3 / 59
3
しおりを挟む繭子は1時間近く店で過ごした後、帰宅した。
一瞬また悪い癖が出てしまったものの、久しぶりの穏やかな時間だった。
素敵なマスターに、心地よいジャズに、美味しいお茶とパイに、心から癒された。
毎日でもあそこに通いたいくらいだが、そうもいかない。
実は、現在失業中なのだ。
元々無駄遣いをするタイプではなく就職してからも質素に暮らしていたので、急いで次の仕事を探さなくてもしばらくの間は生活できるくらいの貯金はある。それに時々実家からお米や野菜など送ってくれたり、定期的に父親から繭子の通帳にお金が振り込まれていたりする。もう自分で稼いでいるのだからと大丈夫だと何度も断っていたのだが、無職の身となった今は両親の気遣いに改めて感謝し、ありがたく思っている。
心療内科に通ってカウンセリングを受けながらできるだけ早い社会復帰を目指している。処方された精神安定剤のおかげでだいぶ眠れるようになったし食欲も少しずつ戻ってきている。しかし、それでも辞めた会社のことを思い出すとまだ動悸や手の震えが起こる。正直、会社という組織の中で再び働くのは怖い…。特別な資格を持っているわけでもないし手に職もない自分に仕事の選り好みなんて贅沢なことはできないのは分かっているが…。
会社を辞めたことをまだ両親に伝えていない。通勤に時間がかかることを理由に、両親の反対を押し切って実家を出てアパートで1人暮らしをしてきたが、戻るつもりはなかった。両親のことは好きだが、彼らは今時珍しいくらい古い価値観の持ち主で「女は高卒か短大で十分。早く結婚して専業主婦になり子供を産むのが幸せ」と信じて疑わない。もし今の状況を知られたら、すぐに実家に連れ戻されてお見合いをさせられるに決まっている。繭子だって人並みに結婚願望はあるが、ちゃんと恋愛して好きになった人と結婚したい。
恋愛かぁ…ハハッ……。これまで恋愛らしい恋愛をしたことがないことに今更ながら気づいて繭子は苦笑する。中学校から短大まで女子校だったので、男性と知り合う機会がなく、就職してからも会社にもいいなあと思う人は誰もいなかったし、合コンなどに誘われたこともなかった。
不意に、『古時計』のマスターの顔が浮かんだ。長身で整った容姿に白いシャツに黒いホルターネック風の胸当てが付いたソムリエエプロン姿がとてもサマになっていて、落ちついた低音の声も素敵で、物腰が柔らかく話し方は丁寧だが、常連らしいお客さんには少し砕けてフレンドリーに接していたのが印象的だった。私も常連になってあんな風に打ち解けて話せたらいいなぁ…。もしあんな男性が私の彼氏だったら…。あの声で愛の言葉を囁かれながら優しく胸に引き寄せられキスされたら…。ベッドの中で枕をギュッと抱きしめる。妄想するだけなら誰にも文句言われないよね…? 今夜は薬なしでも寝られるかも…繭子は甘い想像に浸りながら目を閉じた。
0
あなたにおすすめの小説
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
苺の誘惑 ~御曹司副社長の甘い計略~
泉南佳那
恋愛
来栖エリカ26歳✖️芹澤宗太27歳
売れないタレントのエリカのもとに
破格のギャラの依頼が……
ちょっと怪しげな黒の高級国産車に乗せられて
ついた先は、巷で話題のニュースポット
サニーヒルズビレッジ!
そこでエリカを待ちうけていたのは
極上イケメン御曹司の副社長。
彼からの依頼はなんと『偽装恋人』!
そして、これから2カ月あまり
サニーヒルズレジデンスの彼の家で
ルームシェアをしてほしいというものだった!
一緒に暮らすうちに、エリカは本気で彼に恋をしてしまい
とうとう苦しい胸の内を告げることに……
***
ラグジュアリーな再開発都市を舞台に繰り広げられる
御曹司と売れないタレントの恋
はたして、その結末は⁉︎
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる