5 / 33
一章
5.不意打ち
しおりを挟む
――『俺の彼女になってくれない?』
しばらくの間、香澄はその言葉の意味をうまく理解することができなかった。
呆然と永瀬を見上げ言葉を失っている彼女を見て、永瀬は「ほらね」と自嘲した。
「やっぱりなんとも思ってなかった、俺のこと」
まあそんな気はしてたけど、と呟いてビールを呷る永瀬の隣で、香澄はいまだ混乱している。
(え、冗談?本気?どっち?)
彼の口からこぼれた言葉が本気なのか、香澄には判断できかねた。
だって、彼ほどの人が、何の取り柄もない自分を恋愛対象として見てくれるなどあり得ない。
それに彼は片想いしている相手を「笑顔が可愛くて気が利く」と言っていた。しかしそれは到底自分に当てはまらないと思う。
だとしたら冗談?でも何のために?
軽い気持ちでそういう言葉を口にするような人には見えない。
だからきっと何か意図があるのだろうが――それは一体何なのか。
できる限りの速さであらゆる考えを巡らせた結果、香澄はやがて一つの可能性に辿り着いた。
(…あ。もしかして、告白の練習?)
なるほど、それなら話の流れからして不自然でない。
ああいう伝え方で女性がどんな反応をするのか、自分を練習台に試してみたということなのではないだろうか。
――うん、これが一番しっくりくる。
ようやく彼の考えを読むことができた気がして、香澄は動揺を誤魔化すようになんとか笑顔を作って言った。
「も、もう…びっくりした!突然驚かせないでください。告白の練習ってことですよね?…いいと思います、そんな感じで。大成功、間違いなしです」
頷き、親指と人差し指で丸を作って太鼓判を押したのに、対する永瀬は喜ぶどころか怪訝な顔だ。そしてその後、大きなため息をついて、どこか不貞腐れたように口を尖らせた。
その様子からお互いの考えが食い違っていることは明白で…つまり香澄が辿りついた答えは、どうやら外れていたらしい。
「え…と…?あれ?あの、練習じゃ」
「んな訳ない。いたって真面目に告白したつもりなんだけど。…あーあ、こうも相手にされないと、さすがに凹むな」
「え」
「そもそも、好きじゃなきゃ二人きりでご飯とか誘ったりしないし」
そこまで言われて、香澄はようやく理解した。
さっきの告白は、もしかしたら他でもない自分自身に向けられた言葉なのかもしれないということを。
「え…?あの…それってもしかして…私のことが、好きってことですか…?」
「そう言ってる」
さらりと言われたが、ますます混乱する。
思ってもみなかった答えは、香澄の思考を完全に停止させた。
「な、なんで…だってそんなの、考えたこともなかったです…」
「じゃあ――考えてよ」
ふっと永瀬が笑った。彼はテーブルに頬杖をつくと、香澄を見つめた。この状況をどこか楽しんでいるような表情を浮かべながら。
「突然言われて困ってるのは分かってる。でも明確に嫌という気持ちがないなら、お試しでいいから付き合ってみない?」
「お試し…?」
「そう。それでも気持ちが俺に向かなければ、その時は…きっぱり諦める」
それはつまり、付き合ってみて好きになるか試してみようと、多分そういうことなのだろう。
だが残念ながら、その前提は既に破綻している。
好きか嫌いかでいうならば――好きだ。
実際、少なくとも彼に対する憧れの気持ちは自覚している。異性としてとても魅力的な人だと思うし、彼の恋人になれるなら嬉しいとすら思う。
しかしそれでも彼の想いを素直に受け入れられない理由が、彼女にはあった。
香澄は永瀬から視線を逸らすと、申し訳ない気持ちで呟いた。
「…気持ちは、とても嬉しいです。でも私では、永瀬さんを満足させてあげられないと思います」
「なんで?」
「元カレに言われたんです…別れる時」
―― 『顔は可愛いけどいちいち重いんだよ。真面目すぎて一緒にいてもつまんない。ヤっても感度悪いし』
浮気現場を目撃したあの日、言われた言葉だ。
全身にこみあげる悲しみ、怒り、やるせなさ…途方のない喪失感。
香澄は何も言い返せないまま、怒りに任せて彼の頬を激しく叩いた。生まれて初めて人を叩いた手は、傷つけた側のはずなのに苦しい程に痛んで、香澄の心に深い傷を残した。
そこに軽蔑を含んだ彼の冷たい視線が追い討ちをかけるように突き刺さって、未だ忘れられない傷跡(トラウマ)へと変わった。
「あんな想いするの、もう嫌なんです。重荷になって、心が離れてることにも気づかないで、捨てられて…。勿論、いつか立ち直らないといけないのはわかっています。でも…それでも、やっぱりまだそんな気持ちにはなれない。きっと向いてないんです、恋愛とか。決して永瀬さんが嫌いとかじゃないんですけど…ごめんなさい」
香澄はなるべく感情を抑えながら、静かにそう告げた。
ちらりと見やった横顔は険しい。それを見て、香澄はひどく居た堪れない気持ちになった。
それでも、答えを覆すつもりはない。
そこから暫く会話が途切れたが、やがて沈黙を破ったのは、永瀬の方だった。
「――そんな理由で、俺が諦めるとでも思ってる?」
その言葉に、香澄は目を瞬かせた。
拒絶を伝えたことで、てっきり彼も引き下がってくれると思っていたのだ。
それなのに彼女を見つめる今の彼の瞳に戸惑いなど見当たらない。むしろ…。
「ていうか腹立つな、そいつ。重いとか真面目すぎてつまんないとか――、一途で誠実ってことだろ。それの何が悪いわけ?俺は大歓迎だけどね、なんなら多分そっち側だし」
「な、永瀬さん?」
思いがけない言葉の最後に、思いがけない暴露もついてきて、香澄はどう反応したらいいか困って眉を顰めた。
「たった一回の失恋で、世の男の価値を決められたくないな。それを俺は証明したい。証明してみせる」
永瀬は香澄を見て言ったが、その視線を正面からまともに受け止めきれない。
香澄は視線を逸らして俯いた。視界に入る手はわずかに震えている。
この手を誰かに向かって伸ばすことは却って自分を傷つけるだけなのだと、あの日学んだ。
「…私は、もう恋愛なんてしないって決めたんです」
「でも俺には、久遠さんこそ恋愛したがっているように見えるけどな」
それはとても心外な――というよりは、意外な言葉だった。あまりに意外すぎて、一瞬理解するのに時間を要したぐらいだ。
「…どうしてそう思うんですか?」
「求めても手に入らないならそんなの欲しくないって、そう聞こえたから。でもそれって、結局は欲しがってるってことだろ」
言われた言葉は、ぐさりと音を立てて香澄の胸に突き刺さった。
まるで心を見透かされたようで、香澄は言葉も紡げずに彼を見上げている。
そんな彼女に、永瀬は言葉とは裏腹の、優しい微笑みを向けた。
「人間なんだから、誰かを求めるのは当然のことだよ。強がりだけじゃどうにもならないって本当は気付いてるんじゃないの?」
「そんな、こと…」
「そんなことないって言うなら、俺にそれを証明してよ。俺自身のことならともかく、勝手な先入観で結論を出されるのは納得できない」
まっすぐに香澄を見据える眼差しは、身がすくんでしまうほど真剣で情熱を帯びている。
付き合いたての頃だって、元カレにこんな風に見つめられたことはあるだろうか。…ああ、もう何も思い出せない。
「俺は、久遠さんの恋人になりたい。そして傷ついた過去を癒してあげたい。俺なら癒せる」
いっそ嫉妬してしまうほどの自信。傲慢なのに、断言されると疑うこともできなくなる。
「また恋をして傷つくのが怖い?でも久遠さんは、きっとまた恋をする。そしてその相手は、きっと俺だと思う」
彼の瞳に映る自分は、戸惑って揺れている。しかしそれは裏返せば、信じたい気持ちの表れなのだろうか。
躊躇う香澄を促すようにして、永瀬は自分の手を彼女の前に差し出した。
「だからほんの少しだけ勇気出して、俺の手を握ってみない?」
言われて、彼の大きな手を見つめながら香澄は逡巡した。
この手を信じてもいいのだろうか。また裏切られないだろうか。もし別れることになったら、今度こそ自分が壊れてしまうかもしれない。
不安は止めどなく、どうしたって消えることがない。
全部彼の言う通りで、自分はただ恐れているのだ。そうして諦めている。手に入れなければ、失うこともないから。そうやって生きてきた、これからもそのつもりだった。
それなのに、なぜだろう――この手を拒んだら、きっと後悔すると思った。
危険な賭けだとしても、上手くいく保証なんてどこにもなかったとしても。
それでも、期待してみたいと。
真意を探るように、香澄は永瀬を見上げる。まっすぐなその瞳は、少しもぶれることがない。
それが彼の心そのもののように思えて、香澄の心はついに動いた。
「…本当にいいんですか、私なんかで」
「久遠さんがいいって言ってる」
「でも…やっぱり重いって…、嫌気がさしてすぐ別れたくなるかもしれないですよ」
「そうかな?俺はそうはならない気がしてるけど。一年後も十年後も、その先も、一緒にいる気がしてる」
どこか揶揄うような言葉と笑顔が、香澄の暗闇を優しく照らしはじめる。
失恋して以来きつく蓋をして閉じ込めていた本音が、彼の情熱に触れて今、その顔を出そうとしていた。
頑丈に守ってくれる砦を失って不安になる一方で、こんな日を待っていたとも香澄は思う。
何もかもを壊して、新しい世界に連れ出してくれる人。いつまでも変わらない愛情と、何度だって立ち上がれる勇気をくれる人。忘れかけていた大事な何かを、取り戻してくれる人。
そんな人を本当はずっとずっと、待っていたのだと。
香澄は覚悟を決めると、そっと手を伸ばした。
躊躇いがちに触れた手を、大きな掌がぎゅっと包む。それはまるで長く凍っていた何かを溶かすような温かさで、香澄は泣きそうなくらいに胸が熱くなった。
「こんな私でよければ…よろしく、お願いします」
「うん。こちらこそよろしく」
永瀬は安堵と喜びの混じった顔で香澄を見つめ、笑っている。
そこには一ミリの憂いもなかったから、彼女はその眩さに目を見張った。
未来なんて、確約のないもの。彼の言葉だって、約束でも予言でもない、現時点における意思表示でしかない。
だけど彼が言うと、まるでそれが宿命のようにすら思える。
それでも、彼の光に賭けてみたい――彼の手を握り返しながら、遠い昔に消えかけていた情熱の炎がいま静かに灯り始めたのを、香澄は確かに感じていた。
しばらくの間、香澄はその言葉の意味をうまく理解することができなかった。
呆然と永瀬を見上げ言葉を失っている彼女を見て、永瀬は「ほらね」と自嘲した。
「やっぱりなんとも思ってなかった、俺のこと」
まあそんな気はしてたけど、と呟いてビールを呷る永瀬の隣で、香澄はいまだ混乱している。
(え、冗談?本気?どっち?)
彼の口からこぼれた言葉が本気なのか、香澄には判断できかねた。
だって、彼ほどの人が、何の取り柄もない自分を恋愛対象として見てくれるなどあり得ない。
それに彼は片想いしている相手を「笑顔が可愛くて気が利く」と言っていた。しかしそれは到底自分に当てはまらないと思う。
だとしたら冗談?でも何のために?
軽い気持ちでそういう言葉を口にするような人には見えない。
だからきっと何か意図があるのだろうが――それは一体何なのか。
できる限りの速さであらゆる考えを巡らせた結果、香澄はやがて一つの可能性に辿り着いた。
(…あ。もしかして、告白の練習?)
なるほど、それなら話の流れからして不自然でない。
ああいう伝え方で女性がどんな反応をするのか、自分を練習台に試してみたということなのではないだろうか。
――うん、これが一番しっくりくる。
ようやく彼の考えを読むことができた気がして、香澄は動揺を誤魔化すようになんとか笑顔を作って言った。
「も、もう…びっくりした!突然驚かせないでください。告白の練習ってことですよね?…いいと思います、そんな感じで。大成功、間違いなしです」
頷き、親指と人差し指で丸を作って太鼓判を押したのに、対する永瀬は喜ぶどころか怪訝な顔だ。そしてその後、大きなため息をついて、どこか不貞腐れたように口を尖らせた。
その様子からお互いの考えが食い違っていることは明白で…つまり香澄が辿りついた答えは、どうやら外れていたらしい。
「え…と…?あれ?あの、練習じゃ」
「んな訳ない。いたって真面目に告白したつもりなんだけど。…あーあ、こうも相手にされないと、さすがに凹むな」
「え」
「そもそも、好きじゃなきゃ二人きりでご飯とか誘ったりしないし」
そこまで言われて、香澄はようやく理解した。
さっきの告白は、もしかしたら他でもない自分自身に向けられた言葉なのかもしれないということを。
「え…?あの…それってもしかして…私のことが、好きってことですか…?」
「そう言ってる」
さらりと言われたが、ますます混乱する。
思ってもみなかった答えは、香澄の思考を完全に停止させた。
「な、なんで…だってそんなの、考えたこともなかったです…」
「じゃあ――考えてよ」
ふっと永瀬が笑った。彼はテーブルに頬杖をつくと、香澄を見つめた。この状況をどこか楽しんでいるような表情を浮かべながら。
「突然言われて困ってるのは分かってる。でも明確に嫌という気持ちがないなら、お試しでいいから付き合ってみない?」
「お試し…?」
「そう。それでも気持ちが俺に向かなければ、その時は…きっぱり諦める」
それはつまり、付き合ってみて好きになるか試してみようと、多分そういうことなのだろう。
だが残念ながら、その前提は既に破綻している。
好きか嫌いかでいうならば――好きだ。
実際、少なくとも彼に対する憧れの気持ちは自覚している。異性としてとても魅力的な人だと思うし、彼の恋人になれるなら嬉しいとすら思う。
しかしそれでも彼の想いを素直に受け入れられない理由が、彼女にはあった。
香澄は永瀬から視線を逸らすと、申し訳ない気持ちで呟いた。
「…気持ちは、とても嬉しいです。でも私では、永瀬さんを満足させてあげられないと思います」
「なんで?」
「元カレに言われたんです…別れる時」
―― 『顔は可愛いけどいちいち重いんだよ。真面目すぎて一緒にいてもつまんない。ヤっても感度悪いし』
浮気現場を目撃したあの日、言われた言葉だ。
全身にこみあげる悲しみ、怒り、やるせなさ…途方のない喪失感。
香澄は何も言い返せないまま、怒りに任せて彼の頬を激しく叩いた。生まれて初めて人を叩いた手は、傷つけた側のはずなのに苦しい程に痛んで、香澄の心に深い傷を残した。
そこに軽蔑を含んだ彼の冷たい視線が追い討ちをかけるように突き刺さって、未だ忘れられない傷跡(トラウマ)へと変わった。
「あんな想いするの、もう嫌なんです。重荷になって、心が離れてることにも気づかないで、捨てられて…。勿論、いつか立ち直らないといけないのはわかっています。でも…それでも、やっぱりまだそんな気持ちにはなれない。きっと向いてないんです、恋愛とか。決して永瀬さんが嫌いとかじゃないんですけど…ごめんなさい」
香澄はなるべく感情を抑えながら、静かにそう告げた。
ちらりと見やった横顔は険しい。それを見て、香澄はひどく居た堪れない気持ちになった。
それでも、答えを覆すつもりはない。
そこから暫く会話が途切れたが、やがて沈黙を破ったのは、永瀬の方だった。
「――そんな理由で、俺が諦めるとでも思ってる?」
その言葉に、香澄は目を瞬かせた。
拒絶を伝えたことで、てっきり彼も引き下がってくれると思っていたのだ。
それなのに彼女を見つめる今の彼の瞳に戸惑いなど見当たらない。むしろ…。
「ていうか腹立つな、そいつ。重いとか真面目すぎてつまんないとか――、一途で誠実ってことだろ。それの何が悪いわけ?俺は大歓迎だけどね、なんなら多分そっち側だし」
「な、永瀬さん?」
思いがけない言葉の最後に、思いがけない暴露もついてきて、香澄はどう反応したらいいか困って眉を顰めた。
「たった一回の失恋で、世の男の価値を決められたくないな。それを俺は証明したい。証明してみせる」
永瀬は香澄を見て言ったが、その視線を正面からまともに受け止めきれない。
香澄は視線を逸らして俯いた。視界に入る手はわずかに震えている。
この手を誰かに向かって伸ばすことは却って自分を傷つけるだけなのだと、あの日学んだ。
「…私は、もう恋愛なんてしないって決めたんです」
「でも俺には、久遠さんこそ恋愛したがっているように見えるけどな」
それはとても心外な――というよりは、意外な言葉だった。あまりに意外すぎて、一瞬理解するのに時間を要したぐらいだ。
「…どうしてそう思うんですか?」
「求めても手に入らないならそんなの欲しくないって、そう聞こえたから。でもそれって、結局は欲しがってるってことだろ」
言われた言葉は、ぐさりと音を立てて香澄の胸に突き刺さった。
まるで心を見透かされたようで、香澄は言葉も紡げずに彼を見上げている。
そんな彼女に、永瀬は言葉とは裏腹の、優しい微笑みを向けた。
「人間なんだから、誰かを求めるのは当然のことだよ。強がりだけじゃどうにもならないって本当は気付いてるんじゃないの?」
「そんな、こと…」
「そんなことないって言うなら、俺にそれを証明してよ。俺自身のことならともかく、勝手な先入観で結論を出されるのは納得できない」
まっすぐに香澄を見据える眼差しは、身がすくんでしまうほど真剣で情熱を帯びている。
付き合いたての頃だって、元カレにこんな風に見つめられたことはあるだろうか。…ああ、もう何も思い出せない。
「俺は、久遠さんの恋人になりたい。そして傷ついた過去を癒してあげたい。俺なら癒せる」
いっそ嫉妬してしまうほどの自信。傲慢なのに、断言されると疑うこともできなくなる。
「また恋をして傷つくのが怖い?でも久遠さんは、きっとまた恋をする。そしてその相手は、きっと俺だと思う」
彼の瞳に映る自分は、戸惑って揺れている。しかしそれは裏返せば、信じたい気持ちの表れなのだろうか。
躊躇う香澄を促すようにして、永瀬は自分の手を彼女の前に差し出した。
「だからほんの少しだけ勇気出して、俺の手を握ってみない?」
言われて、彼の大きな手を見つめながら香澄は逡巡した。
この手を信じてもいいのだろうか。また裏切られないだろうか。もし別れることになったら、今度こそ自分が壊れてしまうかもしれない。
不安は止めどなく、どうしたって消えることがない。
全部彼の言う通りで、自分はただ恐れているのだ。そうして諦めている。手に入れなければ、失うこともないから。そうやって生きてきた、これからもそのつもりだった。
それなのに、なぜだろう――この手を拒んだら、きっと後悔すると思った。
危険な賭けだとしても、上手くいく保証なんてどこにもなかったとしても。
それでも、期待してみたいと。
真意を探るように、香澄は永瀬を見上げる。まっすぐなその瞳は、少しもぶれることがない。
それが彼の心そのもののように思えて、香澄の心はついに動いた。
「…本当にいいんですか、私なんかで」
「久遠さんがいいって言ってる」
「でも…やっぱり重いって…、嫌気がさしてすぐ別れたくなるかもしれないですよ」
「そうかな?俺はそうはならない気がしてるけど。一年後も十年後も、その先も、一緒にいる気がしてる」
どこか揶揄うような言葉と笑顔が、香澄の暗闇を優しく照らしはじめる。
失恋して以来きつく蓋をして閉じ込めていた本音が、彼の情熱に触れて今、その顔を出そうとしていた。
頑丈に守ってくれる砦を失って不安になる一方で、こんな日を待っていたとも香澄は思う。
何もかもを壊して、新しい世界に連れ出してくれる人。いつまでも変わらない愛情と、何度だって立ち上がれる勇気をくれる人。忘れかけていた大事な何かを、取り戻してくれる人。
そんな人を本当はずっとずっと、待っていたのだと。
香澄は覚悟を決めると、そっと手を伸ばした。
躊躇いがちに触れた手を、大きな掌がぎゅっと包む。それはまるで長く凍っていた何かを溶かすような温かさで、香澄は泣きそうなくらいに胸が熱くなった。
「こんな私でよければ…よろしく、お願いします」
「うん。こちらこそよろしく」
永瀬は安堵と喜びの混じった顔で香澄を見つめ、笑っている。
そこには一ミリの憂いもなかったから、彼女はその眩さに目を見張った。
未来なんて、確約のないもの。彼の言葉だって、約束でも予言でもない、現時点における意思表示でしかない。
だけど彼が言うと、まるでそれが宿命のようにすら思える。
それでも、彼の光に賭けてみたい――彼の手を握り返しながら、遠い昔に消えかけていた情熱の炎がいま静かに灯り始めたのを、香澄は確かに感じていた。
10
あなたにおすすめの小説
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
上司が猫を脱いだなら。
yuzu
恋愛
「推しの上司がメロすぎて困る。」が口癖の主人公、多部由香子26歳。
大手食品会社社長 御園正太郎の長男である事を隠して企画営業部の係長を務める 黒木連 29歳。
由香子は連を「リアル王子様」「純粋でかわいいわんこ系」だとおもいこんでいた。けれど、ふたりきりになった瞬間、メロいはずの蓮はオレ様キャラに豹変して……ちょっと過激なラブコメディ。
※読んでくださる読者の皆様に感謝申し上げます。感想、ハート、応援。とても励みになっています(*´꒳`*)毎日更新予定です。よろしくお願いいたします✳︎
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる