42 / 51
二章
9.不信のとき
しおりを挟む
――ヴーッ ヴーッ
永瀬から電話がかかってきたのは、20時半を少し過ぎた頃だった。
つい数時間前まであんなに電話することを不安に思っていたのに、今は不思議なほど気持ちが落ち着いている。
さながら、結末の分かり切った小説を読んでいる時のように。
香澄は震えるスマホを手に取ると、ゆっくり通話ボタンを押した。
もしかしたらこれが最後の電話になるのかもしれないと、確信めいた予感を抱きながら。
「…もしもし」
『もしもし、香澄?今、時間大丈夫?』
愛しい人の声。今でもやっぱり好きだと思う。その気持ちに偽りはない。
例えどんな決断を下したとしても、この声は覚えていたいと思った。大好きな人が奏でる自分の名前の響きだけは。
「うん。大丈夫。…ごめんね、ずっと電話も会うのも避けてて」
『やっぱり、意図的だったんだ?』
「うん…。色々と、考え事をしていて」
『それって、日曜日の朝突然いなくなったことと関係ある?』
「…そうだね」
素直に肯定したら、永瀬が小さく息を吐いた。
『香澄さ、何か悩んでるよね?この間は何でもないって言ってたけど、俺にはそんな風に思えない』
「…うん」
『できる限りで構わないから、その悩み、俺に話してみない?』
驚くほど柔らかい声音で、永瀬は促した。
あくまで最終判断は香澄に委ねることで、香澄の本音を引き出そうとしているのだろう。優しい彼らしい。
だが今はそれこそが辛いと思った。いっそ大樹みたいに罵ってくれれば、嫌いになれるのに。
彼を嫌いになれたら、どれほど楽なことだろう?でもそれは決して現実にならない気がしていた。
だって、彼は恩人なのだ。
香澄を過去から救い上げてくれた人。目に見えない何かを信じさせてくれた人。
それだけは、永遠に変わらない真実。
「…この前の、土曜日にね」
『うん』
「昼間、知り合いを見かけて驚いたって言ってたでしょ?…あれ、実は紘司のことなの」
『え』
永瀬は驚き、短く声をあげた。
やはりあの場所に香澄がいたことは気付いていなかったらしい。
「紘司、あの時櫻木さんと一緒にいたよね。…どうして会ってたか、聞いてもいい?」
香澄は、できるだけ冷静に、ゆっくり尋ねた。
さっき彼がそうしてくれたように、決して責めるのではなく、彼の口から真実が出てくるのを信じて待った。
例えそれがどんな理由であろうと、受け止めるつもりだったから。
けれど彼から返ってきた答えは香澄の期待を大きく裏切るもので――。
『…ちょっと打ち合わせがあって』
「何の打ち合わせ?」
『今度大きな宴会が開かれることになったんだけど、その話で』
「なんの宴会?それと櫻木さんと何の関係があるの?」
『……ごめん。それは言えない」
香澄の追究に対して永瀬が困惑していることは、電話越しでも明らかだった。
こんなことは滅多になくて、それが悲しい確信を現実へと変えていく。
「仕事の宴会?」
『いや仕事ではないんだけど…』
「なら、何?私にも言えないの?」
重ねて尋ねたが、永瀬は言葉に詰まって暫し沈黙した。その沈黙が彼女の荒んだ心をさらに傷つけるとも知らずに。
『…そうだな、ごめん。でももう少ししたら言えると思うから、それまで待っていてほしい』
「待てないって言ったら?」
『それでも、待ってもらうしかない。とにかく今は話せない、申し訳ない』
永瀬は頑として理由を告げるつもりはないらしい。
いつになく譲らないそんな彼の態度が、香澄の瞳に涙を滲ませた。
――宴会というのは、おそらく櫻木との結婚式のことだろう。
そして言えるタイミングとはおそらく、櫻木が安定期に入った後。
永瀬と香澄、二人の問題のはずなのに、二人だけの問題じゃない。
そして彼にとっては香澄よりも櫻木の方が大事で、優先事項なのだ。
だがそれも当然のこと、櫻木との間には新しい命がある。
そもそも二股かけていたうえに相手が妊娠したから結婚します、別れてください、なんてそう軽く口にできる話でもないだろう。
だけどそれでも最後くらいは――はっきりと言ってほしかったのに。
『香澄?え、もしかして泣いてる?あー…ごめん。でも立場上どうしても言えないっていうか…』
鼻水をすする音が聞こえたのだろう、永瀬が苦しい言い訳を重ねた。
本当にごめん、もう少しだけ待って、と彼は電話の向こうで何度も謝っているが、今更何一つ響かない。
(立場?それってなんの立場?二股して、挙句には子供作って、どんな言い訳ができるっていうの?)
「…もう、無理して誤魔化さなくていいから」
『え?』
「他に好きな人ができたなら、ちゃんとそう言ってほしかった」
『は…?』
怪訝な声が返ってきた。この期に及んで、まだしらをきるつもりなのだろうか。
「これ以上、嘘をつかないで。どうして?櫻木さんのこと好きなら、どうしてちゃんと言ってくれなかったの?いつまでも隠し通せるとでも思っていたの?――要らなくなったらきっぱりそう言うって、約束したのに」
『香澄?ちょっと待って、俺は…』
「言い訳なんて、聞きたくない!もういい。――さよなら」
言い捨てて、香澄は一方的に電話を切った。
すぐにスマホの電源をオフにしたのは、今更何を言われたところで二人の結末は変わらないと思ったからだ。
最後だったのに、何も教えてくれなかった。彼が守ろうとしたのは自分の名誉と櫻木のことだけ。
そのことにどれだけ香澄が苦しむかなんて、考えてもいないのだろう。…ほんの少しでも誠実を期待した自分が、馬鹿みたいだ。
無音になったスマホを握りしめながら、香澄は声をあげて泣いた。
永瀬から電話がかかってきたのは、20時半を少し過ぎた頃だった。
つい数時間前まであんなに電話することを不安に思っていたのに、今は不思議なほど気持ちが落ち着いている。
さながら、結末の分かり切った小説を読んでいる時のように。
香澄は震えるスマホを手に取ると、ゆっくり通話ボタンを押した。
もしかしたらこれが最後の電話になるのかもしれないと、確信めいた予感を抱きながら。
「…もしもし」
『もしもし、香澄?今、時間大丈夫?』
愛しい人の声。今でもやっぱり好きだと思う。その気持ちに偽りはない。
例えどんな決断を下したとしても、この声は覚えていたいと思った。大好きな人が奏でる自分の名前の響きだけは。
「うん。大丈夫。…ごめんね、ずっと電話も会うのも避けてて」
『やっぱり、意図的だったんだ?』
「うん…。色々と、考え事をしていて」
『それって、日曜日の朝突然いなくなったことと関係ある?』
「…そうだね」
素直に肯定したら、永瀬が小さく息を吐いた。
『香澄さ、何か悩んでるよね?この間は何でもないって言ってたけど、俺にはそんな風に思えない』
「…うん」
『できる限りで構わないから、その悩み、俺に話してみない?』
驚くほど柔らかい声音で、永瀬は促した。
あくまで最終判断は香澄に委ねることで、香澄の本音を引き出そうとしているのだろう。優しい彼らしい。
だが今はそれこそが辛いと思った。いっそ大樹みたいに罵ってくれれば、嫌いになれるのに。
彼を嫌いになれたら、どれほど楽なことだろう?でもそれは決して現実にならない気がしていた。
だって、彼は恩人なのだ。
香澄を過去から救い上げてくれた人。目に見えない何かを信じさせてくれた人。
それだけは、永遠に変わらない真実。
「…この前の、土曜日にね」
『うん』
「昼間、知り合いを見かけて驚いたって言ってたでしょ?…あれ、実は紘司のことなの」
『え』
永瀬は驚き、短く声をあげた。
やはりあの場所に香澄がいたことは気付いていなかったらしい。
「紘司、あの時櫻木さんと一緒にいたよね。…どうして会ってたか、聞いてもいい?」
香澄は、できるだけ冷静に、ゆっくり尋ねた。
さっき彼がそうしてくれたように、決して責めるのではなく、彼の口から真実が出てくるのを信じて待った。
例えそれがどんな理由であろうと、受け止めるつもりだったから。
けれど彼から返ってきた答えは香澄の期待を大きく裏切るもので――。
『…ちょっと打ち合わせがあって』
「何の打ち合わせ?」
『今度大きな宴会が開かれることになったんだけど、その話で』
「なんの宴会?それと櫻木さんと何の関係があるの?」
『……ごめん。それは言えない」
香澄の追究に対して永瀬が困惑していることは、電話越しでも明らかだった。
こんなことは滅多になくて、それが悲しい確信を現実へと変えていく。
「仕事の宴会?」
『いや仕事ではないんだけど…』
「なら、何?私にも言えないの?」
重ねて尋ねたが、永瀬は言葉に詰まって暫し沈黙した。その沈黙が彼女の荒んだ心をさらに傷つけるとも知らずに。
『…そうだな、ごめん。でももう少ししたら言えると思うから、それまで待っていてほしい』
「待てないって言ったら?」
『それでも、待ってもらうしかない。とにかく今は話せない、申し訳ない』
永瀬は頑として理由を告げるつもりはないらしい。
いつになく譲らないそんな彼の態度が、香澄の瞳に涙を滲ませた。
――宴会というのは、おそらく櫻木との結婚式のことだろう。
そして言えるタイミングとはおそらく、櫻木が安定期に入った後。
永瀬と香澄、二人の問題のはずなのに、二人だけの問題じゃない。
そして彼にとっては香澄よりも櫻木の方が大事で、優先事項なのだ。
だがそれも当然のこと、櫻木との間には新しい命がある。
そもそも二股かけていたうえに相手が妊娠したから結婚します、別れてください、なんてそう軽く口にできる話でもないだろう。
だけどそれでも最後くらいは――はっきりと言ってほしかったのに。
『香澄?え、もしかして泣いてる?あー…ごめん。でも立場上どうしても言えないっていうか…』
鼻水をすする音が聞こえたのだろう、永瀬が苦しい言い訳を重ねた。
本当にごめん、もう少しだけ待って、と彼は電話の向こうで何度も謝っているが、今更何一つ響かない。
(立場?それってなんの立場?二股して、挙句には子供作って、どんな言い訳ができるっていうの?)
「…もう、無理して誤魔化さなくていいから」
『え?』
「他に好きな人ができたなら、ちゃんとそう言ってほしかった」
『は…?』
怪訝な声が返ってきた。この期に及んで、まだしらをきるつもりなのだろうか。
「これ以上、嘘をつかないで。どうして?櫻木さんのこと好きなら、どうしてちゃんと言ってくれなかったの?いつまでも隠し通せるとでも思っていたの?――要らなくなったらきっぱりそう言うって、約束したのに」
『香澄?ちょっと待って、俺は…』
「言い訳なんて、聞きたくない!もういい。――さよなら」
言い捨てて、香澄は一方的に電話を切った。
すぐにスマホの電源をオフにしたのは、今更何を言われたところで二人の結末は変わらないと思ったからだ。
最後だったのに、何も教えてくれなかった。彼が守ろうとしたのは自分の名誉と櫻木のことだけ。
そのことにどれだけ香澄が苦しむかなんて、考えてもいないのだろう。…ほんの少しでも誠実を期待した自分が、馬鹿みたいだ。
無音になったスマホを握りしめながら、香澄は声をあげて泣いた。
10
あなたにおすすめの小説
年上女は年下上司に愛される。
國樹田 樹
恋愛
「先輩! 年上の女性を落とすにはどうしたらいいですか!?」と切羽詰った様子で迫ってきたのは後輩、沢渡 啓志。
「あーやっぱ頼りがいのある男とかに弱いんじゃない?」と軽ーく返した私に、彼は元気に返事して。――いつの間にか、先を越されていた。
あれ……あいついつの間に私の上司になった? とかそんな話。
同期の姫は、あなどれない
青砥アヲ
恋愛
社会人4年目を迎えたゆきのは、忙しいながらも充実した日々を送っていたが、遠距離恋愛中の彼氏とはすれ違いが続いていた。
ある日、電話での大喧嘩を機に一方的に連絡を拒否され、音信不通となってしまう。
落ち込むゆきのにアプローチしてきたのは『同期の姫』だった。
「…姫って、付き合ったら意彼女に尽くすタイプ?」
「さぁ、、試してみる?」
クールで他人に興味がないと思っていた同期からの、思いがけないアプローチ。動揺を隠せないゆきのは、今まで知らなかった一面に翻弄されていくことにーーー
【登場人物】
早瀬ゆきの(はやせゆきの)・・・R&Sソリューションズ開発部第三課 所属 25歳
姫元樹(ひめもといつき)・・・R&Sソリューションズ開発部第一課 所属 25歳
◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。
◆他にエブリスタ様にも掲載してます。
求婚されても困ります!~One Night Mistake~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「責任は取る。僕と結婚しよう」
隣にイケメンが引っ越してきたと思ったら、新しく赴任してきた課長だった。
歓迎会で女性陣にお酒を飲まされ、彼は撃沈。
お隣さんの私が送っていくことになったんだけど。
鍵を出してくれないもんだから仕方なく家にあげたらば。
……唇を奪われた。
さらにその先も彼は迫ろうとしたものの、あえなく寝落ち。
翌朝、大混乱の課長は誤解していると気づいたものの、昨晩、あれだけ迷惑かけられたのでちょーっとからかってやろうと思ったのが間違いだった。
あろうことか課長は、私に求婚してきたのだ!
香坂麻里恵(26)
内装業SUNH(株)福岡支社第一営業部営業
サバサバした性格で、若干の世話焼き。
女性らしく、が超苦手。
女子社員のグループよりもおじさん社員の方が話があう。
恋愛?しなくていいんじゃない?の、人。
グッズ収集癖ははない、オタク。
×
楠木侑(28)
内装業SUNH(株)福岡支社第一営業部課長
イケメン、エリート。
あからさまにアプローチをかける女性には塩対応。
仕事に厳しくてあまり笑わない。
実は酔うとキス魔?
web小説を読み、アニメ化作品をチェックする、ライトオタク。
人の話をまったく聞かない課長に、いつになったら真実を告げられるのか!?
聖銀竜に喰われる夜――冷酷な宰相閣下は、禁書庫の司書を執愛の檻に囚える
真守 輪
恋愛
「逃がさない。その賢しい口も、奥の震えも――すべて、私のものだ」
王宮で「禁書庫の未亡人」と揶揄される地味な司書・ルネ。
その正体は、好奇心旺盛でちょっぴり無作法な、本を愛する伯爵令嬢。
彼女には、誰にも言えない秘密があった。
それは、冷酷非道と恐れられる王弟・ゼファール宰相に、夜の禁書庫で秘密に抱かれていること。
聖銀竜の血を引き、興奮すると強靭な鱗と尾が顕れる彼。
人外の剛腕に抱き潰され、甘美な絶望に呑み込まれる夜。
「ただの愛人」と割り切っていたはずなのに、彼の孤独な熱に触れるたび、ルネの心は無防備に暴かれていく。
しかし、ルネは知らなかった。
彼が近づいた真の目的は、彼女が守る「禁書」――王国を揺るがす禁断の真実にあったことを。
「君は、私のものだ。禁書も、その魂も、すべてな」
嘘から始まった関係が、執着に変わる。
竜の情欲と宮廷の陰謀が絡み合う、背徳のインモラル・ロマンス。
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
先輩、お久しぶりです
吉生伊織
恋愛
若宮千春 大手不動産会社
秘書課
×
藤井昂良 大手不動産会社
経営企画本部
『陵介とデキてたんなら俺も邪魔してたよな。
もうこれからは誘わないし、誘ってこないでくれ』
大学生の時に起きたちょっとした誤解で、先輩への片想いはあっけなく終わってしまった。
誤解を解きたくて探し回っていたが見つけられず、そのまま音信不通に。
もう会うことは叶わないと思っていた数年後、社会人になってから偶然再会。
――それも同じ会社で働いていた!?
音信不通になるほど嫌われていたはずなのに、徐々に距離が縮む二人。
打ち解けあっていくうちに、先輩は徐々に甘くなっていき……
フェチではなくて愛ゆえに
茜色
恋愛
凪島みなせ(ナギシマ・ミナセ) 26歳
春霞一馬(ハルガスミ・カズマ) 28歳
同じオフィスビルの7階と9階。違う会社で働く男女が、恥ずかしいハプニングが縁で恥ずかしい展開になり、あたふたドキドキする話。
☆全12話です。設定もストーリーも緩くて薄いです。オフィスラブと謳ってますが、仕事のシーンはほぼありません。
☆ムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる