件で一番とばっちりを受けたのはヨン、お前だからな。さすがに解放してやらんと不憫だ。宿へ戻って休むぐらい自由にしてくれ……」
 モルズの言う事も尤もだ。パウルは僕がどんな目に遭ったのかなど想像もしていなかったらしい、きょとんとした顔で目を瞬かせていた。呆れてつぶさに説明する気にもなれない。
 ともかく許可を得たのだし、こんな所で言い合うよりも先に休みたい。当然パウルを許したわけではないが、と後で文句を言う心の準備だけをして、僕は宿屋へと向かった。

 宿に戻ると、僕の言いつけ通りに引き篭って、所在無さそうにしているジュリの姿があった。当然僕の姿を見るなり、飛び上がるように驚いてこちらへ駆けてきた。
 抱きしめてやりたい気持ちも山々だが、生憎同室にアルドもいる。彼の目を気にもせず飛びついてくるジュリをなんとか受け止めるものの、恥ずかしさのあまりにあしらうようにして、僕はとにかく部屋の中へ入り、ベッドに身を投げた。
 ベッドに寝そべって無防備に天井を見上げたまま、僕は力の抜けた声で報告を始めた。
「パウルが戻ってきた。敵軍から離れたトレンティア人を捕虜として連れてきて……」
 ジュリは目を丸くして驚いて、すぐにほっと胸を撫で下ろしたらしい。
 あれだけ裏切りだなんだと騒いでおいて、その結果は言葉にしてみれば呆気ないものだ。
 アルドは少し離れた机の上で何か作業をしていた様子だが、僕の言葉を聞いて楽しそうに笑った。
「ほらな、戻ってこないわけがないだろう」
 パウルが本当に裏切ったなんて、彼は始めから露ほどにも思っていなかったようだ。さすがだと感心するべきなのか、どうなんだろう……。
 パウル自身そんな心配をされていることも意外だったようだし、やはり二人は通じ合っているとでも言うのだろうか。
 しかしそんな中嫌疑をかけられて、独房に丸一日も放り込まれていた僕はやっぱり面白くない。僕は話を変えた。
「奴が連れてきた捕虜にエレナもいるぞ」
 そう言ったのはジュリにだ。彼女は疲労している様子の僕を気遣って、ベッドの脇に座り込んでこちらを見下ろしてきていた。その名前を聞いてまた驚いたらしい。
「エ、エレナさんが!? どうしてこんな所に……」
「さあ、詳しい経緯は知らないけど、トレンティア軍に命を狙われてたみたいで、酷い怪我をしていた。僕が治療したけど。それでパウルに助けを求めた、という経緯なんじゃないかな」
「命を狙われて……? た、確かに家出とか言ってましたもんね、それほどの事情があったということですか……。こちらの部隊の捕虜になった、ということなら少しは安全でしょうか……」
 ジュリは疲れたように眉間を押さえて俯いた。
「パウルが保護すると言っている以上は恐らくな。ああ見えて妹思いだ」
 エレアノールを助けた時のパウルの顔を思い出して、僕は呟くように言った。
「妹……?」
 途端にジュリが唖然としたような顔になって言う。それを見上げて、僕はぱちりと目を瞬かせた。……そういえばジュリは知らないのか、と。
「ああ……、言ってなかったっけ。エレナ……あいつは本名をグロリア・エレアノールと言って、正体はトレンティアの王女、パウルの実の妹だ」
 端的に言ってやると、唖然とした顔のままジュリは黙って驚いていた。次々と出てくる話にいちいち驚くのも億劫だ、というところだろうか。
 やがて何か書類仕事をしていたらしいアルドが作業を切り上げたような仕草をとった。
「さて、じゃあヨハンも帰ってきたことだし私は部隊の方の仕事を見てくるよ。あんなところに一日閉じ込められて参っただろう、しっかり休めよ」
 そう僕に言って、早速部屋の外へと向かっていった。疲れているのはどちらかというとエレアノールの治療のせいだが、とにかく僕は適当に相槌を打ってそれを見送った。
 僕がいない間だけでもと思ってジュリを見てくれていたのだろう。能天気に見えてその気遣いにはやはり助けられる。
 そうしてアルドが部屋から去っていくと部屋にはジュリと僕の二人きりだ。何を言うでもなく僕達は片手を握り合った。
 唐突に訪れた穏やかな時間の中、独房では僕を責め立てるように渦巻いていたばかりの思考もどこか遠くへ飛んでいく。
「特に何も無かった?」
「はい、何も……。退屈はしてましたけど」
 そんな世間話みたいな言葉を静かに交わすだけだ。血を失ってふらついている僕に彼女を抱き寄せるほどの元気もないし、彼女とて冷静な時はさすがにベッドの上まで乗り込んできたりはしない。
 ただ手の温もりだけを確かめ合う穏やかな時間だった。僕は不安から解放されたばかりで、それだけでも胸が満ち足りていくような感じがする。
 しかしその恋人との安らかな時間は、まったく無粋な者の足音によってすぐに破られてしまった。

 扉を叩くことさえなく無遠慮に入ってきたのは、当然部屋の主である。その乱暴な音を聞いて僕達はそっと手を離した。
「ああ、一体何だってんだくそが! たった一日部隊を離れただけだってのにどいつもこいつも裏切りだ寝返りだ……!」
 苛立った声で叫んだパウルを、僕はもはや呆れた顔で見つめてやる。不在の間に自分がどんな扱いを受けていたのかを実感してきたらしい。
 ベッドの所にいる僕達に構いもせず、パウルはずかずかと部屋の中入って乱暴に椅子に腰掛けた。苛立ったまま嫌なことでも思い出しているのか、そのまま頭を押さえて唸り始める。
 しかし僕とて当然、彼に恨み言を言う準備はできている。まだ少し頭がふわふわとする感じがしたが、上半身を起こしてそんなパウルを睨んだ。
「まったく、お前が裏切ったなんて言われて僕まで巻き添えをくらったんだぞ。……突発的なことだったんだろうけど、せめてできるだけ事前に話はしておいてくれ……」
 そう恨めしく言うと、パウルの不機嫌な視線がこちらを向いて、数秒何かを考えた様子だったが、やがて疲れたため息を吐いた。
「……悪かったよ。いやほんとに突発的なことだったんだ。偵察部隊が交戦したって言うから行ってみたらジャックが一人だけでいて……、グロリアがヤバそうだったから助けなきゃいけなくて、説得したらあいつ味方になりそうだったしさ……妥当な判断だっただろ? あの魔剣士を捕まえて連れてきたんだぞ、褒め称えられたっていいぐらいなのにひどい扱いだ」
 ぶつぶつと愚痴を言うのを聞けば、それももっともらしく聞こえる。
 だけどそれが他の者とすれ違ってしまうことも当然あるだろう。モルズの言う通り、多くの味方は彼らのことを知らないのだ。
「分かってるさ、俺はトレンティア人だもんな。そんなことずっと前から分かってる。信頼が得られるなんてハナから期待するほうが馬鹿だってな……」
 そう呟いた時、パウルの目は何もない空中を恨めしげに見つめていた。
「そうでなくてもズミ人の気質を考えれば……、戦の大局よりも目の前の仇討ちに固執する。それはモルズの部隊だって例外じゃない。トレンティアの軍紀を基準にはできない、百歩譲って俺が許されても、ジャックは処刑されるのが自然な流れだ。……それを助けたいなんて思うのは私個人の私情でしかない……。分かっているよな、しっかりしろ、パウル・イグノール……!」
 そして自分に向かってはっきりと呼びかけ、ぱしと両手で自分の頬を叩いた。
 ……どうにも、クラウス達に会ったせいでトレンティア人だった頃の人格が混ざっているのだろうか、喋り方が変に不安定だ。
 そんなパウルを訝しげに見つめながら、僕はかける言葉も分からなかった。自分のことを“私”などと呼ぶパウルは、まるでふざけているのかと思うほど、僕の目に奇妙に映る。
 しかし当然彼は真面目であって、考えてみれば王族に生まれた男なのだ、むしろ元来の人柄は貴族然としたそちらなのだろうと想像もつく。
 それは僕の知らないパウル・イグノール、そしてきっとそれが本当の彼の姿。それを目の当たりにすると、また嫌な感情が胸にざわつく。……やっぱり彼はトレンティア人なのだろうか、と。
 その嫌なものに突き動かされるようにして、僕はゆっくりと口を開いた。
「……お前は、どうして……」
 その声色の重たさに、パウルもすぐに何かを感じ取ってしまったのだろうか。ハッとしたように視線を上げて僕を見た。それに応えるように、僕は少しだけ丁寧に言葉を選ぶ。
「お前が裏切ったなんて話を聞いて、思ったんだ。お前はどうしてここで戦ってるんだ。トレンティア人であるお前がこの部隊に固執する理由は……」
 そう言葉を紡いでいる最中から、胸の奥がズキと痛む。それが何故なのかも自分ではよく分からない。自分の上体を支えるように斜め後ろについていた片方の手を、傍らのジュリが両手でぎゅっと握ってきた。
 パウルの青い目は見る間に大きく開かれ、やがて真剣に張り詰めた顔でぽつりと零すように。
「……お前まさか、俺が本当に裏切ったとでも心配したのか?」
 何故か妙にどきりとして、咄嗟に返事をすることもできなかった。一拍だけ言葉を詰まらせる。
「そこまでは……。だけど考えてみたらおかしな話だと……」
 そう返事をすると、パウルは時間が止まったように固まってしまった。やがて見開いた目をゆっくりと細めて、何も無い空中に逸らしたかと思えばすぐにまた僕を見つめ、また逸らして……、きょろきょろと視線を迷わせている。
 まるで焦らされているようにさえ感じて僕は次第に不機嫌に眉を寄せる。やっと彼が口を開いた時、その表情は静かで、笑みこそ浮かべていないのにどこか穏やかにさえ感じられるものだった。
「あのさ、ヨハン」
 もったいぶって名前を呼んでくる。口では返事をせず、ただ睨んでやった。パウルは同じ顔のまま、淡々とした調子で語り始める。
「正直言って、どう足掻いたってトレンティア人である俺がこの先どんな身分に転ぶかなんて何の確信もない。この際はっきり言うがそれはお前も同じだ。今更トレンティアの血筋に生んだことを恨まれたって別に構わないけどな……事実は変えられん。その中で俺もお前も、自分がやりたいことを選べる範囲で必死に選んで、ここまで来ているわけだ。アルドさんもよく言うけどな、どんな立場の人間だって、思い通りにできないことはいくらでもある。俺が絶対にモルズを裏切らないなんて保証は、神様でもない俺にはできん。身も蓋もないがそれが事実だ」
 ひとつひとつを確かめるように、僕に言い聞かせるようにパウルははっきりと語る。
 そんな前置きは、言われてみれば当たり前かもしれない。思い通りにできないことはいくらでもある。トレンティアの血筋を持つ僕達には余計に。
「だからたった一つだけでも間違いのないことを言えるのは、自分の気持ちだけだ。俺がここで戦っている理由は……、お前を守るためだよ、ヨハン。それ以外の何でもない」
 そう言い切った声は、少しだけ切なげな感情が混ざっているように感じた。僕はやっぱり眉を寄せてそれを睨むことしかできない。すぐにパウルは首を振りながら頭を押さえた。
「あー、分かってるぜ、お前の気持ちはなんとなくな。俺だって今更親だと思って敬えとか言うつもりは毛頭ないし、なんなら今まで放ったらかしてきたことを恨まれて刺されたりしても仕方ないと思ってる。お前にとって親なんてものは育ててくれたアルドさん以外にいない。それでいいんだ。俺のことなんか憎いトレンティア人の手先だと侮蔑してくれたって構わん」
 饒舌なまでに自虐っぽく言うパウルに、僕はかえって気圧されるような思いすらして、やや身を引いた。
「いや、そこまでは……」
 思わずそんな否定の言葉を言ったが、しかしパウルは止まらなかった。
「親の気持ちなんか理解しなくていい。こんなことお前に言ったって仕方がないことは俺だって分かってる。だけどまあ言えないまま死んで後悔するなんて嫌だからな、言っておくぜ。お前がどう思っていようと、俺にとってはお前が世界中の何よりも大事な子どもであることに変わりはない」
 ゆったりと目を細めて、パウルは椅子から立ち上がって僕の方へ歩み寄ってきた。ベッドのすぐ前に立って真正面から僕を見つめてくる……、やっぱりおかしい、僕の知ってるパウルじゃない。その言葉の内容以上にその態度には恐怖すら覚えて、僕はぴしと体を強張らせた。
 しかし彼が穏やかな微笑を浮かべながらベッドの横へと移動し、その手が僕の、ジュリには握られていない方の片手を丁寧に取る、それを拒むこともできなかった。
「正直この先どうなるかは分からない。そういう意味じゃ“行動で示せ”なんて言われても約束はできない。何の証拠も証明もない。……信じてくれなくたって構わない。だけどヨハン・アルティーヴァ」
 そう僕を呼びかけながら、手に取った僕の片手をぐっとその額へと押し当てた。その仕草が何を意味するのかは分からないが……。
「私はあなたを愛している」
 はっきりと言ったその言葉は、ぞわりとした変な感覚と共に背中を駆け抜けていった。思わず額に嫌な汗が浮かぶのさえ感じた。
 すぐにパウルは僕の手を離し、身を翻して元いた椅子へと大股で歩いた。僕は凍りついたように動けないでいた。
 椅子に乱暴な仕草で座り直すと、足を組んだままパウルは無表情な顔を向けてきた。
「俺の目的は一つ、愛する息子が少しでも幸福に生きられる未来を作ることだ。お前が望むのなら、トレンティアに帰って平和な生活を送らせてやってもいい。だがお前の望みはそうじゃないだろう。このズミの大地で生きていくことを……お前もそうだし、きっとミョーネもそう望んでいた。だから……この戦争には勝たなきゃいけない」
 その決意はきっと重たいのだろう。しかし他でもない自分のことをそうも真っ直ぐに言われると、戸惑いのようなものの方が大きくて、どうにもしっくりとは来ない。
「もしもこの先どうにもならなくて、俺がお前から離れるようなことがあっても……、その目的だけは変わらないと思っていてほしい。ま、それも証拠も証明もない……ただ信じてくれという言葉しかないわけだが」
 そう言ってパウルはふと語調を軽くした。その表情にも自虐っぽい笑みが浮かぶ。僕は当然ベッドの上で、まだ凍りついたまま動けないでいた。
 沈黙が流れる中、パウルはやがてぷいと僕から顔を逸らして机の上に視線を落とす。そこにはアルドやジュリが読んでいたのだろうか、本が雑多にいくつか積まれている。
 なぜここで戦うのかと、自分で聞いておいて、返ってきた答えのあまりにもの重さに僕はすっかり圧倒されていた。
 それに麻痺してしまったように、胸を蝕んでいた痛みはいつの間にか消えてなくなっていたが……、彼の言葉を上手く飲み込むことすら今はできない。
 ただ縋るようにジュリの手の温もりを握り返す。ちらりと視線もそちらにやると、ジュリは何故か穏やかに微笑んでいた。パウルが見ている目の前で彼女と手を握り合っている、そのことに恥ずかしさを覚える余裕すら僕にはなかった。
 そんな重苦しいような冷めきったような、しかし一概にそうとも言えないような……、変な雰囲気の沈黙はしばらく続いた。
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