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しおりを挟む今日はクリニックに行く日。
繭子は帰りに古時計に寄ろうと思った。
明るい花柄のワンピースに着替えて鏡の前に立つ。少しでもマスターにいい印象を持ってもらえるように、先日デパートで買ったものだった。痩せぎすの体は隠しきれないが、せめて少しでも顔色がよく見えるようにメイクを工夫してみた。
こんなオシャレをしたくなるなんて。繭子は心境の変化に自分でもちょっと驚いていた。でも悪いことではないし、久しぶりに少し気持ちが華やいでいた。
診察の後、最近は安定剤を飲まなくても眠れる日もある、と担当の医師に話した。
「それはよかった。今日は顔色もいいし、最初の頃に比べると体重も少し増えてきましたね。徐々に快方に向かっていると思います。今後さらに心身共に安定してきたら、薬を減らしていきましょう。少しずつでいいんです、頑張りすぎてはダメ、焦らずゆっくり、ゆっくりね。『明けない夜はない』と信じて。私はいつでも坂井さんの味方ですからね」
先生は繭子の気持ちに寄り添いながら優しい口調で言ってくれた。
その言葉に救われた気持ちになり、繭子は笑顔で「はい!」と答えた。
繭子は少し緊張しながら古時計の扉をそっと開けた。
「いらっしゃいませ、繭子さん」
目が合うとマスターがにっこり微笑んだ。心地いい低音の声で、繭子さん、と呼ばれて胸が高鳴った。
先日店に行った時、マスターから名前を尋ねられたのだ。
初代の頃から常連のお客さんを名前で呼ぶようにしているのだそうだ。確かにいつも男性でも女性でも常連さんに下の名前で呼びかけているマスターを目にしている。自分も常連客の仲間入りをさせてもらえたのだととても嬉しく思った。そして繭子が名乗ると、「とても可愛いらしい名前でお似合いです」と言ってくれたのだ。お世辞なのは十分分かっていたし、別に繭子自身を可愛いと言ったわけではないのに、それでも繭子はドキマギしてしまった。
頬をほんのり染めながら「こんにちは」と挨拶をするとまたカウンター席にそっと腰を下ろした。
もうすぐお昼だし、今日はいつもより食欲がある。メニューを見て、ナポリタンとレモングラスのお茶に決めた。
昔ながらの素朴なナポリタンを美味しく食べていると、ドアベルがカランコロンと鳴り、「こんにちは~」と、繭子と同世代の可愛らしい女性が入店してきた。
マスターが「おお~いらっしゃい、美沙絵ちゃん」と嬉しそうに挨拶した。
どうやら常連さんらしい。それに随分2人は親しげな感じだ。女性は繭子のすぐ近くのテーブル席に座った。
「珍しいね、平日の昼間に来てくれるなんて」
「うん、実はね、今日駿さんの学校の創立記念日でお休みなんで私も有休取っちゃったんです」
「ああそうなんだ。それでデートってわけか。いいねぇ~まだ新婚ホヤホヤだもんね」
「エへへッ…。デパートでお買い物してお昼はここで食べようって決めてて。でも途中で駿さんが買い忘れたものがあるのに気づいてね、一緒に戻ろうとしたら私は先に行っててって言われたんです」
「きっと駿君はまた君を一緒に付き合わせると君が疲れちゃうと思ったからだよ。相変わらず優しい旦那さんだね~」
「え~そうなのかな~。まぁ、優しいのはその通りですけど!」
「はいはい、ごちそうさま」
繭子は2人の会話を聞くともなしに聞いていたが、おそらく繭子より2つか3つほど下のこの女性がもう結婚していることに内心驚いていた。
しばらくするとまたドアベルの音がしたので何気なく目をやった瞬間、繭子は口をポカンとさせた。
背の高い超イケメンが颯爽と入ってきたからだ。最近あまりテレビを見ていないのでよく分からないが、もしかして俳優さんかパリコレとかに出てるような一流のモデルさん…?
そして、「お待たせ」と言いながらイケメンさんが美沙絵ちゃんと呼ばれていた女性の向かい側に座った。
えっ、この人が旦那さん…!? 繭子はあっけに取られていた。すごい、一体どこでこんな人と知り合ったんだろう…。
2人は楽しそうに仲睦まじく話をしている。本当に美男美女のお似合いのカップルで、彼らから幸せのオーラが溢れ出ていた。
突然、自分と彼らとの間にはっきりと境界線が引かれているように感じた。
あちらは幸せな勝ち組、その一方で私は……。心の底から寂寥感が沸き上がってきた。いけない、思わず拳をギュッと強く握りしめる。繭子は涙がこぼれそうになるのを必死で抑えていた。
そんな繭子の様子を一平は少し離れたところから訝し気に見ていた。
花柄のワンピースに身を包んだ彼女は以前より少しだけだがふっくらして健康的に見えたし顔色もよく元気そうでよかったと思っていたのだが…。最初はナポリタンを美味しそうに食べてくれていたのに、急に悲痛な表情に変わった。これまでも時折そういう風になるのは分かっていたが今は特に辛そうに見えた。フォークを動かす手が遅くなり時々パタッと止まる。それでも残すのは申し訳ないと思ったのか機械的に口に運んでいるようだった。
一体どうしたんだ? 一平は彼女の心の中を覗きたいと思ってしまった。彼女も何か大きな辛いものを抱えているのか…?
食後のお茶をカウンターに出すと、彼女は「ありがとうございます」と丁寧に受け取った。微笑んでいたが、顔が少し強張っているように見えた。まるで泣くのを我慢しているかのようだった。
彼女の痛ましい気な顔を見ていると、たまらなくなる。
自ら決めたルールを破ってしまうことになるが、もし今度来店してくれたらさりげない感じで聞きだしてみようか…。
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