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「……構造は、デュラエースのハブとそう変わりませんね」
持ち込まれたのは、潮風にやられて赤錆が浮いた、漁船の小さな巻き上げ機だ。普通なら鉄ハンマーで叩いて直すような無骨な機械を、俺はピンセットと極細のブラシを使って、ロードバイクの精密部品を扱うように丁寧に分解していく。
「なんだか分からねえが、兄ちゃんの手にかかると機械が喜んでるみてえだ。今度、船のエンジンが壊れたら頼もうかな」
漁師の言葉に苦笑する。
「買い被りすぎですよ。それにエンジンは領分じゃないです」
こびりついた古い油を拭き取り、最高級のセラミックグリスを薄く塗り込むと、ゴリゴリと不快な音を立てていたギアは、嘘のように滑らかに回り始めた。カチ、カチ、と小気味よいラチェット音が響く。その音は、かつて自分が踏み込んだペダルの音に少しだけ似ていて、胸の奥がチクリと痛んだ。
꧁────────────꧂
潮の匂いが染み付いた作業着の背中を伸ばすと、錆びついたシャッターの向こうから野太い声が飛んできた。
「おい、兄ちゃん! これやるから持ってけ!」
振り返ると、日焼けした顔に深い皺を刻んだ漁師の源さんが、トロ箱から無造作に掴み出したものを放り投げてくる。慌てて受け止めれば、まだビチビチと跳ねる立派なアジだった。
「こんなに……いいんですか?」
「今日の網は調子が良かったんだ。それに、お前また痩せたんじゃねえか? ちゃんと食わねえと、いい仕事できねえぞ」
修理を頼まれていた子供の自転車は、とっくに直したはずだ。それなのにこうして頻繁に差し入れがあるのは、よそ者の自分に対する彼らなりの監視なのか、あるいは単なる親切心なのか。それはわからない方が都合がいいかもしれない。
「ありがとうございます。……刺し身にします」
「おう、そうしろ! 兄ちゃんの指は細いから、魚捌くのも器用だもんなあ!あ、家内に手を出すなよ」
豪快に笑って去っていく背中を見送る。かつてハンドルを握り、コンマ一秒を削り出していたこの指先は今、毎晩のように魚の骨を抜くに、ひっそりと使われている。
道の駅に併設された直売所へ行くと、いつもレジが長引いてしまう。キャッシュレスよりも現金払いの方が多くて、待たされることも多々ある。
「あらあ、今日の兄ちゃんも肌が白いねえ。ちゃんと日焼け止め塗ってんのかい?」 「あ、いえ……帽子かぶってるので」
カゴに入れた泥付きのネギと大根を差し出すと、レジのおばちゃんたちは目配せをして、勝手にカゴへトマトやキュウリを放り込み始めた。
「ほら、これも持っていきな! 曲がってるから売り物にならないけど、味はいいんだよ」
「そんな、悪いですよ」
「いいのいいの! こんな何もない村に、あんたみたいな綺麗な男がいるだけで目の保養なんだからさあ」
きゃらきゃらと少女のように笑う彼女たちに囲まれて、俺は曖昧に微笑むことしかできない。
「おにぎりはおまけね」
ウインクをする彼女に低頭する。
現役時代、ファンサービスで笑顔を作るのは得意だったはずなのに、ここではどうも調子が狂う。ただ静かに暮らしたいだけなのに、どうしても「浮いて」しまう自分を、もて余すような感覚。 ずしりと重くなったレジ袋は、今の自分には分不相応な「優しさ」の重さそのものだった。
海沿いのガードレールに腰掛け、もらったおにぎりを頬張る。塩気の強いその味は、かつてレース中に補給食として詰め込んだジェルよりも、ずっと人間らしい味がした。 ふと、国道をロードバイクの一団が走り抜けていく音がする。
シャーッ、という乾いたラチェット音。反射的に顔を上げ、彼らのペダリングを目で追ってしまう。 (……サドルが高すぎる。あれじゃ膝を壊す) 口出ししそうになる自分を強引に抑え込み、視線を海へと戻す。今の自分は、ただの「自転車屋の兄ちゃん」だ。それ以上でも以下でもない。 そう言い聞かせても、太ももの筋肉がわずかに強張るのを止められなかった。
꧁────────────꧂
店に戻ると、西日が差し込む作業場はひっそりと静まり返っていた。油とゴムの匂いが混じった空気。ここが俺の今の城だ。作業台の隅に置かれた、ブラウン管の小さなテレビをつける。今日は、欧州で開催されているグランツールの山岳ステージだ。本来なら、俺もあそこで走っているはずだった。
砂嵐混じりの画面の向こうで、実況のアナウンサーが絶叫している。 『——先頭、轟! 凄まじいアタックです! 誰もついていけない!』
映し出されたのは、チームジャージを纏ったかつての相棒——エースの姿だった。 鬼のような形相でペダルを踏み抜いている。誰のアシストも借りず、ただ一人で、怒りを叩きつけるようなダンシング。 (……あんなに荒い走り方をして)俺がそばにいれば、もっと楽に登らせてやれるのに。ペースを管理して、風よけになって、最後のゴール前まで足を温存させてやれるのに。けれど、彼は勝つだろう。俺がいなくても。いや、俺というスキャンダルの種を排除したからこそ、彼はあんなにも高く羽ばたけるのだ。
『ゴール!青いゼッケンの轟晶馬、圧倒的な勝利です! しかしいつも通り笑顔はありません!』
拳を突き上げることもなく、ただ淡々とゴールラインを切る姿を見て、胸が痛くなる。俺は静かにテレビの電源を切った。 ブツン、という音と共に、熱狂が消える。
「…おめでとう」 誰にも届かない独り言が、埃っぽい床に落ちた。
「——ごめんくださーい!」
感傷を破るように、元気な声が響いた。入り口を見ると、近所の少年が、チェーンの外れたマウンテンバイクを引きずって立っている。
「那智おにぃちゃん、また外れちゃった!」
「タカシ君か。変速するときにペダルを逆回転させちゃ駄目だって言っただろ?」
俺は苦笑して、いつものようにしゃがみ込む。手慣れた手つきでリアディレイラーを押し込み、チェーンをギアに噛ませる。テレビの中の彼を支えることはもう二度とないが、この小さな自転車を直すことならできる。今の俺には、これがお似合いなのだ。
「ほら、直ったぞ。もう暗いから気をつけて帰れよ」 「うん、ありがとう! ……あれ?」 サドルに跨ろうとした少年が、入り口の方を見て首を傾げた。 「那智おにいちゃん、お客さん?」 「え?」
西日を背にして、作業場の入り口に誰かが立っていた。 逆光で表情は見えない。
一瞬、彼かと思った。
「こちらの島に越してきた徳間那月です。義手装具師をしています」
「……義肢、装具師?」
心臓の早鐘を無理やり落ち着かせながら、俺は繰り返した。 まじまじと相手を見る。逆光に目が慣れてくると、そこに立っていたのは、泥と汗にまみれたロードレーサーではなく、清潔なシャツを着た穏やかそうな青年だった。轟のような威圧感はない。むしろ、理知的で少し線の細い、研究者のような雰囲気を纏っている。
「ああ、あんまり聞き慣れない職業ですよね。失った手足の代わりとなる人工の手足を作り、麻痺した足や、骨折した部位をサポートするコルセットやサポーターを作ることが主な仕事です。この近くに工房を構えることになりまして。ご挨拶に」 「あ、ああ……どうも。丁寧にご苦労さまです」
俺は慌てて油で汚れた手をツナギで拭った。勘違いだった。彼がここに来るはずなんてないのだ。勝手に幻影を見て、勝手に怯えていただけだ。安堵と一緒に、どっと冷や汗が吹き出る。
「ここ、自転車屋さんなんですね」 「ええ、まあ。修理がメインですけど」
徳間と名乗った男は、興味深そうに作業場を見回し、そして俺の方へと視線を戻した。その目が、一瞬だけ鋭く細められた気がした。彼は俺の顔ではなく、足元——ツナギの上からでも分かる、太腿のあたりを見ていたからだ。
「綺麗な立ち方をされますね」
「え?」
「重心がブレない。それに、歩き方に無駄がない。……まるでアスリートだ」
ドキリ、とした。田舎の漁師やおばちゃんたちは「兄ちゃん、力が強えな」くらいにしか言わない。けれど、この男の視線は違う。「人間の身体」を見るプロの目だ。
「……昔、少しスポーツをやっていただけですよ。今はただの修理屋です」 「そうですか? 機械を扱う手つきも、随分と繊細だと思って見ていました」
彼はは人懐っこい笑顔に戻ると、「これからお世話になります」とタオルを差し出した。 「仕事柄、特殊な金具の加工をお願いすることがあるかもしれません。その時は相談に乗ってもらえますか?」 「……ええ、俺にできることなら」
断る理由もなかった。徳間は「よかった」と微笑み、連絡先を交換すると、夕暮れの港の方へと歩き去っていった。後に残されたのは、彼が持ってきた真新しいタオルの白さと、俺の胸に残る奇妙なざわつきだけだった。
(…変な人だ)
だが、悪い人間ではなさそうだ。俺は大きく息を吐き出し、店のシャッターに手をかける。今日はもう店仕舞いにしよう。テレビも、過去も、全部シャッターの向こうに閉じ込めて。
꧁────────────꧂
徳間さんの特許取得のニュースが島を駆け巡ったのは、再会から三ヶ月後のことだった。
「那智さんのおかげです。あのチタンパーツの面取り、あなたのアドバイスがなければ強度が足りなかった」
そう言って徳間さんは、いつものように控えめに、けれど確かな熱量を持って感謝を伝えてきた。彼のような誠実な人間を助けるのは、那智にとっても悪い気はしなかった。
だが、その後の展開は、那智の予想を超えていた。
「——那智さん、明日はお店を開けますか? テレビの取材が来るんです。特許の件で」
徳間さんの言葉に、那智の背筋に冷たいものが走った。 「……俺は、映りたくありません」
「わかっています。君のプライバシーは守る。ただ、工房が狭いので、加工の一部を見せるのに君の作業場を貸してほしいんだ。君は奥に隠れていていい」
断りきれなかった。当日、那智はキャップを深く被り、奥の居住スペースに身を潜めた。シャッターの外からは、洗練された都会の話し声と、大型機材を運ぶ音が聞こえてくる。
「那智さん、すみません。ここの旋盤(せんばん)の回し方、やっぱり君じゃないと……。手元だけでいいから、少しだけ手伝ってもらえませんか?」
困り果てた徳間の顔を見て、那智は折れた。 マスクをし、手首までツナギの袖を伸ばす。 カメラのレンズが向けられる。那智は視線を落とし、無心で金属を削った。 削り出される火花。油に濡れた指先。 ほんの数秒のことだ。顔も出していない。誰にも、俺だとは分からないはずだ。
——一週間後。 夜のニュース番組の特集コーナー。 『奇跡の義足——孤島の技術者が生んだ、世界を変える特許』
そのVTRの中で、ナレーションと共にそのカットは流れた。 『……その繊細な調整を支えるのは、島で出会った一人の職人です』 夕闇の作業場で、オレンジ色の火花に照らし出された、しなやかな指先。そして、袖口からわずかに覗いた、見覚えのある古いチタンの腕時計。
イタリアの遠征先。
時差で真夜中のホテルの一室で、轟晶馬はその画面を食い入るように見つめていた。 一時停止。拡大。 画面は乱れ、ノイズが走る。だが、轟の瞳には、その指に刻まれた小さなタコ、金属を扱う独特の癖、そして——二人で選んだあの時計が、鮮明に、残酷なほど美しく映っていた。
「……何が、職人だ」
轟は震える手でスマホを掴み、マネージャーに電話をかけた。その声は、地獄の底から響くような、狂気的な歓喜に満ちていた。
「今すぐ、日本行きのチケットを取れ。……逃げ出した飼い犬が、別の飼い主と楽しそうに機械いじりをしてやがる」
꧁────────────꧂
ガアンッ!!
閉まりかけたシャッターが、暴力的な音を立てて跳ね上がった。 薄暗い作業場に、強烈な西日が差し込む。その光を背負って、男が立っていた。
イタリア製の高級スーツ。
足元には、場違いな革靴。
だが、その男が放つ獣のようなプレッシャーは、ジャージ姿の時よりも遥かに恐ろしかった。
「……見つけたぞ」
轟晶馬は、肩で息をしながら、ギラついた瞳で俺を射抜いた。 一歩、また一歩。
土足のまま、彼は俺の「城」である作業場に踏み込んでくる。
「と、轟……どうして、ここが」 「黙ってろ。説明は後だ」
轟は俺の腕を乱暴に掴むと、まるで汚いものを見るように、周囲の機械たちを睨みつけた。 「なんだここは。鉄屑と安いオイルの臭いで吐き気がする。……帰るぞ。こんな掃き溜め、お前がいる場所じゃねえ」
その言葉に、カッとなった。 俺が半年かけて築き上げた生活。島の人たちとの交流。子供たちの笑顔。そして、徳間さんと作り上げた技術。その全てを、この男は「掃き溜め」と切り捨てた。
「……離せ」 「あ?」 「離せと言ってるんだ、轟!!」
俺は力任せに、その手を振り払った。驚いたように目を見開く轟。現役時代、俺が彼に逆らったことなど一度もなかったからだ。
「俺は帰らない。ここが今の俺の居場所だ」
「は……? 何言ってんだ。頭でも打ったか? お前の居場所は俺の後ろだろ。俺の勝利のために走る、それ以外に何の価値がある」
「もう走れないんだよ!」
俺は叫んだ。 「俺が戻れば、マスコミが騒ぐ。お前のキャリアに傷がつく。……頼むから、俺のことは忘れてくれ。俺はここで、静かに暮らしたいんだ」
「そんなもん、俺が揉み消してやる。金ならいくらでも——」 「金の問題じゃない! ……俺はもう、お前と一緒にいるのが苦しいんだよ!」
轟が言葉を詰まらせた、その時だった。
「——少し、声が大きいですよ」
今まで空気のように静かに控えていた徳間さんが、一歩前へ出た。彼は轟の前に立ちはだかると、穏やかな、しかし絶対零度の視線を向けた。
「ここは神聖な職場です。部外者が土足で踏み荒らすのは、やめていただけますか」 「……誰だ、てめえ」
轟が威嚇するように徳間を睨み下ろす。体格差はある。けれど、徳間は微動だにしなかった。彼は、俺の肩にそっと手を置いた。その手つきは、とても自然で、親密だった。
「私は徳間。義肢装具士であり——彼の、今のパートナーです」
ピシリ、と空間にヒビが入る音がした気がした。
パートナー。
その言葉の持つ意味を、轟が取り違えたのがわかった。
「……パートナー、だと?」 「ええ。この工房の技術も、これからの未来も、私と彼は二人で共有している。……貴方が提供できるのが『過去の栄光』だけなら、お引き取りください」
徳間さんの言葉は、正論であり、かつ最強の挑発だった。 轟の顔色が、怒りから蒼白へと変わっていく。 俺は、徳間さんの言葉を否定しなかった。否定してはいけなかった。それが、轟を諦めさせる唯一の方法だと信じて。
「……そういうことだ、轟」
俺は拳を握りしめ、震える声で、決定的な嘘を吐いた。
「俺にはもう、新しい人生がある。……お前なんか、いらない」
その瞬間。
轟の瞳から、傲慢な光が消え失せた。
꧁────────────꧂
「……嘘だ」
轟の口から、空気が抜けたような音が漏れた。
世界の頂点で、誰よりも傲慢に胸を張っていた男の膝が、ガク、と折れる。
ドサッ。
重く、鈍い音がコンクリートの床に響いた。
「嘘だと言えよ……那智ッ!」
轟は、俺のツナギの裾を両手で掴んだ。イタリア仕立ての高級スーツが油汚れで黒く染まるのも構わず、彼はなりふり構わず俺に縋り付いた。
「新しい人生だ? パートナーだ? ……ふざけるな。お前のペダリングは、呼吸は、全部俺のためにあったはずだろ。俺の背中だけを見てたはずだろ!」
「……過去の話だ」
「過去になんかさせるか! 俺は……ッ、俺はまだ、お前と走る景色しか見えてないんだよ!」
轟が顔を上げる。
その顔を見て、俺は息を止めた。
あの好戦的で、自信に満ち溢れていた瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていたからだ。
「金も、名誉も、全部くれてやる。マスコミがうるさいなら、誰も知らない国へ行こう。自転車なんか二度と乗らなくていい。ただ俺のそばにいてくれれば、それでいいんだ…」
子供のような嗚咽だった。俺の足首を握る指の力が強くなる。震える熱が、生地越しに伝わってくる。
(……やめろ、晶馬。そんな顔で、俺を見るな)
胸の奥が張り裂けそうだった。今すぐしゃがみ込んで、その頭を抱きしめてやりたい。「嘘だ」と言って、涙を拭ってやりたい。けれど、それをすれば全てが終わる。 彼には、まだ走る未来がある。俺という重りを捨てて、もっと高くへ羽ばたく翼があるのだ。
俺は、血の味がするほど唇を噛み締め、氷のように冷たい声を作った。
「……みっともないぞ、轟」 「な、ち……?」 「お前は王者だろ。たかがアシスト一人がいなくなったくらいで、ピーピー泣くな」
心にもない罵倒。それが精一杯の愛情だった。 俺は、足に絡みつく彼の指を、一本ずつ、無理やり引き剥がしていく。
「嫌だ……離すな……!」 「徳間さん」
俺は隣で見守っていた徳間さんに視線を向けた。助けを求めるように。徳間さんは一瞬だけ悲痛な顔をしたが、すぐに頷き、轟の肩を掴んで引き離してくれた。
「嫌だ、那智! 那智ィ!!」
獣のような咆哮が、作業場に響き渡る。引き剥がされた轟の手が、空を掴んだ。俺は彼から背を向け、逃げるように奥の居住スペースへと歩き出した。
(ごめん。……ごめんな、晶馬)
背中で聞く彼の泣き声が、かつて二人で登ったどんな激坂よりも、俺の足を重くさせた。扉を閉め、鍵をかける。 その瞬間、俺はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
季節外れの台風が近づいている夜だった。 店の奥、居住スペースの小さなテーブルで、那智は冷めたコーヒーを握りしめていた。 視線の先には、ミュート(消音)にされたテレビ画面。
世界最高峰のレース。最終ステージ。 画面の中、黄色いリーダージャージ(マイヨ・ジョーヌ)を着て表彰台の真ん中に立っているのは、間違いなく轟晶馬だった。 シャンパンファイトの飛沫が舞う。 チームメイトが歓喜の声を上げて抱き合っている。 その中心で、轟だけが——無表情だった。
(……勝ったんだ)
那智の乾いた唇から、息が漏れる。 俺がそばにいなくても。 俺がペースを作らなくても。 ボトルを渡さなくても。 彼は、世界で一番高い場所に立った。
『——お前のキャリアの邪魔になる』
あの日、置き手紙に残した言葉は、言い訳じゃなかった。真実だったのだ。 スキャンダルの種になる俺を切り離したことで、彼は重枷から解き放たれ、より速く、より高く羽ばたいた。
「……よかった」
胸の奥が千切れそうなのに、口をついて出たのは肯定の言葉だった。これでいい。これでよかったんだ。俺のしたことは間違いじゃなかった。俺のアシスト(献身)は、別れることで完成したんだ。
画面の中で、インタビューを受ける轟がアップになる。 インタビュアーが何かを聞き、彼が短く答える。何を言っているのかは聞こえない。聞きたくなかった。きっと、「チームのおかげです」とか「次はもっと勝ちます」とか、優等生なコメントをしているのだろう。
俺は震える指で、リモコンの電源ボタンを押した。 ブツン。栄光の光景が、漆黒の闇に吸い込まれて消える。
残ったのは、窓を叩く激しい雨音と、どうしようもない孤独だけ。
「……さよなら、晶馬」
もう二度と、会うことはない。会ってはいけない。 彼があそこにいる限り、俺はこの島の泥の中で、機械油にまみれて生きていく。それが、勝者に対する敗者(アシスト)の礼儀だ。
ズキリ、と古傷の膝が痛んだ。 俺は膝を抱え、灯りを消して闇に沈んだ。
——その時だった。
ドンッ!!
店のシャッターを、誰かが殴りつける音がした。風の音ではない。もっと意思のある、暴力的な衝撃音。
「……?」
心臓が跳ねる。
こんな台風の夜に、客が来るはずがない。まさか、徳間さんだろうか。
俺はおそるおそる立ち上がり、作業場へと向かう。 シャッターの向こうから、雨音に混じって、低く掠れた声が聞こえた気がした。
『……開けろ』
まさか。そんなはずはない。彼は今、テレビの向こうの、光の雨が降り注ぐ場所にいたはずだ。こんな、日本の最果ての、嵐の夜にいるはずがない。
ガラガラッ。
震える手でシャッターを持ち上げた瞬間。俺は、呼吸を忘れた。
そこにいたのは、テレビの中の「王者」ではなかった。 高級スーツはずぶ濡れで泥だらけ。整えられていた髪は張り付き、目の縁は赤く腫れ上がり、唇からは血が滲んでいる。ただの、ボロボロの男が立っていた。
「……優勝インタビュー、すっぽかして来た」
轟は、雨に打たれながら、泣き出しそうな顔で笑った。
「トロフィーなんかより……お前が大事だったんだよ、馬鹿野郎」
「……バカなのは、お前だろ」
那智は泣き笑いのような顔で、ずぶ濡れの相棒を力いっぱい家の中へと引き入れた。 激しい雨音に混じって、ガチャン、とシャッターが閉まる音が響く。
今度は、外から彼を奪われないように。 そして二度と、彼が逃げ出さないように。
世界で一番静かな漁村の夜が、二人を深く、優しく包み込んでいった。
持ち込まれたのは、潮風にやられて赤錆が浮いた、漁船の小さな巻き上げ機だ。普通なら鉄ハンマーで叩いて直すような無骨な機械を、俺はピンセットと極細のブラシを使って、ロードバイクの精密部品を扱うように丁寧に分解していく。
「なんだか分からねえが、兄ちゃんの手にかかると機械が喜んでるみてえだ。今度、船のエンジンが壊れたら頼もうかな」
漁師の言葉に苦笑する。
「買い被りすぎですよ。それにエンジンは領分じゃないです」
こびりついた古い油を拭き取り、最高級のセラミックグリスを薄く塗り込むと、ゴリゴリと不快な音を立てていたギアは、嘘のように滑らかに回り始めた。カチ、カチ、と小気味よいラチェット音が響く。その音は、かつて自分が踏み込んだペダルの音に少しだけ似ていて、胸の奥がチクリと痛んだ。
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潮の匂いが染み付いた作業着の背中を伸ばすと、錆びついたシャッターの向こうから野太い声が飛んできた。
「おい、兄ちゃん! これやるから持ってけ!」
振り返ると、日焼けした顔に深い皺を刻んだ漁師の源さんが、トロ箱から無造作に掴み出したものを放り投げてくる。慌てて受け止めれば、まだビチビチと跳ねる立派なアジだった。
「こんなに……いいんですか?」
「今日の網は調子が良かったんだ。それに、お前また痩せたんじゃねえか? ちゃんと食わねえと、いい仕事できねえぞ」
修理を頼まれていた子供の自転車は、とっくに直したはずだ。それなのにこうして頻繁に差し入れがあるのは、よそ者の自分に対する彼らなりの監視なのか、あるいは単なる親切心なのか。それはわからない方が都合がいいかもしれない。
「ありがとうございます。……刺し身にします」
「おう、そうしろ! 兄ちゃんの指は細いから、魚捌くのも器用だもんなあ!あ、家内に手を出すなよ」
豪快に笑って去っていく背中を見送る。かつてハンドルを握り、コンマ一秒を削り出していたこの指先は今、毎晩のように魚の骨を抜くに、ひっそりと使われている。
道の駅に併設された直売所へ行くと、いつもレジが長引いてしまう。キャッシュレスよりも現金払いの方が多くて、待たされることも多々ある。
「あらあ、今日の兄ちゃんも肌が白いねえ。ちゃんと日焼け止め塗ってんのかい?」 「あ、いえ……帽子かぶってるので」
カゴに入れた泥付きのネギと大根を差し出すと、レジのおばちゃんたちは目配せをして、勝手にカゴへトマトやキュウリを放り込み始めた。
「ほら、これも持っていきな! 曲がってるから売り物にならないけど、味はいいんだよ」
「そんな、悪いですよ」
「いいのいいの! こんな何もない村に、あんたみたいな綺麗な男がいるだけで目の保養なんだからさあ」
きゃらきゃらと少女のように笑う彼女たちに囲まれて、俺は曖昧に微笑むことしかできない。
「おにぎりはおまけね」
ウインクをする彼女に低頭する。
現役時代、ファンサービスで笑顔を作るのは得意だったはずなのに、ここではどうも調子が狂う。ただ静かに暮らしたいだけなのに、どうしても「浮いて」しまう自分を、もて余すような感覚。 ずしりと重くなったレジ袋は、今の自分には分不相応な「優しさ」の重さそのものだった。
海沿いのガードレールに腰掛け、もらったおにぎりを頬張る。塩気の強いその味は、かつてレース中に補給食として詰め込んだジェルよりも、ずっと人間らしい味がした。 ふと、国道をロードバイクの一団が走り抜けていく音がする。
シャーッ、という乾いたラチェット音。反射的に顔を上げ、彼らのペダリングを目で追ってしまう。 (……サドルが高すぎる。あれじゃ膝を壊す) 口出ししそうになる自分を強引に抑え込み、視線を海へと戻す。今の自分は、ただの「自転車屋の兄ちゃん」だ。それ以上でも以下でもない。 そう言い聞かせても、太ももの筋肉がわずかに強張るのを止められなかった。
꧁────────────꧂
店に戻ると、西日が差し込む作業場はひっそりと静まり返っていた。油とゴムの匂いが混じった空気。ここが俺の今の城だ。作業台の隅に置かれた、ブラウン管の小さなテレビをつける。今日は、欧州で開催されているグランツールの山岳ステージだ。本来なら、俺もあそこで走っているはずだった。
砂嵐混じりの画面の向こうで、実況のアナウンサーが絶叫している。 『——先頭、轟! 凄まじいアタックです! 誰もついていけない!』
映し出されたのは、チームジャージを纏ったかつての相棒——エースの姿だった。 鬼のような形相でペダルを踏み抜いている。誰のアシストも借りず、ただ一人で、怒りを叩きつけるようなダンシング。 (……あんなに荒い走り方をして)俺がそばにいれば、もっと楽に登らせてやれるのに。ペースを管理して、風よけになって、最後のゴール前まで足を温存させてやれるのに。けれど、彼は勝つだろう。俺がいなくても。いや、俺というスキャンダルの種を排除したからこそ、彼はあんなにも高く羽ばたけるのだ。
『ゴール!青いゼッケンの轟晶馬、圧倒的な勝利です! しかしいつも通り笑顔はありません!』
拳を突き上げることもなく、ただ淡々とゴールラインを切る姿を見て、胸が痛くなる。俺は静かにテレビの電源を切った。 ブツン、という音と共に、熱狂が消える。
「…おめでとう」 誰にも届かない独り言が、埃っぽい床に落ちた。
「——ごめんくださーい!」
感傷を破るように、元気な声が響いた。入り口を見ると、近所の少年が、チェーンの外れたマウンテンバイクを引きずって立っている。
「那智おにぃちゃん、また外れちゃった!」
「タカシ君か。変速するときにペダルを逆回転させちゃ駄目だって言っただろ?」
俺は苦笑して、いつものようにしゃがみ込む。手慣れた手つきでリアディレイラーを押し込み、チェーンをギアに噛ませる。テレビの中の彼を支えることはもう二度とないが、この小さな自転車を直すことならできる。今の俺には、これがお似合いなのだ。
「ほら、直ったぞ。もう暗いから気をつけて帰れよ」 「うん、ありがとう! ……あれ?」 サドルに跨ろうとした少年が、入り口の方を見て首を傾げた。 「那智おにいちゃん、お客さん?」 「え?」
西日を背にして、作業場の入り口に誰かが立っていた。 逆光で表情は見えない。
一瞬、彼かと思った。
「こちらの島に越してきた徳間那月です。義手装具師をしています」
「……義肢、装具師?」
心臓の早鐘を無理やり落ち着かせながら、俺は繰り返した。 まじまじと相手を見る。逆光に目が慣れてくると、そこに立っていたのは、泥と汗にまみれたロードレーサーではなく、清潔なシャツを着た穏やかそうな青年だった。轟のような威圧感はない。むしろ、理知的で少し線の細い、研究者のような雰囲気を纏っている。
「ああ、あんまり聞き慣れない職業ですよね。失った手足の代わりとなる人工の手足を作り、麻痺した足や、骨折した部位をサポートするコルセットやサポーターを作ることが主な仕事です。この近くに工房を構えることになりまして。ご挨拶に」 「あ、ああ……どうも。丁寧にご苦労さまです」
俺は慌てて油で汚れた手をツナギで拭った。勘違いだった。彼がここに来るはずなんてないのだ。勝手に幻影を見て、勝手に怯えていただけだ。安堵と一緒に、どっと冷や汗が吹き出る。
「ここ、自転車屋さんなんですね」 「ええ、まあ。修理がメインですけど」
徳間と名乗った男は、興味深そうに作業場を見回し、そして俺の方へと視線を戻した。その目が、一瞬だけ鋭く細められた気がした。彼は俺の顔ではなく、足元——ツナギの上からでも分かる、太腿のあたりを見ていたからだ。
「綺麗な立ち方をされますね」
「え?」
「重心がブレない。それに、歩き方に無駄がない。……まるでアスリートだ」
ドキリ、とした。田舎の漁師やおばちゃんたちは「兄ちゃん、力が強えな」くらいにしか言わない。けれど、この男の視線は違う。「人間の身体」を見るプロの目だ。
「……昔、少しスポーツをやっていただけですよ。今はただの修理屋です」 「そうですか? 機械を扱う手つきも、随分と繊細だと思って見ていました」
彼はは人懐っこい笑顔に戻ると、「これからお世話になります」とタオルを差し出した。 「仕事柄、特殊な金具の加工をお願いすることがあるかもしれません。その時は相談に乗ってもらえますか?」 「……ええ、俺にできることなら」
断る理由もなかった。徳間は「よかった」と微笑み、連絡先を交換すると、夕暮れの港の方へと歩き去っていった。後に残されたのは、彼が持ってきた真新しいタオルの白さと、俺の胸に残る奇妙なざわつきだけだった。
(…変な人だ)
だが、悪い人間ではなさそうだ。俺は大きく息を吐き出し、店のシャッターに手をかける。今日はもう店仕舞いにしよう。テレビも、過去も、全部シャッターの向こうに閉じ込めて。
꧁────────────꧂
徳間さんの特許取得のニュースが島を駆け巡ったのは、再会から三ヶ月後のことだった。
「那智さんのおかげです。あのチタンパーツの面取り、あなたのアドバイスがなければ強度が足りなかった」
そう言って徳間さんは、いつものように控えめに、けれど確かな熱量を持って感謝を伝えてきた。彼のような誠実な人間を助けるのは、那智にとっても悪い気はしなかった。
だが、その後の展開は、那智の予想を超えていた。
「——那智さん、明日はお店を開けますか? テレビの取材が来るんです。特許の件で」
徳間さんの言葉に、那智の背筋に冷たいものが走った。 「……俺は、映りたくありません」
「わかっています。君のプライバシーは守る。ただ、工房が狭いので、加工の一部を見せるのに君の作業場を貸してほしいんだ。君は奥に隠れていていい」
断りきれなかった。当日、那智はキャップを深く被り、奥の居住スペースに身を潜めた。シャッターの外からは、洗練された都会の話し声と、大型機材を運ぶ音が聞こえてくる。
「那智さん、すみません。ここの旋盤(せんばん)の回し方、やっぱり君じゃないと……。手元だけでいいから、少しだけ手伝ってもらえませんか?」
困り果てた徳間の顔を見て、那智は折れた。 マスクをし、手首までツナギの袖を伸ばす。 カメラのレンズが向けられる。那智は視線を落とし、無心で金属を削った。 削り出される火花。油に濡れた指先。 ほんの数秒のことだ。顔も出していない。誰にも、俺だとは分からないはずだ。
——一週間後。 夜のニュース番組の特集コーナー。 『奇跡の義足——孤島の技術者が生んだ、世界を変える特許』
そのVTRの中で、ナレーションと共にそのカットは流れた。 『……その繊細な調整を支えるのは、島で出会った一人の職人です』 夕闇の作業場で、オレンジ色の火花に照らし出された、しなやかな指先。そして、袖口からわずかに覗いた、見覚えのある古いチタンの腕時計。
イタリアの遠征先。
時差で真夜中のホテルの一室で、轟晶馬はその画面を食い入るように見つめていた。 一時停止。拡大。 画面は乱れ、ノイズが走る。だが、轟の瞳には、その指に刻まれた小さなタコ、金属を扱う独特の癖、そして——二人で選んだあの時計が、鮮明に、残酷なほど美しく映っていた。
「……何が、職人だ」
轟は震える手でスマホを掴み、マネージャーに電話をかけた。その声は、地獄の底から響くような、狂気的な歓喜に満ちていた。
「今すぐ、日本行きのチケットを取れ。……逃げ出した飼い犬が、別の飼い主と楽しそうに機械いじりをしてやがる」
꧁────────────꧂
ガアンッ!!
閉まりかけたシャッターが、暴力的な音を立てて跳ね上がった。 薄暗い作業場に、強烈な西日が差し込む。その光を背負って、男が立っていた。
イタリア製の高級スーツ。
足元には、場違いな革靴。
だが、その男が放つ獣のようなプレッシャーは、ジャージ姿の時よりも遥かに恐ろしかった。
「……見つけたぞ」
轟晶馬は、肩で息をしながら、ギラついた瞳で俺を射抜いた。 一歩、また一歩。
土足のまま、彼は俺の「城」である作業場に踏み込んでくる。
「と、轟……どうして、ここが」 「黙ってろ。説明は後だ」
轟は俺の腕を乱暴に掴むと、まるで汚いものを見るように、周囲の機械たちを睨みつけた。 「なんだここは。鉄屑と安いオイルの臭いで吐き気がする。……帰るぞ。こんな掃き溜め、お前がいる場所じゃねえ」
その言葉に、カッとなった。 俺が半年かけて築き上げた生活。島の人たちとの交流。子供たちの笑顔。そして、徳間さんと作り上げた技術。その全てを、この男は「掃き溜め」と切り捨てた。
「……離せ」 「あ?」 「離せと言ってるんだ、轟!!」
俺は力任せに、その手を振り払った。驚いたように目を見開く轟。現役時代、俺が彼に逆らったことなど一度もなかったからだ。
「俺は帰らない。ここが今の俺の居場所だ」
「は……? 何言ってんだ。頭でも打ったか? お前の居場所は俺の後ろだろ。俺の勝利のために走る、それ以外に何の価値がある」
「もう走れないんだよ!」
俺は叫んだ。 「俺が戻れば、マスコミが騒ぐ。お前のキャリアに傷がつく。……頼むから、俺のことは忘れてくれ。俺はここで、静かに暮らしたいんだ」
「そんなもん、俺が揉み消してやる。金ならいくらでも——」 「金の問題じゃない! ……俺はもう、お前と一緒にいるのが苦しいんだよ!」
轟が言葉を詰まらせた、その時だった。
「——少し、声が大きいですよ」
今まで空気のように静かに控えていた徳間さんが、一歩前へ出た。彼は轟の前に立ちはだかると、穏やかな、しかし絶対零度の視線を向けた。
「ここは神聖な職場です。部外者が土足で踏み荒らすのは、やめていただけますか」 「……誰だ、てめえ」
轟が威嚇するように徳間を睨み下ろす。体格差はある。けれど、徳間は微動だにしなかった。彼は、俺の肩にそっと手を置いた。その手つきは、とても自然で、親密だった。
「私は徳間。義肢装具士であり——彼の、今のパートナーです」
ピシリ、と空間にヒビが入る音がした気がした。
パートナー。
その言葉の持つ意味を、轟が取り違えたのがわかった。
「……パートナー、だと?」 「ええ。この工房の技術も、これからの未来も、私と彼は二人で共有している。……貴方が提供できるのが『過去の栄光』だけなら、お引き取りください」
徳間さんの言葉は、正論であり、かつ最強の挑発だった。 轟の顔色が、怒りから蒼白へと変わっていく。 俺は、徳間さんの言葉を否定しなかった。否定してはいけなかった。それが、轟を諦めさせる唯一の方法だと信じて。
「……そういうことだ、轟」
俺は拳を握りしめ、震える声で、決定的な嘘を吐いた。
「俺にはもう、新しい人生がある。……お前なんか、いらない」
その瞬間。
轟の瞳から、傲慢な光が消え失せた。
꧁────────────꧂
「……嘘だ」
轟の口から、空気が抜けたような音が漏れた。
世界の頂点で、誰よりも傲慢に胸を張っていた男の膝が、ガク、と折れる。
ドサッ。
重く、鈍い音がコンクリートの床に響いた。
「嘘だと言えよ……那智ッ!」
轟は、俺のツナギの裾を両手で掴んだ。イタリア仕立ての高級スーツが油汚れで黒く染まるのも構わず、彼はなりふり構わず俺に縋り付いた。
「新しい人生だ? パートナーだ? ……ふざけるな。お前のペダリングは、呼吸は、全部俺のためにあったはずだろ。俺の背中だけを見てたはずだろ!」
「……過去の話だ」
「過去になんかさせるか! 俺は……ッ、俺はまだ、お前と走る景色しか見えてないんだよ!」
轟が顔を上げる。
その顔を見て、俺は息を止めた。
あの好戦的で、自信に満ち溢れていた瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていたからだ。
「金も、名誉も、全部くれてやる。マスコミがうるさいなら、誰も知らない国へ行こう。自転車なんか二度と乗らなくていい。ただ俺のそばにいてくれれば、それでいいんだ…」
子供のような嗚咽だった。俺の足首を握る指の力が強くなる。震える熱が、生地越しに伝わってくる。
(……やめろ、晶馬。そんな顔で、俺を見るな)
胸の奥が張り裂けそうだった。今すぐしゃがみ込んで、その頭を抱きしめてやりたい。「嘘だ」と言って、涙を拭ってやりたい。けれど、それをすれば全てが終わる。 彼には、まだ走る未来がある。俺という重りを捨てて、もっと高くへ羽ばたく翼があるのだ。
俺は、血の味がするほど唇を噛み締め、氷のように冷たい声を作った。
「……みっともないぞ、轟」 「な、ち……?」 「お前は王者だろ。たかがアシスト一人がいなくなったくらいで、ピーピー泣くな」
心にもない罵倒。それが精一杯の愛情だった。 俺は、足に絡みつく彼の指を、一本ずつ、無理やり引き剥がしていく。
「嫌だ……離すな……!」 「徳間さん」
俺は隣で見守っていた徳間さんに視線を向けた。助けを求めるように。徳間さんは一瞬だけ悲痛な顔をしたが、すぐに頷き、轟の肩を掴んで引き離してくれた。
「嫌だ、那智! 那智ィ!!」
獣のような咆哮が、作業場に響き渡る。引き剥がされた轟の手が、空を掴んだ。俺は彼から背を向け、逃げるように奥の居住スペースへと歩き出した。
(ごめん。……ごめんな、晶馬)
背中で聞く彼の泣き声が、かつて二人で登ったどんな激坂よりも、俺の足を重くさせた。扉を閉め、鍵をかける。 その瞬間、俺はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
季節外れの台風が近づいている夜だった。 店の奥、居住スペースの小さなテーブルで、那智は冷めたコーヒーを握りしめていた。 視線の先には、ミュート(消音)にされたテレビ画面。
世界最高峰のレース。最終ステージ。 画面の中、黄色いリーダージャージ(マイヨ・ジョーヌ)を着て表彰台の真ん中に立っているのは、間違いなく轟晶馬だった。 シャンパンファイトの飛沫が舞う。 チームメイトが歓喜の声を上げて抱き合っている。 その中心で、轟だけが——無表情だった。
(……勝ったんだ)
那智の乾いた唇から、息が漏れる。 俺がそばにいなくても。 俺がペースを作らなくても。 ボトルを渡さなくても。 彼は、世界で一番高い場所に立った。
『——お前のキャリアの邪魔になる』
あの日、置き手紙に残した言葉は、言い訳じゃなかった。真実だったのだ。 スキャンダルの種になる俺を切り離したことで、彼は重枷から解き放たれ、より速く、より高く羽ばたいた。
「……よかった」
胸の奥が千切れそうなのに、口をついて出たのは肯定の言葉だった。これでいい。これでよかったんだ。俺のしたことは間違いじゃなかった。俺のアシスト(献身)は、別れることで完成したんだ。
画面の中で、インタビューを受ける轟がアップになる。 インタビュアーが何かを聞き、彼が短く答える。何を言っているのかは聞こえない。聞きたくなかった。きっと、「チームのおかげです」とか「次はもっと勝ちます」とか、優等生なコメントをしているのだろう。
俺は震える指で、リモコンの電源ボタンを押した。 ブツン。栄光の光景が、漆黒の闇に吸い込まれて消える。
残ったのは、窓を叩く激しい雨音と、どうしようもない孤独だけ。
「……さよなら、晶馬」
もう二度と、会うことはない。会ってはいけない。 彼があそこにいる限り、俺はこの島の泥の中で、機械油にまみれて生きていく。それが、勝者に対する敗者(アシスト)の礼儀だ。
ズキリ、と古傷の膝が痛んだ。 俺は膝を抱え、灯りを消して闇に沈んだ。
——その時だった。
ドンッ!!
店のシャッターを、誰かが殴りつける音がした。風の音ではない。もっと意思のある、暴力的な衝撃音。
「……?」
心臓が跳ねる。
こんな台風の夜に、客が来るはずがない。まさか、徳間さんだろうか。
俺はおそるおそる立ち上がり、作業場へと向かう。 シャッターの向こうから、雨音に混じって、低く掠れた声が聞こえた気がした。
『……開けろ』
まさか。そんなはずはない。彼は今、テレビの向こうの、光の雨が降り注ぐ場所にいたはずだ。こんな、日本の最果ての、嵐の夜にいるはずがない。
ガラガラッ。
震える手でシャッターを持ち上げた瞬間。俺は、呼吸を忘れた。
そこにいたのは、テレビの中の「王者」ではなかった。 高級スーツはずぶ濡れで泥だらけ。整えられていた髪は張り付き、目の縁は赤く腫れ上がり、唇からは血が滲んでいる。ただの、ボロボロの男が立っていた。
「……優勝インタビュー、すっぽかして来た」
轟は、雨に打たれながら、泣き出しそうな顔で笑った。
「トロフィーなんかより……お前が大事だったんだよ、馬鹿野郎」
「……バカなのは、お前だろ」
那智は泣き笑いのような顔で、ずぶ濡れの相棒を力いっぱい家の中へと引き入れた。 激しい雨音に混じって、ガチャン、とシャッターが閉まる音が響く。
今度は、外から彼を奪われないように。 そして二度と、彼が逃げ出さないように。
世界で一番静かな漁村の夜が、二人を深く、優しく包み込んでいった。
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