結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。

山田 バルス

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第16話 エマ、皇女ペネロペの再来店

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 エマ。皇女ペネロペの再来店
 

 王城の裏門を抜けた瞬間、馬車の扉が重く閉じられた。

 外界のざわめきが遮断され、車内には、蹄の音と車輪の軋む低い響きだけが残る。

 沈黙。

 それは、あまりにも張りつめた沈黙だった。

 ペネロペ=スペイラは、背筋を伸ばしたまま、微動だにせず座っていた。
 淡い色のドレスに、乱れはない。
 髪も、扇子も、舞踏会場を去ったときのままだ。

 まるで――まだ、あの場に立っているかのように。

「…………」

 拳が、ゆっくりと握りしめられる。

 白い手袋の下で、爪が掌に食い込んだ。

「……フェリップ様は最悪ですわ」

 声は低く、静かだった。

 感情を押し殺した、皇女の声。

「……この国にもう、いたくありません、ですわ」

 向かいに座る紫髪に茶の瞳の22歳の侍女メアリーが、そっと視線を上げる。

「ペネロペ様……」

「妹を守るためって、浮気しておいてありえないのですわ」

 ふっと、息を吐く。

「浮気相手を連れてきて、婚約者を断罪する。
 あれが“守る”ということなのかしら?」

 言葉の端が、わずかに震えた。

「……わたくし、何か、間違ったことを言いました、ですわ?」

 問いかけるような声音だった。

 だが、それは答えを求めるものではない。

「宝石の価値を語ることは、社交の場では当然のこと。
 事実を述べただけですわ」

 視線が、宙を彷徨っていた。

「それとも……皇女であるわたくしが、
 王女殿下より上等な宝石を身につけていたこと自体が、罪とでもいうの。ですわ?」

「……」

 メアリーは、何も言わなかった。

 言えなかった。

 ペネロペの声は、怒りよりも先に――屈辱を孕んでいたからだ。

「帝国の皇女として、
 王国との関係を考え、言葉を選び、笑顔を作って……ですわ」

 小さく、笑った。

 それは、舞踏会で見せたものとはまるで違う、乾いた笑みだった。

「その結果が、あれですわ」

 沈黙が落ちた。

 馬車が石畳を越え、わずかに揺れた。

 その揺れに合わせて、ペネロペの肩が、ほんの一瞬だけ上下した。

「……最低ですわ」

 ぽつりと、落ちた言葉。

 皇女としてではない、少女の本音。

「浮気をしておいて、正義の顔をして……
 公衆の面前で、婚約破棄ですって、バカげているですわ」

 声が、少しだけ高くなった。

「外交が、どれほどのものかも理解せず……
 帝国を、わたくしを……何だと思っているのですわ」

 そこで、言葉が止まった。

 喉の奥で、何かが詰まる。

 ペネロペは、一度、大きく息を吸った。

 吸って、吐いて。

 自分を保とうとするように。

「……泣くわけには、いきません、ですわ」

 静かな告白。

「あの場で泣いたら、
 “帝国の皇女は弱い”と謗られ、プライドを失うところでしたわ」

 指先が、膝の上で小さく震える。

「ですから……笑いましたの、ですわ」

 視線を伏せたまま、続ける。

「扇子で口元を隠して。
 余裕のあるふりをして……ですわ」

 沈黙。

 やがて、メアリーが、静かに口を開いた。

「……ぺネロペ様は、十分に立派でございました」

 その言葉に、ペネロペは何も返さなかった。

 ただ、しばらくして――

「……そう、わたくし立派、ですわ」

 かすれた声。

「それは……“皇女として”ですわ」

 問いではない。

 確認でもない。

 事実を噛みしめるための、独り言。

 馬車の窓に映る自分の顔を、ペネロペは見つめた。

 銀色の髪に整った顔立ち。
 誇り高い皇女の表情。

 だが、その奥で。

「……わたくしは」

 小さく、息を吐く。

「……婚約に憧れをみていたの、ですわ」

 その瞬間。

 ぽたり、と

 膝の上に、一粒の雫が落ちた。

 それが涙だと気づいたとき、ペネロペは慌てて手で拭った。

「……失礼ですわ」

 そう言って、顔を背ける。

 声は、もう震えていなかった。

 だが――それ以上、言葉は続かなかった。

 馬車は、静かに走り続ける。

 ◇

 数日後、馬車は関所を越え、スペイラ帝国領に入った。
 それからサンジャンの町に入り、商業通りへと向かう。

 やがて、その歩みをゆっくりと緩めていった。
 そして、目的地で――静かに停止した。
 
 赤レンガの外壁のお店。
 フランセ王国に行くときに立ち寄った店だ。

「ペネロペ様、エマ様のお店でございますわ」

 メアリーが優しく言葉を掛けた。

「帝都へ戻る前に、少しお立ち寄りになるとよろしいかと」

 ペネロペは一瞬、迷うように唇を噛んだが――

「……入りたいですわ」

 小さく、そう言った。

 ペネロペは、深く息を吸い、背筋を伸ばした。

 再び、仮面をかぶる準備をするように。

「……行くですわ」

 その声は、もう皇女のものだった。

 だが、その胸の奥で。

 たった一人の少女が、静かに震えていることを――
 まだ、誰も知らない。

 ◇ 

 店の中は、静かだった。

 客はすでに引き上げ、灯りだけが残されている。

 カウンターの向こうから、エマが顔を上げた。

「……皇女殿下?」

 一瞬の驚き。
 だが、すぐにそれは消えた。

 代わりに浮かんだのは、戸惑いと――心配。

「どうかなさいましたか」

 その問いかけが、あまりにも普通で。

 過剰な敬意も、遠慮もない。

 ペネロペの喉が、きゅっと鳴った。

「少し……お時間を、いただけますかしら」

 かろうじて、笑みを作る。

「もちろんです」

 エマはすぐにうなずいた。

「今日はこのまま閉店にします」

 そう告げると、周囲に指示を出し、静かに店を閉めていく。

 その一連の動作を、ペネロペはぼんやりと見つめていた。

 ――誰も、理由を聞かない。

 ――皇女だからの対応なのだろう。

 その事実が、胸に重く落ちる。

「こちらへどうぞ」

 応接室に通され、椅子を勧められる。

 ペネロペとメアリーは、ゆっくりと腰を下ろした。

 部屋の出入り口でロドリゲスが立って様子を見守っている。

 ペネロペの足が、少しだけ震えていた。

 それを、エマは見逃さなかった。

「……お茶を」

 そう言って席を外そうとした、そのとき。

「――待ってですわ」

 ペネロペの声が、思ったよりも強く響いた。

 自分でも驚き、すぐに口を押さえる。

「……すみません。
 行かないでほしくて……ですわ」

 沈黙。

 エマは、何も言わず、再び向かいの席に座った。


「……わたくし」

 ペネロペは、膝の上で手を組んだ。

「先日……婚約を、破棄されましたのですわ」

 事実を、口に出した瞬間。

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

「それも……舞踏会中に公衆の面前でですわ」

 声が、少しずつ揺れる。

「相手は、帝国の皇女ですのよ。
 外交の重みも、責任も……すべて、承知しているはずの方が……ですわ」

 言葉が、続かない。

 息が、浅くなる。

「こんな話……笑えますかしら」

 自嘲気味に、唇を歪める。

「扇子で口元を隠して、余裕のあるふりをして……
 “光栄ですわ”なんて言い返した、ですわ」

 そこで、ついに。

 声が、途切れた。

「……本当は」

 ぽろり、と涙が落ちる。

「……恥ずかしくて、悔しくて……ですわ」

 二粒、三粒。

 止まらない。

「どうして……わたくしが、こんな目に……」

 肩が、震え始める。

 呼吸が、乱れる。

「わたくし……皇女として、ちゃんとしてきたつもりでしたのに……!」

 声が、裏返った。

「間違ったことなんて……していないのに……!」

 涙が、頬を伝い、とめどなく落ちる。

 扇子も、誇りも、仮面も。

 すべてが、床に崩れ落ちた。

 エマは、黙って立ち上がった。

 そして、ペネロペの前に立つ。

「……皇女様、失礼します」

 そう言って。

 そっと、その身体を抱きしめた。

 強くはない。
 だが、逃がさない腕。

「……お辛かったでしょう」

 低く、温かな声。

「まだ……こんなにお若いのに」

 その一言で。

 ペネロペの中の、最後の堤防が決壊した。

「――ひどいですわ……!」

 嗚咽が、部屋に響く。

「フェリップ様……ひどい……っ!」

 子どものように、泣きじゃくる。

 エマの胸元に顔を埋め、すがりつく。

「婚約破棄なんて……それに……浮気男だったなんて……最低……!」

 言葉は、もはや整っていない。

 ただ、感情が溢れ出るだけ。

 エマは、何も言わず、ただ抱きしめ続けた。

 背中を撫で、髪を撫で。

 泣き声が、次第に小さくなるまで。

 ペネロペは、その腕の中で。

 初めて、皇女ではなく――
 ただの、傷ついた少女として、泣いた。
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