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一章
6.対等
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電車がようやく復旧し、動き始めたらしい。
恋人となって連絡先も交換した二人だが、会計を巡って早速もめている。
香澄が手洗いに行っている間に永瀬が支払いを済ませたので、彼女は当然のごとく財布を取り出したのだが、彼は不要だと言って押しとどめたのだ。
「私にも払わせてください」
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「そういう問題では。料理も半分近くいただいたので、さすがに気が引けます」
「いいって」
「いいえ、出します。…だって私は永瀬さんの彼女、だから。対等ですよね」
香澄は精一杯の勇気を振り絞って言った。
だって、ここで丸め込まれているようでは、これからやっていけない。
良い関係を築くため、香澄にとってこれは譲れない条件だった。
「…そこまで言うなら、遠慮なく」
香澄の揺るがない気持ちを汲み取ったのか、やがて諦めたように永瀬が告げると、ぱっと彼女の顔が綻んだ。
「分かっていただけたようでよかったです。ええと、いくらでしたか?」
言いながら香澄は財布を開けようとしたのだが、すぐにその手を止めた。いや、止められた。
永瀬の手が、財布にかかる香澄の手に重なったからだ。
香澄が怪訝に思って永瀬を見上げると、次の瞬間、握った財布ごと彼にその手をぐっと引かれて――気付いた時には、唇を奪われていた。
柔らかい唇が押し付けられ、その後一度離れたと思ったら、角度を変えてすぐに再び重なった。
そして最後にぺろりと表面を舐めると、彼の唇は名残惜しそうに離れていった。
それは、数秒にも満たない短いキス。それでも、香澄を動揺させるには十分だった。
「な、永瀬さん…!」
香澄が顔を真っ赤にして見上げると、してやったりと言わんばかりの男の笑顔があった。
だけどその瞳はやけに優しくて、そんなところにも彼の愛情が溢れているようだ。
「食事代。確かに受け取った」
「お、お金じゃありませんっ」
香澄は慌てて抗議の声をあげた。
いくらここがカウンター席の端っことはいえ、数席離れたところには他の客もいるし、忙しそうに動き回っているがカウンター越しにはスタッフだっている。
幸い、永瀬の身体の影にすっぽりと隠れられたおかげで誰もが気付いていない――と信じたい――が、気まずさはこの上ない。
「うん、でも俺にとってはお金より価値あるものだから。むしろお釣り渡したいぐらい。ありがとう」
さらりと言われて、香澄の顔はますます赤く染まっていく。
恥ずかしそうに唇を噛む彼女の髪を優しく撫でると、永瀬は「出ようか」と言って席を立った。
***
ところが二人は居酒屋を出た先で、今度は困惑気味に顔を見合わせた。
「…参ったな」
「困りましたね…」
二人の目の前では、大粒の雨が激しい音を立てて地面に打ち付けている。
本降りの雨が街を濡らして、あちこちに水たまりを作っていた。
一向に止む気配のない空を見上げ、香澄は一体今日何度目か分からないため息をつく。
(――困った。とても、困った。だって傘なんて持ってきてないよ)
そもそも今日の天気予報は降水確率10%だったはずだ。
よもやその確率で雨が降るとも、それもこの時間に遭遇するとは夢にも思わなかった。
居酒屋が密集しているこの辺りは周りにコンビニもなく、タクシーが走ってそうな大通りからも離れている。つまり、傘を持たない状態では移動が絶望的。
ふと周囲を見てみると、店の軒下で雨宿りしている人があちこちに見えた。香澄同様、誰もが憂鬱そうに空を見上げて困り果てている。
「すごい雨だな。通り雨だといいけど」
呟いた永瀬に香澄は激しく同感した。むしろそうでなければ困る。
時刻は夜10時。終電を心配する時間ではないが、明日も仕事なのでなるべく早く帰りたいところだ。
「傘、持ってる?」
「いえ…永瀬さんはお持ちですか?」
尋ね返すと、「まぁ、仕事柄ね」と彼は苦笑して鞄から折り畳み傘を取り出した。
もしかしたら入れてもらえるかも、と香澄は期待したが、雨空に向かって広げられた傘は大人二人が入るにはちょっと心もとない大きさだった。
ということは、残念ながら、彼とはここでお別れのようだ。
香澄はここで彼を見送り、自分は雨が上がるのを待とうと一人決めていた。
「今日はありがとうございました。ご飯もご馳走になって、とても美味しかったです。どうぞお気をつけて」
見上げてそう言ったら、「は?」と怪訝な声が返って来た。
「まだ言うのは早いよ。ほら、入って」
「え」
「狭いけど、勘弁な」
香澄が返事をする間もなく、永瀬はその細い肩を抱き寄せると、傘の中に引き込んだ。
自然、距離が近くなって――香澄の顔の温度が、急激に上昇していく。
「あ、あの、私一人で待ってても大丈夫、なので…っ」
「何言ってんの。こんなところに一人で置いていけるわけないだろ。俺の彼女なんだから」
さっき自分が口にした理由を以てあっさり論破されてしまい、香澄は何も言えなくなった。
促されるまま雨の中を歩きだしたものの、濡れる足元より速まる鼓動の方が気になって仕方ない。しかも永瀬がさりげない優しさでいちいちドキドキさせてくるから堪らなかった。
折り畳み傘という窮屈な世界の中でも、永瀬は香澄の歩幅に合わせて歩いてくれる。
それだけでなく、なるべく水たまりのないところへ導いたり、傘地もほとんど香澄の方へ傾けてくれたり…。
そういう何気ない振る舞いが、彼の想いを間接的に伝えてくれているような気がして、なんだかくすぐったい。
男性にこんな風に優しくされたことなんてなかったから、余計に。
香澄は動揺に気付かれないよう必死で顔を隠したが、すぐ隣にある彼の匂いや温もりを一層間近に感じて、却ってドキドキが増しただけだった。
恋人となって連絡先も交換した二人だが、会計を巡って早速もめている。
香澄が手洗いに行っている間に永瀬が支払いを済ませたので、彼女は当然のごとく財布を取り出したのだが、彼は不要だと言って押しとどめたのだ。
「私にも払わせてください」
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「そういう問題では。料理も半分近くいただいたので、さすがに気が引けます」
「いいって」
「いいえ、出します。…だって私は永瀬さんの彼女、だから。対等ですよね」
香澄は精一杯の勇気を振り絞って言った。
だって、ここで丸め込まれているようでは、これからやっていけない。
良い関係を築くため、香澄にとってこれは譲れない条件だった。
「…そこまで言うなら、遠慮なく」
香澄の揺るがない気持ちを汲み取ったのか、やがて諦めたように永瀬が告げると、ぱっと彼女の顔が綻んだ。
「分かっていただけたようでよかったです。ええと、いくらでしたか?」
言いながら香澄は財布を開けようとしたのだが、すぐにその手を止めた。いや、止められた。
永瀬の手が、財布にかかる香澄の手に重なったからだ。
香澄が怪訝に思って永瀬を見上げると、次の瞬間、握った財布ごと彼にその手をぐっと引かれて――気付いた時には、唇を奪われていた。
柔らかい唇が押し付けられ、その後一度離れたと思ったら、角度を変えてすぐに再び重なった。
そして最後にぺろりと表面を舐めると、彼の唇は名残惜しそうに離れていった。
それは、数秒にも満たない短いキス。それでも、香澄を動揺させるには十分だった。
「な、永瀬さん…!」
香澄が顔を真っ赤にして見上げると、してやったりと言わんばかりの男の笑顔があった。
だけどその瞳はやけに優しくて、そんなところにも彼の愛情が溢れているようだ。
「食事代。確かに受け取った」
「お、お金じゃありませんっ」
香澄は慌てて抗議の声をあげた。
いくらここがカウンター席の端っことはいえ、数席離れたところには他の客もいるし、忙しそうに動き回っているがカウンター越しにはスタッフだっている。
幸い、永瀬の身体の影にすっぽりと隠れられたおかげで誰もが気付いていない――と信じたい――が、気まずさはこの上ない。
「うん、でも俺にとってはお金より価値あるものだから。むしろお釣り渡したいぐらい。ありがとう」
さらりと言われて、香澄の顔はますます赤く染まっていく。
恥ずかしそうに唇を噛む彼女の髪を優しく撫でると、永瀬は「出ようか」と言って席を立った。
***
ところが二人は居酒屋を出た先で、今度は困惑気味に顔を見合わせた。
「…参ったな」
「困りましたね…」
二人の目の前では、大粒の雨が激しい音を立てて地面に打ち付けている。
本降りの雨が街を濡らして、あちこちに水たまりを作っていた。
一向に止む気配のない空を見上げ、香澄は一体今日何度目か分からないため息をつく。
(――困った。とても、困った。だって傘なんて持ってきてないよ)
そもそも今日の天気予報は降水確率10%だったはずだ。
よもやその確率で雨が降るとも、それもこの時間に遭遇するとは夢にも思わなかった。
居酒屋が密集しているこの辺りは周りにコンビニもなく、タクシーが走ってそうな大通りからも離れている。つまり、傘を持たない状態では移動が絶望的。
ふと周囲を見てみると、店の軒下で雨宿りしている人があちこちに見えた。香澄同様、誰もが憂鬱そうに空を見上げて困り果てている。
「すごい雨だな。通り雨だといいけど」
呟いた永瀬に香澄は激しく同感した。むしろそうでなければ困る。
時刻は夜10時。終電を心配する時間ではないが、明日も仕事なのでなるべく早く帰りたいところだ。
「傘、持ってる?」
「いえ…永瀬さんはお持ちですか?」
尋ね返すと、「まぁ、仕事柄ね」と彼は苦笑して鞄から折り畳み傘を取り出した。
もしかしたら入れてもらえるかも、と香澄は期待したが、雨空に向かって広げられた傘は大人二人が入るにはちょっと心もとない大きさだった。
ということは、残念ながら、彼とはここでお別れのようだ。
香澄はここで彼を見送り、自分は雨が上がるのを待とうと一人決めていた。
「今日はありがとうございました。ご飯もご馳走になって、とても美味しかったです。どうぞお気をつけて」
見上げてそう言ったら、「は?」と怪訝な声が返って来た。
「まだ言うのは早いよ。ほら、入って」
「え」
「狭いけど、勘弁な」
香澄が返事をする間もなく、永瀬はその細い肩を抱き寄せると、傘の中に引き込んだ。
自然、距離が近くなって――香澄の顔の温度が、急激に上昇していく。
「あ、あの、私一人で待ってても大丈夫、なので…っ」
「何言ってんの。こんなところに一人で置いていけるわけないだろ。俺の彼女なんだから」
さっき自分が口にした理由を以てあっさり論破されてしまい、香澄は何も言えなくなった。
促されるまま雨の中を歩きだしたものの、濡れる足元より速まる鼓動の方が気になって仕方ない。しかも永瀬がさりげない優しさでいちいちドキドキさせてくるから堪らなかった。
折り畳み傘という窮屈な世界の中でも、永瀬は香澄の歩幅に合わせて歩いてくれる。
それだけでなく、なるべく水たまりのないところへ導いたり、傘地もほとんど香澄の方へ傾けてくれたり…。
そういう何気ない振る舞いが、彼の想いを間接的に伝えてくれているような気がして、なんだかくすぐったい。
男性にこんな風に優しくされたことなんてなかったから、余計に。
香澄は動揺に気付かれないよう必死で顔を隠したが、すぐ隣にある彼の匂いや温もりを一層間近に感じて、却ってドキドキが増しただけだった。
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