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 スノードームを棚に置く。他にもリースやツリーのオブジェを並べる。店内が緑と赤のクリスマス仕様に変わる。
 本来は店長がいて二人体制で仕事をしているのだけど店長の持病の腰痛が悪化して殆ど来られなくなってしまっているので綾乃が一人で対応している。困ったことがあれば店長や香代や社長に電話をする。
 一人なので昼の食事休憩で一度店を閉める。『休憩中』と札をかけてドアを閉めていたのにそのドアが開く音がしたので休憩室から出ると蛇目チカが立っていた。
 オレンジと白と水色のタイダイ柄のジャケットにデニム。右手の中指に黒いごつい指輪。手の甲にアルファベットの刺青がある。茶色い紙袋を持っている。
「お昼御飯? 邪魔してごめん」
 首を振るとチカは紙袋を持ち上げて言う。
「たい焼き一緒に食べない? さっきそこで買ったの。行列出来てたから美味いのかと思って並んじゃったよ」
 休憩室に招き入れてお茶を入れた。九谷焼のカラフルな湯飲みを二つ卓袱台に置く。
 たい焼きを一つ貰って食べる。チカはお茶を一口飲んで「美味しい」と微笑んで綾乃を見た。可愛い人である。
「この近くの病院に用があってね、近いから寄ってみた。最近目が悪くなってきちゃってさあ、ショックだよ。ずっと視力よかったのに。まあ、それはいいとして、どうなの? ナツとは上手くいってんの?」
「なっちゃんは何て言ってるんですか?」
「何も聞いてないよ。ハル姉ちゃんのこと綾乃ちゃんにばらしちゃって絶交されたから」
「絶交?」
「あいつ、子供っぽい所あるんだよ。まあ、寛容な方ではあるけど、でも怒らせたら怖いよ。すげえ執念深いの。施設で虐待されてたの知ってる? あいつに暴力振るってた奴、自殺したんだよね。だから綾乃ちゃんのお父さんのことも本気で殺すつもりだったんだと思うよ。大好きだったハルちゃんの仇だからね。でもさあ、高校に入ったぐらいだったかな、中学生の綾乃ちゃん眺めながら言ったの。俺があの人殺したらあの子が泣くんだろうなって。それで殺すのやめたみたい」
 チカはたい焼きを頬張りながら「そういえば」と続ける。
「聡から聞いたけどナツ店辞めたんだね。今何してるか知ってる?」
「知り合いの会社で翻訳の仕事をしてるみたいです」
 浅く広い人脈の影響なのかナツは本当に語学が堪能で色々な国の言語を理解している。前ほどの収入にはならないけど生活費は賄えるので満足しているらしい。如何わしい仕事から足を洗ってくれたので良かった。
「会社員やってんの? スーツ着て?」
「スーツじゃなくてもカジュアル過ぎなければいいみたいです」
「へえ。ほんとに普通に働いてるんだね。あの社会不適合者が。信じられないけどそれだけ本気ってことか。あのさあ、最初聡の店行った時綾乃ちゃんヤバい目に遭いかけたじゃん。あれ、ナツが仕向けたんだよ。ハルちゃんの仇殺す代わりにその娘を酷い目に遭わせるなんてそんなことする奴じゃないからびっくりしたけどそんなこと言い出したのクリスマスに綾乃ちゃんがデートしてるのを見たあとだったから今考えたら多分嫉妬したんだね。ずっと見てるうちにいつの間にか惚れちゃってて、その子に恋人がいて癇癪起こしちゃった感じかな。あいつ拗らせてるから」
 チカの携帯電話が鳴った。相手が喋るのを聞いて「わかった。帰る」と彼女は答えた。
「このサングラス、かっこいい。買う」
 チカは三千円のサングラスを買って帰った。

 鳥の声が聞こえる。
 目を覚ますとすぐ横にいるナツが綾乃の方に体を向けて気怠い顔をして言う。
「風邪かも。頭痛い」
 彼の上半身は裸である。
「裸で寝るからだよ」
「服着るのめんどくさい。綾乃ちゃんはいつの間にパジャマ着たの?」
 横になったままナツは綾乃の腕を服の上から掴む。撫でたりする。綾乃を抱き締めてパジャマの裾から手を入れて綾乃の背中を撫でる。大きな手は骨ばっていてひんやりしている。ナツに撫でられるとムラムラしてしまう。
「会社休む?」
 ナツは綾乃の目を見る。ぼんやりしている。多分本当に調子が悪いんだろう。綾乃の耳を左手で撫でながら言う。
「いや、行くよ」
 昨夜ナツから聞いた。職場で早速面倒が起きているらしい。ナツのサポートをしたい複数の女性社員が争って社内が荒れていると上司から聞かされたらしい。データさえ納めれば出社しなくてもいいと特例を出してもらえそうだと言う。
 サラダだけ食べてコーヒーを飲んでナツは服を着る。ベージュのセーターにすとんとした黒いズボン。口の端に付いたドレッシングを親指の腹で拭いながら眠たそうな目をしている。綾乃は手を伸ばしてナツのさらさらした前髪をくしゃっと触って持ち上げる。額に手を当てると熱い気がする。
「熱ないの?」
「大丈夫だよ」
「無理しないでね。辛かったら病院に行こうね。電話して。保険証は?」
「ああ、家かも」
「家?」
「養父の家。また取りに行ってくる」

 新しくバイトの女性が入ってきた。綾乃より一つ年上で前職も同じ仕事内容で経験豊富であるらしい。真面目でしっかりしている。
 店舗はその女性に任せてバイヤーになってみないかと香代に誘われた。興味がある仕事なのでとても嬉しい。オフィスの方に行って香代や社長から話を聞く。基本的にオフィスの方で過ごすことになりそうなのだけど決まった時間に出社しなくてもいいようである。新しい業務の説明を受けて夕方にオフィスを出る。
 ナツの養父の話はナツから少しだけ聞いたことがある。ナツの母親の弟であるらしい。ナツが十八歳の時に施設に話をしに来て保護者となったらしい。だけど保護者も何ももう子供ではなかったので一緒に暮らしたりはしてないとナツから聞いた。
 元々ナツの母親の家庭環境も複雑で母方の祖父母は若い頃に火事で亡くなっていてナツの母親もその弟もまだ幼い頃にそれぞれ別々に遠縁の親戚を盥回しにされたらしい。その弟は勉強して医者になって小さな病院を開いている。函崎というのは彼の苗字でナツの苗字でもある。
 チカのレコード屋が近い。話を聞きに行ってもいいだろうか。
 日が暮れて空が薄紫色になっている。電信柱が並んでいる。ボルゾイを連れたお洒落な中年男性が向かいから歩いてくる。市営のホールの掲示板に舞台のポスターが貼ってある。高架の上をとても長い貨物列車が走っていく。
 途中でたこ焼きを買って店に行くとチカがいない。レジには白い髪の毛にくるくると癖のある優しそうなお爺さんが座っていた。訊くと『聡』と見覚えのある名前が印字された名刺を見せて教えてくれた。
「チカちゃんはこの店にレコードを届けに行ったよ」
 チカがいるなら大丈夫だろうと思って市内電車に乗って向かう。
 入口のカウンターに凭れて俯いて立っていたのは早瀬で顔を上げて綾乃を見るとにやっと笑った。
「綾乃ちゃんじゃん。どうしたの?」
 早瀬の顔に目立つ痣や傷がある。
「チカさんが来てるって聞いて、チカさんに会いに」
「ああ、来てたけど。倒れてさっき救急車来て運ばれてったよ。聡さんが付き添って」
「え?」
「あいつ、病気なんだよ。結構前から。なんだっけ多発性、硬化、なんたら。まだそこまで悪くないって聞いてたけど。さっき聡さんから連絡あってとりあえず大丈夫って言ってたし。どうかな。今度でかい手術するらしいよ」
 動揺した。病気だなんて知らなかった。命の危険があるんだろうか。ナツは知っているんだろうか。
「じゃあ、私帰ります」
「ちょっと待ちなよ。暇なんだよ。話しようよ」
「なっちゃん、風邪っぽいので早く帰って栄養のあるもの作ってあげないと」
「あ、そうなの? ちょっと待って、じゃあこれ」
 早瀬が胸元のポケットから出したマッチ箱ぐらいの小さな四角い紙袋には綺麗な植物のイラストがある。
「ハーブティーだよ。俺の彼女が凝っててやたら持たされてて、それ風邪に効くと思うよ。一人分しかなくてごめん」
「え、いいんですか?」
「あげる。だけどよくやるね。自分をレイプした男とよく付き合えるね。あ、イケメンに限るってやつ? だけど聞いたんだろ? あいつ、綾乃ちゃんのお父さんに恨みがあるって話。復讐したくて君と関係持ってるんだよ」
「そんなのもうめんどくさいってなっちゃん言ってたし、チカさんももうそういうのないって」
「君騙されてるよ。あいつらの話信じてるの? ほんとにナツの気が変わったって。綾乃ちゃんを本気で好きだって? 聞いてない? あいつかなりシスコンだったんだよ。母親代わりでとにかく仲良かったらしいよ。そんな姉ちゃん殺した相手そう簡単に許すかな。綾乃ちゃんを本気にさせて夢中にさせて何もかも奪って最後に裏切るんだよ。その方が効果的だろ? 傷が浅いうちに別れた方がいいんじゃない? ボロボロにされるよ。実際俺あいつのアパートの鍵渡されてるし」
「鍵? なんで?」
「あいつがいない間に入り込んで綾乃ちゃんのことレイプしちゃっていいってことだよ」

 大根を切る。けんちん汁が食べたいと今朝ナツから聞いたので作る。
 食後に早瀬からもらったハーブティーを淹れてナツに渡した。ナツはそれを一口飲んだ途端激しく咳込んで押さえた手に血が付いた。鼻からも血が出ている。空気が漏れるような変な呼吸をしている。
 驚いた。
「ごめんなさい、まさかこれ、ごめんなさい。早く病院に。この近くだと」
 動転して立ち上がってその場を駆け回る。ナツは咳込みながら携帯電話を出して誰かにかける。喋れないのでそれを綾乃に渡す。
『ナツ? どうした? 珍しい』
 優しそうな男性の低い声が聞こえる。事情を説明するとその人はすぐに駆けつけてくれた。
 五十歳ぐらいだろうか。とても穏やかな顔をした上品な男性である。ハンサムでどことなくナツに似ている。血が繋がっているのがはっきりわかる。
 車で十分ぐらい。紺色の国産のコンパクトカーに乗せられて辿り着いたのは住宅街にある小さな病院だった。函崎医院である。診療科目が沢山掲げられている。
 ナツを連れて診察室に入ってから一時間から二時間ぐらい経ってその人は出てきた。白衣を着ている。待合室の緑色のソファーに座っている綾乃の前に立って穏やかな口調で説明してくれた。
「飲んだものに化学薬品が入っていたみたいだね。でも少量だったから大丈夫。一か月もすれば元通り声が出るようになるよ」
 手や肩が震えた。医者はゆっくり屈むと綾乃の顔を優しく見つめながら宥めるように言う。
「お付き合いしている子がいるって聞いてるよ。綾乃さんだね。貴女が悪いんじゃないよ。素行の悪い友達が多くて昔からよく怪我をして帰ってくるんだよ。貴女のお陰でナツは丸くなった気がするんだ。これからも仲良くしてあげてくれないかな」
 養父は独身だとナツから聞いている。彼はナツのことを本当の息子のように思っている。そんな気がする。
 診察室に入るとナツは簡易ベッドの上で横になっている。綾乃を見て枕元に置いてあるメモ帳を手に取って見せた。
『誰から?』と書いてある。
「あの『K』って店のバーテンダーの」
 ナツはペンを握ってメモ帳に書いて見せる。
『また行ったの?』
 字が怒っている。
「ごめんなさい」
 ナツはそれ以上綾乃を責めることはなかった。念の為に数日入院することになって翌朝一人で帰宅してナツの着替えを鞄に詰め込んでいると綾乃の携帯電話が鳴った。チカからである。
『綾乃ちゃん昨日私に用あった? 聡から店に来てたらしいって聞いたんだけど』
「ごめんなさい、なっちゃんが、あの」
 何をどう説明したらいいのかわからなくなった。混乱している。
「毒を飲ませちゃったみたいで」
『死んだの?』
「喉を焼かれたみたいな状態で、暫く声を出せないぐらい」
『何があったの?』
「早瀬さんからハーブティーって貰ったのが違ったみたいで」
『あいつは駄目だよ。近付いちゃ駄目って言わなかった?』
 語気が強い。怒っているのがわかる。
『あいつの彼女、元々ナツを追っかけまわしてた子だから、未だにナツにコナかけてんの。あんたも会ったことあるよ。ずっと前一緒に車乗ったでしょ? あの時ナツにべたべたくっついてた女いたでしょ。あれ、茉由子。ずっとあんな風だから早瀬の奴、ナツを逆恨みしてこの前も殴り合いの喧嘩したばっかりなのに。あんたって思ったより馬鹿な子なんだね。もう電話したり会いに来たりしないで』
 傷害事件である。逮捕されなければならないような事件である。
 自分が怪我をさせた。故意じゃなかったけど罪である。早瀬になんの罪も負わせないのもおかしい。だけど早瀬を捕まえようとしたら綾乃にも何らかの罪が被せられるとナツは危惧しているようである。
 ナツは喉を焼かれて一か月も声が出ない。酷い目に遭わせてしまった。罪悪感に打ちのめされる。
 ナツは気にしなくていいと伝えてくれたけどそうは思わない。とても辛い。
 ナツは簡単な手話を覚えて綾乃にも教えてくれた。

 ナツが退院して会社に復帰した。まだ声を出せないのでとても不便だろう。
 綾乃の新しい仕事はパソコンがあれば自宅でも出来る。出社する日もあるけどしない日もある。
 水曜日の十四時過ぎである。テーブルにパソコンを置いて香代にメールを送ろうとしていると玄関のドアに鍵が刺さる音がした。鍵が開いてノブが回る音がする。ナツが帰ってくる時間じゃない。怖くなって浴室に隠れた。服を着たまま浴槽の中に入る。
 誰かを探しているように部屋の中を歩く気配がする。
 浴室のドアが開く。
 ナツだったので安心した。ナツは綾乃を見ながら『なんで?』と手で示す。隠れているのが不思議だったんだろう。
「別に、何でもない」
 ナツはズボンのポケットからメモ帳を出して書く。
『在宅の許可が出た』
 綾乃はスポンジに泡をつけて浴槽を洗いながら訊く。
「この家の鍵、私の他に持ってる人いるの?」
『なんで?』
「早瀬さんが持ってるって聞いたの」
 ナツはメモに書いた文章を見せる。
『綾乃ちゃんにしか渡してないよ。騙されたんだよ』
 滑って頭を打って涙が出た。ナツは心配そうな顔をして綾乃の頭を触った。
『大丈夫?』という手話をして見せる。
 その手を振り払って浴槽の底にへばりついて泣いているとナツが中に入ってきて綾乃を抱き起して膝の上に乗せて抱き締めて綾乃の背中を撫でた。
 彼はいつも慰めてくれる。どんなにしんどい時でも綾乃が泣くと覚醒したみたいになって背中をさすってくれる。どんなに眠そうでも慰めてくれる。
『俺、色んな奴に恨まれてるからこれからもこんなことあると思うよ。大丈夫?』
 キスをしながら綾乃のお尻を撫でて掴んで自分の下半身に押し付けるようにする。エッチがしたいんだろう。
 四つん這いにされて後ろから入れられた。中に出したあとも余韻を楽しむみたいにゆっくり奥まで押し込んだり引いたりを繰り返して綾乃のお尻を撫でまわす。そうしているうちにナツの性器が綾乃の中でまた固くなった。
 靴をなくす夢を見た。
 人を信じるって難しい。

 久しぶりにオフィスに行って仕事をした。定時になって帰ろうとすると雪が積もっていたので公園に寄って雪だるまを作る。そうしたらナツが迎えに来てくれた。屈んで綾乃が編んだ手袋をした手で綾乃の両頬を触って上を向かせる。キスをした。
 ナツが手を動かして綾乃に見せる。
『どこか遠くに行こうか』
 綾乃は泣きながら答えた。
「行く」



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