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しおりを挟む自宅アパートに戻っても繭子の混乱はまだ続いていた。
マスターとキスをした……いや、された、という方が正しい。でも、どうして? レストランにいる間、何か聞きたそうな顔をしたり言いかけたりしていた気がするが、それと関係するの? 確かにマスターのためにできることがあれば何でもしたかったが、まさかあれがマスターの望みだったの? 私とキスすることが? 繭子にはどうしてもそうは思えなかった。あれは何か黒い感情をぶつけるような感じだった……。
ファーストキスを好きな人とできた喜びはなかった。あんな形でしたくなかった。一平から告白されたわけでもなく、繭子も想いを伝えていない。そもそも一平は亡くなった依子のことをまだ愛しているんじゃないの? 一平の気持ちが分からず、かと言って、あれはどういう意味だったのかと聞く勇気もなく、繭子は重ねられた感触が残る唇をギュッと噛んだ。
一平はリビングのソファに座って項垂れていた。
今なら分かる、あれは完璧に嫉妬からしたことだった。名前しか見ていない見知らぬ男に対する嫉妬心から……。
認めるしかない、俺は繭子さんが好きなんだ。
最初は純粋に彼女が時折見せる痛々しい表情が妙に気になって心配なだけだった。でも、ラベンダーティーを飲んだ彼女が依子と同じような感想を言った時からかもしれない、ただのお客さんから少し違う存在に変わっていったのは……。それでもまだ恋愛感情とまでは言えず、年の離れた妹のような感じだった。過呼吸を起こして店の前で倒れていた彼女が泣きながら事情を打ち明けてくれた時も、ただその辛かった気持ちを全部受け止めてやりたいという思いだけだった。その後、痩せすぎだった体が少しづつ健康的になっていき、笑顔が増え、明るさを取り戻していった彼女に心からよかったと安心した。
繭子と打ち解けていく中で、彼女の律義さ誠実さや人を思いやる優しさなどを知るにつれて、ふわっとした笑顔に癒され、魅かれていったのかもしれない。
体調を崩して熱を出したあの日も、彼女は食べ物や飲み物まで持ってきてわざわざ家まで様子を見に来てくれた。あの時は本当に彼女の思いやりが身に染みた。
そういえば……一平は唐突に思い出した。あの夜、俺は久しぶりに依子の夢を見た。大雨の夜中、病院のベッドでほとんど意識のない痩せ細った青白い顔の依子の骨と皮しかない手を握りながら、頼む…俺を置いて行かないでくれ、俺を1人にしないでくれ、と必死に呼びかけていた。依子は目を閉じたまま何も応じてくれなかったがそれでも声を掛け続けていると、ふわっと柔らかい温もりに手が包み込また。そして、大丈夫です、あなたは1人じゃありません…心配しないでください…依子さんはずっとあなたのそばにいていつでも見守っていますから…大丈夫…大丈夫…、という優しい声が天から降ってきたのだった。俺はその手の温もりに安らぎを得ながらいつの間にか深い眠りについていたのだった。あれは……繭子さんだったんだ! おそらくうなされていた俺を心配してずっと俺を見守りながら朝までそばにいてくれたんだ。
俺はそんな彼女に、自分の気持ちも告げず彼女の気持ちも確かめずいきなりあんな……。あれじゃまるでただ欲望のままに迫ったとしか思われないじゃないか。それに、もし本当に広岡という男と付き合っているなら、たかがキスとは言え、彼女の性格から考えるときっと気に病むに違いない。このことが原因で2人が別れてしまったら、俺は一生恨まれるかもしれないし、嫌われて二度と彼女の笑顔が見られなくなってしまうかもしれない。
とにかく彼女にきちんと謝らなければ。そして、思い切ってあの男との関係を聞いてみよう。2人が恋人同士なら潔く諦めてこれまで通り店主と常連客の関係として彼女たちの幸せを見届けよう。もしそうでなかったら……後悔しないように誠心誠意自分の想いを伝えよう。
どちらにしてもその前に一平にはやらなければいけないことがあった。
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