つきせぬ想い~たとえこの恋が報われなくても~

宮里澄玲

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 どのくらい時間が経っただろうか。
 泣くだけ泣いて、全て吐き出して、繭子はやっと落ち着いた。
 
 そして、いつの間にか自分が温かい胸の中にすっぽり包まれていることに驚愕し、身じろぎした。
 
 「…大丈夫? 落ち着いた…?」 
 「え、あ、はい、あの、すみません、えっと、その…」
 取り乱してアワアワしていると、繭子の背中に回っていた腕がほどかれた。
 一平は立ち上がるとキッチンに行った。そして、保冷剤を包んだタオルを繭子に手渡した。
 「気になるようならそれで目を冷やすといいよ」
 確かに目が熱い。あれだけ泣きはらしたんだ、メイクは全て落ち、ひどい顔をしているに違いない。ちょっと冷やしたくらいでは元に戻らないのは分かっていたが、一平の気遣いが有難く、遠慮なく使わせてもらった。
 
 しばらく黙って繭子を見つめていた一平が口を開いた。
 「…繭子さん、打ち明けてくれてありがとう。辛いことを話させてしまって申し訳なかったね」
 繭子は目に当てていた冷たいタオルを離した。
 「そんな…謝らないで下さい。私、心の底では誰かに聞いてもらいたかったんだと思います…こちらこそありがとうございました。マスターのおかげで全て吐き出せました」
 一平が繭子の両肩をグッと掴んだ。
 「繭子さん、聞いて。まずこれだけは言えるが、繭子さんは何も悪くない、悪いのは全て会社の方だ。だからパワハラに負けた自分が弱かったなんて自分を責める必要なんてこれっぽっちもないんだよ」
 「…っ!」
 「俺も会社勤めをしていたから分かるが、確かに会社というのは利益を追求しなければならないので、人格に多少問題があってもとりあえず仕事で成果を上げてくれて会社に利益をもたらしてくれればいいと考える傾向があるのは事実だ。でもだからと言って仕事ができればパワハラしてもいいなんて理屈はどこにも通らない。君は真面目にきちんと仕事をして営業社員を支えていた。何か問題を起こして会社に大きな不利益を与えた訳でもない。本来なら会社はその派遣の女の方を厳しく注意して指導するか派遣会社にクレームを入れて契約を切らなければいけなかった。それなのに何も対処しなかったどころか、部署の監督責任のある上司まで一緒になって君がボロボロになってしまうまで追い詰めたなんて、絶対に許されないことだ。会社を訴えて損害賠償請求したいくらいだ。もし、繭子さんにその気があるなら協力するよ。パワハラの証拠になるようなメモとか音声データとか残してある?」
 「…い、いえ…そんな記録を残す余裕はありませんでした…」
 一平が唇を噛んだ。
 「そうか…残念だな、悔しいな…」
 そしてもう一度繭子の両肩をギュッと掴むと、
 「でもね、そんな会社、間違いなくいずれ潰れるよ。今はまだ気持ちを整理しきれていないかもしれないけど、辞めてよかったと思える日がきっと来るから」
 一平がキッパリと言い切った。
 繭子は心から自分のことを思って言ってくれている一平に胸を打たれ、今度は感激の涙がブワッと溢れた。
 「…マスター、本当にありがとうございます…私、嬉しいです…そのお気持ちだけでもう十分です。すぐには無理かもしれませんが、会社のことは忘れて新しい人生を模索したいと思っています…」
 一平は繭子の頬に手をやると、親指で涙をそっと拭った。
 「急がなくても焦らなくてもいい…繭子さんのペースで自分を取り戻していけばいい。君は負けた訳でもないし、君の価値が何にも無くなった訳でもない。必ず立ち直れる。俺は商売柄色々な人間を見てきてるからそれなりに分かるが、繭子さんはとても誠実でひたむきで聡明で思慮深く、他人を思いやれる優しい心の持ち主だと思う。ご両親や友達とか、繭子さんを愛してくれている人はたくさんいるはず。今日だって美沙絵ちゃんとすぐに打ち解けて仲良くなったじゃないか。彼女もとてもいい子だし繭子さんと気が合うと思うよ。新しい友達ができたことだし、『明けない夜はない』と信じてこれからの人生を歩んでいこう」
 
 『明けない夜はない』
 前にクリニックでも言われた言葉だ。その通りだ、明けない夜はないんだ…!
 繭子は力強く頷いた。
 「はい。マスターの言葉を胸に、これからマスターに1つでも何かいいご報告ができるように頑張ります」
 一平がニッコリ笑いながら繭子の頭を撫でた。
 「よし、いい顔になった。でも、さっきも言ったが、無理は禁物。繭子さんのペースでね」
 

 時計を見るともう11時になろうとしていた。
 あ、もう出ないと終電に間に合わない!
 「すみません、もうすぐ終電なので失礼いたします。今夜は本当に色々とご迷惑をお掛けいたしました。それと本当にありがとうございました」
 「何言ってるの、こんな時間に女性を1人で帰らせる訳ないでしょう。車で家まで送るから」
 一平は繭子の手を取り家を出て駐車場に向かうと、有無を言わさず繭子を車に乗せた。
 ここまできたらもうお言葉に甘えるしかない。アパートの住所と目印になる建物を伝えた。
 この時初めて一平は繭子が社会人を機に1人暮らしをしていることを知った。実家は隣の県のここから電車で2時間ほどのところにあるという。 
 1人暮らしなら余計に寂しく辛かっただろうな…。でも、実家だって帰ろうと思えば帰れるだろうに…親に頼りたくないのか、何か帰りたくない理由でもあるのか…。
 運転しながら一平は考えていたが、今日はこれ以上聞くのはやめておこうと思った。

 繭子のアパートに着いた。こじんまりとした3階建ての建物だった。 
 「何から何まで本当にありがとうございました。こんな遅くまでお邪魔してしまいまして、わざわざ送っていただきまして、申し訳ございませんでした」
 「いや、俺が遅くまで引き留めたせいだから。こんな時間まで申し訳なかった」
 「いえ、私は大丈夫ですから。マスターの明日の営業に支障がなければいいのですが…」
 「それこそ大丈夫だよ。気にしないで」
 「…分かりました。またお店に行きますね。では、ありがとうございました。おやすみなさい」
 「おやすみ。またいつでも店で待ってるから」
 ドアを開けて出ようとした時、繭子は不意に思い出して、何気なく尋ねた。 
 「あ…私も1つ聞きたいことがあるのですが。リビングに飾ってある写真の女性はどなたですか?」
 
 その瞬間、一平の動きが止まった。
 しばらく黙り込んでいたが、ふっ…と軽く息を吐くと、顔を前に向けたまま繭子に告げた。

 「あれは…3年前に亡くなった俺の妻だよ」


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