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しおりを挟むせっかくこのところ調子がよかったのに…。
久しぶりにオシャレをし、先生の言葉に救われ、マスターの顔も見られたというのに…。
家に戻った繭子はまた塞ぎこんでしまい、ぐったりとベッドに横たわった。
もちろんあの夫婦は何も悪くない。自分が勝手に落ち込んでしまっただけだ。幸せを絵に描いたような彼女たちが心底羨ましく、同時にものすごい劣等感が押し寄せてきたのだ。理不尽なパワハラに負けて会社を辞め、現在無職で、恋人もいなければ、近くに気を許せる友達もいない。なんて惨めなんだろう、と…。
「他人と比較することは無意味なこと。あなたにはあなたにしかない長所や魅力がたくさんあるのだから」
カウンセリングの時に何度も言われていたし繭子も事あるごとに自分に言い聞かせてきたのに…。それでもまだこうして自分を卑下してしまうのだった。
それにマスターに申し訳ない気持ちで一杯だった。とても美味しかったナポリタンだったのに途中から味が感じられなくなってしまったのだ。残してはいけないという義務感から必死で食べていただけだ。私のことなんて全く気に留めてなかったとは思うが…。
まだ夕方前だったが、何もする気が起きなかった。夕食を作る気力も体力もなくなった繭子は、やっとの思いで起き上がると、洗顔してメイクを落として歯磨きだけ済ませるとパジャマに着替えて薬を飲んでベッドに潜り込んだ。
とにかく寝て何もかも忘れてしまいたかった。
繭子は短大卒業後、就職難の中やっと採用してくれた製造機器メーカーで営業アシスタントをしていた。
正直給料は安かったが、アットホームな雰囲気で人間関係も悪くなく特に大きな問題もなく仕事をこなしていた。
入社して5年目のことだった。景気が上向かない中、会社の業績不振を理由に社長が辞任し、副社長が新社長に就任することが決まった。
これが最初の始まりだった。
新社長は元々副社長時代から会社の古い体質や仕事のやり方に疑問を抱いていたらしく、社長就任後、すぐさま社内改革に乗り出した。
まず無駄を徹底的に省き、社内のIT化を進めた。営業の社員たちに従来のやり方を変えてもっと効率的に仕事をするよう命じた。営業成績も前社長よりも細かくチェックするようになった。営業社員のノルマが厳しくなっていった。それにつれて繭子の仕事も忙しくなり残業が増えた。そして徐々に社内の雰囲気がギスギスし始めた。
繭子と同じ営業アシスタントをしていた同僚が、結婚して旦那さんの実家の方に引っ越すことになり退職することになった。彼女とは仲が良かったので辞めてしまうのは正直寂しかったが、向こうでお幸せにね、と笑顔で送り出した。
そしてその同僚の後任に来たのが、高橋亜希という28歳の派遣社員だった。
彼女は今までIT関係や外資系の会社で働いた経験があることから社長のお眼鏡に適ったらしい。確かに飲み込みが早く仕事をテキパキとこなし有能だったが、平気で社員たちにタメ口で話し、あれこれ仕事の指示をしたり仕事に口出しするのには心底驚いた。亜希の態度に反感を抱く社員は多かったが、社長が彼女を高く買っていることと、仕事自体は本当によくできたので、内心ではモヤモヤしながらもみんな彼女の我が物顔な振る舞いを黙認していた。
そんな亜希のターゲットになったのが繭子だった。繭子だって仕事が遅かったわけじゃないし、ミスらしいミスもすることなくやっていた。だが、何故か知らないが亜希は繭子が気に入らなかったらしく、彼女は繭子に対して特にキツく仕事の指示をするようになった。繭子の仕事のやり方を批判したり、繭子が担当している顧客を自分に代えさせたりした。さすがに耐えかねて上司に相談すると、なんと上司は、とりあえず試しに彼女に任せてみてから判断しよう、と言ったのだった。亜希の肩を持つような言い方に納得できなかったが上司の意見には逆らえなかった。周りの社員は気の毒そうな視線を向けるものの、助けてくれる人は誰もいなかった。そうこうするうちに、いつの間にか繭子の仕事の多くが亜希に奪われていった。そして実際彼女が来てから会社の業績がアップした。だんだんと繭子は上司や他の営業社員に、正社員の誰かさんより派遣社員の方が遥かに会社に貢献してくれているんじゃないのか、と嫌味を言われるようになった。自分は営業アシスタントであり、実際に仕事を取ってくるのは営業社員なのに…。
繭子は徐々に社内で孤立していく。
それでも耐えて、文句を言われないようにとにかく自分の仕事に精一杯取り組んだ。だが、周りに迷惑をかけないようにミスしないようにいつも気を張っていたせいで、次第に不眠、食欲不振、動悸や息苦しさ、手の震え、めまい、など次々に体に不調が現れ始め、ゲッソリと痩せ、注意力が衰え、少しずつ仕事に支障が出始めてきた。そのせいでますます周囲は繭子に冷たくなり、ストレスからまたミスをして、厳しく注意されるという悪循環に陥った。さすがに何とかしなければと思い病院に行って医師に相談した結果、適応障害と診断され、休職するよう勧められた。繭子の中で張りつめていた糸がプツンと切れた。
「会社を辞めよう」
確かに繭子は大人しくて地味な性格だ。あまり社交的でもない。それでも入社して5年、仕事に手を抜いたことはなく、営業アシスタントとして営業部員たちができるだけ気持ちよくスムーズに仕事ができるように繭子なりに工夫して彼らをサポートしてきた。亜希が来る前はそれなりに頼りにされてきたし評価もされてきた。こんな形で会社を辞めるのは悔しいし悲しいが、もう限界だった。
翌日、繭子が辞表を提出すると、あっけないほどすんなり受理された。誰にも引き留められなかった。もうここに自分の居場所はないとはっきり分かった瞬間だった。退職日までの約1ヶ月間、業務上必要なこと以外一切誰とも話さず、ひたすら心を無にして数少なくなった自分の担当の仕事を淡々とこなし、最終日、なけなしのプライドを総動員して、涙を一切見せることなく、5年間お世話になりました、と挨拶をして会社を去った。
繭子が受けた心の傷は大きかった。辞めてからしばらくの間、薬を飲んで眠れても悪夢にうなされることが多かった。それは決まって亜希に叱責されたり繭子をバカにするような言動を取られたり、それを上司も含めて周囲が冷ややかに見ていて誰も助けてくれない夢だった。ぐっしょり汗をかいた状態で目が覚め、手が震え、涙が止まらなかった。
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