ポラロイドの夜

壺の蓋政五郎

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ポラロイドの夜 終

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 幸子は十代から男運に恵まれず、二十代前半という若さで生涯の伴侶をその運のなさから諦めていました。しかし子供だけは欲しく、ある決意をしたのです。それは、月のうちでもっとも受精の可能性が高い日に、店に来た客と無防備で接触することでした。バカな男達はそんな幸子の思惑など微塵も感じることなく欲望を果たしたのでした。甘える幸子を気があると勘違いしている男達は、恥も外聞もなくセットされたカメラの前で醜態を晒したのです。そして二十年後その写真は幸子の欲のためにチョイスされたのです。あの晩彼女の餌食となった男は五人でした。その一人が当時建設会社の営業をしていた横山でした。横山は精力的な営業スタイルで大手開発会社から信用を得て、その後ろ盾もあり建設会社を設立しました。それがバブル期と重なり上場企業にのし上げたのです。ほんの数年で莫大な資産を獲得した横山は幸子との関係を唯のサービス嬢と客という関係から愛人関係へと発展させたのでした。金で囲われる所謂『妾』という立場を半年ほど経験しましたが、横山に新たな愛人がいるとの噂を聞くや否や横山との関係を清算するために幸子は恐ろしい行動に出たのです。それは横山と対立する役員達をやはり色仕掛けで落とし、あのポラロイド写真を世間に公表すると圧力をかけたのです。発覚を恐れた横山は幸子との逢引にと購入した高級マンションを放棄したのです。それに味を占めた幸子は他の二人にもポラロイド写真を翳して脅したのでした。写真に写っている私の見知らぬ二人のうち一人は大手銀行の頭取に納まっていました。彼はそのくすんだ一枚の写真ですべてを相殺するという約束が条件であるならと、幸子と密約を交わし、三千万で買ったのでした。しかし幸子は約束を反故にしました。そして愛の生前の写真と、骨壷に収まった変わり果てた二枚を頭取の家族へ送ったのでした。若いときに上司に誘われて、一度だけ果たした欲望が、努力によって築き上げた地位をたった一枚の写真によってもがき苦しみ、結果生命までも絶たなければならなくなってしまったのです。
ぬけぬけと弔問に訪れ、焼香を済ませた幸子は、愛が故人の娘であるがごとく訴え、故人の無責任によって押し付けられたその苦痛は、死によっても解決しないと訴えた。表沙汰になることを恐れた銀行側の説得と、何よりも世間体を重んじた婦人と長男の合意もあり、更に二千万を奪い取ったのです。

「しかしどうして幸子は大金を手にしてもつらい仕事を続けていたんでしょうか」
「そうですよねえ、普通辞めますよねあんな商売。これは私の推測ですがね、幸子の男に対する復讐だったんじゃないでしょうか」
「復讐?男に抱かれることが」
「そう、復讐」

 両親は孤児院出身で、町工場で働く父親と、内職で百円ライターを組み立てている足に障害を持つ母親に、幸子は高校進学などと希望することはできなかった。就職が決まらずに卒業した彼女は、近所の喫茶店の経営者から就職が決まるまでアルバイトしないかと誘われ両親に相談しました。喫茶店とはいえ水商売であり、特に母親は反対しましたが、自宅アパートから近距離であり、就職までの短期間であることを条件に許したのでした。
 幸子のアルバイトによる収入は、母親の内職を大きく上回り、それが家計の足しになることが幸子には満足でした。アルバイトの時間帯は午前から午後に、そして夕刻から深夜へと、より収入条件のいい時間帯へと希望したのでした。当然昼間と夜間では客層も異なります。学生、勤め人、主婦の待ち合わせやお喋りの時間潰しといった本来の喫茶店の役割から外れ、やくざやチンピラ達の悪巧みの場へと変貌するのでした。純粋な幸子は初めて接触する自分達とは違う世界に住む所謂『ワル』に、若い一時期誰もが魅力を感じたように興味を持ち始めたのです。当然サービスもコーヒーからアルコールへと変わります。女体に羽化途中の幸子をからかう不良少年も多くいました。中学を出たばかりの無垢な幸子にその先の恐ろしさを予知するだけの知識や経験などある筈もなく、声をかけられることが大人への門を潜ったと勘違いして、不幸を背負う多くの女の子達と同じように人生の最初の一歩を誤ってしまい、のめり込んでいってしまうのでした。そして喫茶店でアルバイトを始めて半年足らずでひとりの少年に身体を許してしまったのです。少年に将来設計を希望するほうが浅はかで、少年の蕩けるようなやさしさは、幸子の身体を奪うという目標を達成すると同時に溶けてしまい、逆に幸子の存在が邪魔になり、乱暴を繰り返すようになるのでした。暴力を揮われてもひたすらに少年に追い縋りました。そういうことがこの世界では当然なんだと言い聞かせ、耐えて尽くしていればきっと少年の心は再び幸子へと向けられるだろうと信じて疑わなかったからです。しかしそんな甘い予想は最悪な形で崩壊するのでした。弄ばれても受胎はする、三ヵ月になった天使は少年の足蹴によって羽ばたくことを許されなかったのです。そして縋ろうとした両親は、母親の病院帰りに乗車したタクシーが大型トラックに衝突され即死したのでした。天命であるとはいえ、タイミングを見計らったように悪運が幸子を襲ったのです。どん底の彼女の前に現れたのが明美でした。明美は苫小牧から状況して三年がたっていました。美容師になる夢はやはり三ヶ月で都会の誘惑に崩れてしまったのです。スナック勤めをしていた明美は幸子をアパートに居候させ妹のように可愛がりました。翳りのない明美の性格に幸子の鬱も春の雪解けのように流れていくのでした。そして明美の足跡を辿るように風俗譲という売春を糧として生きていくのでした。

「誰でもツキの無い日が続くときがあるものです。しかし彼女のそれは我々とスケールが違う」
「だからって橘さん、復讐するならその少年とかスナックのマスターあたりに止めておかなきゃ、たまたま遊びに行った男に八つ当たりも甚だしいじゃありませんか、横山みたいなクズなら財産奪われたって「ざまーみろ」ってなとこですが、たった一度の性処理だったのにそれをポラロイドでカシャリとやられ自殺にまで追い込んだのは許せるもんじゃありませんよ」
 機関車は千頭駅に到着しました。ホームに降りるとあちこちに雪溜まりがあります。風はありませんが千枚通しのようにするどい冷気が無防備の首から肩口に刺し込んで来ます。私はリュックに結わいたネッカチーフを外し首に巻きつけました。両端をワイシャツの中に入れました。少し強く巻いてしまったのか、それともリュックの中の親子が手を伸ばし、その両端を引っ張っているのでしょうか、喉仏に違和感があります。寸又峡行きのバスに乗り座席に着くといっそう苦しくなり吐き気を伴う咳払いをすると、前の女性が背もたれから斜めの姿勢で私を睨んでいます。私が笑うと彼女はその席を立ち上がり後方へ移動しました。寸又峡に到着する時刻には闇に包まれているでしょう。どこかへ一泊して、夜明け寸前の一番美しい時に散骨してあげればいいのですがそんな時間はないでしょう。
「ところで中村さんそろそろ答えてくれてもいいんじゃないですか?幸子が寸又峡に到着してすぐに宿を変えた理由を」
「ああ、そうでしたね。実はあの女、私をターゲットにしたんですよ。こんな貧乏刑事から、ばかげてますよね。何を私から奪おうとしていたか想像つきますか橘さん?蓄えだっていくらもないし、不動産もない。そんな不甲斐無いチョンガーの私から幸子は何を奪おうと考えていたかわかりますか橘さん?黙ってないで少しは考えてくださいよ。いいでしょう、答えを教えてあげますよ。今の橘さんにはそんな愚問に答える余裕なんてないんでしょうから。結婚ですよ。私に結婚を迫っていたんですよあのポラロイド写真をネタにね。あの女の狙いは私の退職金と共済年金でした。しっかりしてますよねえ。別居していたって紙切れ一枚で夫婦になれる。別れるときは半分持っていくだろうし、物理的に私の方が先に逝っちゃいますかからね。安定した老後を算段していたんでしょうねえ。幾度も電話がありましてね、あまりしつこいから携帯を変えたら署にまで電話してくるんですよ。こんな下っ端でも騒ぎが大きくなれば職場で除け者にされてね、上から静かに去るようと暗黙の指示を出されるんですよ。あと十数年すればやってくる安泰をみすみす逃すわけにはいきませんからねえ、それで会う約束をしていたんですよ、寸又峡のあの吊り橋の上で夜明けと同時にね」
 こともあろうに幸子は中村をターゲットに選んだのでした。彼から老後の安定を奪うつもりだったのです。少女時代に思い知らされた屈辱を、ずっと心の中で増殖させて、ケダモノという男に対する復讐を、あのポラロイドに写った馬鹿な五人に絞ったのでしょうか。
「でもそれは宿を替えた答えになっていません」
「強かだけど用心深い女なんですよ、あの幸子ってのは、じつは私ね、そっと呼び出して口を封じる算段をしていたんですよ。でも悪女の勘ですかね、私の悪知恵なんてお見通しで、想像つくことはしっかりと保険を確保しておくんですよ。あの女二つの宿を予約しておいて、自由に出入りの出来るホテルを私に知らせておいて、あなたが泊まった民宿を偽名で利用していたんです。一晩中ホテルの駐車場で待ち伏せしていたって戻ってくるわけありませんよねえ。感付かれちゃいけないからエンジンを切ってね、寒い車内で一晩中ですよ、おかげで風邪ひいてしまいましたよ」
 もし幸子がホテルに戻っていたら中村刑事に殺されていたかもしれない。そうであればあの日私の一泊二日のトレッキングは予定通りに終了したのでしょうか。帰宅してシャワーも浴びずにパジャマに近いスウェットスーツに着替え、三か月に一度の妻との食事会に出掛けたのでしょうか。お互いが出先から向かうのならまだ多少の新鮮味も沸くでしょうが、自宅から二人して「さあ行こうか」と、まだ愛情の欠片でも残っている夫婦ならともかく、その存在すらが鬱陶しく感じている者同士には、鼻先にぶら下げられた腐肉を我慢するよりつらい仕打ちなのです。あの事件に遭遇したから、家内との食事会を回避することができたと喜ぶのが正論かもしれません。
「しかし奇遇と言うんでしょうか、二十数年前の同日のほぼ同時刻に、橘さんと私が幸子と戯れた。当時の私達には高額な遊興費でしたよね。そして幸子はあなたの子を身籠った。ポラロイドに写った五人の馬鹿な男たちは次々と幸子の罠に嵌り、とうとう私の番になった。職業柄調査するには有利な私には幸子の生い立ちからこの復讐撃の逐一を調べるにはそれほど難しくありません。幸子の誘導に乗るふりをして土壇場でひっくり返してやろうと手ぐすね引いて待っていたんですけどね、凡人が知恵絞っても天性の悪には歯が立たないと思い知らされましたよ」
 幸子があの吊り橋に立っていたのは中村刑事との待ち合わせでした。私が渡らなければ、いやもう五分早く渡っていれば、幸子は死なずにすんだのだろうか、それとも中村刑事に殺されていたのか、今となってはどうでもいいことなのでしょうが。
「驚きましたよ、つり橋から逃げるように走っていく橘さんを見たときは。まさかとは思いました。私が橋の中央まで行くと水面に波が立っていましてね、泡が上がってきたかと思うと手が出てくるじゃありませんか、水面に顔を上げた幸子と一瞬目が会いましたが直に沈んでいきました。高級革のロングブーツに水が入り重くなり元々泳げない幸子には不運でした。しかしコバルトの海中を真っ白いジュゴンが戯れているようでした、きれいでしたよ幸子。橘さんも慌てて逃げないで少し見物していればよかったんですよ。私にとっては手間が省けたというより、自分の手を汚さずに老後の安泰を確保したことになりますからね、こんなラッキーは人生に一度あるかないか、ねえ橘さん」
 終点寸又峡温泉で下車したのは私と親子連れの二組だけでした。満月が暗がりを案内してくれます。こんな時期のこんな時刻に吊り橋を散策するもの好きもいないでしょう。吊り橋まではゆっくり歩いても三十分でたどり着くでしょう。
「中村さん、随分と長い時間お付き合いいただきありがとうございました。こんな長電話をしたのは初めてです」
「橘さんちょっと待ってくださいよ、切らないで。私はね、幸子のことであなたにとやかく言いませんよ、事故であることは私が一番よく知っていますからね。何もかもわかっていながら橘さんを犯人扱いしたことは謝りますよ。楽しかったけどね、あんたのうろたえた態度を見ているだけでも、いや失敬。ただね、明美のことは許せないんですよどうしても。あの女には生きていて欲しかった。人生をまっとうして欲しい女だった」
「彼女には本当に申し訳ない。ところで中村さん、あの弁護士と家内に何か罪を着せることはできないだろうか」
「書類上は合法ですからね、あなたも明美も署名して判子までついたんでしょ、信用して。まだ明美が生きていればなんとかなりましたよ」
「そうですか、そうですね。わかりました」
「ちょっと待ってくださいよ橘さん、あんたどこにいるんだ。悪いこと言わないから自首しなよ、明美の殺害もお互いが快楽を追求するが上のゲームが行き過ぎてしまったことにすりゃ死刑は免れる。私も出来る限りの応援はさせてもらうよ。明美に罪を償う気があるならそれが最善じゃないかな。それに出所すりゃあんたの女房や同級生の弁護士先生にだって復讐もできる。出所する頃はおじいちゃんになってしまうだろうがそれだって包丁ぐらいは持てるでしょ」
「アドバイスありがとう。それじゃこの辺で。大事な約束が二つあるんですよ、ひとつは散骨、もうひとつは明美のところに行って謝罪することです。吊り橋が見えてきました、真上に満月が、ああきれいだ」
「吊り橋って橘さんあんたまさか」
 私は電話を切りました。リュックから粉になった幸子と愛を取り出しました。吊り橋の袂で重石になる石を拾い、リュックに入れました。苦しんでチャックを下すといけないのでチャックのスライダーを捥ぎ取りました。苦しくなって浮き上がり助けられてしまってはそれこそ生き地獄が待っています。重石は確実に死ぬための保険です。リュックを背負いズボンのベルトで両側の肩掛けをしっかりと結びました。そしてあの時と同じこちら側の袂に立ちました。ゆっくりと中央まで進みました。携帯電話の呼び出しが黄緑色に点滅しています。中村刑事でしょう。ピッケルの携帯ストラップに幸子が首に巻いていたパープルのネッカチーフを通して吊り橋の手摺ワイヤーに結わき付けました。そして遺言通り幸子と愛の散骨です。二人が入ったレジ袋を右手で掲げ、その下部に中指で穴を開けました。しゅるしゅると零れ落ちる二人を突風が巻き上げました。舞い上がり湖面に着水するまでが不幸な親子の最後の遊園地です。私は手摺から身を乗り出すとそのまま湖水へ吸い込まれました。不思議なくらい恐怖心はありませんでした。うつ伏せになりました。上から見ると透き通る湖底は、やはり水の中から見ても透き通っていました。また仰向けに返りました。満月が揺れています。眠くなりました。瞼を閉じる一瞬はあのポラロイドの夜でした。

了  
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