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第五章 逃避行

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「でも、いったいどうしたんだい? こんなふうに呼び出したりして」

「天音にどうしてもお話ししなければならないことがあって」

 そう前置きしてから、桜子はかいつまんで事情を説明した。

 天音は眉根を寄せた険しい表情のまま、桜子の話を訊いていた。

「わたくしの被害妄想かもしれないけれど……」

「いや、万が一そんなことになったら大変だ。ここを出た方がいいだろうね。俺も一緒に行くよ」

「ありがとう、天音。でもわたくし一人で行きます。貴方はどうかここに残って」

 天音はさも心外だと言うように、目を大きく見開いた。

「何を言ってるんだ。桜子を一人で行かせるなんてありえないよ」

「だって」
 桜子は真剣な眼差しで天音を見つめた。

「もし見つかってしまったら、貴方がどんな目に合わされるか、それを思うと……」


 言い終わる前に、天音は桜子の顎をすくい上げ、その唇を奪った。

 有無は言わせない。

 天音の気持ちが伝わってくるような、熱のこもった口づけだった。

 桜子はしばし、長いこと待ち焦がれていた、その感触に酔った。

 天音は唇を離し、桜子を自分の胸に抱き寄せ、その髪を優しく撫でながら、言った。

「ねえ桜子……俺たちが離れられると、本気で思っているのか」

 天音のために、この手を振り切らなければならないとわかっている。

 でも、できない。

 天音の言うとおりだ。
 わたくしはもうひとときも天音から離れてなどいられない。

 桜子は天音を見上げ、ゆっくりと首を横に振った。

 天音は笑みを浮かべ、自信に満ちた声で言った。

「大丈夫。絶対、捕まるようなヘマはしない。なんの心配もいらないよ」

「わかりましたわ。もう一人で行くなんて言いません」

 そう。見つかって天音にもしものことがあったら、わたくしも後を追えばいいだけだわ。

 ロメオの後を追った、あのジュリエットのように。
 
「そうと決まれば、善は急げ、だ」

 二人は厩舎の扉の隙間から邸内の様子を伺った。

 いつもと変わることなく、しんと鎮まりかえっている。

 まだ誰も桜子がいなくなったことに気づいていない様子だ。

「さあ、行くよ」
 天音が言い、桜子は大きく頷いた。


 別荘の門扉には外灯がついているので、そこだけは明るいが、その先は闇だ。

 かすかな星明かりをたよりに、二人は手を取り合って、闇に向かって駆けだした。

 雲ひとつない星月夜。

 天の川がひときわ美しく見える。

 群青の空に長く伸びる星の帯が、二人の道行の前途を祝しているように、桜子には思えた。
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