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第一章 或る令嬢の没落
二、夕闇の出会い
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いつまでその場に立ち尽くしていたのか――
「そろそろ帰ってはどうだ」
耳元で囁く声に、慌てて周りを見渡せば、すでに日は落ちていた。
男とも女ともつかないしわがれた声に礼を返そうとしても人影はなく、墓石の影で猫の尻尾が揺れるのみ。
吹く風に身を震わせ、小走りで墓地を後にした。
帰り道は、すでに足元が見えない程に暗い。
街灯の輝きだけが、心の支えであった。
(寒いし暗いし・・・・・・早く春になってほしいわ・・・・・・)
先程までの出来事に加え、季節のせいで、気持ちが滅入ってしまう。
両手を擦りながら、家路へと急いだ。
人の気配はなく、歩いているのは藤花一人だけ。
近年、治安が良くなってきたとはいえ、夜に子女が出歩くなど推奨されない時代、不安もある。
(まあ、こんな私なんて、誰も見向きしないでしょうけど)
見るからに『貧乏令嬢です』と宣言しているような恰好の藤花など、物盗りも襲わないだろう――そう思うと、少しは気が楽になった。
(それより・・・・・・これから、どうしたら良いのかしら)
思い出すのは、先程の大輔の台詞。
大輔の婿入りは、高鴨子爵家と氷室家の正式な契約だったはず。
弁護士さんに、書類を作ってもらっていた。
彼があのような事を言ったのは、氷室家も了承済みなのだろうか。
藤花の父――高鴨家の当主が亡くなった今、その契約も無効なのだろうか。
難しい事を考えていると・・・・・・自然とお腹が空いてしまう。
それに、今日は母の一周忌を迎えるため、朝から支度をしていたから、お昼を食べていないのだ。
・・・・・・結局、約束していた時間に大輔が来なかったから、藤花は一人でお坊様を迎えたわけだが。
(今日はやけ食いよっ。残っていた干し椎茸も使っちゃいましょう。お出汁を取って、残りは・・・・・・)
普段は慎ましやかに暮しているが、今日は悲しみや怒りの気持ちが強い。
夕飯の事を考えていると、心も弾み、足取りも早くなる。
長い坂道を降り、人気のない商店街を通り抜け――
「うぅ・・・・・・」
背筋にぞわりと走るものがあり、ふと足を止める。
冬の冷気とは違う、生温くとも、背筋が凍りつくような感覚だった。
(なにこれ・・・・・・)
空気も澱んでいるような感じがして、思わず顔を顰める。
周囲を見渡しても静かで、人の気配がない。
(やだなぁ・・・・・・通りたくない・・・・・・)
藤花が立つ大通りからは、明るければ寺社や大池が一望できる。
この道を真っすぐ進めば、住宅街に辿り着き、高鴨家の屋敷もある。
あと少し、あと少しのはずなのに、一歩進むことがどうしてもできない。
この先に、恐ろしい『何か』が存在する気がして・・・・・・。
(回り道する? でも遠いし・・・・・・)
横道に逸れようかと見渡していると――
「・・・・・・あら?」
大通りの端に並ぶ街灯の一つに、藤花の目は釘付けになる。
(何しているのかしら?)
街頭に寄りかかるようにして、誰かが座り込んでいた。
最初は酔っ払いかと思ったが、よくよく目を凝らせば、腕からは血が滴っているように見えて――
「いやだ、怪我しているじゃない」
先程までの恐怖や怯えは吹き飛んで、思わず駆け出していた。
その人物は、薄墨色の詰襟を着ており、藤花に警吏を連想させた。
細身で、歳も若く見える。
帽子を深くかぶっており顔は見えないが、苦しそうに喘いでいた。
「あの、大丈夫ですか? 他の方は近くにおられますか?」
取りあえず、相手が押さえている左腕――血が滲む箇所の手当てを、と藤花は手を伸ばす。
しかし、相手は血がついた手を此方へ突き出し、藤花の接近を拒んだ。
「すまない、お嬢さん・・・・・・私には近付かない方がいい」
「えっ」
想像よりも高く澄んだ声に、思わず驚きの声が漏れた。
(女の人、だったの?)
婦女子の社会進出が著しい昨今ではあるが、女性の警吏は初めて見る。
(でも、私より綺麗だわ・・・・・・)
刈り込んだ髪も、淡い唇も、街灯の下で艶やかに輝いていて――
「って、そんな場合じゃなくて」
思わず思考が逸れた自分を叱咤し、懐から手拭いを取り出す。
粗末な白地の木綿に、下り藤の紋を刺繍している愛用の品。
幼き頃に母から教えてもらった『おまじない』を、藤花は身の回りの物に施していた。
「取りあえず、血を止めなきゃ」
「いや、この傷は・・・・・・」
尚も抵抗する相手を余所に、傷を手拭いで押さえる。
布地は刺繍ごと赤黒く染まるが、暫し押さえ続けていると、出血は止まったようだ。
「ふぅ・・・・・・」
(良かった)
動脈を傷付けていたら――との杞憂は取り払われて、一息ついた。
「あとはお医者様を・・・・・・」
きょろきょろと辺りを見渡すが、周囲に街灯の明かり以外は見つからない。
(この時間に空いている病院なんて、無いわよねぇ)
むしろ、警吏らしき彼女の方が、医師を探す伝手はあるだろう。
「あの、お医者様のとこまで行けますか? それとも、呼んできましょうか?」
再び身を屈め、女性の顔を覗き込むが。
「まさか・・・・・・」
女性は何かを驚いている様子で、藤花が結んだ手拭いをまじまじと見つめていた。
次いで、此方の顔を見上げる。
「もしかして君は」
「葵殿ぉ!」
「ひぃっ」
野太い声に、思わず身を竦ませる。
声の方を向けば、幾人かの男達が見えた。
袴だったり詰襟姿だったりと、格好は皆違うが、誰もが筋骨たくましい。
「ここにいたぞ!」
「早く家の者を!」
複数の男達が、鬼のような形相で此方へと駆け寄って来る。
山のように大きく、地鳴りのような音さえ聞こえてくるようで――
「ご、ごめんなさぁい!」
藤花は思わず逃げ出した。
まだ十代の女子――しかも、華族令嬢として育てられた藤花には、刺激が強すぎた。
押し寄せる屈強な男達――先程までの嫌な気配や流血沙汰よりも恐ろしい光景であった。
きっと、あの『葵殿』と呼ばれた女性は、彼等に助けられているだろう――そう信じることにした。
一目散に逃げた藤花は、夕食や身づくろいも忘れて布団をかぶる。
そうして、明るくなるまで震えることしかできなかった。
「そろそろ帰ってはどうだ」
耳元で囁く声に、慌てて周りを見渡せば、すでに日は落ちていた。
男とも女ともつかないしわがれた声に礼を返そうとしても人影はなく、墓石の影で猫の尻尾が揺れるのみ。
吹く風に身を震わせ、小走りで墓地を後にした。
帰り道は、すでに足元が見えない程に暗い。
街灯の輝きだけが、心の支えであった。
(寒いし暗いし・・・・・・早く春になってほしいわ・・・・・・)
先程までの出来事に加え、季節のせいで、気持ちが滅入ってしまう。
両手を擦りながら、家路へと急いだ。
人の気配はなく、歩いているのは藤花一人だけ。
近年、治安が良くなってきたとはいえ、夜に子女が出歩くなど推奨されない時代、不安もある。
(まあ、こんな私なんて、誰も見向きしないでしょうけど)
見るからに『貧乏令嬢です』と宣言しているような恰好の藤花など、物盗りも襲わないだろう――そう思うと、少しは気が楽になった。
(それより・・・・・・これから、どうしたら良いのかしら)
思い出すのは、先程の大輔の台詞。
大輔の婿入りは、高鴨子爵家と氷室家の正式な契約だったはず。
弁護士さんに、書類を作ってもらっていた。
彼があのような事を言ったのは、氷室家も了承済みなのだろうか。
藤花の父――高鴨家の当主が亡くなった今、その契約も無効なのだろうか。
難しい事を考えていると・・・・・・自然とお腹が空いてしまう。
それに、今日は母の一周忌を迎えるため、朝から支度をしていたから、お昼を食べていないのだ。
・・・・・・結局、約束していた時間に大輔が来なかったから、藤花は一人でお坊様を迎えたわけだが。
(今日はやけ食いよっ。残っていた干し椎茸も使っちゃいましょう。お出汁を取って、残りは・・・・・・)
普段は慎ましやかに暮しているが、今日は悲しみや怒りの気持ちが強い。
夕飯の事を考えていると、心も弾み、足取りも早くなる。
長い坂道を降り、人気のない商店街を通り抜け――
「うぅ・・・・・・」
背筋にぞわりと走るものがあり、ふと足を止める。
冬の冷気とは違う、生温くとも、背筋が凍りつくような感覚だった。
(なにこれ・・・・・・)
空気も澱んでいるような感じがして、思わず顔を顰める。
周囲を見渡しても静かで、人の気配がない。
(やだなぁ・・・・・・通りたくない・・・・・・)
藤花が立つ大通りからは、明るければ寺社や大池が一望できる。
この道を真っすぐ進めば、住宅街に辿り着き、高鴨家の屋敷もある。
あと少し、あと少しのはずなのに、一歩進むことがどうしてもできない。
この先に、恐ろしい『何か』が存在する気がして・・・・・・。
(回り道する? でも遠いし・・・・・・)
横道に逸れようかと見渡していると――
「・・・・・・あら?」
大通りの端に並ぶ街灯の一つに、藤花の目は釘付けになる。
(何しているのかしら?)
街頭に寄りかかるようにして、誰かが座り込んでいた。
最初は酔っ払いかと思ったが、よくよく目を凝らせば、腕からは血が滴っているように見えて――
「いやだ、怪我しているじゃない」
先程までの恐怖や怯えは吹き飛んで、思わず駆け出していた。
その人物は、薄墨色の詰襟を着ており、藤花に警吏を連想させた。
細身で、歳も若く見える。
帽子を深くかぶっており顔は見えないが、苦しそうに喘いでいた。
「あの、大丈夫ですか? 他の方は近くにおられますか?」
取りあえず、相手が押さえている左腕――血が滲む箇所の手当てを、と藤花は手を伸ばす。
しかし、相手は血がついた手を此方へ突き出し、藤花の接近を拒んだ。
「すまない、お嬢さん・・・・・・私には近付かない方がいい」
「えっ」
想像よりも高く澄んだ声に、思わず驚きの声が漏れた。
(女の人、だったの?)
婦女子の社会進出が著しい昨今ではあるが、女性の警吏は初めて見る。
(でも、私より綺麗だわ・・・・・・)
刈り込んだ髪も、淡い唇も、街灯の下で艶やかに輝いていて――
「って、そんな場合じゃなくて」
思わず思考が逸れた自分を叱咤し、懐から手拭いを取り出す。
粗末な白地の木綿に、下り藤の紋を刺繍している愛用の品。
幼き頃に母から教えてもらった『おまじない』を、藤花は身の回りの物に施していた。
「取りあえず、血を止めなきゃ」
「いや、この傷は・・・・・・」
尚も抵抗する相手を余所に、傷を手拭いで押さえる。
布地は刺繍ごと赤黒く染まるが、暫し押さえ続けていると、出血は止まったようだ。
「ふぅ・・・・・・」
(良かった)
動脈を傷付けていたら――との杞憂は取り払われて、一息ついた。
「あとはお医者様を・・・・・・」
きょろきょろと辺りを見渡すが、周囲に街灯の明かり以外は見つからない。
(この時間に空いている病院なんて、無いわよねぇ)
むしろ、警吏らしき彼女の方が、医師を探す伝手はあるだろう。
「あの、お医者様のとこまで行けますか? それとも、呼んできましょうか?」
再び身を屈め、女性の顔を覗き込むが。
「まさか・・・・・・」
女性は何かを驚いている様子で、藤花が結んだ手拭いをまじまじと見つめていた。
次いで、此方の顔を見上げる。
「もしかして君は」
「葵殿ぉ!」
「ひぃっ」
野太い声に、思わず身を竦ませる。
声の方を向けば、幾人かの男達が見えた。
袴だったり詰襟姿だったりと、格好は皆違うが、誰もが筋骨たくましい。
「ここにいたぞ!」
「早く家の者を!」
複数の男達が、鬼のような形相で此方へと駆け寄って来る。
山のように大きく、地鳴りのような音さえ聞こえてくるようで――
「ご、ごめんなさぁい!」
藤花は思わず逃げ出した。
まだ十代の女子――しかも、華族令嬢として育てられた藤花には、刺激が強すぎた。
押し寄せる屈強な男達――先程までの嫌な気配や流血沙汰よりも恐ろしい光景であった。
きっと、あの『葵殿』と呼ばれた女性は、彼等に助けられているだろう――そう信じることにした。
一目散に逃げた藤花は、夕食や身づくろいも忘れて布団をかぶる。
そうして、明るくなるまで震えることしかできなかった。
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