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死の怪 鬼・前編
たまのおの
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一飛びで門を越え、立入禁止のラインをくぐってプールのある棟の前へ。見回りが来ていないことを確認すると、澪逢はポケットから一本の鍵を取り出し、扉の鍵穴に挿した。硬く閉ざされた鉄の扉が、あっさりと開く。
「いつの間に、ここの鍵を」
「八咫学園の歴史は、蘆屋の歴史。マスターキーくらい持っているわ」
「そ、そうなんだ…」
そろりそろりと、プールの中へ。持ってきた懐中電灯を点けようとすると、澪逢に手をはたかれた。
「待って。明かりに気付いて、見回りが来るわ」
「だけど、このままじゃ何も見えないよ」
「すぐに終わらせるわ。…ところで、かみつみは持ってきた?」
「! うん」
鋼は頷いた。肩から提げた鞄の中で、水色のタンブラーだけが急に重みを増した気がした。
「もしもの時は、あなたに頼るかも知れないわ」
「えっ、それはどういう…」
困惑する鋼を他所に、澪逢は真ん中のコースの飛び込み台に上がった。それから、彼に背を向けたまま言った。
「もう、気付いているでしょう? ここに入れられた毒…それは、ただの毒じゃない」
「! やっぱり、妖怪の」
「ずっと、弱い妖気が漂っていたわ。長い間、訓練を積んだ人にしか分からないくらい、弱く、薄く。でも、この中に入った途端、それは強くなった」
「ど、どうするの? 普通の薬品じゃ消せないよね?」
「だから、こうするわ」
そう言うと澪逢は、いきなり制服のスカートに手を入れ…下ろした。暗闇の中、ぼんやり映る白い太腿の間を、それより白い布切れが降りていく。
「!?」
澪逢が、飛び込み台の上にしゃがみ込んだ。そうして、言った。
「これから、私は『無防備』になる。だから、誰か…例えば、ここに毒を入れた張本人とか…来たら、お願いね」
「…わ、分かった」
「…んっ」
___じょぼぼぼぼぼぼ…
小さな息みの後、水音がプールに響き渡った。窓から差す星明りに照らされた水面が、放たれるかみつみ…澪逢のおしっこに波打つ。
鋼はもしもの時に備えてタンブラーを出そうと、鞄に手を伸ばした。___その手を、掴まれた。
「う……っ!?」
叫ぼうとした口が、掌に塞がれた。パニックになりかけながら鋼は、その手を掴んで必死に首を回し、犯人の顔を視界に入れた。
暗闇に慣れた目に飛び込んできたのは、何と先程別れた、伊吹ばら乃の顔であった。
「しぃーっ。…ひひっ」
囁くなりばら乃は、鋼のみぞおちに当身を食らわせ、床に転がした。小柄な身体からは想像もつかない衝撃に、息もできない鋼は、ゆっくりと澪逢に歩み寄る彼女の背中を、絶望的な気持ちで凝視した。
ばら乃が、一歩、また一歩、澪逢に近付く。プールに放尿する澪逢は、まだ彼女に気付かない…
「…み、お」
「…」
次の瞬間、飛び込み台の上から、澪逢の身体がふわりとプールの中へ落ちていった。
ばら乃はプールの中を覗き込み、すぐに飛び下がった。その直後、黒い影が水中から矢のように飛び出し、ばら乃の目の前に着地した。それは、既に抜き身の太刀を握った澪逢であった。
「へえ、プールの毒を消せたんやね」
「やっぱり、毒を混ぜたのはあなただったのね。伊吹ばら乃」
「やったら、何?」
澪逢は答えず、気合と共に太刀を振り払った。
「たあぁっ!」
「ん」
ところが、ばら乃は軽く左手を翳すと、まるで蝿でも叩くかのように無造作に太刀筋を叩き落としてしまった。
「!?」
「狼狽えとるん、ちゃうで!」
困惑する澪逢に、ばら乃が稲妻のごとく飛び込んだ。突き出された正拳を危うく躱すと、澪逢は下から上へと刀を斬り上げた。
「せえやっ!」
「ぬるい」
それを、ばら乃は躊躇無く右手で掴んで止めた。小さな掌に、鋭い刃が喰い込む。その柄は、澪逢がどれだけ力を込めても、びくりとも動かない。
「くっ…これは…っ」
「これが、あんたの本気やないのは分かってる。せやけどな、うちも…」
「おおお…オオオッッ!!」
言いかけたその言葉が、渾身のタックルに中断された。
「!?」
「アアアッ! アアッ!!」
不意打ちによろめいたばら乃に、鋼は何度も拳を突き出す。流石に刀を離して拳を防御しながら、ばら乃は彼の足元に転がるタンブラーを一瞥した。
「…京の武士でも、ようやらんことを」
「___験」
「!」
「兜割っっっ!!!」
次の瞬間、ばら乃の背後から、必殺の刃が脳天目掛けて振り下ろされた。ばら乃は咄嗟に右手を掲げたが、余りの重さにリストバンドは裂けて落ち、右手首の中ほどまで太刀が喰い込んだ。
「…ほう。半寸斬り込みよったか」
「伊吹…っ、ばら乃…あなたは、一体…っ!」
血の一滴も滲まない、干からびた手首。露わになったその手には、リストカットどころではない、痛々しい古傷が手首をぐるりと一周していた。まるで、一度誰かに切り落とされたかのように…
「…!! まずい、澪逢…」
「やかまし」
「がはっ」
前蹴りにみぞおちを貫かれ、崩れ落ちる鋼。息を呑む澪逢。
ばら乃の身体が、白い靄に包まれていく。
「最後まで手ぇ抜かんと、確実に殺すつもりやったけど…あんたの腕前に免じて、自分が何に殺されるのかくらいは教えたるわ」
靄が、すっと消える。その中から現れた、伊吹ばら乃という少女…今やその矮躯には、制服の代わりに墨染の単を纏い、裸足と手の先から黒ずんだ鉤爪を伸ばし、髪は白く色褪せて振り乱し…額からは、捻じくれ曲がった二本の角が生えていた。
ばら乃が…鬼が…右手を振るった。喰い込んだ太刀と共に、澪逢が床に転がる。
「ああっ!?」
「ド腐れ源氏に騙されて、館を焼かれ、旦那も、チビ共も、残らず首落とされて…それでも浅ましく、見苦しく生き延びた、現世に最後の鬼…」
左手で、ぐったりと倒れる鋼の首を掴んで、ひょいと抱え上げる。
「鋼くん!!」
「動いたら殺す。動かんでも明後日には殺す。…嫌やったら、駅の裏の廃アパートにおるから…うちと立ち会え」
鬼は、ぎょろりと眼を見開き、薄い唇から無数の牙を剥き出し…言った。
「大江の親分…伊吹さまが中宮、この茨木童子と……!!」
次の瞬間、鬼は床を蹴って飛び上がり、高窓からどこかへと去っていった。
「いつの間に、ここの鍵を」
「八咫学園の歴史は、蘆屋の歴史。マスターキーくらい持っているわ」
「そ、そうなんだ…」
そろりそろりと、プールの中へ。持ってきた懐中電灯を点けようとすると、澪逢に手をはたかれた。
「待って。明かりに気付いて、見回りが来るわ」
「だけど、このままじゃ何も見えないよ」
「すぐに終わらせるわ。…ところで、かみつみは持ってきた?」
「! うん」
鋼は頷いた。肩から提げた鞄の中で、水色のタンブラーだけが急に重みを増した気がした。
「もしもの時は、あなたに頼るかも知れないわ」
「えっ、それはどういう…」
困惑する鋼を他所に、澪逢は真ん中のコースの飛び込み台に上がった。それから、彼に背を向けたまま言った。
「もう、気付いているでしょう? ここに入れられた毒…それは、ただの毒じゃない」
「! やっぱり、妖怪の」
「ずっと、弱い妖気が漂っていたわ。長い間、訓練を積んだ人にしか分からないくらい、弱く、薄く。でも、この中に入った途端、それは強くなった」
「ど、どうするの? 普通の薬品じゃ消せないよね?」
「だから、こうするわ」
そう言うと澪逢は、いきなり制服のスカートに手を入れ…下ろした。暗闇の中、ぼんやり映る白い太腿の間を、それより白い布切れが降りていく。
「!?」
澪逢が、飛び込み台の上にしゃがみ込んだ。そうして、言った。
「これから、私は『無防備』になる。だから、誰か…例えば、ここに毒を入れた張本人とか…来たら、お願いね」
「…わ、分かった」
「…んっ」
___じょぼぼぼぼぼぼ…
小さな息みの後、水音がプールに響き渡った。窓から差す星明りに照らされた水面が、放たれるかみつみ…澪逢のおしっこに波打つ。
鋼はもしもの時に備えてタンブラーを出そうと、鞄に手を伸ばした。___その手を、掴まれた。
「う……っ!?」
叫ぼうとした口が、掌に塞がれた。パニックになりかけながら鋼は、その手を掴んで必死に首を回し、犯人の顔を視界に入れた。
暗闇に慣れた目に飛び込んできたのは、何と先程別れた、伊吹ばら乃の顔であった。
「しぃーっ。…ひひっ」
囁くなりばら乃は、鋼のみぞおちに当身を食らわせ、床に転がした。小柄な身体からは想像もつかない衝撃に、息もできない鋼は、ゆっくりと澪逢に歩み寄る彼女の背中を、絶望的な気持ちで凝視した。
ばら乃が、一歩、また一歩、澪逢に近付く。プールに放尿する澪逢は、まだ彼女に気付かない…
「…み、お」
「…」
次の瞬間、飛び込み台の上から、澪逢の身体がふわりとプールの中へ落ちていった。
ばら乃はプールの中を覗き込み、すぐに飛び下がった。その直後、黒い影が水中から矢のように飛び出し、ばら乃の目の前に着地した。それは、既に抜き身の太刀を握った澪逢であった。
「へえ、プールの毒を消せたんやね」
「やっぱり、毒を混ぜたのはあなただったのね。伊吹ばら乃」
「やったら、何?」
澪逢は答えず、気合と共に太刀を振り払った。
「たあぁっ!」
「ん」
ところが、ばら乃は軽く左手を翳すと、まるで蝿でも叩くかのように無造作に太刀筋を叩き落としてしまった。
「!?」
「狼狽えとるん、ちゃうで!」
困惑する澪逢に、ばら乃が稲妻のごとく飛び込んだ。突き出された正拳を危うく躱すと、澪逢は下から上へと刀を斬り上げた。
「せえやっ!」
「ぬるい」
それを、ばら乃は躊躇無く右手で掴んで止めた。小さな掌に、鋭い刃が喰い込む。その柄は、澪逢がどれだけ力を込めても、びくりとも動かない。
「くっ…これは…っ」
「これが、あんたの本気やないのは分かってる。せやけどな、うちも…」
「おおお…オオオッッ!!」
言いかけたその言葉が、渾身のタックルに中断された。
「!?」
「アアアッ! アアッ!!」
不意打ちによろめいたばら乃に、鋼は何度も拳を突き出す。流石に刀を離して拳を防御しながら、ばら乃は彼の足元に転がるタンブラーを一瞥した。
「…京の武士でも、ようやらんことを」
「___験」
「!」
「兜割っっっ!!!」
次の瞬間、ばら乃の背後から、必殺の刃が脳天目掛けて振り下ろされた。ばら乃は咄嗟に右手を掲げたが、余りの重さにリストバンドは裂けて落ち、右手首の中ほどまで太刀が喰い込んだ。
「…ほう。半寸斬り込みよったか」
「伊吹…っ、ばら乃…あなたは、一体…っ!」
血の一滴も滲まない、干からびた手首。露わになったその手には、リストカットどころではない、痛々しい古傷が手首をぐるりと一周していた。まるで、一度誰かに切り落とされたかのように…
「…!! まずい、澪逢…」
「やかまし」
「がはっ」
前蹴りにみぞおちを貫かれ、崩れ落ちる鋼。息を呑む澪逢。
ばら乃の身体が、白い靄に包まれていく。
「最後まで手ぇ抜かんと、確実に殺すつもりやったけど…あんたの腕前に免じて、自分が何に殺されるのかくらいは教えたるわ」
靄が、すっと消える。その中から現れた、伊吹ばら乃という少女…今やその矮躯には、制服の代わりに墨染の単を纏い、裸足と手の先から黒ずんだ鉤爪を伸ばし、髪は白く色褪せて振り乱し…額からは、捻じくれ曲がった二本の角が生えていた。
ばら乃が…鬼が…右手を振るった。喰い込んだ太刀と共に、澪逢が床に転がる。
「ああっ!?」
「ド腐れ源氏に騙されて、館を焼かれ、旦那も、チビ共も、残らず首落とされて…それでも浅ましく、見苦しく生き延びた、現世に最後の鬼…」
左手で、ぐったりと倒れる鋼の首を掴んで、ひょいと抱え上げる。
「鋼くん!!」
「動いたら殺す。動かんでも明後日には殺す。…嫌やったら、駅の裏の廃アパートにおるから…うちと立ち会え」
鬼は、ぎょろりと眼を見開き、薄い唇から無数の牙を剥き出し…言った。
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