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第四部
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1 友人たちの結婚式
芳香は真菜の結婚式に招かれている。彼女たちの結婚式は、ごく普通に結婚式場のチャペルで愛を誓った後、そのまま披露宴会場でお色直しを2回ほどして、友人たちのスピーチやそれぞれの子供の頃のアルバム、出会いの編集されたムービーを観て賑やかなうちに終わった。
真菜は結婚式に特別こだわりなかったようで、お互いの両親が納得する式であれば良しとしていた。
女性なら夢見るだろうウエディングに「みんながいいならそれでいい」と真菜は面倒がっていた。
それでもお色直しでスモーキーなピンク色のドレスを着た真菜はとても可愛らしく美しい。真菜はドレスも勿論普段の洋服も案外シンプルなものが好きで、乙女チックな装いにはあまり興味がない。顔立ちも雰囲気もフェミニンでそういった装いが似合うのにしないことがとても芳香はもったいないと思っている。それでもTPOを考え、上手に周りと合わせられる真菜の今日のドレスは誰が選んだのかわからないがよく似合っていた。
初めて見る、話だけは聞いていた新郎の和也を見る。彼は爽やかな笑顔の好青年だ。サッカーのコーチをしているという彼は朗らかで明るく体格もがっしりしていて、柔らかい可愛らしさもつ真菜にぴったりだ。
絵にかいたようなお似合いの二人を眺めていると芳香もとても幸せな気分になった。
披露宴の後、すぐに新婚旅行に出かける真菜から「来てくれてありがとう」と笑顔で引き出物を渡されて芳香は帰宅した。
引き出物は『銀華堂化粧品』のバスセットとガラスのペア小鉢が入っていた。
バスセットの中身はソープとシャンプーとリンスでこれらは薫樹が香り付けしたものだ。
「いい香り」
優しい甘い香りを嗅いで、ガラスの小鉢をさっと洗い棚にしまった。
「私も、いつか……」
自分の隣に薫樹が並んでいることを想像する。以前、彼から結婚を視野に入れている話をされたが現実感がなかった。いまでもあまりにも夢のようで実感が沸かないが、一生を共にする相手が薫樹でありますようにと芳香は願う。
そして今日見た幸せな真菜のようになりたいと祈った。
同じような時期に清水涼介と環の結婚式が行われた。
薫樹も招待されて参加している。
涼介と環の結婚式は、環の育った施設の近くの総合運動場を貸し切って行われたかなり規模の大きいものだ。
だだっ広い広場にチャペルを作り、何席ものテーブルが運ばれ式は行われる。
環の装いはシンプルなAラインのドレスで丈も短めだ。彼女のスタイルの良さがよく引き立ちしかも飾りっ気がないことが凛とした美しさを強調している。彼女を見ると息をすることを忘れて見入るだろう。招待客は著名人はもちろんのこと、彼女の育った施設の職員、子供たちも呼ばれている。環はこの施設の子供たちにとってスターなのだ。おずおずと環を畏怖するように子供たちは見上げる。
環は低くしゃがみ「いっぱい食べてね」と笑顔で微笑んだ。
涼介はその様子を微笑ましく見守り、王子らしくエスコートし笑顔を振りまく。
「兵部さん、ようこそ」
「清水君、いい式だね。環も幸せそうだ」
「ありがとうございます。兵部さんの式、呼んでくださいよ?」
「ああ、もちろんだ」
明るく社交に勤しむ環を見ながら薫樹はふむと頷き「さすが人慣れしているな」と感心した。
涼介も同意する。
「まあTAMAKIはみんなのTAMAKIですからねえ」
「確かに」
「でも環は俺のものですからね」
「なるほど。君は案外独占欲が強いんだな」
「うーん。もともとそうじゃなかったと思いますけどね」
環も印象が柔らかく優しく変わったが、涼介もまた少しずつ変わりつつあるのだろう。
「これからはミント王かな」
「はははっ。いつか皇帝にまでのぼりつめますよ。じゃ、楽しんでってください」
ウィンクをして涼介はまた社交の渦に入っていく。二人を眩しく見つめながら薫樹は芳香の事を想う。そしてこの式が終わったら会いに行こうと考えていた。
2 小さな狭い部屋で
夕方、チャイムが鳴り、出ると薫樹が立っていた。
「え、し、薫樹さん、どうしてここに?」
芳香のアパートの住所を教えてはいたが、小さく狭い部屋なので薫樹を招いたことはなかった。
「お邪魔していいかな」
きちんとスーツを着て、光沢のある綺麗な紙袋を下げている。
「えっと、狭いですけど、どうぞ」
断る理由が見当たらず芳香は薫樹を部屋に招き入れるとふわっと部屋中が森林浴のような香りに包まれる。
「ふぁあ、いい香り……」
一瞬、ぼんやりとしたが薫樹を促し、藍染の座布団を出して座らせる。
「いい部屋だな」
「え、そうですか?」
「うん、こざっぱりとして」
「狭くて物がないだけなんですけどね……」
1DKのアパートは必要最小限のものしかなかったが、こまめに掃除され、清潔感があり、生成りと藍色で構成された部屋は薫樹にとって居心地がよいらしい。
「清水君と環の結婚式はなかなかよかったよ」
「へえ、社交界みたいなんでしょうねえ」
芳香と薫樹は二組の結婚式の感想をそれぞれ言い合った。夢見るようなうっとりする芳香の表情を見ると薫樹はなんだか身体が熱くなるのを感じ、ネクタイをほどいてジャケットを脱いだ。
「あ、それ、かけますね」
ハンガーを出し、ジャケットを手に取るとする芳香の手を薫樹は握る。
「あ、あの」
「芳香」
グイッと引っ張られ芳香は薫樹の胸元に抱かれる。ふわっと香りに包まれながら、唇も包み込まれ甘い口づけが交わされる。
「あっ」
薫樹は芳香のカットソーをブラジャーごとめくり上げ、胸の間に顔をうずめる。
「あ、やっ、い、きなり、だ、だめ」
「なんだか今日は待てない」
いつもよりも力強く両乳房を揉みしだかれ、つんと張り詰めた乳頭を舐められ甘噛みされると芳香の腰の力が抜けてしまった。
「あ、んん、だ、だめ……あ、ん」
部屋に怪しい香りが立ち込め始める。狭い部屋はセクシーな麝香の香りで満ちてきた。
「これは……たまらないな」
散々乳房を弄んだあと、薫樹は芳香のスカートに手を入れパンティーをはぎ取る。
「あ、え? え?」
芳香はいきなりの愛撫と珍しく強引な薫樹に戸惑いを隠せない。
「いいものがある」
パンティーを脱がせた後、薫樹は引き出物の中から、小さな箱を取り出した。
「これも清水君が香り付けしたものらしいよ」
「え、そんなものが……」
グローバルな二人は引き出物にコンドームを入れていた。『不用意なセックス』は子供たちにとって不幸になることであると施設で育った環はよく知っている。
コンセプトに感心している芳香を横に、薫樹は愛撫の手を緩めない。スカートの中に潜り込み、芳香のムスクが漂う香りの元へ顔をうずめる。
「きゃっ」
香りを嗅ぎながら、舌を内部にねじ込み、蜜を出させ、舐めとる。芳香は性急な強い刺激に足をびくびく痙攣させた。
「あん、ああん、も、もう……」
「欲しくなってきたかい?」
すっかりと濡れそぼり、熱くひくつく蜜源を二本の指で浅く深く出し入れしながら薫樹は香りを堪能している。
「あ、ん、ほ、欲しい……」
「どうしようか……。先にイキたい?」
尋ねられたが芳香にはもう欲しいと思う気持ちしかなかった。いつも絶頂を迎えることはあったがまだ二人は繋がっていない。
「いやっ、もう、もう、お願い。抱いて……欲しい」
「そうだな……」
哀願する芳香をにもう一度キスをする。薫樹は硬くなったペニスをぐっと芳香の蜜口に突き立てる。
「んんっ」
「痛い?」
抵抗を感じ、薫樹は動きを止めたが、芳香はふるふると顔を左右に振り、「も、もっと、お願いです。奥まで……」と挿入をせがむ。
薫樹は少し力を込めて内部へ突き入れた。
「あああっうっぅう」
「んっ。全て、君の中にはいったよ」
紅潮させ汗をにじませた芳香は嬉しそうに「や、やっと……」と呟いた。
「ああ……気持ちいいものだな。知らなかった」
「あ、わ、私も、すごく、気持ちいいです」
「辛くない?」
喘ぎ喘ぎ言う芳香の髪を撫で薫樹は頬にキスをする。
「今まで、あ、ん、時間、かけて、くれて、たっ、から、辛く、ないです」
「そうか」
口づけを交わしながら腰を動かすと快感が増してくる。
「うんむっぅ、ふっ、あ、あああん」
「芳香、芳香――可愛いよ」
「あ、ん、薫樹、さん、あっ、す、好きっ」
初めてなのに強い快感と興奮が芳香に腰を振らせる。
「ああ、淫靡だ――」
「あん、あんっ、ああんっ」
中途半端に脱いだ服が邪魔になり、全部脱ぎ去った。狭い部屋で、寝具もないコットンのラグの上で二人は交わる。
薫樹は芳香の香りと肌と快感に溺れまいと力強くくびれた腰を持ち、前後に動き、突き入れるが、快感が増すほどに彼女のムスクの香りが強まりくらくらする。
「ああ、素晴らしい香りだ」
「あ、あ、も、き、もちよくて、わかん、ないっ」
くらくらしながら薫樹は芳香の花芽をいじるとビクンとした振動が伝わる。唇を噛んで声を出さまいとしていた芳香が「くううっ」と呻き脱力した。
「ああ、い、クっ――」
芳香の身体になだれ込む様に薫樹は倒れ、頬と頬をすり合わせ、耳元で囁く。
「芳香。愛してる」
混じりあった芳香と愛の言葉で満たされたこの狭い部屋を最高のスィートルームのように感じた。
3 残り香
初めて恋人同士の契りを交わした後、芳香は薫樹の胸の上で肌の温かさとフィトンチッドの香りを楽しんでいた。
落ち着きを見せる香りに薫樹は芳香の髪を撫でながら「突然ですまなかった」とわびる。
「いえ――嬉しかったです」
今まで用意周到に準備をしたことがまるで嘘だったかのように二人は唐突に結ばれた。しかしこれまでの過程があったからこそ今夜結ばれることが出来たのだとも思っている。
「不思議だな。身体を重ねると、また君が欲しいと思い始めた」
「私もそうです」
芳香の肩を抱く腕に力が込められた。
「今度、僕の家族に会ってほしい」
はっと芳香は薫樹を見上げた。
「――はい」
薫樹の家族と会い、そのあと自分の家族に会ってもらおうと芳香はこの腕の中が現実のものであることをやっと実感していた。
明日の仕事の準備があるので薫樹は少し眠り朝早く帰って行った。芳香は去って行く薫樹の後姿を見送り、部屋に戻るとまだ二人の交わった香りが残っていることに気づく。だんだんと薄らいで消えていく香りだが、甘く切なく余韻を残す。
「この香りは私と薫樹さんの……」
さっきの乱れた自分を思い出して顔を赤らめる。芳香の部屋は一階の角部屋で、ちょうどいま隣の部屋が空いている。
少しだけほっとして、もう一度部屋の香りを吸い込んだ。
初めての情事をまた反芻する。もう香りはほとんどなくなっているが、身体には薫樹の感触が残っている。
下腹部のちょっとした違和感が芳香に薫樹に抱かれたことが現実だったと思い出させる。
「薫樹さん……」
次に会えばまた抱かれるのだろうかと芳香は恥ずかしい気持ちと期待感を同時に覚える。
「また嗅ぎたい……」
お互いの香りは、お互いを心地よくさせる香りだが、交わると淫靡で官能的で甘く切ない。
出勤の時間が迫ってきた芳香は慌てて支度し、部屋の香りに後ろ髪をひかれながら仕事に向かった。
4 重なる芳香
無機質な寝室がルームフレグランスとラブローションと二人の体臭とで一気に有機的な、動物的な部屋に変わっている。
どんなに淡白な人間でもこの部屋に一歩入り、この香りの洪水に巻き込まれれば即、発情してしまうだろう。
薫樹は芳香の爪先を丹念に口づけ香りを嗅ぐ。はじめの頃の実験のように爪先から、踵、膝、脛をサラサラと撫で上げ、舐める。
芳香はすでに薫樹と騎乗位で繋がっていて、足の愛撫に喘いでいる。
「あんっ、ああんっ、あうっ、うっ、あっ、ああんっ――」
「こんな香りに満ちたことは人生で一度もないな」
薫樹は芳香の香りを堪能しながら悦に入り、芳香は薫樹の上で、腰をくねらせ快感を深く味わっている。
「ああ、そこが、気持ちいいのか……」
「あっ、は、い、ここ、き、もちい、いっ」
まだセックスに慣れていない二人は快感を探り合っているところだ。薫樹は芳香を上に乗せ、彼女自身に快感のポイントを探らせている。
少し背中をのけぞらせ、彼女は一定の場所を薫樹の剛直でこすっている。
「恐らく、そこはGスポットと呼ばれているところだろう」
「あ、あっ、あん、ここ、が?」
「なんとなく、わかったから僕が動こう」
身体を起こし、芳香を抱きかかえ、薫樹が上になる。足を開いたまま両膝を抱えさせ、薫樹は腰を固定するように持つ。
狙いを定めゆるやかに、しかしリズミカルに腰を打ち付ける。
「やっ、はあっ、ああっ、き、き、、もちっ、いっ、あっ、あっ――」
「ああ……いい具合だ。香りも強くなってきた……」
遅咲きの二人は香りと快感に溺れて夢中で抱き合う。
ラブローションで肌と肌は滑りよく、結合部分は卑猥な水音をたてる。
「あっ、なん、か、で、出ちゃう、うぅっ」
「出る、のか。出したら、いい――んん」
ぎこちない動きが油を注された歯車のように規則正しく、一定のリズムを刻む。
「も、もぅ、だ、め、あっあっ――」
「――」
芳香の終焉に向け、薫樹は動きを早めると彼女の内部の痙攣が伝わってくる。
「あううっ、ふっ、ううっんん――あ、ああん」
「くっ、うっぅ、むっ、うぅ――」
数秒遅れて薫樹も身震いし、放出した。
身体を重ねたまま、離れず口づけを交わす。
パウダリーで濃厚な花の香りが段々と弱まり、深い森林の湿り気を帯びた空間に変わっていく。
「芳香。とてもよかった」
「私も、こんなに気持ちのいいことが世の中にあったんですね」
「うん。独りではとても知りえなかったな」
激しい時間の後ゆったりとクールダウンさせるようにお互いの身体を撫で合い、感想を言い合った。
「シャワーする?」
「そうですね。結構汗かくものですね」
「君の匂いはソープで洗いたてのようなのに。全く不思議なものだ」
流すのが名残惜しいように薫樹は芳香の胸元の香りを嗅ぐ。芳香は薫樹のてのひらを頬に当て指先を鼻先で弄んでいる。
二人の香りは洗い流されるが、今やすぐにでも生み出される名香になっていた。
5 芳香の実家
二人で話し合った結果、まずは芳香の実家へ挨拶に行くこととなる。
芳香の実家は人口が10万人に満たない、いわゆる小都市で、隣町の産業により経済が成り立っているようだ。
「ね、田舎でしょう?」
「そうでもないよ。ちゃんと店もあるし、生活には困らないだろう」
子供の頃と違って量販店も増え、高校生などは都会と変わらないファッションにはなっている。
「町も田舎も変わらないのかもしれませんね」
「うん。インターネットもあるし、かえってこれぐらいの方がごみごみしてなくていいかもしれないよ」
確かに人の歩くスピードや、車の速度がゆるやかかもしれない。
同じような建物が並ぶ集合住宅の一つの前に芳香はとまり、「ここです」と指を差した。
薫樹はネクタイを締め直しているが緊張感はなさそうだ。寧ろ芳香の方が自分の家族だと言うのに緊張し始める。
実家なのにチャイムを押す。
「ただいま。私よ。芳香」
がちゃりとドアノブが回ると勢いよくドアが開き「おっかえりー」と元気よく若い女性が飛び出してきた。
「わっ、桃香、ただいま。こちら兵部薫樹さん」
「よろしく。兵部です」
芳香の妹の桃香は薫樹を目の前にして一瞬固まり、ほわっと呆けたかと思うと「お母さーん!おねーちゃんがめっちゃイケメン連れてきたー!」とドタバタと家の中に駆け込んでいった。
「や、やだ、もうっ!す、すみません、どうぞ、入ってください」
「フフ。元気な妹さんだね」
恥ずかしくて芳香は赤面しながら薫樹を玄関に入れドアを閉めた。
そこへ芳香の母親がパタパタとスリッパを鳴らしてやってくる。
「よ、ようこそ、芳香の母です。おあがりください」
「兵部薫樹です」
母親の美津子は薫樹を出迎えるべく、新調したワンピースの花柄よりも、芳しい花が降ってきたようなうっとりした表情で薫樹をリビングに促す。
「ただいま……」
「あ、おかえり、芳香」
薫樹の陰にすっかり芳香は隠れてしまったようだ。ハッと自分の娘に美津子は気づいて丸い頬に手を添え照れ笑いをする。
「お父さんは、もう30分くらいしたら帰るから、ちょっとお茶でも飲んで待っていてね」
「うん」
リビングはソファーとテレビとこまごましたものが置かれ生活感がありありと見える。
久しぶりの雑多な雰囲気の実家に芳香はあまりくつろげない。薫樹が嫌ではないだろうかと様子をうかがうが、彼は相変わらず無表情でどう感じているかわからない。あまり頓着がないのかもしれない。今日のために買っただろう高級な緑茶は、普段入れ慣れていないため苦くて熱い。
「あ、薫樹さん、美味しくなかったら、無理して飲まなくていいですよ」
「ん?」
大人しく飲んでいる薫樹に耳打ちしていると、桃香が目の前にどっかりと座る。
「それ、あたしが淹れたんだけどー」
「あ、ありがと……」
「ありがとう」
薫樹が微笑みながら礼を言うと桃香は大きく巻いた髪を指でくるくる回して得意そうな顔をする。相変わらず派手な妹のショート丈のスカートに目をやり、芳香は、はあっとため息をつく。桃香は薫樹と話したくてしょうがない様子でそわそわしているが、さすがに両親に大人しくしていなさいと言われているようでチラチラ薫樹を盗み見るだけのようだ。
どうやら父親が帰ってきたようで玄関先でなにやら話し声が聞こえた。母親が何やら進言しているらしく父親はまっすぐにリビングに入らず洗面所へ向かって戻ってきた。
髪を整え、髭をそりなおした父親がネクタイを直しながらリビングに入ってくる。
薫樹はさっと立ち上がり頭を下げた。
「父の柏木敬一です」
「兵部薫樹です」
薫樹は改めて自己紹介し、名刺を差し出すとリビングはふわっと柑橘系の甘酸っぱい果樹園のような香りに満ちる。
「ふぉっ!」
父親は会社のように威厳を持った様子から一変してリラックスし、一瞬で仕事の疲れが癒えたような表情でソファーに座り込む。
「これはお土産です。うちの会社の詰め合わせですが」
「ああ、これはこれは。おーい、母さん、兵部さんから頂き物だぞ」
母親の美津子がまたパタパタとスリッパを鳴らしてやってくる。
「まあまあ。ご丁寧に。ちょっと落ち着いたら予約している『花御前』にいきましょう」
「やったー! 花御前だあー!」
「これっ、桃香」
母親にたしなめられたが、桃香はすでに薫樹の手土産を物色し、ローションや美容液などを自分のものにしている。
ちらっと美津子はその様子を見ながら今は黙っているが、薫樹と芳香が帰れば争奪戦になることだろう。
自分の家族をどう思われただろうかと芳香は気が気ではないが、薫樹はマイペースにくつろいでいるようで不快ではないようだ。
薫樹をどう思われるかなどは全く心配していない。母と妹の様子は想像がついていたし、父にしてみてもこれ以上の相手などどこをどう探してもいないと思うに違いなかった。
とりあえず、障害になるような家族の反対はないだろうと芳香は安堵している。
美津子が芳香を手招きしそっと耳打ちする。
「お座敷予約したけど平気なの? 電話では大丈夫だって言ってたけど」
芳香のスリッパを履いた爪先を見て、美津子は心配そうに言う。
「うん。そのことも話そうと思ってたんだ。あのね、薫樹さんが治してくれたの」
「えっ!? 治った? 匂い消えたの?」
「んー、消えたんじゃないけど改善したの。もう悪臭にはならないの」
「へええー」
目を丸くして美津子は敬一と桃香に報告すると二人とも同じく目を丸くする。
「ほおー。それはすごいな。わたしはてっきり内緒にしてるものだと……」
「調香師ってそんなにすごいのー? 医者でもダメだったのに」
「よかったわ。よかったわ」
美津子は涙ぐんでいる。
薫樹は芳香の家族もこれまで彼女の悪臭に胸を痛めていたことを知った。
「ありがとうございます。芳香の足の匂いを治していただいたばっかりか、結婚までしてもらえるなんて」
ばっちりしていたメイクが崩れ、直すのに時間がかかりそうだが美津子はお構いなしでよかったよかったと涙ぐみながら鼻をかんでいる。
「お母さん……」
母親が自分の足の匂いが改善されたことをそんなに喜ぶとは芳香は夢にも思っていなかった。もっとドライだと思っていた母親の愛情を感じて胸が熱くなる。
「芳香さんは、素敵な女性です。結婚を許してもらえますか?」
薫樹が静かに告げると、「もちろんです! 芳香には本当にもったいないぐらいです。どうか、よろしくお願いいたします」と敬一は最敬礼で頭を下げた。
普段、軽薄な桃香まで「よかったね、おねーちゃん!」とガッツポーズを決めている。
「みんな、ありがとう」
芳香も今更ながらに、苦労してきた自分の人生を振り返る。そしてこれから新しい人生を薫樹と作り上げていくのだと実感した。
6 兵部家の一族
薫樹の両親の住まいは、芳香の実家など都会に見えるほど山奥にあった。駅から家に一番近いバス停まで1時間かかり、さらに日に2本しかない。またそのバス停から30分歩くそうだ。芳香がレンタカーを借りようかと提案したが、ナビでもわかりにくい場所で車が通れないほどの細い道もあり、迷いやすいようなので公共機関を使うことにした。
おかげで結婚前の挨拶だと言うのに山歩きのような格好になっている。
薫樹は芳香を実家に連れて行くのは大変だから町まで両親に出てきてもらおうかと思ったが、父がタイミング悪くぎっくり腰になってしまった。
それが治るのを待つとまた薫樹の仕事の都合もあり、機会を逃すので芳香を伴い山奥の実家へ連れて行くことになった。
しっかりした足取りで二人は山道を歩く。
「薫樹さんが山育ちだなんて全然イメージがわきませんでした」
「今の実家はこの奥だが、住まいは何度か変わっているんだ」
「へえー」
薫樹の父親は染織家で母親は染色家である。二人は織と染めに都合の良い場所を求めてあちこち転々とし居住を変えてきた。
兵部家の男は代々、5感のどれかが程度の差はあれ飛びぬけるため専門職に就きやすい。父親は触覚に優れており、手触りの良さを織物に求めこだわり続けている。
「はあー。薫樹さんは嗅覚がずば抜けていますもんねぇ」
「兄は聴覚に優れていてね。調律師をやっている」
「はあー。すごいエキスパート一家ですねえ」
「どうかな。一代限りで後が続かないしね。父親のこだわりのおかげで苦労も多かったからね」
「苦労ですかあ……」
凡人には理解しかねると芳香が首をかしげていると、ことんかたんと小気味の良い規則正しい音が聞こえる。
「機織りの音だ」
ガサガサと草をかき分けると、開けた土地に出、かやぶき屋根の古民家が現れる。
「うわあ。こんなお家、雑誌でしか見たことないやあ」
下から上まで見上げていると、薫樹がガタガタと引き戸を引き、土間の玄関から声を掛ける。
「帰ったよ」
しばらく待つとするすると和服を着た女性が「あら?」と声をあげた。
「ただいま、母さん」
「おかえり……」
一つにまとめて結い上げた髪の毛を触りながら薫樹の母、瑞恵は芳香に目を止めた。
「まあっ! 今日だったのかしら?」
芳香は頭を下げ「は、初めまして。柏木芳香と申します」と挨拶をすると、瑞恵は「まあまあっ! 可愛らしいお嬢さん」とすぐさま近づいて芳香の手を取る。
するっと滑らかでしっとりした手に芳香はびくっとするが、瑞恵の吸い付くような肌が彼女の手にまとわりつく。
「な、なんて美肌……」
父親の触覚がすぐれているということがよくわかる。恐らくこの肌の質感は薫樹の父親にとって最高とみなされたものなのだろう。
「母の瑞恵です。どうぞ、どうぞ。おあがりになって」
薫樹の色の白さは瑞恵から受け継いだものだろうか。顔立ちは薫樹よりももう少し柔らかく、丸い瞳にぽってりとした丸い唇だ。
客間に通されじっと待っていると、和服姿の男性が腰を押さえながらやってきた。
「あたた。お帰り、薫樹」
「ただいま。会ってほしい人を連れてきました」
「は、初めまして。柏木芳香と申します」
瑞恵にしたように同じく名前を告げ、正座を正す。
「私は父の兵部絹紫郎です。薫樹が女性を連れてくる日が来るなんてなあ」
「ほんとですね。薫樹はこだわりが強い子ですからねえ」
絹紫郎と瑞恵は芳香がどんな女性かを、薫樹の結婚相手にふさわしいかなどは全くお構いない様で、連れてきたと言うだけで満足らしい。
父親の絹紫郎と薫樹は顔立ちがよく似ている。眼鏡をかけておらず、着流しの紺の和服が良く似合っていて品よく美しいところがそっくりだ。違いと言えば少し日に焼けていて精悍な雰囲気を持つところと、紫がかった漆黒の絹糸のような艶やかな長い髪を一つに束ねていることだ。自分の父親と同じ人間とは思えないと芳香がぼんやり眺めていると、瑞恵が「どうしましょう」と声をあげた。
「どうかしたの? 母さん。お茶くらい出してくれないかな」
「あらっ、出してなかったわね。ふふふ」
「で、どうしたの」
瑞恵は再度ハッとし慌てて言う。
「今日ってわかってなかったから、何の食事の用意できてないわ」
「うーん。うっかりしていたな……」
「……」
慌てているようだがおっとりとした二人はそれほど動揺しているようには見えないが瑞恵は「困ったわ」を連発している。
そこへ外から男女の声がかかった。
「ただいまー」
「ただいま帰りましたあー」
薫樹の兄、透哉とその妻、鈴音だった。
7 続・兵部家の一族
襖をスッと開け、透哉と鈴音が顔を出す。
「ただいま。ああ、薫樹、ついていたのか。歩くのが早いな」
「おかえり、兄さん。お久しぶりです。義姉さん」
「こんにちは。薫樹さん」
透哉は視線を芳香に向け微笑む。彼は母親似らしく、丸顔で童顔だ。愛嬌の良さそうな笑顔で透き通るような声をしている。妻の鈴音も小柄でふっくらとしているがぱっちりとした目がより可愛らしく若々しい。
「紹介するよ。柏木芳香さん。結婚しようと思っている」
「初めまして。よろしくお願いいたします」
芳香はまた慌てて頭を下げると、兄夫婦は気さくな様子で「こちらこそー、薫樹をよろしくね」と歌うように言う。
薫樹が透哉は調律師だが鈴音は民謡教室の先生だと紹介してくれた。なるほど透哉はスーツだが鈴音は和服で彼女の声は優しく耳に心地よい。
鈴音が持っていた保冷バッグを開き、「これ、お土産です。生徒さんがくれたものですけど多かったのでー」と豚肉の塊を取り出した。
瑞恵が「あらっ! これはいいものね。よかったあー」と手を叩く。
「どうしたんです? お義母さん」
鈴音がのん気な声を出すと瑞恵は気まずい表情をしながら言い訳する。
「うっかりしてて、お料理の用意何もしてなかったのよ。本当は薫樹と芳香さんのために腕を振るう予定だったんだけど……」
「えっ? お義母さんが作るんですか?」
「ええ、そうよ」
鈴音の複雑な表情を見かねて、透哉が瑞恵に尋ねる。
「母さんは何を作ろうと思ってたんです?」
「そりゃあ、うどんを打とうかと。あとお庭の野菜で何か創作するわよ?」
「うーん。うどんか……」
愛嬌のある顔立ちの透哉が難しそうな顔になった。父親の絹紫郎は腰を抑えながらリラックスした様子でいつの間にか寝ころんでいる。
事情が呑み込めない芳香に薫樹は説明を始める。
「すまない。芳香。うちはこういうことが不得手なんだ。母は……あまり家事が得意ではなくてね……」
「ああ、そうなんですかあ。でも、おうどんを打ってくださるって」
「うむ。唯一上手な料理だ」
薫樹の話に絹紫郎が加わる。
「母さんのうどんはのど越しが最高だからなあ。あれを食べるとほかの麺は食べられないだろう」
満足そうに言う絹紫郎に透哉は同意しながらも意見を述べる。
「確かにそうですけど、薫樹の結婚相手が初めてきたんですよ? 普通はうどんじゃないでしょー」
「ん? 鈴音さんが来たときってうどんじゃなかったっけ?」
「えっとー、一番最初は、家がここじゃなかったから、レストランで会食しましたよ」
「そうだったかなあ」
透哉の話を聞き、瑞恵は落ち込んでいるようだ。鈴音が朗らかにフォローのような感想を述べる。
「お義母さんのおうどんを最初にいただいたとき、すっごい美味しくてご馳走だと思いましたよ」
「あら、そう?」
少しだけ安堵の表情を瑞恵は見せたが、問題はまだ解決していない。
「今夜はどうする予定だったんだ?」
「菜園の白菜を煮て、冷ややっこでも食べればいいかと思ってました」
「まあ、私たち二人ならそれでいいんだがなあ」
薫樹の両親は食事にはあまりこだわりがないらしく、特に父の絹紫郎は口当たりがよければほぼ大丈夫のようだ。
未だお茶一つでない様子に、薫樹はらちが明かないだろうと思い芳香に相談する。
「芳香。君何かあるもので料理が思いつかないか?」
「ええっと、お肉とお野菜があるなら鍋なんかできそうですけど」
「さすがだな」
「えへっ」
薫樹が満足そうな表情で芳香を見つめた後、「母さん、今夜は僕らが食事の支度をしますよ」と静かに伝える。
「え? 薫樹が?」
「ええ。芳香が料理、得意なんですよ」
「あっ、ちょっ、得意なんて……」
「まあっ! お料理が得意なんて、素晴らしいわね!」
「へええー、これはいい奥さん連れてきたわねー、薫樹さん」
「うちは料理得意なものがいないからなあ」
「え、あ、あの……」
いつの間にか料理を担当することになり芳香は慌てるが、薫樹は「客のなのにすまない」と肩にそっと手をのせ指先で鼻の頭を撫でる。
「いえ、私は全然いいんですが、なんか、でしゃばっていいのかなと……」
気をもんでいる芳香の横で家族中が良かったと安堵している。
「いいんだ。寧ろうちの家族にとっては願ってもないことだろう。恥ずかしながら君のご家庭と違ってうちはこういうことに疎くてね」
済まなさそうな表情を見せる薫樹に芳香は彼も自分と同じように、家族や社会に対して気にすることがあるのだと知った。
マイペースで何事にもあまり頓着がないと思っていたが、薫樹は薫樹なりに思うところがあり、社会性もちゃんとあるのだ。
また一つ薫樹との距離が近づいたと思い芳香は嬉しかった。
芳香は張り切って食事の支度をしようと思い、瑞恵に台所とエプロンを借りることになった。
薫樹は菜園に行き野菜を取ってくるようだ。
兵部家は今夜のディナーを心待ちにしながら、宴の準備を始めた。
8 宴
囲炉裏を輪になって囲む。
梁からぶら下がった鍋掛に掛けられた鉄製の鍋からぐつぐつと煮える音がし、だしと肉の匂いが漂う。
「ああー、楽しみだわ」
「おいしそうな匂いですねえ」
瑞恵と鈴音は待ちきれない様子で鍋を見つめている。
ポン酢を入れた小鉢を芳香が配り終えると、薫樹が木の蓋をそっと外す。ふわっと湯気が立ち込め白菜と豚のばら肉がきれいに重ねられた薔薇のような中身が現れると皆が歓声を上げる。
「きゃー、おいしそうー」
「順番こ順番こ」
嬉しそうな家族の様子に芳香はほっとして全員の手に渡るのを待った。
「じゃあ、乾杯するか」
絹紫郎が、透哉に配らせた日本酒の入ったグラスを掲げる。
「乾杯」
「かんぱーい」
「乾杯っ」
一口、日本酒を口につけ、皆が箸を運ぶ。味はどうだろうかと芳香がうかがっていると、「美味しいー」と鈴音から声が上がった。
「よかったあ……」
「心配しなくても、君の料理はいつも美味しいよ」
「嬉しいです」
口当たりにうるさい絹紫郎も満足げに口に運んでいる。
瑞恵が「うちにポン酢なんてあったかしら」と不思議がるので薫樹が「それも芳香が作りましたよ」と返すと瑞恵は「ポン酢って作れるのねえ」と感心する。
「じゃあ、ここらへんで、わたしからお祝いの歌、お贈りしますね」
鈴音が立ち上がり、こほんと咳払いすると透哉が手拍子を打ち始めると「えんやぁ~」と鈴音が一声を発した。
朗々と響く歌声は軽やかに伸びやかに『祝い唄』を熱唱する。
初めて聞くプロの歌う民謡というものに芳香は圧倒される。鈴音が歌ったのは『木遣り唄』と呼ばれるものでめでたい席で歌われる唄だ。
声というものがマイクもバックミュージックもなく人を魅了するものだとは知らなかった。
透哉は手拍子を打ちながらも目をつむり、鈴音の声を自分の中に浸み込ませるように首を振ってリズムを取り、聞き入っている。
歌い終わった後、拍手の嵐が巻き起こり鈴音はぺこりとお辞儀をして座る。
「とても素晴らしかったです」
芳香が感動を告げると、鈴音がにっこり笑い、となりの透哉がそうだろうそうだろうと、うんうん頷いていた。
少し酒の入った透哉が鈴音ほどいい声の持ち主はいないと褒め始める。
「あら、透哉さん、ちょっと酔って来ちゃった」
鈴音がまた始まっちゃったという顔をする。透哉も薫樹と同様で自分の恋人を自慢したがる性質のようだ。
「鈴音に出会わなかったら、ずっとピアノだけの面倒を見てたんだろうなあ」
透哉はメーカー勤務でピアノを調律しているが、民謡を歌う鈴音との出会いによって和楽器のメンテナンスや調律も手掛けている。
素晴らしい声の持ち主の彼女との出会いは勿論、恋に結びつくものであるが、透哉自身の人生も広がりを見せたということだ。
透哉の話に聞き入っている芳香に鈴音がこっそり「透哉ってば自分にいい解釈ばっかりしてるのよ?」と笑って言う。
鈴音に言わせると、こだわりの強い透哉は楽器の中でピアノが最高だと言い張り譲らなかった。それはそれで構わなかったが、日本の楽器にも素晴らしいものがたくさんあり、繊細で美しいのだと知って欲しかった鈴香と出会った頃は言い争ってばかりだった。
「色々あってやっと偏見がなくなったみたいだけどね。困った人だったわよ。こだわりが強すぎて」
完璧な二人に見えたとしても、時間をかけて譲歩し、主張し、試行錯誤を重ねた結果、ぴったりな二人になっているのかもしれないなと芳香は寄り添う兄夫婦を見た。絹紫郎と瑞恵も今は穏やかなおしどり夫婦に見えるが出会った頃は違ったかもしれない。
自分と薫樹もいつかぴったりになりたいと芳香は将来を夢見た。
こうして素晴らしい兵部家の宴は終わりを告げる。
電車に揺られながら青々とした山を眺める。帰りがけに瑞恵から持たされたシルクの薄緑色のショールを首に巻き、その滑らかな手触りを芳香はうっとりと確かめる。
ショールは絹紫郎が織ったものを、瑞恵が草木染したものだ。絹紫郎が重要無形文化財保持者(人間国宝)になるほどの腕前の持ち主であることを芳香は幸いにも知らずに、ショールを何度も撫でまわしている。
「薫樹さんのご家族だけあって皆さんすごい方ばかりですね」
「そうかな。すごいと言うより偏っていると言った方がいいだろう」
「ま、まあ、そういう言い方もあるかもしれませんが、皆さん優しくていい人たちで安心しました」
「そうか。それなら良かった。自分自身へのこだわりが強いが他の人には寛容だからね。しかし疲れただろう」
「うーん、ちょっとだけ」
「少し眠るといい」
薫樹は芳香の頭を自分の胸元に引き寄せる。甘酸っぱい柑橘系の香りと森林の香りが交じり、芳香をたちまち眠りに誘う。
「ふわぁ、ちょ、とだけ。すみません……おうどん、美味しかったあ……」
「フフ」
安心して眠る芳香を見つめ、窓の外の流れる景色を眺め薫樹は早く二人きりになりたいと思っていた。
9 報告
新婚生活の落ち着いた真菜に芳香はお互いの家族に会ったことを話す。
真菜はほっとした様子で芳香の話を聞いているが、時々、顔が歪み苦しそうな表情をする。
「ねえ、真菜ちゃん、今日、具合が悪いの? もう帰ろうか」
心配する芳香に、真菜は手を左右にひらひら振り平気だと合図をしながら口を押さえる。
「あのね。妊娠したの。うっっぷ」
「えっ! そうなんだ! おめでとう!」
「ハネムーンベイビーってやつね。たまに吐き気がくるけど、わたしは楽な方みたい。ごはんも食べられるしね」
「そっかあ。でも、無理しないでね。早く帰ろうね」
「ありがと。まあ家に帰っても治るわけじゃないからねー」
そういわれると真菜はいつの間にかまつ毛のエクステもしておらず、爪も短くなっていた。化粧は元々薄いナチュラルメイクだが、アイメイクが大人しくなっていて、いつもアイスティーを頼むのにオレンジジュースを飲んでいる。
「真菜ちゃんがママになるのかあ」
「ふふふ。まさかこんなに早くそうなるなんてねえ」
もう少し新婚生活を味わいたかった真菜にとってちょっと誤算だったようだ。
「仕事どうする?」
「うーん。うちの会社って女性に優しい職場だから、育休とっても復帰しやすいんだけどさあ。なんか子供できちゃうと化粧品ってそもそも興味なかったなーって思い始めちゃって――辞めるよ」
「そうなんだあー」
「3年くらいなら生活レベル下げれば専業主婦でやってけると思うしね」
「生活レベルかあ」
「うん。化粧品とかネイルとかやめて服買わなきゃなんとかなるでしょ」
相変わらず潔い真菜を前にすると自分はまだまだ流されている気がする。
「ところでさ、芳香ちゃんも兵部さんについて行くの?」
「ん? ついて行くって?」
「えっ、聞いてないの? うーん……まずったかな……」
「なに? 教えて」
「結婚、するんだよね?」
「うん。たぶん。お互いの両親に会ったからそうだよねえ?」
「だよね」
「ついて行くって?」
珍しく歯切れの悪い真菜に芳香は不安を感じる。
「人事の子と話してたんだけど。兵部さん、フランスの有名メーカーから引き抜きの話が来てるんだって」
「フランス?」
「うん。この前出した香水がやっぱり高評価らしくてね。是非、調香師として迎えたいって話が持ち上がっているみたいよ」
「そう、なんだ……」
薫樹が調香した香水『TAMAKI』は思った以上に高評価であった。香水の本場であるフランスでも一目置かれるもので、珍しく日本人の調香師が世界進出したのだ。薫樹の勤める『銀華堂化粧品』は、並の企業からのヘッドハンティングには不快感を示し、応じないであろうが、自社の調香師が海外進出ともなれば会社にも箔が付くだろうと反対をしない。寧ろ勧めるほどのようだ。
「こんないい話、薫樹さん、断るわけないよね……」
「だから芳香ちゃんと一緒に行くのかなって」
「フランスかあ……」
芳香は薫樹と一緒に居たいと願ってきたが、それは今、ここでの話で、外国でとは想像もしたことがないため、混乱してしまう。
「ごめんね。余計なこと言って……」
「ううん。いいのいいの。話してくれるタイミングがなかったのかもしれないし」
「うん。うまくいってると、そういう事話すのが後回しになっちゃうのかもしれないね」
「ん……。そうだね」
真菜とまた会う約束をして芳香は薫樹のマンションへ向かう。いつもより重い足取りで。
薫樹のマンションに入ったところで電話が入り少し帰宅が遅くなると言われた。
部屋に入る前であれば、外で時間をいつもつぶすのだが、今日は部屋に入った後だった。
がらんとした無機質な部屋は素っ気なく芳香を迎える。ソファーに腰を下ろし、薫樹に来ているというフランス行きの話を考える。
「フランスなんて……」
フランスで生活することなど全く自信がない。今日、薫樹はこの話を聞かせてくれるだろうか。
実家から帰ってやっと二人でゆっくり過ごせる時が来たが、フランス行きの話が気になってしょうがない。
薫樹は帰宅すると真っ先に芳香を抱こうとするだろう。真菜にこの話を聞くまでは、芳香も薫樹に真っ先に抱いてもらいたいと思うだけだった。
気を重くしていると、ドアの開く音がし、スーッと静かな足音が洗面所へ向かい、水が流れる音が聞こえた。
薫樹が手と顔を洗い、涼介にもらったマウスウォッシュでうがいをしているのだ。
芳香はそっと両手で口を覆い、自分の息を確かめる。自分もさっき使ったばっかりのミントの香りが残っていることに安心して薫樹を迎えるべく、ソファーから立ち上がった。
リビングのドアが開き、スッと薫樹が入ってくる。スーツに一つの乱れもなく、眼鏡を少しだけ直し、美しい、薫り高い薫樹が手を広げる。
「芳香、ただいま」
「おかえりなさい」
芳香は薫樹の胸に飛び込み、今日の香りを吸い込む。エキゾチックでスパイシーだが品よく高貴な香りは『TAMAKI』のようだ。
頭の片隅で『フランス』の文字がよぎるが、貪るような口づけをする薫樹に応じてしまい、そのままソファーに雪崩れ込んでしまった。薫樹の指先はもう芳香の尻の割れ目をなぞり、素早く性感帯をピンポイントで愛撫し、蜜を溢れさせる。
やがて、芳香は我を忘れるような声をあげることになる。
10 君と僕の間
ぼんやりと虚ろに天井を見つめる芳香の頬を撫で薫樹は身体を起こし、お茶を淹れにキッチンに立つ。
半分だけ脱がされたブラウス姿の乱れた芳香の様子を、少し離れたところから眺めることが薫樹は好きだった。
もう少しすると芳香は身体を起こし、服装を直すだろう。その時に手を貸せばよいと思っている。
自分が行った愛撫の後が芳香の姿を見るとまざまざと感じられ、情事後の艶めかしさを醸し出している。
初めて会った頃から比べて芳香はとてもセクシーになっている。とまどいと恥じらいと快楽に溺れる感度の良さが、彼女の香りと同等に薫樹を惹きつけている。
ミントティーの香りに気づき、身体を起こす芳香の側に行く。薫樹は頬にキスをし肩を抱いた後、はずした三つのボタンを留め、片足に引っかかっているパンティーをもう片方の足にくぐらせするすると履かせる。
「あ、じ、自分で……」
慌てて自分で履こうとする芳香に任せて、乱れた髪を撫でつけてから薫樹は隣に座った。
「いつも、君は可愛い」
「え、あ、そんな……」
頬を染める芳香にミントティーを勧め、一緒に飲んで爽快感を味わう。
香りを楽しんでいると芳香がカチャリとカップを置いて「薫樹さん」と声を掛ける。
「ん?」
「あの、薫樹さんはフランスに行くんですか?」
「え? ああ、立花、じゃない、鳥居さんから聞いたのか」
「はい……」
「行かないよ。断るつもりだ」
「え? なんでですか?」
「なんでって言われても……。行く理由がないからかな」
「ええ!?」
「なんだか不安そうだと思っていたが、もしかしてフランスに行くと思っていたのか」
「ええ……。だって普通、すごっくいいお話ですよねえ。いかない方が変ですよねえ」
「確かに、普通なら行くだろうか」
日本で調香師としてこれ以上ないくらいの成功を収めることに間違いはない話だ。調香師ならだれでも羨み、願うチャンスだろう。
しかし薫樹は調香師であることが目的であって、成功を収めることが目的ではなかった。
「そんな……。いいんですか? 断るなんて……」
「君がフランスで暮らしてみたいというなら行ってもいいよ」
「ええっ! そ、そんな……」
「フフ。僕は僕が納得できる香りが作れたらそれでいい。そしてそばに君がいて欲しい。別に経済的に困っているわけでもない。これ以上忙しくなったら君との時間が無くなるだろう?」
「は、はあ……」
芳香は捨てられるのではないかと恐れている子犬のように心配そうな目をする。
「君のせいで行かないんじゃないから、心配しなくていい。ちゃんと人生のプランが僕にはあるし、フランスのメーカーに従事して大きな名声を得ることが幸せの道とも言えないんだからね」
香水王の故ジャン・モロウの事を思い出す。彼は一人娘のクロエを亡くした時、イタリアのメーカーで調香師として活躍していた。クロエが事故に遭い重体だと聞かされ、最高の経済とスピードをもってしても死に目に会えなかった。それ以来、フランスから、妻のマリーから離れず、調香学校の講師という社会の脚光を浴びる場所から裏舞台へと身を潜めた。
「ジャンのようにどこに居ても名香は生み出せるものだからこの『TAMAKI』のようにね」
少し安心した様子の芳香の頭をそっと胸に寄り抱えさせる。
実際、フランスへ行くことに薫樹は魅力を感じていない。断ることにも何の未練もない。しかし芳香の反応を見ると自分の選択は普通ではないのだろうと考えた。だからと言って考えが変わるわけではない。
フランスで仕事をすると、有名になり名声も得られ、今よりも経済的に豊かになるだろう。ただ調香するものが、会社の要望であり、自分の意思がどれだけ通るかはわからない。根本的に日本人の自分とヨーロッパ人の求めるものが違う故に摩擦も多く、おそらくは調香ロボットのようになるだろう。
芳香の麝香に触れ、ボディーシートを作り上げ、芳香との甘い夜のためにルームフレグランスやラブローションを作ったことを思い出す。
「楽しいよ。君といると」
「薫樹さん……」
愛する恋人がいて、親しい友人もでき、まだまだ目標もある。これ以上何も望むことはないと薫樹は満足して芳香の身体を引き寄せた。
二人の間には芳しい香りが満ちている。
11 あなたとわたし、そして……
芳香と薫樹が結婚した翌年、薫樹は『TAMAKI』に次ぐ、名香を発表する。
『あなたとわたし(邦題)』は海外でも、『TAMAKI』以上の評価を受け、薫樹の名前は調香界でも不動のものとなる。
この香りはセクシーさの中にリラックスを感じ、優しさの中に情熱を感じる、二極のものが絶妙なバランスを保ち、いわれもなくうっとりするのだ。
ただ、涼介と真菜はこう言う。
「これって兵部さんと芳香ちゃんでしょ?」
それを聞き芳香は怒る。
「やだ! 薫樹さんってば、なんて香り作るんですか!」
目を三角にしながらも『あなたとわたし』を薫樹が身に着けると、そろそろと近づき潤んだ目で胸元に忍び込んでくる。
「やっとできたんだ。でも君の香りは僕だけのものだから作らないよ」
「もうっ! ほんとに私の香りなんか作んないでくださいよ!」
彼女の麝香は彼女のままに。
芳香はそっと呟く。
「薫樹さんの香りも作らないで。このフィトンチッドは私だけのものにさせてください」
「ん。僕は自分の香りがわからないし、これも、君が言う僕の香りをイメージで作っているものにムスクを掛け合わせている――僕の香りは君だけの香りだよ」
安心して芳香はまた薫樹の指先の香りを嗅ぎ、口に含み舐める。
「君の爪先も楽しませてもらおうか……」
寝室は『あなたとわたし』を超える名香で満ちるが、その香りを嗅ぐことは、それを創り上げる二人以外叶わない。
更に年月が過ぎると二人に男児が授かるが、やはり兵部家の男児らしく、その子は味覚に鋭い子供になる。
おかげで芳香は非常に手を焼く。
「きゃっ、この子ったらまた離乳食をイヤイヤしてる……」
「ん? ダシでも変えたのか? いつもより魚の匂いが強いな」
「ああ……。鰹節切らしちゃって、あご(トビウオ)だしだけにしたんですよねえ……」
「フフ。露樹は舌が肥えているようだな」
「はあ……。まだ一歳なのに……」
芳香はため息をつきながら、露樹の機嫌を取るべく彼の好きな薄めたメープルシロップをひとさじ舐めさせ、また離乳食を口に放り込む。
「ぶぶっ、むうっ、まんまっ」
なんとか食べてくれるようだ。ため息をつく芳香の側で薫樹は彼女の香りを嗅ぐ。
母になった芳香は麝香に乳香とバニラが混じった香りを放つ。
薫樹は彼女の香りに満足し、次なる香りの目標を立てる。息子の露樹は乳とシロップの甘ったるい香りをさせ、抱き上げる芳香の香りと混じりあい更なる安心する香りへと変化する。
「素晴らしいな」
薫樹は最後に『愛』と名付けた名香を生み出した。
優しい陽だまりの中で永遠の安心感を得られるようなこの香りは、やがて世界中を満たす。
そして、抱き合う薫樹と芳香は永遠に香りを創造し続ける。
終わり
芳香は真菜の結婚式に招かれている。彼女たちの結婚式は、ごく普通に結婚式場のチャペルで愛を誓った後、そのまま披露宴会場でお色直しを2回ほどして、友人たちのスピーチやそれぞれの子供の頃のアルバム、出会いの編集されたムービーを観て賑やかなうちに終わった。
真菜は結婚式に特別こだわりなかったようで、お互いの両親が納得する式であれば良しとしていた。
女性なら夢見るだろうウエディングに「みんながいいならそれでいい」と真菜は面倒がっていた。
それでもお色直しでスモーキーなピンク色のドレスを着た真菜はとても可愛らしく美しい。真菜はドレスも勿論普段の洋服も案外シンプルなものが好きで、乙女チックな装いにはあまり興味がない。顔立ちも雰囲気もフェミニンでそういった装いが似合うのにしないことがとても芳香はもったいないと思っている。それでもTPOを考え、上手に周りと合わせられる真菜の今日のドレスは誰が選んだのかわからないがよく似合っていた。
初めて見る、話だけは聞いていた新郎の和也を見る。彼は爽やかな笑顔の好青年だ。サッカーのコーチをしているという彼は朗らかで明るく体格もがっしりしていて、柔らかい可愛らしさもつ真菜にぴったりだ。
絵にかいたようなお似合いの二人を眺めていると芳香もとても幸せな気分になった。
披露宴の後、すぐに新婚旅行に出かける真菜から「来てくれてありがとう」と笑顔で引き出物を渡されて芳香は帰宅した。
引き出物は『銀華堂化粧品』のバスセットとガラスのペア小鉢が入っていた。
バスセットの中身はソープとシャンプーとリンスでこれらは薫樹が香り付けしたものだ。
「いい香り」
優しい甘い香りを嗅いで、ガラスの小鉢をさっと洗い棚にしまった。
「私も、いつか……」
自分の隣に薫樹が並んでいることを想像する。以前、彼から結婚を視野に入れている話をされたが現実感がなかった。いまでもあまりにも夢のようで実感が沸かないが、一生を共にする相手が薫樹でありますようにと芳香は願う。
そして今日見た幸せな真菜のようになりたいと祈った。
同じような時期に清水涼介と環の結婚式が行われた。
薫樹も招待されて参加している。
涼介と環の結婚式は、環の育った施設の近くの総合運動場を貸し切って行われたかなり規模の大きいものだ。
だだっ広い広場にチャペルを作り、何席ものテーブルが運ばれ式は行われる。
環の装いはシンプルなAラインのドレスで丈も短めだ。彼女のスタイルの良さがよく引き立ちしかも飾りっ気がないことが凛とした美しさを強調している。彼女を見ると息をすることを忘れて見入るだろう。招待客は著名人はもちろんのこと、彼女の育った施設の職員、子供たちも呼ばれている。環はこの施設の子供たちにとってスターなのだ。おずおずと環を畏怖するように子供たちは見上げる。
環は低くしゃがみ「いっぱい食べてね」と笑顔で微笑んだ。
涼介はその様子を微笑ましく見守り、王子らしくエスコートし笑顔を振りまく。
「兵部さん、ようこそ」
「清水君、いい式だね。環も幸せそうだ」
「ありがとうございます。兵部さんの式、呼んでくださいよ?」
「ああ、もちろんだ」
明るく社交に勤しむ環を見ながら薫樹はふむと頷き「さすが人慣れしているな」と感心した。
涼介も同意する。
「まあTAMAKIはみんなのTAMAKIですからねえ」
「確かに」
「でも環は俺のものですからね」
「なるほど。君は案外独占欲が強いんだな」
「うーん。もともとそうじゃなかったと思いますけどね」
環も印象が柔らかく優しく変わったが、涼介もまた少しずつ変わりつつあるのだろう。
「これからはミント王かな」
「はははっ。いつか皇帝にまでのぼりつめますよ。じゃ、楽しんでってください」
ウィンクをして涼介はまた社交の渦に入っていく。二人を眩しく見つめながら薫樹は芳香の事を想う。そしてこの式が終わったら会いに行こうと考えていた。
2 小さな狭い部屋で
夕方、チャイムが鳴り、出ると薫樹が立っていた。
「え、し、薫樹さん、どうしてここに?」
芳香のアパートの住所を教えてはいたが、小さく狭い部屋なので薫樹を招いたことはなかった。
「お邪魔していいかな」
きちんとスーツを着て、光沢のある綺麗な紙袋を下げている。
「えっと、狭いですけど、どうぞ」
断る理由が見当たらず芳香は薫樹を部屋に招き入れるとふわっと部屋中が森林浴のような香りに包まれる。
「ふぁあ、いい香り……」
一瞬、ぼんやりとしたが薫樹を促し、藍染の座布団を出して座らせる。
「いい部屋だな」
「え、そうですか?」
「うん、こざっぱりとして」
「狭くて物がないだけなんですけどね……」
1DKのアパートは必要最小限のものしかなかったが、こまめに掃除され、清潔感があり、生成りと藍色で構成された部屋は薫樹にとって居心地がよいらしい。
「清水君と環の結婚式はなかなかよかったよ」
「へえ、社交界みたいなんでしょうねえ」
芳香と薫樹は二組の結婚式の感想をそれぞれ言い合った。夢見るようなうっとりする芳香の表情を見ると薫樹はなんだか身体が熱くなるのを感じ、ネクタイをほどいてジャケットを脱いだ。
「あ、それ、かけますね」
ハンガーを出し、ジャケットを手に取るとする芳香の手を薫樹は握る。
「あ、あの」
「芳香」
グイッと引っ張られ芳香は薫樹の胸元に抱かれる。ふわっと香りに包まれながら、唇も包み込まれ甘い口づけが交わされる。
「あっ」
薫樹は芳香のカットソーをブラジャーごとめくり上げ、胸の間に顔をうずめる。
「あ、やっ、い、きなり、だ、だめ」
「なんだか今日は待てない」
いつもよりも力強く両乳房を揉みしだかれ、つんと張り詰めた乳頭を舐められ甘噛みされると芳香の腰の力が抜けてしまった。
「あ、んん、だ、だめ……あ、ん」
部屋に怪しい香りが立ち込め始める。狭い部屋はセクシーな麝香の香りで満ちてきた。
「これは……たまらないな」
散々乳房を弄んだあと、薫樹は芳香のスカートに手を入れパンティーをはぎ取る。
「あ、え? え?」
芳香はいきなりの愛撫と珍しく強引な薫樹に戸惑いを隠せない。
「いいものがある」
パンティーを脱がせた後、薫樹は引き出物の中から、小さな箱を取り出した。
「これも清水君が香り付けしたものらしいよ」
「え、そんなものが……」
グローバルな二人は引き出物にコンドームを入れていた。『不用意なセックス』は子供たちにとって不幸になることであると施設で育った環はよく知っている。
コンセプトに感心している芳香を横に、薫樹は愛撫の手を緩めない。スカートの中に潜り込み、芳香のムスクが漂う香りの元へ顔をうずめる。
「きゃっ」
香りを嗅ぎながら、舌を内部にねじ込み、蜜を出させ、舐めとる。芳香は性急な強い刺激に足をびくびく痙攣させた。
「あん、ああん、も、もう……」
「欲しくなってきたかい?」
すっかりと濡れそぼり、熱くひくつく蜜源を二本の指で浅く深く出し入れしながら薫樹は香りを堪能している。
「あ、ん、ほ、欲しい……」
「どうしようか……。先にイキたい?」
尋ねられたが芳香にはもう欲しいと思う気持ちしかなかった。いつも絶頂を迎えることはあったがまだ二人は繋がっていない。
「いやっ、もう、もう、お願い。抱いて……欲しい」
「そうだな……」
哀願する芳香をにもう一度キスをする。薫樹は硬くなったペニスをぐっと芳香の蜜口に突き立てる。
「んんっ」
「痛い?」
抵抗を感じ、薫樹は動きを止めたが、芳香はふるふると顔を左右に振り、「も、もっと、お願いです。奥まで……」と挿入をせがむ。
薫樹は少し力を込めて内部へ突き入れた。
「あああっうっぅう」
「んっ。全て、君の中にはいったよ」
紅潮させ汗をにじませた芳香は嬉しそうに「や、やっと……」と呟いた。
「ああ……気持ちいいものだな。知らなかった」
「あ、わ、私も、すごく、気持ちいいです」
「辛くない?」
喘ぎ喘ぎ言う芳香の髪を撫で薫樹は頬にキスをする。
「今まで、あ、ん、時間、かけて、くれて、たっ、から、辛く、ないです」
「そうか」
口づけを交わしながら腰を動かすと快感が増してくる。
「うんむっぅ、ふっ、あ、あああん」
「芳香、芳香――可愛いよ」
「あ、ん、薫樹、さん、あっ、す、好きっ」
初めてなのに強い快感と興奮が芳香に腰を振らせる。
「ああ、淫靡だ――」
「あん、あんっ、ああんっ」
中途半端に脱いだ服が邪魔になり、全部脱ぎ去った。狭い部屋で、寝具もないコットンのラグの上で二人は交わる。
薫樹は芳香の香りと肌と快感に溺れまいと力強くくびれた腰を持ち、前後に動き、突き入れるが、快感が増すほどに彼女のムスクの香りが強まりくらくらする。
「ああ、素晴らしい香りだ」
「あ、あ、も、き、もちよくて、わかん、ないっ」
くらくらしながら薫樹は芳香の花芽をいじるとビクンとした振動が伝わる。唇を噛んで声を出さまいとしていた芳香が「くううっ」と呻き脱力した。
「ああ、い、クっ――」
芳香の身体になだれ込む様に薫樹は倒れ、頬と頬をすり合わせ、耳元で囁く。
「芳香。愛してる」
混じりあった芳香と愛の言葉で満たされたこの狭い部屋を最高のスィートルームのように感じた。
3 残り香
初めて恋人同士の契りを交わした後、芳香は薫樹の胸の上で肌の温かさとフィトンチッドの香りを楽しんでいた。
落ち着きを見せる香りに薫樹は芳香の髪を撫でながら「突然ですまなかった」とわびる。
「いえ――嬉しかったです」
今まで用意周到に準備をしたことがまるで嘘だったかのように二人は唐突に結ばれた。しかしこれまでの過程があったからこそ今夜結ばれることが出来たのだとも思っている。
「不思議だな。身体を重ねると、また君が欲しいと思い始めた」
「私もそうです」
芳香の肩を抱く腕に力が込められた。
「今度、僕の家族に会ってほしい」
はっと芳香は薫樹を見上げた。
「――はい」
薫樹の家族と会い、そのあと自分の家族に会ってもらおうと芳香はこの腕の中が現実のものであることをやっと実感していた。
明日の仕事の準備があるので薫樹は少し眠り朝早く帰って行った。芳香は去って行く薫樹の後姿を見送り、部屋に戻るとまだ二人の交わった香りが残っていることに気づく。だんだんと薄らいで消えていく香りだが、甘く切なく余韻を残す。
「この香りは私と薫樹さんの……」
さっきの乱れた自分を思い出して顔を赤らめる。芳香の部屋は一階の角部屋で、ちょうどいま隣の部屋が空いている。
少しだけほっとして、もう一度部屋の香りを吸い込んだ。
初めての情事をまた反芻する。もう香りはほとんどなくなっているが、身体には薫樹の感触が残っている。
下腹部のちょっとした違和感が芳香に薫樹に抱かれたことが現実だったと思い出させる。
「薫樹さん……」
次に会えばまた抱かれるのだろうかと芳香は恥ずかしい気持ちと期待感を同時に覚える。
「また嗅ぎたい……」
お互いの香りは、お互いを心地よくさせる香りだが、交わると淫靡で官能的で甘く切ない。
出勤の時間が迫ってきた芳香は慌てて支度し、部屋の香りに後ろ髪をひかれながら仕事に向かった。
4 重なる芳香
無機質な寝室がルームフレグランスとラブローションと二人の体臭とで一気に有機的な、動物的な部屋に変わっている。
どんなに淡白な人間でもこの部屋に一歩入り、この香りの洪水に巻き込まれれば即、発情してしまうだろう。
薫樹は芳香の爪先を丹念に口づけ香りを嗅ぐ。はじめの頃の実験のように爪先から、踵、膝、脛をサラサラと撫で上げ、舐める。
芳香はすでに薫樹と騎乗位で繋がっていて、足の愛撫に喘いでいる。
「あんっ、ああんっ、あうっ、うっ、あっ、ああんっ――」
「こんな香りに満ちたことは人生で一度もないな」
薫樹は芳香の香りを堪能しながら悦に入り、芳香は薫樹の上で、腰をくねらせ快感を深く味わっている。
「ああ、そこが、気持ちいいのか……」
「あっ、は、い、ここ、き、もちい、いっ」
まだセックスに慣れていない二人は快感を探り合っているところだ。薫樹は芳香を上に乗せ、彼女自身に快感のポイントを探らせている。
少し背中をのけぞらせ、彼女は一定の場所を薫樹の剛直でこすっている。
「恐らく、そこはGスポットと呼ばれているところだろう」
「あ、あっ、あん、ここ、が?」
「なんとなく、わかったから僕が動こう」
身体を起こし、芳香を抱きかかえ、薫樹が上になる。足を開いたまま両膝を抱えさせ、薫樹は腰を固定するように持つ。
狙いを定めゆるやかに、しかしリズミカルに腰を打ち付ける。
「やっ、はあっ、ああっ、き、き、、もちっ、いっ、あっ、あっ――」
「ああ……いい具合だ。香りも強くなってきた……」
遅咲きの二人は香りと快感に溺れて夢中で抱き合う。
ラブローションで肌と肌は滑りよく、結合部分は卑猥な水音をたてる。
「あっ、なん、か、で、出ちゃう、うぅっ」
「出る、のか。出したら、いい――んん」
ぎこちない動きが油を注された歯車のように規則正しく、一定のリズムを刻む。
「も、もぅ、だ、め、あっあっ――」
「――」
芳香の終焉に向け、薫樹は動きを早めると彼女の内部の痙攣が伝わってくる。
「あううっ、ふっ、ううっんん――あ、ああん」
「くっ、うっぅ、むっ、うぅ――」
数秒遅れて薫樹も身震いし、放出した。
身体を重ねたまま、離れず口づけを交わす。
パウダリーで濃厚な花の香りが段々と弱まり、深い森林の湿り気を帯びた空間に変わっていく。
「芳香。とてもよかった」
「私も、こんなに気持ちのいいことが世の中にあったんですね」
「うん。独りではとても知りえなかったな」
激しい時間の後ゆったりとクールダウンさせるようにお互いの身体を撫で合い、感想を言い合った。
「シャワーする?」
「そうですね。結構汗かくものですね」
「君の匂いはソープで洗いたてのようなのに。全く不思議なものだ」
流すのが名残惜しいように薫樹は芳香の胸元の香りを嗅ぐ。芳香は薫樹のてのひらを頬に当て指先を鼻先で弄んでいる。
二人の香りは洗い流されるが、今やすぐにでも生み出される名香になっていた。
5 芳香の実家
二人で話し合った結果、まずは芳香の実家へ挨拶に行くこととなる。
芳香の実家は人口が10万人に満たない、いわゆる小都市で、隣町の産業により経済が成り立っているようだ。
「ね、田舎でしょう?」
「そうでもないよ。ちゃんと店もあるし、生活には困らないだろう」
子供の頃と違って量販店も増え、高校生などは都会と変わらないファッションにはなっている。
「町も田舎も変わらないのかもしれませんね」
「うん。インターネットもあるし、かえってこれぐらいの方がごみごみしてなくていいかもしれないよ」
確かに人の歩くスピードや、車の速度がゆるやかかもしれない。
同じような建物が並ぶ集合住宅の一つの前に芳香はとまり、「ここです」と指を差した。
薫樹はネクタイを締め直しているが緊張感はなさそうだ。寧ろ芳香の方が自分の家族だと言うのに緊張し始める。
実家なのにチャイムを押す。
「ただいま。私よ。芳香」
がちゃりとドアノブが回ると勢いよくドアが開き「おっかえりー」と元気よく若い女性が飛び出してきた。
「わっ、桃香、ただいま。こちら兵部薫樹さん」
「よろしく。兵部です」
芳香の妹の桃香は薫樹を目の前にして一瞬固まり、ほわっと呆けたかと思うと「お母さーん!おねーちゃんがめっちゃイケメン連れてきたー!」とドタバタと家の中に駆け込んでいった。
「や、やだ、もうっ!す、すみません、どうぞ、入ってください」
「フフ。元気な妹さんだね」
恥ずかしくて芳香は赤面しながら薫樹を玄関に入れドアを閉めた。
そこへ芳香の母親がパタパタとスリッパを鳴らしてやってくる。
「よ、ようこそ、芳香の母です。おあがりください」
「兵部薫樹です」
母親の美津子は薫樹を出迎えるべく、新調したワンピースの花柄よりも、芳しい花が降ってきたようなうっとりした表情で薫樹をリビングに促す。
「ただいま……」
「あ、おかえり、芳香」
薫樹の陰にすっかり芳香は隠れてしまったようだ。ハッと自分の娘に美津子は気づいて丸い頬に手を添え照れ笑いをする。
「お父さんは、もう30分くらいしたら帰るから、ちょっとお茶でも飲んで待っていてね」
「うん」
リビングはソファーとテレビとこまごましたものが置かれ生活感がありありと見える。
久しぶりの雑多な雰囲気の実家に芳香はあまりくつろげない。薫樹が嫌ではないだろうかと様子をうかがうが、彼は相変わらず無表情でどう感じているかわからない。あまり頓着がないのかもしれない。今日のために買っただろう高級な緑茶は、普段入れ慣れていないため苦くて熱い。
「あ、薫樹さん、美味しくなかったら、無理して飲まなくていいですよ」
「ん?」
大人しく飲んでいる薫樹に耳打ちしていると、桃香が目の前にどっかりと座る。
「それ、あたしが淹れたんだけどー」
「あ、ありがと……」
「ありがとう」
薫樹が微笑みながら礼を言うと桃香は大きく巻いた髪を指でくるくる回して得意そうな顔をする。相変わらず派手な妹のショート丈のスカートに目をやり、芳香は、はあっとため息をつく。桃香は薫樹と話したくてしょうがない様子でそわそわしているが、さすがに両親に大人しくしていなさいと言われているようでチラチラ薫樹を盗み見るだけのようだ。
どうやら父親が帰ってきたようで玄関先でなにやら話し声が聞こえた。母親が何やら進言しているらしく父親はまっすぐにリビングに入らず洗面所へ向かって戻ってきた。
髪を整え、髭をそりなおした父親がネクタイを直しながらリビングに入ってくる。
薫樹はさっと立ち上がり頭を下げた。
「父の柏木敬一です」
「兵部薫樹です」
薫樹は改めて自己紹介し、名刺を差し出すとリビングはふわっと柑橘系の甘酸っぱい果樹園のような香りに満ちる。
「ふぉっ!」
父親は会社のように威厳を持った様子から一変してリラックスし、一瞬で仕事の疲れが癒えたような表情でソファーに座り込む。
「これはお土産です。うちの会社の詰め合わせですが」
「ああ、これはこれは。おーい、母さん、兵部さんから頂き物だぞ」
母親の美津子がまたパタパタとスリッパを鳴らしてやってくる。
「まあまあ。ご丁寧に。ちょっと落ち着いたら予約している『花御前』にいきましょう」
「やったー! 花御前だあー!」
「これっ、桃香」
母親にたしなめられたが、桃香はすでに薫樹の手土産を物色し、ローションや美容液などを自分のものにしている。
ちらっと美津子はその様子を見ながら今は黙っているが、薫樹と芳香が帰れば争奪戦になることだろう。
自分の家族をどう思われただろうかと芳香は気が気ではないが、薫樹はマイペースにくつろいでいるようで不快ではないようだ。
薫樹をどう思われるかなどは全く心配していない。母と妹の様子は想像がついていたし、父にしてみてもこれ以上の相手などどこをどう探してもいないと思うに違いなかった。
とりあえず、障害になるような家族の反対はないだろうと芳香は安堵している。
美津子が芳香を手招きしそっと耳打ちする。
「お座敷予約したけど平気なの? 電話では大丈夫だって言ってたけど」
芳香のスリッパを履いた爪先を見て、美津子は心配そうに言う。
「うん。そのことも話そうと思ってたんだ。あのね、薫樹さんが治してくれたの」
「えっ!? 治った? 匂い消えたの?」
「んー、消えたんじゃないけど改善したの。もう悪臭にはならないの」
「へええー」
目を丸くして美津子は敬一と桃香に報告すると二人とも同じく目を丸くする。
「ほおー。それはすごいな。わたしはてっきり内緒にしてるものだと……」
「調香師ってそんなにすごいのー? 医者でもダメだったのに」
「よかったわ。よかったわ」
美津子は涙ぐんでいる。
薫樹は芳香の家族もこれまで彼女の悪臭に胸を痛めていたことを知った。
「ありがとうございます。芳香の足の匂いを治していただいたばっかりか、結婚までしてもらえるなんて」
ばっちりしていたメイクが崩れ、直すのに時間がかかりそうだが美津子はお構いなしでよかったよかったと涙ぐみながら鼻をかんでいる。
「お母さん……」
母親が自分の足の匂いが改善されたことをそんなに喜ぶとは芳香は夢にも思っていなかった。もっとドライだと思っていた母親の愛情を感じて胸が熱くなる。
「芳香さんは、素敵な女性です。結婚を許してもらえますか?」
薫樹が静かに告げると、「もちろんです! 芳香には本当にもったいないぐらいです。どうか、よろしくお願いいたします」と敬一は最敬礼で頭を下げた。
普段、軽薄な桃香まで「よかったね、おねーちゃん!」とガッツポーズを決めている。
「みんな、ありがとう」
芳香も今更ながらに、苦労してきた自分の人生を振り返る。そしてこれから新しい人生を薫樹と作り上げていくのだと実感した。
6 兵部家の一族
薫樹の両親の住まいは、芳香の実家など都会に見えるほど山奥にあった。駅から家に一番近いバス停まで1時間かかり、さらに日に2本しかない。またそのバス停から30分歩くそうだ。芳香がレンタカーを借りようかと提案したが、ナビでもわかりにくい場所で車が通れないほどの細い道もあり、迷いやすいようなので公共機関を使うことにした。
おかげで結婚前の挨拶だと言うのに山歩きのような格好になっている。
薫樹は芳香を実家に連れて行くのは大変だから町まで両親に出てきてもらおうかと思ったが、父がタイミング悪くぎっくり腰になってしまった。
それが治るのを待つとまた薫樹の仕事の都合もあり、機会を逃すので芳香を伴い山奥の実家へ連れて行くことになった。
しっかりした足取りで二人は山道を歩く。
「薫樹さんが山育ちだなんて全然イメージがわきませんでした」
「今の実家はこの奥だが、住まいは何度か変わっているんだ」
「へえー」
薫樹の父親は染織家で母親は染色家である。二人は織と染めに都合の良い場所を求めてあちこち転々とし居住を変えてきた。
兵部家の男は代々、5感のどれかが程度の差はあれ飛びぬけるため専門職に就きやすい。父親は触覚に優れており、手触りの良さを織物に求めこだわり続けている。
「はあー。薫樹さんは嗅覚がずば抜けていますもんねぇ」
「兄は聴覚に優れていてね。調律師をやっている」
「はあー。すごいエキスパート一家ですねえ」
「どうかな。一代限りで後が続かないしね。父親のこだわりのおかげで苦労も多かったからね」
「苦労ですかあ……」
凡人には理解しかねると芳香が首をかしげていると、ことんかたんと小気味の良い規則正しい音が聞こえる。
「機織りの音だ」
ガサガサと草をかき分けると、開けた土地に出、かやぶき屋根の古民家が現れる。
「うわあ。こんなお家、雑誌でしか見たことないやあ」
下から上まで見上げていると、薫樹がガタガタと引き戸を引き、土間の玄関から声を掛ける。
「帰ったよ」
しばらく待つとするすると和服を着た女性が「あら?」と声をあげた。
「ただいま、母さん」
「おかえり……」
一つにまとめて結い上げた髪の毛を触りながら薫樹の母、瑞恵は芳香に目を止めた。
「まあっ! 今日だったのかしら?」
芳香は頭を下げ「は、初めまして。柏木芳香と申します」と挨拶をすると、瑞恵は「まあまあっ! 可愛らしいお嬢さん」とすぐさま近づいて芳香の手を取る。
するっと滑らかでしっとりした手に芳香はびくっとするが、瑞恵の吸い付くような肌が彼女の手にまとわりつく。
「な、なんて美肌……」
父親の触覚がすぐれているということがよくわかる。恐らくこの肌の質感は薫樹の父親にとって最高とみなされたものなのだろう。
「母の瑞恵です。どうぞ、どうぞ。おあがりになって」
薫樹の色の白さは瑞恵から受け継いだものだろうか。顔立ちは薫樹よりももう少し柔らかく、丸い瞳にぽってりとした丸い唇だ。
客間に通されじっと待っていると、和服姿の男性が腰を押さえながらやってきた。
「あたた。お帰り、薫樹」
「ただいま。会ってほしい人を連れてきました」
「は、初めまして。柏木芳香と申します」
瑞恵にしたように同じく名前を告げ、正座を正す。
「私は父の兵部絹紫郎です。薫樹が女性を連れてくる日が来るなんてなあ」
「ほんとですね。薫樹はこだわりが強い子ですからねえ」
絹紫郎と瑞恵は芳香がどんな女性かを、薫樹の結婚相手にふさわしいかなどは全くお構いない様で、連れてきたと言うだけで満足らしい。
父親の絹紫郎と薫樹は顔立ちがよく似ている。眼鏡をかけておらず、着流しの紺の和服が良く似合っていて品よく美しいところがそっくりだ。違いと言えば少し日に焼けていて精悍な雰囲気を持つところと、紫がかった漆黒の絹糸のような艶やかな長い髪を一つに束ねていることだ。自分の父親と同じ人間とは思えないと芳香がぼんやり眺めていると、瑞恵が「どうしましょう」と声をあげた。
「どうかしたの? 母さん。お茶くらい出してくれないかな」
「あらっ、出してなかったわね。ふふふ」
「で、どうしたの」
瑞恵は再度ハッとし慌てて言う。
「今日ってわかってなかったから、何の食事の用意できてないわ」
「うーん。うっかりしていたな……」
「……」
慌てているようだがおっとりとした二人はそれほど動揺しているようには見えないが瑞恵は「困ったわ」を連発している。
そこへ外から男女の声がかかった。
「ただいまー」
「ただいま帰りましたあー」
薫樹の兄、透哉とその妻、鈴音だった。
7 続・兵部家の一族
襖をスッと開け、透哉と鈴音が顔を出す。
「ただいま。ああ、薫樹、ついていたのか。歩くのが早いな」
「おかえり、兄さん。お久しぶりです。義姉さん」
「こんにちは。薫樹さん」
透哉は視線を芳香に向け微笑む。彼は母親似らしく、丸顔で童顔だ。愛嬌の良さそうな笑顔で透き通るような声をしている。妻の鈴音も小柄でふっくらとしているがぱっちりとした目がより可愛らしく若々しい。
「紹介するよ。柏木芳香さん。結婚しようと思っている」
「初めまして。よろしくお願いいたします」
芳香はまた慌てて頭を下げると、兄夫婦は気さくな様子で「こちらこそー、薫樹をよろしくね」と歌うように言う。
薫樹が透哉は調律師だが鈴音は民謡教室の先生だと紹介してくれた。なるほど透哉はスーツだが鈴音は和服で彼女の声は優しく耳に心地よい。
鈴音が持っていた保冷バッグを開き、「これ、お土産です。生徒さんがくれたものですけど多かったのでー」と豚肉の塊を取り出した。
瑞恵が「あらっ! これはいいものね。よかったあー」と手を叩く。
「どうしたんです? お義母さん」
鈴音がのん気な声を出すと瑞恵は気まずい表情をしながら言い訳する。
「うっかりしてて、お料理の用意何もしてなかったのよ。本当は薫樹と芳香さんのために腕を振るう予定だったんだけど……」
「えっ? お義母さんが作るんですか?」
「ええ、そうよ」
鈴音の複雑な表情を見かねて、透哉が瑞恵に尋ねる。
「母さんは何を作ろうと思ってたんです?」
「そりゃあ、うどんを打とうかと。あとお庭の野菜で何か創作するわよ?」
「うーん。うどんか……」
愛嬌のある顔立ちの透哉が難しそうな顔になった。父親の絹紫郎は腰を抑えながらリラックスした様子でいつの間にか寝ころんでいる。
事情が呑み込めない芳香に薫樹は説明を始める。
「すまない。芳香。うちはこういうことが不得手なんだ。母は……あまり家事が得意ではなくてね……」
「ああ、そうなんですかあ。でも、おうどんを打ってくださるって」
「うむ。唯一上手な料理だ」
薫樹の話に絹紫郎が加わる。
「母さんのうどんはのど越しが最高だからなあ。あれを食べるとほかの麺は食べられないだろう」
満足そうに言う絹紫郎に透哉は同意しながらも意見を述べる。
「確かにそうですけど、薫樹の結婚相手が初めてきたんですよ? 普通はうどんじゃないでしょー」
「ん? 鈴音さんが来たときってうどんじゃなかったっけ?」
「えっとー、一番最初は、家がここじゃなかったから、レストランで会食しましたよ」
「そうだったかなあ」
透哉の話を聞き、瑞恵は落ち込んでいるようだ。鈴音が朗らかにフォローのような感想を述べる。
「お義母さんのおうどんを最初にいただいたとき、すっごい美味しくてご馳走だと思いましたよ」
「あら、そう?」
少しだけ安堵の表情を瑞恵は見せたが、問題はまだ解決していない。
「今夜はどうする予定だったんだ?」
「菜園の白菜を煮て、冷ややっこでも食べればいいかと思ってました」
「まあ、私たち二人ならそれでいいんだがなあ」
薫樹の両親は食事にはあまりこだわりがないらしく、特に父の絹紫郎は口当たりがよければほぼ大丈夫のようだ。
未だお茶一つでない様子に、薫樹はらちが明かないだろうと思い芳香に相談する。
「芳香。君何かあるもので料理が思いつかないか?」
「ええっと、お肉とお野菜があるなら鍋なんかできそうですけど」
「さすがだな」
「えへっ」
薫樹が満足そうな表情で芳香を見つめた後、「母さん、今夜は僕らが食事の支度をしますよ」と静かに伝える。
「え? 薫樹が?」
「ええ。芳香が料理、得意なんですよ」
「あっ、ちょっ、得意なんて……」
「まあっ! お料理が得意なんて、素晴らしいわね!」
「へええー、これはいい奥さん連れてきたわねー、薫樹さん」
「うちは料理得意なものがいないからなあ」
「え、あ、あの……」
いつの間にか料理を担当することになり芳香は慌てるが、薫樹は「客のなのにすまない」と肩にそっと手をのせ指先で鼻の頭を撫でる。
「いえ、私は全然いいんですが、なんか、でしゃばっていいのかなと……」
気をもんでいる芳香の横で家族中が良かったと安堵している。
「いいんだ。寧ろうちの家族にとっては願ってもないことだろう。恥ずかしながら君のご家庭と違ってうちはこういうことに疎くてね」
済まなさそうな表情を見せる薫樹に芳香は彼も自分と同じように、家族や社会に対して気にすることがあるのだと知った。
マイペースで何事にもあまり頓着がないと思っていたが、薫樹は薫樹なりに思うところがあり、社会性もちゃんとあるのだ。
また一つ薫樹との距離が近づいたと思い芳香は嬉しかった。
芳香は張り切って食事の支度をしようと思い、瑞恵に台所とエプロンを借りることになった。
薫樹は菜園に行き野菜を取ってくるようだ。
兵部家は今夜のディナーを心待ちにしながら、宴の準備を始めた。
8 宴
囲炉裏を輪になって囲む。
梁からぶら下がった鍋掛に掛けられた鉄製の鍋からぐつぐつと煮える音がし、だしと肉の匂いが漂う。
「ああー、楽しみだわ」
「おいしそうな匂いですねえ」
瑞恵と鈴音は待ちきれない様子で鍋を見つめている。
ポン酢を入れた小鉢を芳香が配り終えると、薫樹が木の蓋をそっと外す。ふわっと湯気が立ち込め白菜と豚のばら肉がきれいに重ねられた薔薇のような中身が現れると皆が歓声を上げる。
「きゃー、おいしそうー」
「順番こ順番こ」
嬉しそうな家族の様子に芳香はほっとして全員の手に渡るのを待った。
「じゃあ、乾杯するか」
絹紫郎が、透哉に配らせた日本酒の入ったグラスを掲げる。
「乾杯」
「かんぱーい」
「乾杯っ」
一口、日本酒を口につけ、皆が箸を運ぶ。味はどうだろうかと芳香がうかがっていると、「美味しいー」と鈴音から声が上がった。
「よかったあ……」
「心配しなくても、君の料理はいつも美味しいよ」
「嬉しいです」
口当たりにうるさい絹紫郎も満足げに口に運んでいる。
瑞恵が「うちにポン酢なんてあったかしら」と不思議がるので薫樹が「それも芳香が作りましたよ」と返すと瑞恵は「ポン酢って作れるのねえ」と感心する。
「じゃあ、ここらへんで、わたしからお祝いの歌、お贈りしますね」
鈴音が立ち上がり、こほんと咳払いすると透哉が手拍子を打ち始めると「えんやぁ~」と鈴音が一声を発した。
朗々と響く歌声は軽やかに伸びやかに『祝い唄』を熱唱する。
初めて聞くプロの歌う民謡というものに芳香は圧倒される。鈴音が歌ったのは『木遣り唄』と呼ばれるものでめでたい席で歌われる唄だ。
声というものがマイクもバックミュージックもなく人を魅了するものだとは知らなかった。
透哉は手拍子を打ちながらも目をつむり、鈴音の声を自分の中に浸み込ませるように首を振ってリズムを取り、聞き入っている。
歌い終わった後、拍手の嵐が巻き起こり鈴音はぺこりとお辞儀をして座る。
「とても素晴らしかったです」
芳香が感動を告げると、鈴音がにっこり笑い、となりの透哉がそうだろうそうだろうと、うんうん頷いていた。
少し酒の入った透哉が鈴音ほどいい声の持ち主はいないと褒め始める。
「あら、透哉さん、ちょっと酔って来ちゃった」
鈴音がまた始まっちゃったという顔をする。透哉も薫樹と同様で自分の恋人を自慢したがる性質のようだ。
「鈴音に出会わなかったら、ずっとピアノだけの面倒を見てたんだろうなあ」
透哉はメーカー勤務でピアノを調律しているが、民謡を歌う鈴音との出会いによって和楽器のメンテナンスや調律も手掛けている。
素晴らしい声の持ち主の彼女との出会いは勿論、恋に結びつくものであるが、透哉自身の人生も広がりを見せたということだ。
透哉の話に聞き入っている芳香に鈴音がこっそり「透哉ってば自分にいい解釈ばっかりしてるのよ?」と笑って言う。
鈴音に言わせると、こだわりの強い透哉は楽器の中でピアノが最高だと言い張り譲らなかった。それはそれで構わなかったが、日本の楽器にも素晴らしいものがたくさんあり、繊細で美しいのだと知って欲しかった鈴香と出会った頃は言い争ってばかりだった。
「色々あってやっと偏見がなくなったみたいだけどね。困った人だったわよ。こだわりが強すぎて」
完璧な二人に見えたとしても、時間をかけて譲歩し、主張し、試行錯誤を重ねた結果、ぴったりな二人になっているのかもしれないなと芳香は寄り添う兄夫婦を見た。絹紫郎と瑞恵も今は穏やかなおしどり夫婦に見えるが出会った頃は違ったかもしれない。
自分と薫樹もいつかぴったりになりたいと芳香は将来を夢見た。
こうして素晴らしい兵部家の宴は終わりを告げる。
電車に揺られながら青々とした山を眺める。帰りがけに瑞恵から持たされたシルクの薄緑色のショールを首に巻き、その滑らかな手触りを芳香はうっとりと確かめる。
ショールは絹紫郎が織ったものを、瑞恵が草木染したものだ。絹紫郎が重要無形文化財保持者(人間国宝)になるほどの腕前の持ち主であることを芳香は幸いにも知らずに、ショールを何度も撫でまわしている。
「薫樹さんのご家族だけあって皆さんすごい方ばかりですね」
「そうかな。すごいと言うより偏っていると言った方がいいだろう」
「ま、まあ、そういう言い方もあるかもしれませんが、皆さん優しくていい人たちで安心しました」
「そうか。それなら良かった。自分自身へのこだわりが強いが他の人には寛容だからね。しかし疲れただろう」
「うーん、ちょっとだけ」
「少し眠るといい」
薫樹は芳香の頭を自分の胸元に引き寄せる。甘酸っぱい柑橘系の香りと森林の香りが交じり、芳香をたちまち眠りに誘う。
「ふわぁ、ちょ、とだけ。すみません……おうどん、美味しかったあ……」
「フフ」
安心して眠る芳香を見つめ、窓の外の流れる景色を眺め薫樹は早く二人きりになりたいと思っていた。
9 報告
新婚生活の落ち着いた真菜に芳香はお互いの家族に会ったことを話す。
真菜はほっとした様子で芳香の話を聞いているが、時々、顔が歪み苦しそうな表情をする。
「ねえ、真菜ちゃん、今日、具合が悪いの? もう帰ろうか」
心配する芳香に、真菜は手を左右にひらひら振り平気だと合図をしながら口を押さえる。
「あのね。妊娠したの。うっっぷ」
「えっ! そうなんだ! おめでとう!」
「ハネムーンベイビーってやつね。たまに吐き気がくるけど、わたしは楽な方みたい。ごはんも食べられるしね」
「そっかあ。でも、無理しないでね。早く帰ろうね」
「ありがと。まあ家に帰っても治るわけじゃないからねー」
そういわれると真菜はいつの間にかまつ毛のエクステもしておらず、爪も短くなっていた。化粧は元々薄いナチュラルメイクだが、アイメイクが大人しくなっていて、いつもアイスティーを頼むのにオレンジジュースを飲んでいる。
「真菜ちゃんがママになるのかあ」
「ふふふ。まさかこんなに早くそうなるなんてねえ」
もう少し新婚生活を味わいたかった真菜にとってちょっと誤算だったようだ。
「仕事どうする?」
「うーん。うちの会社って女性に優しい職場だから、育休とっても復帰しやすいんだけどさあ。なんか子供できちゃうと化粧品ってそもそも興味なかったなーって思い始めちゃって――辞めるよ」
「そうなんだあー」
「3年くらいなら生活レベル下げれば専業主婦でやってけると思うしね」
「生活レベルかあ」
「うん。化粧品とかネイルとかやめて服買わなきゃなんとかなるでしょ」
相変わらず潔い真菜を前にすると自分はまだまだ流されている気がする。
「ところでさ、芳香ちゃんも兵部さんについて行くの?」
「ん? ついて行くって?」
「えっ、聞いてないの? うーん……まずったかな……」
「なに? 教えて」
「結婚、するんだよね?」
「うん。たぶん。お互いの両親に会ったからそうだよねえ?」
「だよね」
「ついて行くって?」
珍しく歯切れの悪い真菜に芳香は不安を感じる。
「人事の子と話してたんだけど。兵部さん、フランスの有名メーカーから引き抜きの話が来てるんだって」
「フランス?」
「うん。この前出した香水がやっぱり高評価らしくてね。是非、調香師として迎えたいって話が持ち上がっているみたいよ」
「そう、なんだ……」
薫樹が調香した香水『TAMAKI』は思った以上に高評価であった。香水の本場であるフランスでも一目置かれるもので、珍しく日本人の調香師が世界進出したのだ。薫樹の勤める『銀華堂化粧品』は、並の企業からのヘッドハンティングには不快感を示し、応じないであろうが、自社の調香師が海外進出ともなれば会社にも箔が付くだろうと反対をしない。寧ろ勧めるほどのようだ。
「こんないい話、薫樹さん、断るわけないよね……」
「だから芳香ちゃんと一緒に行くのかなって」
「フランスかあ……」
芳香は薫樹と一緒に居たいと願ってきたが、それは今、ここでの話で、外国でとは想像もしたことがないため、混乱してしまう。
「ごめんね。余計なこと言って……」
「ううん。いいのいいの。話してくれるタイミングがなかったのかもしれないし」
「うん。うまくいってると、そういう事話すのが後回しになっちゃうのかもしれないね」
「ん……。そうだね」
真菜とまた会う約束をして芳香は薫樹のマンションへ向かう。いつもより重い足取りで。
薫樹のマンションに入ったところで電話が入り少し帰宅が遅くなると言われた。
部屋に入る前であれば、外で時間をいつもつぶすのだが、今日は部屋に入った後だった。
がらんとした無機質な部屋は素っ気なく芳香を迎える。ソファーに腰を下ろし、薫樹に来ているというフランス行きの話を考える。
「フランスなんて……」
フランスで生活することなど全く自信がない。今日、薫樹はこの話を聞かせてくれるだろうか。
実家から帰ってやっと二人でゆっくり過ごせる時が来たが、フランス行きの話が気になってしょうがない。
薫樹は帰宅すると真っ先に芳香を抱こうとするだろう。真菜にこの話を聞くまでは、芳香も薫樹に真っ先に抱いてもらいたいと思うだけだった。
気を重くしていると、ドアの開く音がし、スーッと静かな足音が洗面所へ向かい、水が流れる音が聞こえた。
薫樹が手と顔を洗い、涼介にもらったマウスウォッシュでうがいをしているのだ。
芳香はそっと両手で口を覆い、自分の息を確かめる。自分もさっき使ったばっかりのミントの香りが残っていることに安心して薫樹を迎えるべく、ソファーから立ち上がった。
リビングのドアが開き、スッと薫樹が入ってくる。スーツに一つの乱れもなく、眼鏡を少しだけ直し、美しい、薫り高い薫樹が手を広げる。
「芳香、ただいま」
「おかえりなさい」
芳香は薫樹の胸に飛び込み、今日の香りを吸い込む。エキゾチックでスパイシーだが品よく高貴な香りは『TAMAKI』のようだ。
頭の片隅で『フランス』の文字がよぎるが、貪るような口づけをする薫樹に応じてしまい、そのままソファーに雪崩れ込んでしまった。薫樹の指先はもう芳香の尻の割れ目をなぞり、素早く性感帯をピンポイントで愛撫し、蜜を溢れさせる。
やがて、芳香は我を忘れるような声をあげることになる。
10 君と僕の間
ぼんやりと虚ろに天井を見つめる芳香の頬を撫で薫樹は身体を起こし、お茶を淹れにキッチンに立つ。
半分だけ脱がされたブラウス姿の乱れた芳香の様子を、少し離れたところから眺めることが薫樹は好きだった。
もう少しすると芳香は身体を起こし、服装を直すだろう。その時に手を貸せばよいと思っている。
自分が行った愛撫の後が芳香の姿を見るとまざまざと感じられ、情事後の艶めかしさを醸し出している。
初めて会った頃から比べて芳香はとてもセクシーになっている。とまどいと恥じらいと快楽に溺れる感度の良さが、彼女の香りと同等に薫樹を惹きつけている。
ミントティーの香りに気づき、身体を起こす芳香の側に行く。薫樹は頬にキスをし肩を抱いた後、はずした三つのボタンを留め、片足に引っかかっているパンティーをもう片方の足にくぐらせするすると履かせる。
「あ、じ、自分で……」
慌てて自分で履こうとする芳香に任せて、乱れた髪を撫でつけてから薫樹は隣に座った。
「いつも、君は可愛い」
「え、あ、そんな……」
頬を染める芳香にミントティーを勧め、一緒に飲んで爽快感を味わう。
香りを楽しんでいると芳香がカチャリとカップを置いて「薫樹さん」と声を掛ける。
「ん?」
「あの、薫樹さんはフランスに行くんですか?」
「え? ああ、立花、じゃない、鳥居さんから聞いたのか」
「はい……」
「行かないよ。断るつもりだ」
「え? なんでですか?」
「なんでって言われても……。行く理由がないからかな」
「ええ!?」
「なんだか不安そうだと思っていたが、もしかしてフランスに行くと思っていたのか」
「ええ……。だって普通、すごっくいいお話ですよねえ。いかない方が変ですよねえ」
「確かに、普通なら行くだろうか」
日本で調香師としてこれ以上ないくらいの成功を収めることに間違いはない話だ。調香師ならだれでも羨み、願うチャンスだろう。
しかし薫樹は調香師であることが目的であって、成功を収めることが目的ではなかった。
「そんな……。いいんですか? 断るなんて……」
「君がフランスで暮らしてみたいというなら行ってもいいよ」
「ええっ! そ、そんな……」
「フフ。僕は僕が納得できる香りが作れたらそれでいい。そしてそばに君がいて欲しい。別に経済的に困っているわけでもない。これ以上忙しくなったら君との時間が無くなるだろう?」
「は、はあ……」
芳香は捨てられるのではないかと恐れている子犬のように心配そうな目をする。
「君のせいで行かないんじゃないから、心配しなくていい。ちゃんと人生のプランが僕にはあるし、フランスのメーカーに従事して大きな名声を得ることが幸せの道とも言えないんだからね」
香水王の故ジャン・モロウの事を思い出す。彼は一人娘のクロエを亡くした時、イタリアのメーカーで調香師として活躍していた。クロエが事故に遭い重体だと聞かされ、最高の経済とスピードをもってしても死に目に会えなかった。それ以来、フランスから、妻のマリーから離れず、調香学校の講師という社会の脚光を浴びる場所から裏舞台へと身を潜めた。
「ジャンのようにどこに居ても名香は生み出せるものだからこの『TAMAKI』のようにね」
少し安心した様子の芳香の頭をそっと胸に寄り抱えさせる。
実際、フランスへ行くことに薫樹は魅力を感じていない。断ることにも何の未練もない。しかし芳香の反応を見ると自分の選択は普通ではないのだろうと考えた。だからと言って考えが変わるわけではない。
フランスで仕事をすると、有名になり名声も得られ、今よりも経済的に豊かになるだろう。ただ調香するものが、会社の要望であり、自分の意思がどれだけ通るかはわからない。根本的に日本人の自分とヨーロッパ人の求めるものが違う故に摩擦も多く、おそらくは調香ロボットのようになるだろう。
芳香の麝香に触れ、ボディーシートを作り上げ、芳香との甘い夜のためにルームフレグランスやラブローションを作ったことを思い出す。
「楽しいよ。君といると」
「薫樹さん……」
愛する恋人がいて、親しい友人もでき、まだまだ目標もある。これ以上何も望むことはないと薫樹は満足して芳香の身体を引き寄せた。
二人の間には芳しい香りが満ちている。
11 あなたとわたし、そして……
芳香と薫樹が結婚した翌年、薫樹は『TAMAKI』に次ぐ、名香を発表する。
『あなたとわたし(邦題)』は海外でも、『TAMAKI』以上の評価を受け、薫樹の名前は調香界でも不動のものとなる。
この香りはセクシーさの中にリラックスを感じ、優しさの中に情熱を感じる、二極のものが絶妙なバランスを保ち、いわれもなくうっとりするのだ。
ただ、涼介と真菜はこう言う。
「これって兵部さんと芳香ちゃんでしょ?」
それを聞き芳香は怒る。
「やだ! 薫樹さんってば、なんて香り作るんですか!」
目を三角にしながらも『あなたとわたし』を薫樹が身に着けると、そろそろと近づき潤んだ目で胸元に忍び込んでくる。
「やっとできたんだ。でも君の香りは僕だけのものだから作らないよ」
「もうっ! ほんとに私の香りなんか作んないでくださいよ!」
彼女の麝香は彼女のままに。
芳香はそっと呟く。
「薫樹さんの香りも作らないで。このフィトンチッドは私だけのものにさせてください」
「ん。僕は自分の香りがわからないし、これも、君が言う僕の香りをイメージで作っているものにムスクを掛け合わせている――僕の香りは君だけの香りだよ」
安心して芳香はまた薫樹の指先の香りを嗅ぎ、口に含み舐める。
「君の爪先も楽しませてもらおうか……」
寝室は『あなたとわたし』を超える名香で満ちるが、その香りを嗅ぐことは、それを創り上げる二人以外叶わない。
更に年月が過ぎると二人に男児が授かるが、やはり兵部家の男児らしく、その子は味覚に鋭い子供になる。
おかげで芳香は非常に手を焼く。
「きゃっ、この子ったらまた離乳食をイヤイヤしてる……」
「ん? ダシでも変えたのか? いつもより魚の匂いが強いな」
「ああ……。鰹節切らしちゃって、あご(トビウオ)だしだけにしたんですよねえ……」
「フフ。露樹は舌が肥えているようだな」
「はあ……。まだ一歳なのに……」
芳香はため息をつきながら、露樹の機嫌を取るべく彼の好きな薄めたメープルシロップをひとさじ舐めさせ、また離乳食を口に放り込む。
「ぶぶっ、むうっ、まんまっ」
なんとか食べてくれるようだ。ため息をつく芳香の側で薫樹は彼女の香りを嗅ぐ。
母になった芳香は麝香に乳香とバニラが混じった香りを放つ。
薫樹は彼女の香りに満足し、次なる香りの目標を立てる。息子の露樹は乳とシロップの甘ったるい香りをさせ、抱き上げる芳香の香りと混じりあい更なる安心する香りへと変化する。
「素晴らしいな」
薫樹は最後に『愛』と名付けた名香を生み出した。
優しい陽だまりの中で永遠の安心感を得られるようなこの香りは、やがて世界中を満たす。
そして、抱き合う薫樹と芳香は永遠に香りを創造し続ける。
終わり
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