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しおりを挟む繭子は1時間近く店で過ごした後、帰宅した。
一瞬また悪い癖が出てしまったものの、久しぶりの穏やかな時間だった。
素敵なマスターに、心地よいジャズに、美味しいお茶とパイに、心から癒された。
毎日でもあそこに通いたいくらいだが、そうもいかない。
実は、現在失業中なのだ。
元々無駄遣いをするタイプではなく就職してからも質素に暮らしていたので、急いで次の仕事を探さなくてもしばらくの間は生活できるくらいの貯金はある。それに時々実家からお米や野菜など送ってくれたり、定期的に父親から繭子の通帳にお金が振り込まれていたりする。もう自分で稼いでいるのだからと大丈夫だと何度も断っていたのだが、無職の身となった今は両親の気遣いに改めて感謝し、ありがたく思っている。
心療内科に通ってカウンセリングを受けながらできるだけ早い社会復帰を目指している。処方された精神安定剤のおかげでだいぶ眠れるようになったし食欲も少しずつ戻ってきている。しかし、それでも辞めた会社のことを思い出すとまだ動悸や手の震えが起こる。正直、会社という組織の中で再び働くのは怖い…。特別な資格を持っているわけでもないし手に職もない自分に仕事の選り好みなんて贅沢なことはできないのは分かっているが…。
会社を辞めたことをまだ両親に伝えていない。通勤に時間がかかることを理由に、両親の反対を押し切って実家を出てアパートで1人暮らしをしてきたが、戻るつもりはなかった。両親のことは好きだが、彼らは今時珍しいくらい古い価値観の持ち主で「女は高卒か短大で十分。早く結婚して専業主婦になり子供を産むのが幸せ」と信じて疑わない。もし今の状況を知られたら、すぐに実家に連れ戻されてお見合いをさせられるに決まっている。繭子だって人並みに結婚願望はあるが、ちゃんと恋愛して好きになった人と結婚したい。
恋愛かぁ…ハハッ……。これまで恋愛らしい恋愛をしたことがないことに今更ながら気づいて繭子は苦笑する。中学校から短大まで女子校だったので、男性と知り合う機会がなく、就職してからも会社にもいいなあと思う人は誰もいなかったし、合コンなどに誘われたこともなかった。
不意に、『古時計』のマスターの顔が浮かんだ。長身で整った容姿に白いシャツに黒いホルターネック風の胸当てが付いたソムリエエプロン姿がとてもサマになっていて、落ちついた低音の声も素敵で、物腰が柔らかく話し方は丁寧だが、常連らしいお客さんには少し砕けてフレンドリーに接していたのが印象的だった。私も常連になってあんな風に打ち解けて話せたらいいなぁ…。もしあんな男性が私の彼氏だったら…。あの声で愛の言葉を囁かれながら優しく胸に引き寄せられキスされたら…。ベッドの中で枕をギュッと抱きしめる。妄想するだけなら誰にも文句言われないよね…? 今夜は薬なしでも寝られるかも…繭子は甘い想像に浸りながら目を閉じた。
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