41 / 51
二章
8.さよならの覚悟
しおりを挟む
帰宅ラッシュで混雑する駅の中を歩きながら、香澄は今日これからのことを考えていた。
あの後――香澄はついに観念して永瀬にメッセージを送った。
今夜、永瀬の仕事が終わったら電話で話す手筈となっている。
その時、日曜日のことはもちろん、ここ数日のはっきりしない態度を問い質されるに違いないから、それに対する答えを準備しておかねばらない。彼が納得できるような、適切な答えを。
何から話せばいいのか、何をどう聞けばいいのか。
あれからずっと考えているが、まだ整理がつかないままだ。
はあ、とため息をつきながら、香澄は駅のホームへ続く階段を上った。
人混みの隙間を縫うようにして、いつも乗車する車両の前までたどりつく。
電車の到着を待つ列の最後尾に並び、いつものようにスマホをバッグから取り出したところで――すぐ近くから聞き覚えのある声がした。
その声の主を瞬時に理解してしまって、香澄の心臓がどくりと鳴る。…櫻木だ。
声の方へゆっくり視線を向けると、彼女は香澄から見て数メートル斜め前、ホームに設置されたベンチに腰掛け、控えめな声で誰かと電話していた。
この場から離れたいのに、電話の相手がもしも永瀬だとしたらと思うと、足が動かない。
香澄はその場に立ち尽くしたまま、罪悪感を抱えながら息を潜め、聞き耳をたてた。
「――私のこと大事にしてくれて、本当にいい人と巡り会えたと思う。うん…うん、分かってる。これからは私が奥さんとして、ちゃんとヒロくんを支えていくから。課長になって大変な時期だしね。結婚式も楽しみにしてて。…え?…ふふ、もう、分かってるってば。一人の身体じゃないし、気を付けるよ。お母さんこそ、もうすぐおばあちゃんになるんだから元気でいてよね」
幸福に満ちたその会話は、香澄の心に鋭利な刃のごとく突き刺さった。と同時に目の前が真っ暗になって、景色が色を失う。
奥さん。ヒロくん。課長。結婚式。
一人じゃない身体。おばあちゃん。
それらのキーワードが意味するものを、更にあの日この目で見た景色が補完していく。
体調不良には見えなかった彼女。
当たり前のように彼女の荷物を持った永瀬、気遣うように乗車を促したタクシー。
そして、飲みかけのノンカフェインのお茶…。
(――ああ。そういう、こと)
点と点だった疑問たちが今、一つの線になる。ついに繋がってしまった。それもよりによって、最悪な結末に。
彼は浮気などしていなかった。浮気なんて軽い気持ちじゃない、櫻木のお腹の中で芽吹く新しい命がその証拠だ。それは何よりも優先し守るべき、大事な宝もの。
(覚悟を…決めなくちゃ)
容赦なく目の前に突きつけられた現実が、今度こそ香澄を決心させた。
今夜、彼に全てを話そう。そして真実を明らかにする。
もはや自分の気持ちを整理しているような場合ではない。
どう考えたって先延ばしにできる問題じゃないことは明らかだし、香澄一人がもがいて済むような簡単な話ではなかったのだ。…きっと、最初から。
やがて到着した電車に乗り込むと、香澄はいつも通りの足取りで、いつも通りの顔をして帰宅した。
何を考える必要もなかった、だって帰り方は体が覚えている。
日常の手順をなぞり、玄関の鍵を開けて中に入れば、朝と何一つ変わらない風景がそこには広がっていて、そのことに香澄は言いようのない安堵を覚えた。
此処は自分だけの部屋。
存在することを許され、誰にも奪われない、香澄が安らげる唯一の場所。
他ならぬ、自分が築き上げた。
そう、親元を離れて以来、香澄はずっと一人だった。自分でお金を稼ぎ、一人で生きてきた。
自分のためだけに使う時間、お金、モノ、ただそれだけで満足していた。
だからそんな自分にまた戻るだけ。たった、それだけの話。
彼と出会い、恋に落ちて、生活に彩りが足されたのは紛れもない事実だが、その存在を失ってもこの道は続いてゆく。続けて行かねばならない、それが人生だから。
「大丈夫。大丈夫」
香澄は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
声が震えているのはきっと気のせいだ。鼓動が早いのだって、ついさっきまで外を歩いていたから。
決して動揺しているからでも、恐れているからでもない。
「私は大丈夫」
こんなこと、なんてことない。今までだってそうやってきたでしょう?
過去にも辛い別れはあったけれど、ちゃんと乗り越えてこられたじゃない。
だから心配いらない。
零れ落ちるこの涙もいつか乾くことを知っている。
大丈夫。平気。問題ない。
私は、一人で歩ける。
あの後――香澄はついに観念して永瀬にメッセージを送った。
今夜、永瀬の仕事が終わったら電話で話す手筈となっている。
その時、日曜日のことはもちろん、ここ数日のはっきりしない態度を問い質されるに違いないから、それに対する答えを準備しておかねばらない。彼が納得できるような、適切な答えを。
何から話せばいいのか、何をどう聞けばいいのか。
あれからずっと考えているが、まだ整理がつかないままだ。
はあ、とため息をつきながら、香澄は駅のホームへ続く階段を上った。
人混みの隙間を縫うようにして、いつも乗車する車両の前までたどりつく。
電車の到着を待つ列の最後尾に並び、いつものようにスマホをバッグから取り出したところで――すぐ近くから聞き覚えのある声がした。
その声の主を瞬時に理解してしまって、香澄の心臓がどくりと鳴る。…櫻木だ。
声の方へゆっくり視線を向けると、彼女は香澄から見て数メートル斜め前、ホームに設置されたベンチに腰掛け、控えめな声で誰かと電話していた。
この場から離れたいのに、電話の相手がもしも永瀬だとしたらと思うと、足が動かない。
香澄はその場に立ち尽くしたまま、罪悪感を抱えながら息を潜め、聞き耳をたてた。
「――私のこと大事にしてくれて、本当にいい人と巡り会えたと思う。うん…うん、分かってる。これからは私が奥さんとして、ちゃんとヒロくんを支えていくから。課長になって大変な時期だしね。結婚式も楽しみにしてて。…え?…ふふ、もう、分かってるってば。一人の身体じゃないし、気を付けるよ。お母さんこそ、もうすぐおばあちゃんになるんだから元気でいてよね」
幸福に満ちたその会話は、香澄の心に鋭利な刃のごとく突き刺さった。と同時に目の前が真っ暗になって、景色が色を失う。
奥さん。ヒロくん。課長。結婚式。
一人じゃない身体。おばあちゃん。
それらのキーワードが意味するものを、更にあの日この目で見た景色が補完していく。
体調不良には見えなかった彼女。
当たり前のように彼女の荷物を持った永瀬、気遣うように乗車を促したタクシー。
そして、飲みかけのノンカフェインのお茶…。
(――ああ。そういう、こと)
点と点だった疑問たちが今、一つの線になる。ついに繋がってしまった。それもよりによって、最悪な結末に。
彼は浮気などしていなかった。浮気なんて軽い気持ちじゃない、櫻木のお腹の中で芽吹く新しい命がその証拠だ。それは何よりも優先し守るべき、大事な宝もの。
(覚悟を…決めなくちゃ)
容赦なく目の前に突きつけられた現実が、今度こそ香澄を決心させた。
今夜、彼に全てを話そう。そして真実を明らかにする。
もはや自分の気持ちを整理しているような場合ではない。
どう考えたって先延ばしにできる問題じゃないことは明らかだし、香澄一人がもがいて済むような簡単な話ではなかったのだ。…きっと、最初から。
やがて到着した電車に乗り込むと、香澄はいつも通りの足取りで、いつも通りの顔をして帰宅した。
何を考える必要もなかった、だって帰り方は体が覚えている。
日常の手順をなぞり、玄関の鍵を開けて中に入れば、朝と何一つ変わらない風景がそこには広がっていて、そのことに香澄は言いようのない安堵を覚えた。
此処は自分だけの部屋。
存在することを許され、誰にも奪われない、香澄が安らげる唯一の場所。
他ならぬ、自分が築き上げた。
そう、親元を離れて以来、香澄はずっと一人だった。自分でお金を稼ぎ、一人で生きてきた。
自分のためだけに使う時間、お金、モノ、ただそれだけで満足していた。
だからそんな自分にまた戻るだけ。たった、それだけの話。
彼と出会い、恋に落ちて、生活に彩りが足されたのは紛れもない事実だが、その存在を失ってもこの道は続いてゆく。続けて行かねばならない、それが人生だから。
「大丈夫。大丈夫」
香澄は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
声が震えているのはきっと気のせいだ。鼓動が早いのだって、ついさっきまで外を歩いていたから。
決して動揺しているからでも、恐れているからでもない。
「私は大丈夫」
こんなこと、なんてことない。今までだってそうやってきたでしょう?
過去にも辛い別れはあったけれど、ちゃんと乗り越えてこられたじゃない。
だから心配いらない。
零れ落ちるこの涙もいつか乾くことを知っている。
大丈夫。平気。問題ない。
私は、一人で歩ける。
10
あなたにおすすめの小説
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
私はお世話係じゃありません!【時任シリーズ②】
椿蛍
恋愛
幼い頃から、私、島田桜帆(しまださほ)は倉永夏向(くらながかなた)の面倒をみてきた。
幼馴染みの夏向は気づくと、天才と呼ばれ、ハッカーとしての腕を買われて時任(ときとう)グループの副社長になっていた!
けれど、日常生活能力は成長していなかった。
放って置くと干からびて、ミイラになっちゃうんじゃない?ってくらいに何もできない。
きっと神様は人としての能力値の振り方を間違えたに違いない。
幼馴染みとして、そんな夏向の面倒を見てきたけど、夏向を好きだという会社の秘書の女の子が現れた。
もうお世話係はおしまいよね?
★視点切り替えあります。
★R-18には※R-18をつけます。
★飛ばして読むことも可能です。
★時任シリーズ第2弾
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。ノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
超高速展開、サクッと読めます。
若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~
雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」
夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。
そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。
全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載
6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。
今日は同期飲み会だった。
後輩のミスで行けたのは本当に最後。
飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。
彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。
きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。
けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。
でも、あれから変わった私なら……。
******
2021/05/29 公開
******
表紙 いもこは妹pixivID:11163077
不仲な婚約者と一夜の関係で終わるはずだった
アマイ
恋愛
セシルには大嫌いな婚約者がいる。そして婚約者フレデリックもまたセシルを嫌い、社交界で浮名を流しては婚約破棄を迫っていた。
そんな歪な関係を続けること十年、セシルはとある事情からワンナイトを条件に婚約破棄に応じることにした。
しかし、ことに及んでからフレデリックの様子が何だかおかしい。あの……話が違うんですけど!?
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
フェチではなくて愛ゆえに
茜色
恋愛
凪島みなせ(ナギシマ・ミナセ) 26歳
春霞一馬(ハルガスミ・カズマ) 28歳
同じオフィスビルの7階と9階。違う会社で働く男女が、恥ずかしいハプニングが縁で恥ずかしい展開になり、あたふたドキドキする話。
☆全12話です。設定もストーリーも緩くて薄いです。オフィスラブと謳ってますが、仕事のシーンはほぼありません。
☆ムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる