25 / 33
一章
挿話 誘惑2 ※永瀬視点
しおりを挟む
その夜、天沢の部屋を訪れた永瀬は、扉を開けた瞬間から嫌な予感がしてならなかった。
彼女から仕事の話がしたいと電話があったのはつい先ほど、トラブル報告を兼ねた減額の特別稟議を明日の朝一で申請するよう指示していたので、てっきりその話だと思ったのだが――彼女の部屋を訪ねると、バスローブを着た天沢が姿を現した。
本当に仕事の話ならば、なぜそんな恰好で上司を出迎える必要があるのだろうか。
そもそも、付き合ってもいない男の前でそんな無防備な姿を晒すこと自体、永瀬には信じられないことだった。
「こんな時間にすみません。わざわざお越しいただいてありがとうございます」
天沢はにっこり笑って永瀬を中へ促した。
永瀬は訝しく思いながらも室内に足を踏み入れる。
部屋はシングルルーム、自分の部屋とほぼ同じ内装で、窓際に小さなテーブルとイスが一脚置かれている。
テーブルの上には社用ノートパソコンが置かれていたので、仕事の話というのもあながち嘘ではないようだ。――ただし、それだけで終わるかどうか甚だ疑問だが。
「どうぞ、おかけ下さい」
促されて、永瀬はイスに腰を下ろした。
天沢がすぐ側に来てノートパソコンを開くと、彼女から甘い香水の匂いが漂ってくる。
嫌いではないが、こんな人工的な匂いなどなくても全く構わない。むしろその方がいいと思い始めたのはここ1年ぐらいのことだ。
清楚で柔らかくて、どこか甘い――例えようのない、あの子の香り。
あれほど心落ち着く匂いを、彼は他に知らない。
「実はトラブル報告書の件で、判断に迷う箇所がありまして…念のためご確認いただけたらと」
今にも頬が触れてしまいそうなほどの位置で、天沢が微笑んだ。
ねっとりと絡みつくような視線に、永瀬は否応なくその真意を汲み取ってしまって、本気でウンザリし始めていた。
実を言えば、天沢に好意を寄せられていることには大分前から気付いている。
直接的に言われたことはないが、そんなつもりはないと何度も態度で示してきたし、度重なる誘いもことごとく断ってきた。
最近はそういうことも減っていたのでようやく諦めてくれたかと期待していたのだが…残念なことに、どうやら勘違いだったらしい。
「どこの項目?」
できるだけ天沢と距離を取りながら、永瀬は訊ねた。
こうなっては一刻も早く仕事を終えて退出したい、その一念だった。
「トラブル経緯の項目です。認識が正しいか不安で…」
天沢がどこか甘えるような口調で言ったが、永瀬は一切無視して該当の項目を素早く黙読した。
そしていくつかの修正事項を口にすると、承知しました、と天沢が頷いた。
「以上?」
ちらりと見上げると、天沢はふっと笑って頷いた。
「はい。――仕事の方は」
限定的なニュアンスに永瀬が眉を顰めた次の瞬間、彼女は椅子に座る彼を抱き込む形で、その膝上に跨った。
永瀬が驚いて見上げると、彼女は今までになく妖艶な笑みを浮かべ、バスローブの紐を自分で解いた。
「抱いてください」
真っ赤な口紅で色づいた唇から零れたのは、ストレートな誘惑だった。
細い指が永瀬の身体をなぞる。その手つきは明らかに男慣れしていたが、彼にとっては不快以外のなにものでもなかった。
「永瀬さんのこと、好きなんです。私のことそんな風に思えないなら…身体だけでもいい。だから…、一度だけでいいから、抱いてくれませんか?」
言いながら、ぐっと押し付けられる豊満な胸。
扇情的に微笑む天沢を見て、どうやら彼女は本気でそういうつもりなのだと永瀬は理解した。
だがそれは決して現実にはなり得ない話だ。彼にはもう、心に決めた人がいるから。
どんな時でも真っ先に脳裏に浮かぶ、ただ一人の女性。
1年以上もの間視線の先に追い続け、ようやくその手を掴んだ。
彼女を裏切ることなどどうしてできるだろう。
約束したのだ――証明してみせると。
「…天沢」
天沢が勝利の笑みを湛えながら顔を近づけたその瞬間、永瀬はその細い肩を掴んで押し留めた。
そして確固たる意思を持って、きっぱりと告げた。
「悪いけど、その気持ちには応えられない。好きでもない女を、俺は抱けない」
彼女から仕事の話がしたいと電話があったのはつい先ほど、トラブル報告を兼ねた減額の特別稟議を明日の朝一で申請するよう指示していたので、てっきりその話だと思ったのだが――彼女の部屋を訪ねると、バスローブを着た天沢が姿を現した。
本当に仕事の話ならば、なぜそんな恰好で上司を出迎える必要があるのだろうか。
そもそも、付き合ってもいない男の前でそんな無防備な姿を晒すこと自体、永瀬には信じられないことだった。
「こんな時間にすみません。わざわざお越しいただいてありがとうございます」
天沢はにっこり笑って永瀬を中へ促した。
永瀬は訝しく思いながらも室内に足を踏み入れる。
部屋はシングルルーム、自分の部屋とほぼ同じ内装で、窓際に小さなテーブルとイスが一脚置かれている。
テーブルの上には社用ノートパソコンが置かれていたので、仕事の話というのもあながち嘘ではないようだ。――ただし、それだけで終わるかどうか甚だ疑問だが。
「どうぞ、おかけ下さい」
促されて、永瀬はイスに腰を下ろした。
天沢がすぐ側に来てノートパソコンを開くと、彼女から甘い香水の匂いが漂ってくる。
嫌いではないが、こんな人工的な匂いなどなくても全く構わない。むしろその方がいいと思い始めたのはここ1年ぐらいのことだ。
清楚で柔らかくて、どこか甘い――例えようのない、あの子の香り。
あれほど心落ち着く匂いを、彼は他に知らない。
「実はトラブル報告書の件で、判断に迷う箇所がありまして…念のためご確認いただけたらと」
今にも頬が触れてしまいそうなほどの位置で、天沢が微笑んだ。
ねっとりと絡みつくような視線に、永瀬は否応なくその真意を汲み取ってしまって、本気でウンザリし始めていた。
実を言えば、天沢に好意を寄せられていることには大分前から気付いている。
直接的に言われたことはないが、そんなつもりはないと何度も態度で示してきたし、度重なる誘いもことごとく断ってきた。
最近はそういうことも減っていたのでようやく諦めてくれたかと期待していたのだが…残念なことに、どうやら勘違いだったらしい。
「どこの項目?」
できるだけ天沢と距離を取りながら、永瀬は訊ねた。
こうなっては一刻も早く仕事を終えて退出したい、その一念だった。
「トラブル経緯の項目です。認識が正しいか不安で…」
天沢がどこか甘えるような口調で言ったが、永瀬は一切無視して該当の項目を素早く黙読した。
そしていくつかの修正事項を口にすると、承知しました、と天沢が頷いた。
「以上?」
ちらりと見上げると、天沢はふっと笑って頷いた。
「はい。――仕事の方は」
限定的なニュアンスに永瀬が眉を顰めた次の瞬間、彼女は椅子に座る彼を抱き込む形で、その膝上に跨った。
永瀬が驚いて見上げると、彼女は今までになく妖艶な笑みを浮かべ、バスローブの紐を自分で解いた。
「抱いてください」
真っ赤な口紅で色づいた唇から零れたのは、ストレートな誘惑だった。
細い指が永瀬の身体をなぞる。その手つきは明らかに男慣れしていたが、彼にとっては不快以外のなにものでもなかった。
「永瀬さんのこと、好きなんです。私のことそんな風に思えないなら…身体だけでもいい。だから…、一度だけでいいから、抱いてくれませんか?」
言いながら、ぐっと押し付けられる豊満な胸。
扇情的に微笑む天沢を見て、どうやら彼女は本気でそういうつもりなのだと永瀬は理解した。
だがそれは決して現実にはなり得ない話だ。彼にはもう、心に決めた人がいるから。
どんな時でも真っ先に脳裏に浮かぶ、ただ一人の女性。
1年以上もの間視線の先に追い続け、ようやくその手を掴んだ。
彼女を裏切ることなどどうしてできるだろう。
約束したのだ――証明してみせると。
「…天沢」
天沢が勝利の笑みを湛えながら顔を近づけたその瞬間、永瀬はその細い肩を掴んで押し留めた。
そして確固たる意思を持って、きっぱりと告げた。
「悪いけど、その気持ちには応えられない。好きでもない女を、俺は抱けない」
0
あなたにおすすめの小説
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
上司が猫を脱いだなら。
yuzu
恋愛
「推しの上司がメロすぎて困る。」が口癖の主人公、多部由香子26歳。
大手食品会社社長 御園正太郎の長男である事を隠して企画営業部の係長を務める 黒木連 29歳。
由香子は連を「リアル王子様」「純粋でかわいいわんこ系」だとおもいこんでいた。けれど、ふたりきりになった瞬間、メロいはずの蓮はオレ様キャラに豹変して……ちょっと過激なラブコメディ。
※読んでくださる読者の皆様に感謝申し上げます。感想、ハート、応援。とても励みになっています(*´꒳`*)毎日更新予定です。よろしくお願いいたします✳︎
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる