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第五章 逃避行

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 ここまでは、思った以上にうまく行った。

 早く天音に来てほしい。
 そして、少しでも早くここを出たい。

 市内まで行くことができれば、最終の汽車に乗れるかもしれない。

 そして、東京に行って……

 ……でもその後は、どうすればいいのだろう。

 桜子は、この期に及んで、自分がその後のことを具体的に考えていないことに気づいた。
 
 高志から逃れるためにこの別荘を出る。
 ただ、そのことしか頭になかった。

 
 うまく逃れられれば、問題はない。
 でも、もし見つかってしまったら……

 自分はともかく、天音がどんな恐ろしい目に合わされるか。

 当然、父から激しい折檻を受けるだろう。
 それがもとで……命を失ってしまうことだってあるかもしれない。

 そんな最悪の事態を想像し、桜子は激しくかぶりを振った。

 だめ。
 愛しい天音をそんな目に合わせる訳にはいかない。

 天音に頼らず、一人で行かなければ。

 ひとまず、鞠子さんの別荘を訪ねよう。
 街に出るより、よほど近い。

 決心が固まり、表に出ようと立ち上がったそのとき、厩舎の扉が開く音がした。

 桜子はふたたび馬の影に身を隠した。

 入口に近い馬が音に気づいて、鼻を鳴らしはじめた。

 入ってきた人物は鳴き声をたてさせないために馬をあやしているようだ。


 天音なのだろうか。
 暗くてこちらから、はっきりとは確認できない。

 もう少し、待ってみよう。
 馬の様子を見に来た馬丁のひとりかもしれないし。

 足音は、桜子のいる方にゆっくり近づいてきた。

 そして奥まで来ると、ひそめた声で「桜子」と呼んだ。

 良かった。天音だ。
 ああ、でも……

 桜子の心は、天音に会えた喜びと、その大事な人を危険に巻き込んでしまった後悔の間で激しく揺れ動いていた。

 その逡巡を抱えたまま、桜子は天音の前に立った。

「桜子……」
 天音は呼びかけると、数歩駆け寄り、桜子を思いきり抱きしめた。

「天音……」
「日光に来てから、もうずっと、こうして桜子を抱きしめたかった」

 そう言って、天音は桜子の髪に顔を埋めた。
 
 高志に抱きしめられたときは、とにかくその腕から早く逃れたかった。

 でも、今は……
 一生このままでいたいと思うほど、心が満たされてゆく。

 桜子も天音に腕を回した。

 そして、その一瞬だけ、先行きの不安を忘れた。

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