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悪い夢
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地震の夜から三日経ち、雨はなおも降り続いている。
安宿の亭主は疲れ切った顔をして窓の外の街の様子を眺めていた。
立ち並ぶ様々な商店や家々の軒先には、バケツや桶や鍋に小さなカップまで、どこもかしこも所狭しと並べられている。
皆雨水を集めるのに必死だ。
宿と飯屋を営む都合、水が無ければ商売も出来ない。いつもなら王都で暮らす職人や商人達を中心にした常連客で賑やかな店は、締め切っているせいで暗く雨音だけが響いている。
「本当に、すぐに元に戻るのかね……」
虚ろな目で雨に濡れる路地をぼんやりと見つめる。雨は降り続いているのに井戸は枯れたままだ。
それでも雨水のおかげで何とか凌げては居るが、自分達の飲み水を確保するのが精一杯だ。
貧しい身なりの子供が、水溜まりの泥水を割れたカップで掬って口にしているのを遠目に、助けに行ってやる余裕も無い。
「中央広場で、教会が食料と水を配給してくださるそうだよ! ほら、アンタ、出掛けるよ」
妻に発破をかけられて出掛けた先、中央広場には配給を求める長い人の行列が出来ていた。
◇◆◇
水を求める民衆でごった返す広場の片隅で、ぐったりとした子供を抱えた女が、教会の修道士に縋るようにして叫んでいた。
「お願いします、治癒士さまに会わせて下さい。せがれの熱が下がらないんです」
修道士の男は、困ったような笑みを浮かべたまま首を横に振っている。
それを遠巻きに見ていた群衆の中から、ぽつぽつと不安を滲ませた声が上がりはじめた。
「今、治癒士さま方はみんな治癒が使えないって話、本当なのかね」
「薬を煎じる水が足りないから、医者も今は役立たずなんだろう? 病でも流行ったらどうするのかね……」
誰ともなく発せられた言葉は、人の群れにまたぞろ不安の種を撒く。
雑踏の中でそれまで気にも止めていなかった、誰かが咳き込んでいる音がやけに耳について、皆探るように周囲を見回す。
ただでさえ、初夏を迎えるとは思えないほど冷え込んでいる中で、雨に打たれているのだ。
ざわめきとなって広がる不安の波を打ち消したのは、衛兵に守られて広場に入ってきた一台の豪奢な馬車だった。
配給用の荷が積まれた区画の対面に止まった馬車から、司祭服のアダム・ウィルハートが降り立つ。
続いて、薄桃と白の紗を重ねた繊細な作りの美しい衣装に身を包んだリリア・ウィルハートが姿を現した。
「お集まりの皆さん、皆さんは大変に運が良い!」
アダム・ウィルハートは晴れやかな笑みと共に声を張り上げる。
「今日はこの中央広場にて、我らが神の愛子様が、これから祈りを捧げてくださいます!」
その言葉で、広場には先程の不穏な空気など打ち消すほどの歓声が上がった。
広場にある、すっかり水の抜けてしまった噴水の中央には、かつて主神ヴァースの銅像が立っていた。
地震により砕けてしまったと思われるそれは既に片付けられ、ぽっかりと空いた空間には修道士の手によって美しい厚手の織物が敷かれた。
衛兵に大振りな傘で雨から守られながら、まるで祭壇にでも上がるようにしてそこへ進むと、リリアは祈りの姿勢を取った。
その光景に見入るようにして、広場には静寂が降りた。
広場に居た民衆の多くは、神の愛子に纏わる話は知っていても、実際に祈るところを目にするのはそれが初めての事だった。
共に祈り始める者もいれば、じっと何かを期待するように微動だにせず視線を向ける者もいる。
光が差すような神々しい何某かが起こるわけでは無い事は皆知るところだったが、冷たい雨に晒されながら固唾を飲んで見守る沈黙は、しかし長くは続かなかった。
「ねぇ、どうしてかみさまは、リリアさまの祈りしか聞いてくれないの?」
幼い子供の声がやけに大きく響いた。
ざわり、と空気が戸惑いに震える。
アダム・ウィルハートは声がした方に顔を向けて笑みを深めた。
母親と思しき女が、慌てたように子供を抱き抱えて、人の群れから逃げるようにして去っていく。
それでも尚、投げ入れられてしまった小さな疑問の石が生んだざわめきが静かに広がって行った。
「静寂に。それは神に特別視されている事の証左、それこそが、神の愛子たる由縁なのですよ」
アダム・ウィルハートのよく通る声が広場に木霊する。
祈りが届けば全てが良い方向に向かうのだと、アダムに諭され、民衆の多くはそれを信じた。
しかし、悪い夢は終わらなかった。
翌日から、広場に集まっていた者の中から、熱病に倒れるものが出始めたのだ。
安宿の亭主は疲れ切った顔をして窓の外の街の様子を眺めていた。
立ち並ぶ様々な商店や家々の軒先には、バケツや桶や鍋に小さなカップまで、どこもかしこも所狭しと並べられている。
皆雨水を集めるのに必死だ。
宿と飯屋を営む都合、水が無ければ商売も出来ない。いつもなら王都で暮らす職人や商人達を中心にした常連客で賑やかな店は、締め切っているせいで暗く雨音だけが響いている。
「本当に、すぐに元に戻るのかね……」
虚ろな目で雨に濡れる路地をぼんやりと見つめる。雨は降り続いているのに井戸は枯れたままだ。
それでも雨水のおかげで何とか凌げては居るが、自分達の飲み水を確保するのが精一杯だ。
貧しい身なりの子供が、水溜まりの泥水を割れたカップで掬って口にしているのを遠目に、助けに行ってやる余裕も無い。
「中央広場で、教会が食料と水を配給してくださるそうだよ! ほら、アンタ、出掛けるよ」
妻に発破をかけられて出掛けた先、中央広場には配給を求める長い人の行列が出来ていた。
◇◆◇
水を求める民衆でごった返す広場の片隅で、ぐったりとした子供を抱えた女が、教会の修道士に縋るようにして叫んでいた。
「お願いします、治癒士さまに会わせて下さい。せがれの熱が下がらないんです」
修道士の男は、困ったような笑みを浮かべたまま首を横に振っている。
それを遠巻きに見ていた群衆の中から、ぽつぽつと不安を滲ませた声が上がりはじめた。
「今、治癒士さま方はみんな治癒が使えないって話、本当なのかね」
「薬を煎じる水が足りないから、医者も今は役立たずなんだろう? 病でも流行ったらどうするのかね……」
誰ともなく発せられた言葉は、人の群れにまたぞろ不安の種を撒く。
雑踏の中でそれまで気にも止めていなかった、誰かが咳き込んでいる音がやけに耳について、皆探るように周囲を見回す。
ただでさえ、初夏を迎えるとは思えないほど冷え込んでいる中で、雨に打たれているのだ。
ざわめきとなって広がる不安の波を打ち消したのは、衛兵に守られて広場に入ってきた一台の豪奢な馬車だった。
配給用の荷が積まれた区画の対面に止まった馬車から、司祭服のアダム・ウィルハートが降り立つ。
続いて、薄桃と白の紗を重ねた繊細な作りの美しい衣装に身を包んだリリア・ウィルハートが姿を現した。
「お集まりの皆さん、皆さんは大変に運が良い!」
アダム・ウィルハートは晴れやかな笑みと共に声を張り上げる。
「今日はこの中央広場にて、我らが神の愛子様が、これから祈りを捧げてくださいます!」
その言葉で、広場には先程の不穏な空気など打ち消すほどの歓声が上がった。
広場にある、すっかり水の抜けてしまった噴水の中央には、かつて主神ヴァースの銅像が立っていた。
地震により砕けてしまったと思われるそれは既に片付けられ、ぽっかりと空いた空間には修道士の手によって美しい厚手の織物が敷かれた。
衛兵に大振りな傘で雨から守られながら、まるで祭壇にでも上がるようにしてそこへ進むと、リリアは祈りの姿勢を取った。
その光景に見入るようにして、広場には静寂が降りた。
広場に居た民衆の多くは、神の愛子に纏わる話は知っていても、実際に祈るところを目にするのはそれが初めての事だった。
共に祈り始める者もいれば、じっと何かを期待するように微動だにせず視線を向ける者もいる。
光が差すような神々しい何某かが起こるわけでは無い事は皆知るところだったが、冷たい雨に晒されながら固唾を飲んで見守る沈黙は、しかし長くは続かなかった。
「ねぇ、どうしてかみさまは、リリアさまの祈りしか聞いてくれないの?」
幼い子供の声がやけに大きく響いた。
ざわり、と空気が戸惑いに震える。
アダム・ウィルハートは声がした方に顔を向けて笑みを深めた。
母親と思しき女が、慌てたように子供を抱き抱えて、人の群れから逃げるようにして去っていく。
それでも尚、投げ入れられてしまった小さな疑問の石が生んだざわめきが静かに広がって行った。
「静寂に。それは神に特別視されている事の証左、それこそが、神の愛子たる由縁なのですよ」
アダム・ウィルハートのよく通る声が広場に木霊する。
祈りが届けば全てが良い方向に向かうのだと、アダムに諭され、民衆の多くはそれを信じた。
しかし、悪い夢は終わらなかった。
翌日から、広場に集まっていた者の中から、熱病に倒れるものが出始めたのだ。
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