憧れの彼は一途で優しくて時々イジワル

RIKA

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二章

8.さよならの覚悟

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帰宅ラッシュで混雑する駅の中を歩きながら、香澄は今日これからのことを考えていた。

あの後――香澄はついに観念して永瀬にメッセージを送った。
今夜、永瀬の仕事が終わったら電話で話す手筈となっている。
その時、日曜日のことはもちろん、ここ数日のはっきりしない態度を問い質されるに違いないから、それに対する答えを準備しておかねばらない。彼が納得できるような、適切な答えを。

何から話せばいいのか、何をどう聞けばいいのか。
あれからずっと考えているが、まだ整理がつかないままだ。

はあ、とため息をつきながら、香澄は駅のホームへ続く階段を上った。
人混みの隙間を縫うようにして、いつも乗車する車両の前までたどりつく。
電車の到着を待つ列の最後尾に並び、いつものようにスマホをバッグから取り出したところで――すぐ近くから聞き覚えのある声がした。
その声の主を瞬時に理解してしまって、香澄の心臓がどくりと鳴る。…櫻木だ。

声の方へゆっくり視線を向けると、彼女は香澄から見て数メートル斜め前、ホームに設置されたベンチに腰掛け、控えめな声で誰かと電話していた。
この場から離れたいのに、電話の相手がもしも永瀬だとしたらと思うと、足が動かない。
香澄はその場に立ち尽くしたまま、罪悪感を抱えながら息を潜め、聞き耳をたてた。

「――私のこと大事にしてくれて、本当にいい人と巡り会えたと思う。うん…うん、分かってる。これからは私が奥さんとして、ちゃんとヒロくんを支えていくから。課長になって大変な時期だしね。結婚式も楽しみにしてて。…え?…ふふ、もう、分かってるってば。一人の身体じゃないし、気を付けるよ。お母さんこそ、もうすぐおばあちゃんになるんだから元気でいてよね」

幸福に満ちたその会話は、香澄の心に鋭利な刃のごとく突き刺さった。と同時に目の前が真っ暗になって、景色が色を失う。

奥さん。ヒロくん。課長。結婚式。
一人じゃない身体。おばあちゃん。

それらのキーワードが意味するものを、更にあの日この目で見た景色が補完していく。

体調不良には見えなかった彼女。
当たり前のように彼女の荷物を持った永瀬、気遣うように乗車を促したタクシー。
そして、飲みかけのノンカフェインのお茶…。

(――ああ。そういう、こと)

点と点だった疑問たちが今、一つの線になる。ついに繋がってしまった。それもよりによって、最悪な結末に。

彼は浮気などしていなかった。浮気なんて軽い気持ちじゃない、櫻木のお腹の中で芽吹く新しい命がその証拠だ。それは何よりも優先し守るべき、大事な宝もの。

(覚悟を…決めなくちゃ)

容赦なく目の前に突きつけられた現実が、今度こそ香澄を決心させた。
今夜、彼に全てを話そう。そして真実を明らかにする。
もはや自分の気持ちを整理しているような場合ではない。
どう考えたって先延ばしにできる問題じゃないことは明らかだし、香澄一人がもがいて済むような簡単な話ではなかったのだ。…きっと、最初から。


やがて到着した電車に乗り込むと、香澄はいつも通りの足取りで、いつも通りの顔をして帰宅した。
何を考える必要もなかった、だって帰り方は体が覚えている。
日常の手順をなぞり、玄関の鍵を開けて中に入れば、朝と何一つ変わらない風景がそこには広がっていて、そのことに香澄は言いようのない安堵を覚えた。

此処は自分だけの部屋。
存在することを許され、誰にも奪われない、香澄が安らげる唯一の場所。
他ならぬ、自分が築き上げた。

そう、親元を離れて以来、香澄はずっと一人だった。自分でお金を稼ぎ、一人で生きてきた。
自分のためだけに使う時間、お金、モノ、ただそれだけで満足していた。
だからそんな自分にまた戻るだけ。たった、それだけの話。
彼と出会い、恋に落ちて、生活に彩りが足されたのは紛れもない事実だが、その存在を失ってもこの道は続いてゆく。続けて行かねばならない、それが人生だから。

「大丈夫。大丈夫」

香澄は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
声が震えているのはきっと気のせいだ。鼓動が早いのだって、ついさっきまで外を歩いていたから。
決して動揺しているからでも、恐れているからでもない。

「私は大丈夫」

こんなこと、なんてことない。今までだってそうやってきたでしょう?
過去にも辛い別れはあったけれど、ちゃんと乗り越えてこられたじゃない。
だから心配いらない。
零れ落ちるこの涙もいつか乾くことを知っている。
大丈夫。平気。問題ない。

私は、一人で歩ける。

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