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一章
挿話 誘惑3 ※天沢視点
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『好きでもない女を、俺は抱けない』
冷ややかな視線でそう告げられて、天沢は目を大きく見開いた。
予想外の状況に思考は完全停止し、これが夢なのか現実なのかさえ分からない。
(は…?え、どういうこと?拒まれた?…この私が?)
こんなに美人なのに?下着姿で、ここまで曝け出しているのに?
この身体が、欲しくないと?
まさか。おかしい。ありえない。意味が分からない。
だってこんなこと、過去に一度もなかった。
例えそこに恋愛感情がなくたって、どんな綺麗事を並べたって、結局どの男達も本能には抗えなかった。そうして最後はこの身体に溺れて虜になるのだ。男なら皆、そうなるはずなのに――何故。
「どいて。仕事の話が終わったなら、部屋に帰る」
永瀬に押され、身体がよろめく。
呆然とする天沢を置いて、永瀬は入り口に向かって歩き出した。
「じゃ、また明日」
言って遠のいていく永瀬の背中を見て、天沢は駆け出した。
荒い足音で追いつき、その背中に抱きつく。驚いたように永瀬が振り返ったが、決して離すつもりはなかった。
だってこの手を離したら、行ってしまう。
そして今を逃したら、もう二度とこんな機会は巡ってこない。
「いや!行かないで!どうして私じゃダメなんですか?部下だからですか?私は、永瀬さんじゃなきゃダメなんです!」
天沢は、彼の身体に回す手に力をこめて叫んだ。
どうしても、どうしても諦められない。
だって、ようやく出会えた理想の人なのだ。
他の誰かなんて考えられない、出会える保証もない。
条件的にも年齢的にも、これが最後のチャンス。
だから何としても手に入れたい――人生の勝ち組となるために。
「永瀬さんのこと、本気で好きなんです!たった一度だけ、それだけでいいから…お願い…」
胸をぐっと押し付け、涙を浮かべた上目遣いで、ありったけの艶やかさを載せて天沢は懇願した。
だが永瀬は困惑の表情を見せただけで、躊躇いもしない。
そして振り切るように彼の口から告げられたのは、衝撃の言葉だった。
「ごめん。俺、他に好きな子がいる」
それは天沢にとって、どこかで予想していながらも、決して認めることのできない、最悪の返事だった。
自分でない誰かを彼が選ぶなんて、想像したことも、考えたくもなかったのだ。
「だから諦めて、離して」
身体に回る天沢の手を、永瀬は迷いない力で解いた。
そうして何の未練もなくドアへ向かう永瀬に、天沢は怒りにも似た激情を覚えた。
(――私が、ここまでしているのに!)
「それって、久遠さんですか?」
咄嗟に投げつけた一言に、永瀬の歩みが一瞬止まった。
それが天沢には肯定に思えて、尚更彼女の感情を刺激した。
正直、永瀬があの女を好きだと思う確信があるわけではない。
話すときの優しい口調だったり、飲み会で困っているところを助けたりということはあったが、ただの親切心であると言われれば否定できない。
けれど特にここ最近、あの女と話す時の永瀬の声音や態度が、特別な何かを含んでいるような気がしてならないのだ。
それは彼に長く想いを寄せてきた故の女の勘としか言いようがない。
(――ありえないでしょ。あんな何の取り柄もない女に、私が負けるなんて!)
「冗談でしょう?あんなのの一体どこがいいって言うんです?永瀬さんに全然相応しくない。不愛想だし気が弱いし、見ているだけでイライラするような女じゃないですか!仕事だって杜撰だし、だからD社の契約書もすぐ紛失して永瀬さんに迷惑かけ…」
「――なぜそれを知っている?」
天沢の言葉を遮ったのは、弾かれたように振り返った永瀬の厳しい声音だった。
こちらに向かうその視線はあまりに鋭く、天沢の心臓が一瞬にして跳ね上がった。
「知っているって…何の話、」
「久遠さんが紛失したのがD社の契約書だと、なぜ知っているのかと聞いている」
部屋を出て行こうとしていた永瀬は一転、険しい表情で今度は距離を詰めてきた。
有無を言わさない彼の様子に圧倒されて、天沢は後ずさる。
しかし壁際まで追い込まれるとそれ以上動けなくなって、思わず息を呑んだ。
(――こんな永瀬さん、見たことない)
初めて見る永瀬の怒気に、天沢は動揺を隠せない。
どんな時も、何があっても彼がこんな風に感情を尖らせることはなかった。
それが今はどうだろう。全身から抗えない威圧を感じる。
天沢は恐怖に震える声で、それでも何とか矜持を保って言い訳を口にした。
「そ、それは…聞かれたから、です。久遠さんに、D社の契約書知らないかって…」
「久遠さんがD社と口にしたのか?」
「え、ええ、そうです」
言いながらも、彷徨う視線。永瀬は真実を探るように天沢を見据えたあと、目を細めた。
「…そうか。おかしいな、久遠さんから再印刷の依頼を受けた時は『K社の契約書』と言われたんだが」
「え?」
言っている意味が分からず、天沢は眉を顰めた。
…そんなはずはない、あれは確かにD社の契約書だった。この目で見たのだから、間違ってなどいないはずだ。
「確かに契約書上はD社宛だが、稟議は実取引先のK社で通ってる。提出時のヘッダーもK社だったから、一見K社の案件にしか見えないはずだ。めくって中身を見ない限りは、な。そして久遠さんからは内容を確認する前に紛失したと聞いている。――これは一体、どういうことだろうな?」
その言葉に、天沢はようやく自分が致命的な失言をしていたことに気付いた。
思わず口を手で覆ったが、一度発した言葉を取り戻すことなどできない。
「…まあ、いい。明日帰社したら久遠さんにもう一度確認してみよう」
永瀬は口の端を上げてそう言ったが、目は明らかに笑っていなかった。
嘘を確信した彼を前に、天沢の虚勢が一瞬にして崩れ落ちていく。
(――最悪)
天沢は心の中で毒づいた。
明日になって永瀬があの女に確認したなら、真実はすぐ明らかになるだろう。
事実、あの女は「資料」としか言っておらず、社名はおろか、それが契約書であることも告げていない。
(…あーあ、残念。もう少しだったのに)
もう逃げられないと悟った瞬間、天沢の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
急に何もかもどうでもよくなって、はあ、と息を吐く。
それから彼女は気怠そうに髪をかき上げると、自暴自棄な視線で永瀬を見上げた。
「――ええ、そうです。私が久遠さんの机から契約書を盗んで隠しました」
天沢は、鼻で笑いながら悪びれなく吐き捨てた。
ぴくりと永瀬の眉が動いたが、彼女は構わなかった。永瀬を見据えて、行き場のない想いをついに爆発させた。
「それもこれも全部、永瀬さんのせいです。だって…だって、永瀬さんがあの子と親しそうに話すから、悔しかったんだもの!大して可愛くもないくせに出しゃばって、生意気なのよ。だから困らせてやりました。ちなみに今回が初めてじゃないですよ?他にも今まで色々。ふふっ、でもあの人、何にも言い返さないの。毎回毎回、文句一つ言わずバカ丁寧に対応してくれちゃって。そういうのが逆効果だとも知らず、愚図すぎてほんと笑える。これまでたくさん嫌がらせしてやったけど、今回の契約書紛失は最高でしたね。見るからに焦って、泣きそうな顔で私に知らないかって聞いてきて。あははっ!もう笑い堪えるの大変でしたよ?最後は永瀬さんにも町谷さんにも頭下げてて、ホントざまあ。その後も一日中ずーっと落ち込んでて、トドメに残業も押し付けてやって、もう愉快ったらなかっ…」
――ドンッ!
天沢の言葉は、部屋中に重く響いた殴打音によって制止された。
永瀬が、壁を拳で殴りつけたのだ。
その拳はあろうことか天沢の顔の真横を通ったために、彼女は反射的に身を竦ませ固まっている。
無理もない、彼女は人生で一度たりともこれほどまでに敵意を向けられたことも、身体的危険を感じたこともなかったのだ。
自分の身に何が起きたのかを理解した瞬間、体の底から堪えようのない恐怖が込み上げてきて、彼女の体が震え出す。かろうじて立っていることが奇跡なぐらいだ。
血の気を失った顔で恐る恐る見上げた視線の先では、永瀬がこちらを睨みつけていた。
その瞳に浮かぶのは明らかな憤怒。
絶対零度の冷ややかな視線が天沢を見下ろして、鋭く突き刺している。
その視線だけで殺される、と彼女は本能的に思った。
息すらまともにできないまま彼に射抜かれること数秒、ふっと永瀬の表情が和らいだ。
いや、和らいだのではない。それは侮蔑に似た何か、気に留める価値もないと言わんばかりのような、そんな表情だった。
「…ああ、驚かせてごめん。虫が止まってたから、つい」
それが嘘だということは、さすがの天沢でも分かった。
だがそれを口にする勇気など、彼女にはあるはずもない。
「やけに久遠さんを目の敵にしてるみたいだけど、俺に言わせればお前より彼女の方がよっぽど信頼できる人間だから。久遠さんの仕事が杜撰?愚図?はあ?それはお前だろ?作業ミスと納期破りの常習犯が。前から何度も言ってるのに未だ改善されないのは何故だ?自分のことを棚に上げてよくそんな口叩けるな。自惚れも甚だしい、脳みそ腐ってんじゃねえの?」
それは、天沢がよく知る永瀬とは思えないくらいに乱暴な口調だった。
仕事で部下に指導する時だって、厳しい口調になることはあってもいつも冷静で、行き過ぎた指導にならないよう、彼は言葉を慎重に選んでいた。
こうやって感情的な言い方をすることなど、一度だってなかったはずだ。
「久遠さんは紛失した翌日には振り返りと改善策をまとめて、俺のところにまで報告をあげてくれた。そうやって一つ一つのミスにきちんと向き合っているから、総務で難易度の高い仕事も任されてる。それだけじゃない、彼女には明確なキャリア目標がある。現状に満足せず新しい仕事もどんどん覚えてる。お前はどうだ?去年と比べてどれだけ成長した?思い描くキャリアプランがあるなら是非教えてくれよ」
永瀬の厳しい言葉に、天沢は何も言い返すことができない。
自分の現状に満足して胡坐をかいていたことは否めないからだ。
自分に絶対的な自信を持つ彼女には、自責の概念がない。
故に不備で差戻されることも、提出納期を過ぎてしまうこともよくあった。
そのことについて永瀬から指導を受けることが多々あるが、それほど大事に受け止めたことなど一度もなかった。
間違うのは人間なら当然、気付いた時に修正すればいい。
納期だって遅れたら謝ればいいだけ、一日延びたところで大きな影響などありはしないだろう――その程度にしか考えてこなかったのだ。
そもそも天沢にとってこの仕事は結婚するまでの「つなぎ」であり、ずっと続けるつもりなど毛頭ない。
この会社に入ったのだって、IT商社として有名なので勤務先として名乗るのに恥ずかしくないし、優秀な結婚相手を見つけられると思ったから。
そこにやりがいなど求めたこともなければ、本気で仕事と向き合うなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。
「片や適当に毎日をやり過ごすお前と、片や向上心を持って仕事に取り組む久遠さん。果たして会社に必要なのはどっちだろうな?」
「…わ、私は、ただ…」
「ただ、何?異論があるなら聞くけど?」
永瀬は数秒の猶予を与えたが、彼女から続きの言葉が紡がれることはなかった。
「ついでに言っとくけど、さっきのこともその格好も、完全なセクハラだから。裸見せれば俺が落ちるとでも思った?お前が社内で派手に遊んでることを俺が知らないとでも?別にそれはいい、お互いが納得してるんならな。だがそんな安っぽい誘惑が俺に通用すると思うなよ。つーか、誰にでも簡単に足開くような女なんか興味ねえから」
「そ、んな言い方…!ひどい…!」
あまりの言い様にカッとなって、天沢の瞳から涙が零れた。
仮にも好きな人からの侮辱は、この上なく彼女を傷つけたらしい。
しかしそんな彼女の涙は、感情のコントールを失った今の永瀬には何の効果もなかった。
「ひどい?は、笑わせんなよ。どの口が言うわけ?ならお前が今までしてきたことは?お前に遊ばれた営業の後輩や、男を寝取られたって泣く女性社員から、俺のところに苦情が何回も届いてる。今後もそういうことが続くようなら、会社として手を打たなきゃならないと部長と話してたところだ。言ってる意味分かるな?つまり左遷ってことだよ。本当ならさっきので完全アウトだが、これを機に改心すると誓えるなら、今回に限り見逃してやる。でも次は無い。その時は容赦なく処分するから、これからは覚悟して遊べよ?」
永瀬の厳しい言葉に、ダイヤモンドのように硬かった彼女のプライドは粉々に砕け散った。
まさか社内で遊んでいたことが永瀬のみならず営業部長にまでバレていたこと、左遷の話すら持ち上がっているとは予想だにしなかった。
何より目の前の男から立ち上る威圧感に立ち向かう度胸など、今の彼女には絞り出したって無い。
恐怖と後悔に染まる天沢を、永瀬はどこまでも冷酷な瞳で見下ろしている。
そこには、いつもの彼らしい優しさや穏やかさなど微塵もなかった。
どこまでも冷淡で無慈悲で――もしかしたらこれこそが彼の本性なのかもしれない、と天沢は思った。
「言っとくけど、久遠さんに何かしても同じだからな。あの子はお前と違って総務の次期主任候補として会社に期待されてんだよ。そんな優秀な人材を潰すことは絶対に許さない。もしまた嫌がらせしようもんなら、営業だけでなく総務を巻き込んでの大問題になると思え。――二度と久遠さんに手を出すな。分かったな?」
蒼白の顔で天沢が小さく頷く。
それを確かに見届けると、永瀬はまるで煮え沸る怒りを逃がすように一つ大きな息を吐き、目を閉じた。
そうして再び開いた双眸が彼女に向かった時、驚いたことに、その表情はいつも見せるあの穏やかなものに変わっていた。
「報告書、明日の朝一に最終確認するからそれまでに修正しといて。じゃあまた明日。おつかれ」
まるで何事もなかったかのように柔らかい表情で告げられて、天沢はその豹変ぶりに震え上がった。
穏やかな仮面の下に冷徹な素顔を隠した狂人。
――こんなの、永瀬さんじゃない。ずっと思いを寄せてきた彼じゃない。絶対に、違う。
でもだとしたら、自分がずっと見つめ、知ったつもりでいたのは一体。
あまりの変貌ぶりに目を見開き慄く彼女を永瀬は嘲笑って一瞥すると、背を向けて今度こそ部屋を出て行った。
静寂を取り戻した部屋で、天沢はようやく呼吸を取り戻した。
途端に全身の力が抜けて、立っていることさえままならずその場にへたり込む。
彼女は暫く放心したまま、その場から動くことができなかった。
冷ややかな視線でそう告げられて、天沢は目を大きく見開いた。
予想外の状況に思考は完全停止し、これが夢なのか現実なのかさえ分からない。
(は…?え、どういうこと?拒まれた?…この私が?)
こんなに美人なのに?下着姿で、ここまで曝け出しているのに?
この身体が、欲しくないと?
まさか。おかしい。ありえない。意味が分からない。
だってこんなこと、過去に一度もなかった。
例えそこに恋愛感情がなくたって、どんな綺麗事を並べたって、結局どの男達も本能には抗えなかった。そうして最後はこの身体に溺れて虜になるのだ。男なら皆、そうなるはずなのに――何故。
「どいて。仕事の話が終わったなら、部屋に帰る」
永瀬に押され、身体がよろめく。
呆然とする天沢を置いて、永瀬は入り口に向かって歩き出した。
「じゃ、また明日」
言って遠のいていく永瀬の背中を見て、天沢は駆け出した。
荒い足音で追いつき、その背中に抱きつく。驚いたように永瀬が振り返ったが、決して離すつもりはなかった。
だってこの手を離したら、行ってしまう。
そして今を逃したら、もう二度とこんな機会は巡ってこない。
「いや!行かないで!どうして私じゃダメなんですか?部下だからですか?私は、永瀬さんじゃなきゃダメなんです!」
天沢は、彼の身体に回す手に力をこめて叫んだ。
どうしても、どうしても諦められない。
だって、ようやく出会えた理想の人なのだ。
他の誰かなんて考えられない、出会える保証もない。
条件的にも年齢的にも、これが最後のチャンス。
だから何としても手に入れたい――人生の勝ち組となるために。
「永瀬さんのこと、本気で好きなんです!たった一度だけ、それだけでいいから…お願い…」
胸をぐっと押し付け、涙を浮かべた上目遣いで、ありったけの艶やかさを載せて天沢は懇願した。
だが永瀬は困惑の表情を見せただけで、躊躇いもしない。
そして振り切るように彼の口から告げられたのは、衝撃の言葉だった。
「ごめん。俺、他に好きな子がいる」
それは天沢にとって、どこかで予想していながらも、決して認めることのできない、最悪の返事だった。
自分でない誰かを彼が選ぶなんて、想像したことも、考えたくもなかったのだ。
「だから諦めて、離して」
身体に回る天沢の手を、永瀬は迷いない力で解いた。
そうして何の未練もなくドアへ向かう永瀬に、天沢は怒りにも似た激情を覚えた。
(――私が、ここまでしているのに!)
「それって、久遠さんですか?」
咄嗟に投げつけた一言に、永瀬の歩みが一瞬止まった。
それが天沢には肯定に思えて、尚更彼女の感情を刺激した。
正直、永瀬があの女を好きだと思う確信があるわけではない。
話すときの優しい口調だったり、飲み会で困っているところを助けたりということはあったが、ただの親切心であると言われれば否定できない。
けれど特にここ最近、あの女と話す時の永瀬の声音や態度が、特別な何かを含んでいるような気がしてならないのだ。
それは彼に長く想いを寄せてきた故の女の勘としか言いようがない。
(――ありえないでしょ。あんな何の取り柄もない女に、私が負けるなんて!)
「冗談でしょう?あんなのの一体どこがいいって言うんです?永瀬さんに全然相応しくない。不愛想だし気が弱いし、見ているだけでイライラするような女じゃないですか!仕事だって杜撰だし、だからD社の契約書もすぐ紛失して永瀬さんに迷惑かけ…」
「――なぜそれを知っている?」
天沢の言葉を遮ったのは、弾かれたように振り返った永瀬の厳しい声音だった。
こちらに向かうその視線はあまりに鋭く、天沢の心臓が一瞬にして跳ね上がった。
「知っているって…何の話、」
「久遠さんが紛失したのがD社の契約書だと、なぜ知っているのかと聞いている」
部屋を出て行こうとしていた永瀬は一転、険しい表情で今度は距離を詰めてきた。
有無を言わさない彼の様子に圧倒されて、天沢は後ずさる。
しかし壁際まで追い込まれるとそれ以上動けなくなって、思わず息を呑んだ。
(――こんな永瀬さん、見たことない)
初めて見る永瀬の怒気に、天沢は動揺を隠せない。
どんな時も、何があっても彼がこんな風に感情を尖らせることはなかった。
それが今はどうだろう。全身から抗えない威圧を感じる。
天沢は恐怖に震える声で、それでも何とか矜持を保って言い訳を口にした。
「そ、それは…聞かれたから、です。久遠さんに、D社の契約書知らないかって…」
「久遠さんがD社と口にしたのか?」
「え、ええ、そうです」
言いながらも、彷徨う視線。永瀬は真実を探るように天沢を見据えたあと、目を細めた。
「…そうか。おかしいな、久遠さんから再印刷の依頼を受けた時は『K社の契約書』と言われたんだが」
「え?」
言っている意味が分からず、天沢は眉を顰めた。
…そんなはずはない、あれは確かにD社の契約書だった。この目で見たのだから、間違ってなどいないはずだ。
「確かに契約書上はD社宛だが、稟議は実取引先のK社で通ってる。提出時のヘッダーもK社だったから、一見K社の案件にしか見えないはずだ。めくって中身を見ない限りは、な。そして久遠さんからは内容を確認する前に紛失したと聞いている。――これは一体、どういうことだろうな?」
その言葉に、天沢はようやく自分が致命的な失言をしていたことに気付いた。
思わず口を手で覆ったが、一度発した言葉を取り戻すことなどできない。
「…まあ、いい。明日帰社したら久遠さんにもう一度確認してみよう」
永瀬は口の端を上げてそう言ったが、目は明らかに笑っていなかった。
嘘を確信した彼を前に、天沢の虚勢が一瞬にして崩れ落ちていく。
(――最悪)
天沢は心の中で毒づいた。
明日になって永瀬があの女に確認したなら、真実はすぐ明らかになるだろう。
事実、あの女は「資料」としか言っておらず、社名はおろか、それが契約書であることも告げていない。
(…あーあ、残念。もう少しだったのに)
もう逃げられないと悟った瞬間、天沢の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
急に何もかもどうでもよくなって、はあ、と息を吐く。
それから彼女は気怠そうに髪をかき上げると、自暴自棄な視線で永瀬を見上げた。
「――ええ、そうです。私が久遠さんの机から契約書を盗んで隠しました」
天沢は、鼻で笑いながら悪びれなく吐き捨てた。
ぴくりと永瀬の眉が動いたが、彼女は構わなかった。永瀬を見据えて、行き場のない想いをついに爆発させた。
「それもこれも全部、永瀬さんのせいです。だって…だって、永瀬さんがあの子と親しそうに話すから、悔しかったんだもの!大して可愛くもないくせに出しゃばって、生意気なのよ。だから困らせてやりました。ちなみに今回が初めてじゃないですよ?他にも今まで色々。ふふっ、でもあの人、何にも言い返さないの。毎回毎回、文句一つ言わずバカ丁寧に対応してくれちゃって。そういうのが逆効果だとも知らず、愚図すぎてほんと笑える。これまでたくさん嫌がらせしてやったけど、今回の契約書紛失は最高でしたね。見るからに焦って、泣きそうな顔で私に知らないかって聞いてきて。あははっ!もう笑い堪えるの大変でしたよ?最後は永瀬さんにも町谷さんにも頭下げてて、ホントざまあ。その後も一日中ずーっと落ち込んでて、トドメに残業も押し付けてやって、もう愉快ったらなかっ…」
――ドンッ!
天沢の言葉は、部屋中に重く響いた殴打音によって制止された。
永瀬が、壁を拳で殴りつけたのだ。
その拳はあろうことか天沢の顔の真横を通ったために、彼女は反射的に身を竦ませ固まっている。
無理もない、彼女は人生で一度たりともこれほどまでに敵意を向けられたことも、身体的危険を感じたこともなかったのだ。
自分の身に何が起きたのかを理解した瞬間、体の底から堪えようのない恐怖が込み上げてきて、彼女の体が震え出す。かろうじて立っていることが奇跡なぐらいだ。
血の気を失った顔で恐る恐る見上げた視線の先では、永瀬がこちらを睨みつけていた。
その瞳に浮かぶのは明らかな憤怒。
絶対零度の冷ややかな視線が天沢を見下ろして、鋭く突き刺している。
その視線だけで殺される、と彼女は本能的に思った。
息すらまともにできないまま彼に射抜かれること数秒、ふっと永瀬の表情が和らいだ。
いや、和らいだのではない。それは侮蔑に似た何か、気に留める価値もないと言わんばかりのような、そんな表情だった。
「…ああ、驚かせてごめん。虫が止まってたから、つい」
それが嘘だということは、さすがの天沢でも分かった。
だがそれを口にする勇気など、彼女にはあるはずもない。
「やけに久遠さんを目の敵にしてるみたいだけど、俺に言わせればお前より彼女の方がよっぽど信頼できる人間だから。久遠さんの仕事が杜撰?愚図?はあ?それはお前だろ?作業ミスと納期破りの常習犯が。前から何度も言ってるのに未だ改善されないのは何故だ?自分のことを棚に上げてよくそんな口叩けるな。自惚れも甚だしい、脳みそ腐ってんじゃねえの?」
それは、天沢がよく知る永瀬とは思えないくらいに乱暴な口調だった。
仕事で部下に指導する時だって、厳しい口調になることはあってもいつも冷静で、行き過ぎた指導にならないよう、彼は言葉を慎重に選んでいた。
こうやって感情的な言い方をすることなど、一度だってなかったはずだ。
「久遠さんは紛失した翌日には振り返りと改善策をまとめて、俺のところにまで報告をあげてくれた。そうやって一つ一つのミスにきちんと向き合っているから、総務で難易度の高い仕事も任されてる。それだけじゃない、彼女には明確なキャリア目標がある。現状に満足せず新しい仕事もどんどん覚えてる。お前はどうだ?去年と比べてどれだけ成長した?思い描くキャリアプランがあるなら是非教えてくれよ」
永瀬の厳しい言葉に、天沢は何も言い返すことができない。
自分の現状に満足して胡坐をかいていたことは否めないからだ。
自分に絶対的な自信を持つ彼女には、自責の概念がない。
故に不備で差戻されることも、提出納期を過ぎてしまうこともよくあった。
そのことについて永瀬から指導を受けることが多々あるが、それほど大事に受け止めたことなど一度もなかった。
間違うのは人間なら当然、気付いた時に修正すればいい。
納期だって遅れたら謝ればいいだけ、一日延びたところで大きな影響などありはしないだろう――その程度にしか考えてこなかったのだ。
そもそも天沢にとってこの仕事は結婚するまでの「つなぎ」であり、ずっと続けるつもりなど毛頭ない。
この会社に入ったのだって、IT商社として有名なので勤務先として名乗るのに恥ずかしくないし、優秀な結婚相手を見つけられると思ったから。
そこにやりがいなど求めたこともなければ、本気で仕事と向き合うなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。
「片や適当に毎日をやり過ごすお前と、片や向上心を持って仕事に取り組む久遠さん。果たして会社に必要なのはどっちだろうな?」
「…わ、私は、ただ…」
「ただ、何?異論があるなら聞くけど?」
永瀬は数秒の猶予を与えたが、彼女から続きの言葉が紡がれることはなかった。
「ついでに言っとくけど、さっきのこともその格好も、完全なセクハラだから。裸見せれば俺が落ちるとでも思った?お前が社内で派手に遊んでることを俺が知らないとでも?別にそれはいい、お互いが納得してるんならな。だがそんな安っぽい誘惑が俺に通用すると思うなよ。つーか、誰にでも簡単に足開くような女なんか興味ねえから」
「そ、んな言い方…!ひどい…!」
あまりの言い様にカッとなって、天沢の瞳から涙が零れた。
仮にも好きな人からの侮辱は、この上なく彼女を傷つけたらしい。
しかしそんな彼女の涙は、感情のコントールを失った今の永瀬には何の効果もなかった。
「ひどい?は、笑わせんなよ。どの口が言うわけ?ならお前が今までしてきたことは?お前に遊ばれた営業の後輩や、男を寝取られたって泣く女性社員から、俺のところに苦情が何回も届いてる。今後もそういうことが続くようなら、会社として手を打たなきゃならないと部長と話してたところだ。言ってる意味分かるな?つまり左遷ってことだよ。本当ならさっきので完全アウトだが、これを機に改心すると誓えるなら、今回に限り見逃してやる。でも次は無い。その時は容赦なく処分するから、これからは覚悟して遊べよ?」
永瀬の厳しい言葉に、ダイヤモンドのように硬かった彼女のプライドは粉々に砕け散った。
まさか社内で遊んでいたことが永瀬のみならず営業部長にまでバレていたこと、左遷の話すら持ち上がっているとは予想だにしなかった。
何より目の前の男から立ち上る威圧感に立ち向かう度胸など、今の彼女には絞り出したって無い。
恐怖と後悔に染まる天沢を、永瀬はどこまでも冷酷な瞳で見下ろしている。
そこには、いつもの彼らしい優しさや穏やかさなど微塵もなかった。
どこまでも冷淡で無慈悲で――もしかしたらこれこそが彼の本性なのかもしれない、と天沢は思った。
「言っとくけど、久遠さんに何かしても同じだからな。あの子はお前と違って総務の次期主任候補として会社に期待されてんだよ。そんな優秀な人材を潰すことは絶対に許さない。もしまた嫌がらせしようもんなら、営業だけでなく総務を巻き込んでの大問題になると思え。――二度と久遠さんに手を出すな。分かったな?」
蒼白の顔で天沢が小さく頷く。
それを確かに見届けると、永瀬はまるで煮え沸る怒りを逃がすように一つ大きな息を吐き、目を閉じた。
そうして再び開いた双眸が彼女に向かった時、驚いたことに、その表情はいつも見せるあの穏やかなものに変わっていた。
「報告書、明日の朝一に最終確認するからそれまでに修正しといて。じゃあまた明日。おつかれ」
まるで何事もなかったかのように柔らかい表情で告げられて、天沢はその豹変ぶりに震え上がった。
穏やかな仮面の下に冷徹な素顔を隠した狂人。
――こんなの、永瀬さんじゃない。ずっと思いを寄せてきた彼じゃない。絶対に、違う。
でもだとしたら、自分がずっと見つめ、知ったつもりでいたのは一体。
あまりの変貌ぶりに目を見開き慄く彼女を永瀬は嘲笑って一瞥すると、背を向けて今度こそ部屋を出て行った。
静寂を取り戻した部屋で、天沢はようやく呼吸を取り戻した。
途端に全身の力が抜けて、立っていることさえままならずその場にへたり込む。
彼女は暫く放心したまま、その場から動くことができなかった。
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生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
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