憧れの彼は一途で優しくて時々イジワル

RIKA

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二章

9.不信のとき

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――ヴーッ ヴーッ

永瀬から電話がかかってきたのは、20時半を少し過ぎた頃だった。
つい数時間前まであんなに電話することを不安に思っていたのに、今は不思議なほど気持ちが落ち着いている。
さながら、結末の分かり切った小説を読んでいる時のように。

香澄は震えるスマホを手に取ると、ゆっくり通話ボタンを押した。
もしかしたらこれが最後の電話になるのかもしれないと、確信めいた予感を抱きながら。

「…もしもし」
『もしもし、香澄?今、時間大丈夫?』

愛しい人の声。今でもやっぱり好きだと思う。その気持ちに偽りはない。
例えどんな決断を下したとしても、この声は覚えていたいと思った。大好きな人が奏でる自分の名前の響きだけは。

「うん。大丈夫。…ごめんね、ずっと電話も会うのも避けてて」
『やっぱり、意図的だったんだ?』
「うん…。色々と、考え事をしていて」
『それって、日曜日の朝突然いなくなったことと関係ある?』
「…そうだね」

素直に肯定したら、永瀬が小さく息を吐いた。

『香澄さ、何か悩んでるよね?この間は何でもないって言ってたけど、俺にはそんな風に思えない』
「…うん」
『できる限りで構わないから、その悩み、俺に話してみない?』

驚くほど柔らかい声音で、永瀬は促した。
あくまで最終判断は香澄に委ねることで、香澄の本音を引き出そうとしているのだろう。優しい彼らしい。
だが今はそれこそが辛いと思った。いっそ大樹みたいに罵ってくれれば、嫌いになれるのに。
彼を嫌いになれたら、どれほど楽なことだろう?でもそれは決して現実にならない気がしていた。
だって、彼は恩人なのだ。
香澄を過去から救い上げてくれた人。目に見えない何かを信じさせてくれた人。
それだけは、永遠に変わらない真実。

「…この前の、土曜日にね」
『うん』
「昼間、知り合いを見かけて驚いたって言ってたでしょ?…あれ、実は紘司のことなの」
『え』

永瀬は驚き、短く声をあげた。
やはりあの場所に香澄がいたことは気付いていなかったらしい。

「紘司、あの時櫻木さんと一緒にいたよね。…どうして会ってたか、聞いてもいい?」

香澄は、できるだけ冷静に、ゆっくり尋ねた。
さっき彼がそうしてくれたように、決して責めるのではなく、彼の口から真実が出てくるのを信じて待った。
例えそれがどんな理由であろうと、受け止めるつもりだったから。
けれど彼から返ってきた答えは香澄の期待を大きく裏切るもので――。

『…ちょっと打ち合わせがあって』
「何の打ち合わせ?」
『今度大きな宴会が開かれることになったんだけど、その話で』
「なんの宴会?それと櫻木さんと何の関係があるの?」
『……ごめん。それは言えない」

香澄の追究に対して永瀬が困惑していることは、電話越しでも明らかだった。
こんなことは滅多になくて、それが悲しい確信を現実へと変えていく。

「仕事の宴会?」
『いや仕事ではないんだけど…』
「なら、何?私にも言えないの?」

重ねて尋ねたが、永瀬は言葉に詰まって暫し沈黙した。その沈黙が彼女の荒んだ心をさらに傷つけるとも知らずに。

『…そうだな、ごめん。でももう少ししたら言えると思うから、それまで待っていてほしい』
「待てないって言ったら?」
『それでも、待ってもらうしかない。とにかく今は話せない、申し訳ない』

永瀬は頑として理由を告げるつもりはないらしい。
いつになく譲らないそんな彼の態度が、香澄の瞳に涙を滲ませた。

――宴会というのは、おそらく櫻木との結婚式のことだろう。
そして言えるタイミングとはおそらく、櫻木が安定期に入った後。

永瀬と香澄、二人の問題のはずなのに、二人だけの問題じゃない。
そして彼にとっては香澄よりも櫻木の方が大事で、優先事項なのだ。
だがそれも当然のこと、櫻木との間には新しい命がある。
そもそも二股かけていたうえに相手が妊娠したから結婚します、別れてください、なんてそう軽く口にできる話でもないだろう。
だけどそれでも最後くらいは――はっきりと言ってほしかったのに。

『香澄?え、もしかして泣いてる?あー…ごめん。でも立場上どうしても言えないっていうか…』

鼻水をすする音が聞こえたのだろう、永瀬が苦しい言い訳を重ねた。
本当にごめん、もう少しだけ待って、と彼は電話の向こうで何度も謝っているが、今更何一つ響かない。

(立場?それってなんの立場?二股して、挙句には子供作って、どんな言い訳ができるっていうの?)

「…もう、無理して誤魔化さなくていいから」
『え?』
「他に好きな人ができたなら、ちゃんとそう言ってほしかった」
『は…?』

怪訝な声が返ってきた。この期に及んで、まだしらをきるつもりなのだろうか。

「これ以上、嘘をつかないで。どうして?櫻木さんのこと好きなら、どうしてちゃんと言ってくれなかったの?いつまでも隠し通せるとでも思っていたの?――要らなくなったらきっぱりそう言うって、約束したのに」
『香澄?ちょっと待って、俺は…』
「言い訳なんて、聞きたくない!もういい。――さよなら」

言い捨てて、香澄は一方的に電話を切った。
すぐにスマホの電源をオフにしたのは、今更何を言われたところで二人の結末は変わらないと思ったからだ。

最後だったのに、何も教えてくれなかった。彼が守ろうとしたのは自分の名誉と櫻木のことだけ。
そのことにどれだけ香澄が苦しむかなんて、考えてもいないのだろう。…ほんの少しでも誠実を期待した自分が、馬鹿みたいだ。

無音になったスマホを握りしめながら、香澄は声をあげて泣いた。
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