4 / 59
4
しおりを挟むその日から最低でも週に一度は店に行った。ここには自分を知る人は誰もいない。意地悪なことや陰口などを言う人もいない。誰も繭子のことを気に留めたりしない。オドオドしたりビクビクしたりしなくてもいい。ここで過ごすことが繭子の安らぎになっていた。
マスターともだいぶ打ち解けてきた。世間話をするくらいだったがそれでも楽しかった。マスターは自分の話はするが、繭子のことを根掘り葉掘り聞いたりすることは一切ない。今の繭子にはそれがとてもありがたかった。
驚いたことに、元々マスターは商社に勤めるサラリーマンだったという。小学校の高学年の頃からお父様の命でお店を手伝っていたものの、お店を継ぐことにあまり興味がなかったそうだ。でも一人っ子だったのでいずれは継ぐことになるのは分かっていたので、その前に一度普通に就職して会社勤めの経験をしたいと、お父様の許しを得て30歳までという条件でサラリーマン生活を送り今に至るとのことだった。会社を辞めた後、お父様から先代から受け継いだ料理のレシピを徹底的に叩き込まれ、閉店後や定休日も本人曰く「鬼のしごき」を受け、お父様が病気で倒れるまで続いたという。
「本当に父は厳しくて、しょっちゅう殴られましたし、怒鳴り合いの喧嘩も数えきれないほどありました。店をさっさと潰してまたサラリーマンに戻りたいと何度思ったことか」
マスターは笑いながら当時のことを話してくれた。
え、あの、とても優しい上品な紳士という感じの先代のマスターが…。
「…でも、お父様はマスターにおじい様から続いているこの店の味を守り続けてもらいたいという強い願いから心を鬼にして厳しくご指導されたのだと思います」
「そうですね。そのおかげで何とかこうして独り立ちして店を続けられています。寝たきりになってしまってからもベッドの中からあれこれ指図するのには参りましたけどね」
マスターが少し俯き加減でフッ…と笑った。少し寂しそうに見えた。繭子は慌てて別の話題に切り替えようと、今、飲んでいるラベンダーティーに目を向けた。
「あの、このラベンダーティー、香りが強すぎず弱すぎず絶妙で、ほっと優しい気分にさせてくれてリラックスできます。メニューにあるハーブティーはどれも美味しいですが、中でもこれが一番好きかもしれません」
繭子の言葉に、マスターが顔を上げ、驚いたような顔をした。
え、私、何か変なこと言った…? 内心不安に思っていると、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「ありがとうございます。こちらはフランスから取り寄せているドライハーブなんですが、香りが強すぎると飲みにくいし弱すぎると味気ないので、蒸らし時間などを色々試したんです。お気に召していただけてよかったです。ラベンダーは、落ち込んだ気分を和らげてくれてリラックス効果があって不眠にも効果があると言われているんですよ。紅茶の専門店はもちろんですが、大きいスーパーでも買えますよ」
今の私にピッタリなお茶だ…。早速スーパーで探してみようかな。でも…。
「そうなんですか。家でも気軽に飲めるんですね。それもいいのですが、私、ここで、この店内の素敵な雰囲気の中でこのラベンダーティーを飲みたいです」
それにマスターにも会えるし…もちろんそんなこと口に出せなかったが。
「嬉しいです。これからも末永くご愛顧いただきますよう、よろしくお願いいたします」
「はい、これからも末永くご愛顧させていただきます」
お互いに頭を下げちょっとおどけたように言うと、フフフッと笑い合った。
0
あなたにおすすめの小説
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
苺の誘惑 ~御曹司副社長の甘い計略~
泉南佳那
恋愛
来栖エリカ26歳✖️芹澤宗太27歳
売れないタレントのエリカのもとに
破格のギャラの依頼が……
ちょっと怪しげな黒の高級国産車に乗せられて
ついた先は、巷で話題のニュースポット
サニーヒルズビレッジ!
そこでエリカを待ちうけていたのは
極上イケメン御曹司の副社長。
彼からの依頼はなんと『偽装恋人』!
そして、これから2カ月あまり
サニーヒルズレジデンスの彼の家で
ルームシェアをしてほしいというものだった!
一緒に暮らすうちに、エリカは本気で彼に恋をしてしまい
とうとう苦しい胸の内を告げることに……
***
ラグジュアリーな再開発都市を舞台に繰り広げられる
御曹司と売れないタレントの恋
はたして、その結末は⁉︎
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる