明治ハイカラ恋愛事情 ~伯爵令嬢の恋~

泉南佳那

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第一章 樹下の接吻

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 天音は一瞬天を仰ぎ、口のなかでぶつぶつと何かを唱えた。
 
「何か……おっしゃいました?」

 桜子の言葉が終わるか終わらないかのうちに、天音は彼女を抱き寄せた。


「あ、」
「桜子様……」
 そして、吐息のような呟きとともに、彼女を激しく抱きすくめた。

「私も……貴女をお慕いしていました。家丁の分際で口にするのもはばかられることですが」

「天音……」

「ずっと願っていました。貴女をこの胸に抱くことができれば死んでもいいと」

「嬉しいわ、嬉しくてどうかなってしまいそう」
「桜子様」

 桜子も天音の背に手を回し、二人はかたく抱きあった。

 一方的に焦がれていると思っていた恋しい人と心が通じあったのだ。

 離れがたい気持ちは如何いかんともしがたい。
 
 けれど、もしも誰かに見咎みとがめられたら。
 そう冷静に考えられるだけの分別は、まだ持ち合わせていた。

 二人は断腸の思いでその場を後にすることにした。

 明日の晩、もう一度ここで会う約束をして。




 自室に戻ってからも、桜子の心を支配しているのは、彼の力強くて逞しい腕の感触。
 耳の奥に響き続けているのは、彼のよく通る甘い声。

 天音を思うと高熱を発したときのように、頭がくらくらする。

 桜子は寝台の脇に置いてあったクッションを抱きしめながら思った。

 これが恋患いというものなのかしら。

 今すぐ、天音のお側に行きたい。
 明日の夜までお逢いできないなんて、長すぎる。

 天音……天音……

 一瞬たりとも間も置かずに彼を思い続け、桜子は眠れぬ夜を過ごした。

 
***


 天音は、足音を忍ばせながら眠りこけている同僚のそばを通りすぎ、自分の寝台にもぐりこんだ。
 
 まだ、気持ちはたかぶっている。

 二年前、当家の庭で春の園遊会が催された。
 天音は給仕として、その会に参加していた。

 その時だ。
 数年ぶりに桜子を見掛けたのは。
 
 大勢の貴婦人方がけんを競うなか、天音の目には、桜子の姿がひときわ輝いて映った。
 
 まさに、花の蕾が開く瞬間のような、瑞々しい美しさに満ちた彼女を目の当たりにし、天音は桜子の虜になった。

 その彼女が、自分を好きだと言い、この腕のなかで喜びに打ち震えていたのだ。

 それを思うと、天音の頭は冴えわたって、とても眠るどころではなかった。

 そして脳裡には、桜子と初めて出会った日のことがありありと浮かんでくるのだった。
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