27 / 33
一章
挿話 Turn ON ※永瀬視点
しおりを挟む
一章開始の1年半前、永瀬が香澄を好きになったきっかけのお話です。
----------------------------
秋も深まってきたある日の午後、永瀬は大口顧客であるB社の本社に来ていた。
目的は二つある。一つは、顧客の嶋井本部長と商談するため。
それからもう一つは、B社に臨時駐在している同期の町谷に会うためだ。
「――永瀬、ちょっと」
一つ目の用事を終えた直後、見計らったように町谷に呼ばれた。
彼女は本社管理の人間なので、本来であれば顧客業務をする立場ではない。しかし嶋井が求めた人材条件に適する人物が他に見当たらなかったため、異例ながら急遽顧客業務に駆り出されることとなった。
新人の頃は色んなミスをやらかして、そのうち辞職するのではと周囲から思われていたのだが――継続は力なりとはよく言ったもの。
今ではその正確にして膨大な業務知識と緻密な計画性を活かして、契約管理から社内備品管理まで、守備範囲が広い総務の実業務全てを、実質彼女がコントロールしていると言ってもいい。
そんな町谷は顧客業務中でも、本社業務の相談をちょくちょく受けている。
基本的には後輩たちだけで業務を回せているものの、彼女に最終確認を取らねばならないこともまだまだ多いらしく、今回もその関連のようだ。席に向かうと、町谷がPC画面を指してちらりと永瀬を見上げた。
「この契約書4件、未回収みたいだけど。明日の午前中までに出るのよね?」
画面上にマウスポインタで示された社名と案件名を見て、永瀬は思わず眉を顰めた。
それはちょうど今日、町谷に話そうと思っていた案件だった。
「あー、それ先方の押印待ち。明日には回収できるんだけど、午前中はちょっと難しい」
「え。てことは月ズレ?」
町谷は驚いて永瀬を見上げた。月ズレとは、当月売上が事情により計上できず、翌月に持ち越されることを言う。
明日の午前中が今月分の提出締め切りだが、永瀬は過去に月ズレを発生させたことがほとんどなかったので、間に合わないと宣言した彼の言葉が町谷には意外だったようだ。
「先方の都合で、帰社が12時を過ぎる見込みなんだよ。そこで相談なんだけど、13時まで待ってくんない?」
「待ちません。締めは午前中、納期厳守です」
即答だった。想像はしていたものの、なかなか手厳しい。
「勿論承知してるんだけど、そこをなんとか――これで」
そう言って永瀬が鞄の中から取り出し、彼女の机上に置いた小さな箱。
それは某有名珈琲店が発売している市販のコーヒースティック(ホワイトモカ)で、町谷の大好物である。
福利厚生の一環で営業部署内に置かれているものだが、一つ頂いて持ち出してきたのだ。
ところがそれを見やった町谷は一瞬息を呑んで固まったあと、すぐに思いを断ち切るように視線を逸らした。
そして呆れたようなため息を吐くと、不満げに永瀬を見上げた。
「…ちょっと、私を見くびらないでくれる?」
その瞳には確かな意思があって、やはりこれだけではダメか、と彼は苦笑した。
過去に何度か使ったことのある手だからか、そろそろ通用しなくなってきているらしい。加えて、ここは周囲の目もある。そう簡単に頷けないのも仕方のないことだろう。
「私情でルールは曲げられませんっ!」
社内の契約管理を担っているだけあって、彼女はルールに非常に厳しい。殊更、納期に関しては。
とはいえ、実を言えばここまでは想定内。永瀬には、とっておきの秘策があった。
「あと言っておくけど、いくら同期でもこういうので私を丸め込もうだなんて、――はっ!!」
言い終える前に永瀬が四角い包装箱を差し出すと、町谷の表情が一転した。
その良い反応に、思わず永瀬の口端が上がる。
こういう、自分の気持ちを誤魔化せない素直なところが、彼女が周囲から好感を持たれる理由でもある。
「最近ハマってるんだろ、これ」
それは最近SNSやメディアで取り上げられて話題となっているバターサンドクッキーだった。
クッキー生地とその間に挟まれたクリームが噛むほどに絶妙に混ざり合うそのお菓子を、町谷は非常に気に入っているらしい。店舗を見かけたら高確率で買ってしまうくらいに。
「な、なんでこれ!」
「久遠さんが教えてくれた」
「カスミン…!裏切り者ぉ…!」
「しかも期間限定味入り。今日から発売開始だってさ」
思わぬ情報源にたまらず町谷は机に突っ伏した町谷だったが、期間限定、という言葉にはっと顔を上げた。ちなみに彼女は「限定」というワードにめっぽう弱い。
仕事に私情ははさまないと声高に宣言したにも拘わらず、バターサンドを前に、町谷は今、明らかに葛藤している。
大きく心揺さぶられ思い悩むその姿に、同じくB社に常駐する他の社員たちがくすくす笑い始めた。
どうやら町谷が食いしん坊だということは、ここでも既に周知の事実となっているらしい。
――そう、この反応から分かるとおり、町谷はとにかく食べ物に目がない。
ゆえに頼み事がある時、こうして賄賂を渡すことで、許容範囲ギリギリのラインまで引っ張れることを永瀬は承知していた。
「これと引き換えに、13時まで待てってこと?」
「昼休み挟むだけで12時も13時も変わらないだろ。せっかく買ってきたんだ、我慢するなよ。だから13時ね」
「納期はそう簡単には延ばせない…!」
「そうか、なら仕方ない。持ち帰って営業部で分けるか」
「ちょっ、待って待って!検証を頑張る私達への差し入れってことでいいんじゃないのっ?」
言いながら町谷がバターサンドへ手を伸ばしたが、ギリギリのところで永瀬がひょいと取り上げた。
「13時」
「うう…そういうの、ほんとズルいと思う!」
その声音はどこか苦しそうだ。やはり納期延長はしたくないらしい。
だがその視線は未だバターサンドから離れず、どうしても食べたいという思いが伝わってくる。
「13時」
「うー…」
強調して繰り返すと、町谷は苦渋の表情で唇を噛みしめて思い悩み――やがて、ついに観念した。
「13時…、13時までには全件耳を揃えて出すんでしょうね…!?」
その言葉に、永瀬が内心ガッツポーズをしたのは言うまでもない。ここまで来ればもう調略したも同然である。
「出す。約束する」
「1秒でも遅れたらハネるから。特例書いてもらうんだからねっ」
特例とは、特別稟議の通称である。
いわゆる始末書みたいなもので、月ズレが発生した場合、その提出が義務付けられている。
営業部長やサービス部長といった各組織長は勿論、金額や影響度合いによっては社長にまで回付されるという恐怖の稟議で、社員の間では非常に敬遠されていた。
「承知」
「――カスミンに話は通しておく!」
町谷は悔しげに言い放つと、ホワイトモカとバターサンドを永瀬の手から奪い取った。
しかし永瀬にしてみれば、願いが聞き届けられたのだ。感謝の一言しかない。
「サンキュ、助かる。じゃ次の約束あるからこれで」
「うん、おつかれー」
町谷は視線も合わせず手を挙げて永瀬を送り出すと、さっそくバターサンドの包装を満面の笑みで開け始めた。どうやら頭の中はもうお菓子のことで一杯のようだ。
実際、永瀬が背を向けて歩き出した直後から「嬉しい~!私はもちろん期間限定味…!みんなもどうぞ、一つずつ取って食べてね」と周囲と早速分け合っていた。
***
ところがその翌日、契約書を回収した帰り道に、永瀬は運悪く事故による交通渋滞にはまってしまった。
途中で社用車を乗り捨てるわけにもいかず、できる限り急いで帰社したものの、会社にたどり着いた時には13時をわずかに過ぎてしまっていた。
(はあ、最悪。月ズレか…課長報告面倒だな)
せめて車でなく電車で行くべきだった、と今更ながら思う。
渋滞にはまりさえしなければ、確実に間に合っていたはずなのに…。
そう内心後悔するが、遅延は遅延だ。
4件合わせて金額は六千万をゆうに超えるので、各組織長達からの叱責を覚悟しなければならない。最悪、社長からも…。
憂鬱な気分で総務部へ向かうと、執務スペースに続くドアの前で香澄がスマホを片手に佇んでいた。その様子は、どこか意図的にそこで時間を潰しているようにも見えた。
「久遠さん、おつかれさま」
声をかけると、気付いた香澄が顔をあげた。
そして永瀬を視界にとらえると、姿勢を正し、深々と一礼する。
そんな畏まらなくてもいいのに相変わらず律儀だな、と思うそばで、それこそが彼女らしいとも思う。
――良くも悪くも、香澄は周囲に流されない。
永瀬が総務のフロアを訪れる際も、その存在に色めき立つ女性社員が多い中、香澄だけは見向きもしない。
もちろん話しかければにこやかに答えてくれるが、用事が済めばさっさと仕事に戻ってしまう。
そんな他と一線を画した態度は、却って永瀬を新鮮な気持ちにさせていた。
「永瀬さん。お疲れさまです」
「未回収だった契約書持ってきたんだけど」
「はい、町谷先輩から伺っています。M社ですね。4件とも揃ってますか?」
「うん、揃ってる」
契約書が入った封筒を差し出すと、彼女は封筒の中を覗き込むようにして中身を確認しはじめた。
どちらかと言えば大人しめで少し近寄りがたい雰囲気すらもつ彼女は、いつも驚くほどの集中力で仕事を淡々とこなしている。
しかし話しかければ嫌な顔ひとつせず、丁寧に対応してくれる人だった。
だがそんな彼女も、町谷の背中を見て育ったせいか納期には厳しいらしい。
しかも町谷と違って弱点がない。ということは、どう足掻いたところで、月ズレは免れないだろう。
「確かに4件、受領いたしました」
「うん、よろしく。遅くなってごめんね。途中で渋滞に巻き込まれて…なんて言い訳だな。月ズレだよね。あとで特例あげとく」
永瀬がそう苦笑すると、香澄は静かに彼を見上げた。
「…町谷先輩には、13時の午後始業まで待つようにと言われています」
「うん、そういう約束だった」
「でも実は私、12時半まで仕事してたんです。今は13時5分なので、私はまだ休憩中です」
「うん…?」
話の意図がよく分からずに永瀬が首を傾げると、香澄がふっと微笑んだ。
「――昼休み中に永瀬さんとたまたま会ったので回収しました、午後始業には間に合いました…と、町谷先輩にそう報告しておきますね」
「え、それって…」
驚いた永瀬の言葉を遮るようにして、香澄は人差し指を口の前に当てた。
そしてまるで内緒話をするかのように、小声で続けた。
「月ズレすると色々面倒ですから。でもこれがバレると叱られてしまうので、秘密にしておいてください。いつも町谷先輩との連絡便をお願いしているので、お礼です」
その言葉を聞いて、永瀬はようやく全てを理解した。
どうやら今回は特別に見逃してくれるらしいこと。
そして周囲の目につかないようにするため、敢えてこうして扉の前で待っていてくれたということにも。
「…ありがとう。めちゃくちゃ助かる。よかった、提出先が久遠さんで」
はあ、と息を吐いた顔は、安堵を隠しきれていなかったのだろう。
どういたしまして、と香澄が嬉しそうに笑った。
それはあまりに仕事モードの彼女と違っていたものだから、永瀬は驚いて息を呑み、目を見張った――こんな風に笑う子なんだ、と。
「では、私はこれで。失礼します」
必要以上に話したりしない香澄は、昼休み中と言えど、今日も長居するつもりはないらしい。
すぐに元の真面目な顔に戻ると、あっさりと背中を向けて執務スペースへと戻っていった。
永瀬は黙ってその姿を見送ったが、本当はただ何も言えなかっただけかもしれない。
だって思ってもみなかったのだ、不愛想の裏にあんな優しさとあどけない笑顔が隠されていたなんて。
――ましてや、たった一瞬で心臓を鷲掴みにされてしまっただなんて。
----------------------------
秋も深まってきたある日の午後、永瀬は大口顧客であるB社の本社に来ていた。
目的は二つある。一つは、顧客の嶋井本部長と商談するため。
それからもう一つは、B社に臨時駐在している同期の町谷に会うためだ。
「――永瀬、ちょっと」
一つ目の用事を終えた直後、見計らったように町谷に呼ばれた。
彼女は本社管理の人間なので、本来であれば顧客業務をする立場ではない。しかし嶋井が求めた人材条件に適する人物が他に見当たらなかったため、異例ながら急遽顧客業務に駆り出されることとなった。
新人の頃は色んなミスをやらかして、そのうち辞職するのではと周囲から思われていたのだが――継続は力なりとはよく言ったもの。
今ではその正確にして膨大な業務知識と緻密な計画性を活かして、契約管理から社内備品管理まで、守備範囲が広い総務の実業務全てを、実質彼女がコントロールしていると言ってもいい。
そんな町谷は顧客業務中でも、本社業務の相談をちょくちょく受けている。
基本的には後輩たちだけで業務を回せているものの、彼女に最終確認を取らねばならないこともまだまだ多いらしく、今回もその関連のようだ。席に向かうと、町谷がPC画面を指してちらりと永瀬を見上げた。
「この契約書4件、未回収みたいだけど。明日の午前中までに出るのよね?」
画面上にマウスポインタで示された社名と案件名を見て、永瀬は思わず眉を顰めた。
それはちょうど今日、町谷に話そうと思っていた案件だった。
「あー、それ先方の押印待ち。明日には回収できるんだけど、午前中はちょっと難しい」
「え。てことは月ズレ?」
町谷は驚いて永瀬を見上げた。月ズレとは、当月売上が事情により計上できず、翌月に持ち越されることを言う。
明日の午前中が今月分の提出締め切りだが、永瀬は過去に月ズレを発生させたことがほとんどなかったので、間に合わないと宣言した彼の言葉が町谷には意外だったようだ。
「先方の都合で、帰社が12時を過ぎる見込みなんだよ。そこで相談なんだけど、13時まで待ってくんない?」
「待ちません。締めは午前中、納期厳守です」
即答だった。想像はしていたものの、なかなか手厳しい。
「勿論承知してるんだけど、そこをなんとか――これで」
そう言って永瀬が鞄の中から取り出し、彼女の机上に置いた小さな箱。
それは某有名珈琲店が発売している市販のコーヒースティック(ホワイトモカ)で、町谷の大好物である。
福利厚生の一環で営業部署内に置かれているものだが、一つ頂いて持ち出してきたのだ。
ところがそれを見やった町谷は一瞬息を呑んで固まったあと、すぐに思いを断ち切るように視線を逸らした。
そして呆れたようなため息を吐くと、不満げに永瀬を見上げた。
「…ちょっと、私を見くびらないでくれる?」
その瞳には確かな意思があって、やはりこれだけではダメか、と彼は苦笑した。
過去に何度か使ったことのある手だからか、そろそろ通用しなくなってきているらしい。加えて、ここは周囲の目もある。そう簡単に頷けないのも仕方のないことだろう。
「私情でルールは曲げられませんっ!」
社内の契約管理を担っているだけあって、彼女はルールに非常に厳しい。殊更、納期に関しては。
とはいえ、実を言えばここまでは想定内。永瀬には、とっておきの秘策があった。
「あと言っておくけど、いくら同期でもこういうので私を丸め込もうだなんて、――はっ!!」
言い終える前に永瀬が四角い包装箱を差し出すと、町谷の表情が一転した。
その良い反応に、思わず永瀬の口端が上がる。
こういう、自分の気持ちを誤魔化せない素直なところが、彼女が周囲から好感を持たれる理由でもある。
「最近ハマってるんだろ、これ」
それは最近SNSやメディアで取り上げられて話題となっているバターサンドクッキーだった。
クッキー生地とその間に挟まれたクリームが噛むほどに絶妙に混ざり合うそのお菓子を、町谷は非常に気に入っているらしい。店舗を見かけたら高確率で買ってしまうくらいに。
「な、なんでこれ!」
「久遠さんが教えてくれた」
「カスミン…!裏切り者ぉ…!」
「しかも期間限定味入り。今日から発売開始だってさ」
思わぬ情報源にたまらず町谷は机に突っ伏した町谷だったが、期間限定、という言葉にはっと顔を上げた。ちなみに彼女は「限定」というワードにめっぽう弱い。
仕事に私情ははさまないと声高に宣言したにも拘わらず、バターサンドを前に、町谷は今、明らかに葛藤している。
大きく心揺さぶられ思い悩むその姿に、同じくB社に常駐する他の社員たちがくすくす笑い始めた。
どうやら町谷が食いしん坊だということは、ここでも既に周知の事実となっているらしい。
――そう、この反応から分かるとおり、町谷はとにかく食べ物に目がない。
ゆえに頼み事がある時、こうして賄賂を渡すことで、許容範囲ギリギリのラインまで引っ張れることを永瀬は承知していた。
「これと引き換えに、13時まで待てってこと?」
「昼休み挟むだけで12時も13時も変わらないだろ。せっかく買ってきたんだ、我慢するなよ。だから13時ね」
「納期はそう簡単には延ばせない…!」
「そうか、なら仕方ない。持ち帰って営業部で分けるか」
「ちょっ、待って待って!検証を頑張る私達への差し入れってことでいいんじゃないのっ?」
言いながら町谷がバターサンドへ手を伸ばしたが、ギリギリのところで永瀬がひょいと取り上げた。
「13時」
「うう…そういうの、ほんとズルいと思う!」
その声音はどこか苦しそうだ。やはり納期延長はしたくないらしい。
だがその視線は未だバターサンドから離れず、どうしても食べたいという思いが伝わってくる。
「13時」
「うー…」
強調して繰り返すと、町谷は苦渋の表情で唇を噛みしめて思い悩み――やがて、ついに観念した。
「13時…、13時までには全件耳を揃えて出すんでしょうね…!?」
その言葉に、永瀬が内心ガッツポーズをしたのは言うまでもない。ここまで来ればもう調略したも同然である。
「出す。約束する」
「1秒でも遅れたらハネるから。特例書いてもらうんだからねっ」
特例とは、特別稟議の通称である。
いわゆる始末書みたいなもので、月ズレが発生した場合、その提出が義務付けられている。
営業部長やサービス部長といった各組織長は勿論、金額や影響度合いによっては社長にまで回付されるという恐怖の稟議で、社員の間では非常に敬遠されていた。
「承知」
「――カスミンに話は通しておく!」
町谷は悔しげに言い放つと、ホワイトモカとバターサンドを永瀬の手から奪い取った。
しかし永瀬にしてみれば、願いが聞き届けられたのだ。感謝の一言しかない。
「サンキュ、助かる。じゃ次の約束あるからこれで」
「うん、おつかれー」
町谷は視線も合わせず手を挙げて永瀬を送り出すと、さっそくバターサンドの包装を満面の笑みで開け始めた。どうやら頭の中はもうお菓子のことで一杯のようだ。
実際、永瀬が背を向けて歩き出した直後から「嬉しい~!私はもちろん期間限定味…!みんなもどうぞ、一つずつ取って食べてね」と周囲と早速分け合っていた。
***
ところがその翌日、契約書を回収した帰り道に、永瀬は運悪く事故による交通渋滞にはまってしまった。
途中で社用車を乗り捨てるわけにもいかず、できる限り急いで帰社したものの、会社にたどり着いた時には13時をわずかに過ぎてしまっていた。
(はあ、最悪。月ズレか…課長報告面倒だな)
せめて車でなく電車で行くべきだった、と今更ながら思う。
渋滞にはまりさえしなければ、確実に間に合っていたはずなのに…。
そう内心後悔するが、遅延は遅延だ。
4件合わせて金額は六千万をゆうに超えるので、各組織長達からの叱責を覚悟しなければならない。最悪、社長からも…。
憂鬱な気分で総務部へ向かうと、執務スペースに続くドアの前で香澄がスマホを片手に佇んでいた。その様子は、どこか意図的にそこで時間を潰しているようにも見えた。
「久遠さん、おつかれさま」
声をかけると、気付いた香澄が顔をあげた。
そして永瀬を視界にとらえると、姿勢を正し、深々と一礼する。
そんな畏まらなくてもいいのに相変わらず律儀だな、と思うそばで、それこそが彼女らしいとも思う。
――良くも悪くも、香澄は周囲に流されない。
永瀬が総務のフロアを訪れる際も、その存在に色めき立つ女性社員が多い中、香澄だけは見向きもしない。
もちろん話しかければにこやかに答えてくれるが、用事が済めばさっさと仕事に戻ってしまう。
そんな他と一線を画した態度は、却って永瀬を新鮮な気持ちにさせていた。
「永瀬さん。お疲れさまです」
「未回収だった契約書持ってきたんだけど」
「はい、町谷先輩から伺っています。M社ですね。4件とも揃ってますか?」
「うん、揃ってる」
契約書が入った封筒を差し出すと、彼女は封筒の中を覗き込むようにして中身を確認しはじめた。
どちらかと言えば大人しめで少し近寄りがたい雰囲気すらもつ彼女は、いつも驚くほどの集中力で仕事を淡々とこなしている。
しかし話しかければ嫌な顔ひとつせず、丁寧に対応してくれる人だった。
だがそんな彼女も、町谷の背中を見て育ったせいか納期には厳しいらしい。
しかも町谷と違って弱点がない。ということは、どう足掻いたところで、月ズレは免れないだろう。
「確かに4件、受領いたしました」
「うん、よろしく。遅くなってごめんね。途中で渋滞に巻き込まれて…なんて言い訳だな。月ズレだよね。あとで特例あげとく」
永瀬がそう苦笑すると、香澄は静かに彼を見上げた。
「…町谷先輩には、13時の午後始業まで待つようにと言われています」
「うん、そういう約束だった」
「でも実は私、12時半まで仕事してたんです。今は13時5分なので、私はまだ休憩中です」
「うん…?」
話の意図がよく分からずに永瀬が首を傾げると、香澄がふっと微笑んだ。
「――昼休み中に永瀬さんとたまたま会ったので回収しました、午後始業には間に合いました…と、町谷先輩にそう報告しておきますね」
「え、それって…」
驚いた永瀬の言葉を遮るようにして、香澄は人差し指を口の前に当てた。
そしてまるで内緒話をするかのように、小声で続けた。
「月ズレすると色々面倒ですから。でもこれがバレると叱られてしまうので、秘密にしておいてください。いつも町谷先輩との連絡便をお願いしているので、お礼です」
その言葉を聞いて、永瀬はようやく全てを理解した。
どうやら今回は特別に見逃してくれるらしいこと。
そして周囲の目につかないようにするため、敢えてこうして扉の前で待っていてくれたということにも。
「…ありがとう。めちゃくちゃ助かる。よかった、提出先が久遠さんで」
はあ、と息を吐いた顔は、安堵を隠しきれていなかったのだろう。
どういたしまして、と香澄が嬉しそうに笑った。
それはあまりに仕事モードの彼女と違っていたものだから、永瀬は驚いて息を呑み、目を見張った――こんな風に笑う子なんだ、と。
「では、私はこれで。失礼します」
必要以上に話したりしない香澄は、昼休み中と言えど、今日も長居するつもりはないらしい。
すぐに元の真面目な顔に戻ると、あっさりと背中を向けて執務スペースへと戻っていった。
永瀬は黙ってその姿を見送ったが、本当はただ何も言えなかっただけかもしれない。
だって思ってもみなかったのだ、不愛想の裏にあんな優しさとあどけない笑顔が隠されていたなんて。
――ましてや、たった一瞬で心臓を鷲掴みにされてしまっただなんて。
0
あなたにおすすめの小説
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
上司が猫を脱いだなら。
yuzu
恋愛
「推しの上司がメロすぎて困る。」が口癖の主人公、多部由香子26歳。
大手食品会社社長 御園正太郎の長男である事を隠して企画営業部の係長を務める 黒木連 29歳。
由香子は連を「リアル王子様」「純粋でかわいいわんこ系」だとおもいこんでいた。けれど、ふたりきりになった瞬間、メロいはずの蓮はオレ様キャラに豹変して……ちょっと過激なラブコメディ。
※読んでくださる読者の皆様に感謝申し上げます。感想、ハート、応援。とても励みになっています(*´꒳`*)毎日更新予定です。よろしくお願いいたします✳︎
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる