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輪廻Ⅱ『鳩胸』
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横浜の川縁にソープランドがある。慣れているとはいえ、裏口から入る時は辺りを窺う。正面から勤め人が歩いて来る時は一旦裏口を通り過ぎて戻って入る。最ベテランの最上恵子はこのソープランドに15年勤めている。それでも世間体に後ろめたさはある。47歳には見えない様にケアをしているが肌そのものが若い時のように張りがない。
「おはようございます」
「恵子さん、おはよう。早速だけどいいかな。若い子」
「いいわよ」
さっと着替えて待合室で待っている若い男に声を掛けた。
「お兄さん、いらっしゃい」
笑顔で呼んだが若い男はきょろきょろしている。もしかして自分だったら不運だと思った。
「お兄さん、お兄さんよ、もう、可愛い顔して」
若い男は仕方なく立ち上がった。
「ほらおいで、お兄さんは出身はどこなの?色白いから東北かしら?」
若い男は下を向いて返事をしない。
「お兄さん、こったらとこ初めてだべ。ねっ、そうだべ」
恵子の訛に反応した。
「失礼ですけど北海道の方ですか?」
「よく分かったね、私なまら標準語のつもりだったんだけど」
「いやすぐに分かりました。僕は帯広の出身で菅原義明と申します。小学生の時に東京に越して来て訛が消えましたけど、お姉さんの言葉聞いて想い出しました」
「あら、近いわね、あたしは白糠町。奇遇だね」
ベッドに腰掛けて故郷の話で盛り上がった。
「さあ、時間がいたましいからサービスするべか。でも故郷近いとなんか恥ずかしいね」
素性を知ると情が湧く。ましてや生まれ故郷が近いとなおさらである。
「僕、初めてなんです」
義明は打ち明けて顔を赤くした。
「義明君幾つ?」
「21です」
「恥ずかしくなんてないわよ。あたし30歳で童貞の人と会ったよ」
「本当ですか?」
「義明君に嘘ついてもしょうがないしょ。本当よ」
義明は恵子の嘘に安心した。
「脱がせてあげるから立って」
義明が立ち上がる。
「ベルト外して、はい、ズボン脱いで、序に靴下も脱いじゃうべ」
義明の股間はパンツを持ち上げている。
「お風呂の前に一回抜いて上げるべか」
義明が頷いた。恵子は器用に口でスキンを被せる。二擦り半で爆発した。
「さあ、お風呂入るべ」
恵子もタオル地のユニフォームを脱いだ。
「あたし鳩胸でね、中学の頃『鳩胸さん、鳩真似して』ってよく同級生からからかわれたの、したから体育の授業嫌いでずっと仮病で休んでたのよ。どう?おかしいでしょ?」
「きれいです」
義明は舞いがっていた。恵子は義明の身体を隅々まで丁寧に洗う。男の性感帯を知り尽くした恵子の指運びは初体験の義明にはたまらない刺激だった。
「ここでやる?」
恵子がバスマットに仰向けに寝た。
「あたしの上に乗って」
言われるままに義明が動く。義明は自分で挿し込むことが出来ない。恵子が指で握り導いた。
「いいのよ、そこで挿すのよ」
初体験でしか感じることの出来ない快感を味わう。義明は挿したまま果てた。恵子が秘部を洗う。
「お姉さんもまだ上がってないからね、万が一ってことがあるから気を付けないとね」
義明には意味が分からない。ベッドに入り三回立て続けにやった。そのうち一回は恵子も本気だった。
「時間の延長って出来ますか?」
義明が訊いた。
「あたしはいいけど、もっと若い子と遊んだ方がいいんでないの」
「いえ、あなたが好きになりました」
恋愛経験がなく、初体験でテクニックのある女に入れ込んでしまう若者がいる。義明もその類と笑った。しかし義明はその後も金が続く限り恵子を指名した。恵子が異変に気付いたのは義明が初めて店を訪れてから4週間後であった。危ないと感じていたがまさかの油断だった。恵子は義明に伝えずに堕胎をしようと考えていた。どうせ義明の恵子に対する思いは一時的ものであると分かっていたが、もしかしたら本当に愛してくれているのかもしれないと齢から来る弱気が迷わすのである。一応確認してからでも遅くない。義明が駄目と言えばそれが本望で、もし、育てようなんて言われたらどうしようと年甲斐もなく微笑んでしまう。妊娠は初めてじゃない、三回目である。恋した男と一回、客と一回、そして義明である。年齢からして最後のチャンスでもある。恵子は義明と別れてもこの子を育てようと前向きになっていた。
「おえっ」
恵子は義明の前で大袈裟につわりを見せ付けた。
「大丈夫恵子、悪い物でも食べた?」
義明には恵子の妊娠とまで想像が膨らまない。
「明日、産婦人科に行って来る」
「まさか、妊娠、赤ちゃん、僕達の?」
恵子が頷いた。義明は飛び上がって喜んだ。恵子の予想をはるかに超えた義明の愛を感じた。
「このまま産んでもいいの?」
「当り前じゃないか、大事にしてよ。そうだ、お店は辞めよう。僕の働きで暮らそう、安月給だけど何とかなるさ」
「義明」
「恵子」
二人は抱き合って愛を確認した。
恵子の腹は西瓜を隠したように膨らんでいた。臨月である。
「今日は遅くなるかもしれない。子供のために働かないと」
恵子には分かっていた。女の勘である。若い義明が性欲を我慢することは難しと恵子も理解している。
「お前の名前は何にしようかな、男なら義明の一字を取って義男がいいかな。女の子ならやっぱり義明の一字を取って義美がいいかな」
恵子は腹に手を当て話し掛けていた。
「三度目の正直だよ。二人のお兄ちゃんかお姉ちゃんの分までお前は大きくなるんだよ」
母子でなければ分からない通じ合いが感じられる。
「お待たせ」
義明はレストランを予約していた。
「遅い。もう先に飲んじゃおうかと思った」
待っていたのは会社の上司で坂口明子26歳である。二人は三か月前から交際が始まり濃密な関係になっていた。
「先週、義明を見たよ、きれいなおばさんと一緒に歩いていたでしょ、誰なの?」
「ああ、お母さんだよ」
「ええっ、お母さん、お腹大きくない?」
「ああ、新しい旦那さんとの間に僕の弟が生まれるんだ」
義明は誤魔化した。関係を面倒にしたくない。恵子が打ち明けた時は舞い上がってしまったが、冷静に考えれば認知しない方が正解だったと悔いている。
「今度お母さん紹介して、挨拶したいから」
「ああ、でも難しい人だから」
「構わない、義明と交際していることを知っていて欲しいの。そうすれば安心でしょ」
明子に押し切られる形で日取りがまとまった。
「お帰りなさい。ご飯は?」
「食べて来た。恵子は食べた?」
「ええ、いただきました」
「実はさあ、恵子にお願いがあるんだ、これ一生のお願いだから助けて欲しい。収入にも影響があるんだ」
始まった。嘘の下手な男が嘘を吐くとき饒舌になる。やはり親子ほどの齢の差を考えずに夢みたいな理想を膨らませたのがいけなかった。しかし臨月である、どうすることも出来ない。今この男に捨てられたらどうなるだろう。我慢してでも嘘を信じた振りをすることで乗り切るしかない。
「なあに?あたしには義明しかいないから、出来ることは何でもするわ」
「ありがとう、実は部長の娘さんが僕のことを好いてくれて、付き合いを申し込まれているんだ。当然断るけど、今は僕にとっても大事な時期だから適当にあしらって娘さんの方から断るように仕組みたいんだ。いい?」
聞くに堪えない嘘ほど胸が詰まることはない。
「ええ、いいわよ。ねえ義明、戸籍を入れないとこの子が可哀そうだから、生まれる前に婚姻届けを出しましょう。その人には黙っていれば分からないでしょ」
「ああ、分かった。折を見て僕が届けて来る。それともうひとつ、恵子のことをお母さんと伝えてあるんだ。僕が言ったわけじゃなくて彼女が偶然見掛けてお母さんでしょと言うから頷いておいた。それも口裏合わせて置いてくれる」
恵子にとってこんな辛い試練はない。齢の差はあるが恋人同士、そして夫婦になる男女、その男から親に化けてくれと懇願された。
「うん」
うん、以外の言葉は出せなかった。出せば涙が湧いて来る。恵子は腹を擦りお腹の子に助けを求めるのであった。
「さあ、上がって」
義明の鼓動は高まっている。恵子が上手く演技をしてくれるだろうか。
「何かドキドキする」
明子は玄関で深呼吸を繰り返した。
「母さんはすぐに出掛けるらしいから挨拶だけでいいよ」
義明は先に居間兼用のダイニングキッチンに進み椅子に座る恵子にウインクをした。
「母さん、この人が明子さん。明子さん、うちの母です」
義明が二人を紹介した。
「母さん悪いね約束の時間があるのに待たせちゃって」
義明が追い出しに掛かった。
「お母さん、義明君と結婚を前提にお付き合いしています。きっと二人で幸せを掴みます。お母さんも、新たな恋をしていると聞きました。その結晶が羨ましいです」
義明がこの女にも嘘を吐いているのが恐かった。自分が邪魔でしかない存在に見えて来た。
「それじゃ約束があるので、ごゆっくりと」
行く当てなど無い恵子はコートを羽織って家を出た。
「きれいなお母さんね、義明の奥さんと言ってもおかしくない」
恵子を送り出した明子が言った。
恵子は近くのパン屋でクリームパンとオレンジジュースを買って公園のベンチに腰を下ろした。自宅アパートの階段が遠くに見える。あの女が帰ればすぐに戻ろうと二時間が過ぎた。ベンチの陽は陰り、膝から下が冷えて来た。お腹が痛い、これが陣痛なのか初めての経験である。足元に二羽の鳩が寄って来た。大きな一羽が小さな一羽を虐めているように見える。
「虐めないの、ほっぽー。私も鳩胸よ。仲良くしてね、ほっぽー」
聞こえたのかどうか首をぎごちなく傾けた。
『神様、助けてください。私はいいです。この子が無事に生まれて、すくすくと育って人にやさしい子にしてあげてください。それと義明がこの子を捨てないで成人するまで面倒看てくれるようお願いします。神様、この通りです』
沈んだ夕日の赤く残る空に手を合わせた。
「奥さん、奥さん」
呼ぶが返事がない。
「まずいな、少し戻すか」
金原は恵子の額に掌を当てた。指が脳に沈む。小指の先を寿命の最後に絡めて少しだけ巻き戻した。恵子の意識が戻った。金原は恵子の腹に手を当てていた。
「何をするんですか?」
恵子は見知らぬ男の頬を張った。バチーンといい音が公園のカラスを驚かした。
「失礼、あなたが気を失っていたから気付けをしたまでなんです。お腹の子に影響がないか確認していた」
赤く腫れた頬を撫ぜながら言った。
「あなたはお医者さんですか?」
「医者じゃない。こういう者です」
名刺を出した。
「あなたがお腹の子のことを心配して神に祈りを捧げた。その祈りは誠実で心底からのお願いと受け取って私が参上致しました」
「仙人、金原武?」
「ええ、そうです、神の下働きと考えてくれればいいですよ。それより医者に行きましょう。もう生まれそうだ」
陣痛が始まった。金原は渋茶色のハンチングを脱いで頭を掻いた。大きなフケが舞い上がる。空の切れ目から癪が飛んで来た。
「癪、行こう」
金原は恵子を抱いて癪に跨った。癪が産婦人科の車寄せに降りた。タクシーの運転手が目を見張っている。
「すいません。急患です」
ナースが対応してすぐに病室に運ばれた。10分もしないうちに赤子の泣き声が轟いた。待合室の妊婦と付き添いが割れんばかりの拍手を金原に送る。真実を伝える方が難しいと諦めて「どうも、どうも」と頭を下げた。
「最上さんのご主人ですね、立派な男の子です。おめでとうございます。先生がお呼びです」
金原は仕方なく病室に入った。恵子は人間の祖先は猿だと証明したような赤子を抱いて微笑んでいる。
「最上さんの旦那さんでいいのかな」
医師から問われた。恵子が目で『お願い、そうしといて』と言っている。
「ええ、まあ」
「まあって?」
「旦那です」
「恵子さん高齢出産ですけど丈夫な子が生まれましたよ。旦那さんの精子が元気な証拠です。早く入籍された方がいい。遅れると色々と面倒になりますよ」
「分かりました」
「5日ばかり様子を見て退院しましょう」
医師の説明を聞いて病室に移動した。
「すいませんでした」
恵子が謝った。
「いいえ、どうせ序ですから」
すこし不貞腐れている。
「旦那さんに連絡しましょう、私が行って来ます」
「待って、待ってください。どうせどこが家かもわからないでしょう」
「いいえ、あなたの脳に触れた時に記憶や寿命は全て私も共有しています。義明さんでしょ、まだ若い」
恵子は驚いた。そんなことは話していない。
「義明をご存知なんですか?」
「まあ、大体のとこは読ませていただきました」
恵子は信じられないでいる。
「あなたは公園のベンチで神に祈った。生まれた子がやさしく育つことを。それが私に通じたんです。あの祈りがなければあのベンチでお腹の子と一緒に危ないところでした」
恵子はつくづく不思議な男だと感じた。公園でお腹を触っていたから痴漢だと勘違いしてビンタを喰らわしたが助けてくれたようだ、それも生まれた子と共に。
「本当にあたしの祈りが通じたんですか?」
「はい、神はエンゼルに弱い。お腹の子が生まれなければエンゼルとして神の使いになります。でも助かった、人間として生涯を送ることになりました。それがいいのか悪いのかは母次第」
「相談に乗ってくれますか?」
恵子は金原に託してみようと思った。
「どうぞ、あなたの担当仙人金原武ですから、なんなりと」
金原が笑うと恵子も笑った。
ドアをノックすると義明が顔を出した。ハイヒールが倒れている。
「どちらさんですか?」
「奥さんの知り合いです」
義明は金原を廊下に追いやった。
「まずいんですけど今は」
義明は小声で言った。
「奥さんが立派な男の子を出産しました。母子共に健康です」
「生まれたんだ?」
義明に歓喜の表情はない。むしろ後悔の念が強い。
「そりゃ生れますよ、臨月でしたから。早く迎えに行ってあげなさい」
「今はまずいんですよ。客を送って今夜は遅くなるから明日会社の帰りに迎えに行くと伝えてください」
あの年増はこの青年と果たして苦楽を共にして生きていけるだろうか、金原は要らぬ心配をしてしまった。
「余計なお世話かもしれないが、別れるなら早い方がいい。彼女の立ち直りもそれだけ早くなる」
ドアが開いて明子が顔を出した。
「どうしたの義明?」
「いや何でもない。母の知り合いの人が母に会いに来たんだけ留守だと伝えていたところ」
自分の子を産んだ女を母と嘘を吐いている。金原は目の前の情けない青年に腹が立った。
「もしかしてお母さんの旦那さんですか?」
明子は金原に問い掛けた。
「ええそうです、生まれたんですよ男の子が、それで息子に知らせに来たんですがあまり喜んでもらえなくて困ってしまいました」
金原は乗り掛けた船ととことん付き合うことにした。
「どうして義明、そりゃお母さんが他の人と恋に落ちてお子さんまで産むのは実の息子としては複雑な気持ちになるのも分かるわ。でもお母さんはもう義明から離れた一人の女性よ。それを忘れないで」
「素晴らしい、あなたの言葉に感動しました。どうです、病院までお祝いに来てくれませんか、喜びますよ」
金原が明子を誘った。義明が止める。
「行こう義明、この機会を逃したら後悔すると思う。次は私達の番じゃない、お母さんを祝ってやろうよ」
三人は病院に直行した。金原に続いて病室に入る。恵子は胸が高まっていた。義明が我が子を見てどういうリアクションを取るか恐かった。
「まあ、かわいい」
最初に声を掛けたのは明子だった。事実を知らぬから素直に表現出来る。
「母さんによく似ているね」
義明の第一声である。恵子は頷いた。
「目元はお父さん似だ」
金原が義明を見て言った。
「母さん、退院はいつ?」
「四日後です」
籍はまだ入れていないが近く正式な夫婦となる男から母さんと呼び掛けられると悲しくて涙が溢れた。
「母さん、そんなに泣かないで、高齢出産で頑張ったんだから」
恵子の涙を親指で拭った。
「嬉しいのよ、ねえお母さん。きっと強い子に育つわ。お母さんガンバ」
明子にエールを送られると複雑だった。
「それじゃ行こうか明子、母さん退院日は迎えに来るからね」
義明は明子を連れ立って帰った。
「これでいいの?」
金原が恵子に訊いた。
「どうにもならないでしょ」
人生相談には乗らないことにしている。
「わたし、この子を置いて消えようかしら。わたしがいなければこの子は義明が育ててくれるとも思う」
「消えるってどこに?」
「北海道がいいわ、すすきのでマッサージでもやるわ。知り合いがいるの。ソープランドを辞めたらいつでもおいでって先輩がいて。相手がおじいちゃんになるけれどやることは大して変わらないし私には天職のような気がするの。それに義明も北海道だからいつかはこの子を連れて里帰りするだろうから。会えなくても近くにいればと思うと勇気も出るわ」
言いながら涙を溢した。
「彼が育ててくれればいいけど、先のことは分からないよ」
「その時はお願いだから知らせて、あなたを神様の使いと信じているわ」
「分かった。いつ旅立つの北海道に?」
「明日退院時にそのまま行く。その方が未練が残らない」
「送ってあげよう」
そして退院当日、病室を出ると金原が待っていた。
「やっぱり義明は来なかったね」
もし義明が迎えに来てくれたなら考えを変えるつもりもあった。
「さあ、これで未練は残らない。あの子の行く末は定期的に知らせて上げる。この名刺の裏表を親指と人差し指でこすり合わせると私に通じる。遊び心は駄目だよ、通じないよ」
「ありがとう」
金原がハンチングを脱いで頭を掻く。大きなフケが舞い上がると雲の切れ間から癪が飛んで来た。恵子は驚いて目を丸くしている。
「こいつで札幌までひとっ飛び」
「二度と嫌だ」と嫌がる恵子を抱き上げて癪の背中に乗せた。
「耳に摑まるといい。癪頼む」
癪が飛び立った。
「恵子さん、お客さん。お馴染みさん」
恵子が札幌に来てから12年が経っていた。来年還暦を迎えるが齢より若く見える恵子は食うに困らないだけの収入を得ていた。
「恵子さんは若いねえ、なまら還暦には見えない」
「まだ還暦でないよ。一年ありますよ」
持ち前の明るさも人気を後押ししていた。サービス中に頭痛がした。
「あたし上せたかもしれない。お客さん悪いけど今度にしてお金要らないから」
恵子はタクシーを呼んでアパートに帰宅した。経験したことのない痛みにもしかしたらと不安が過った。死ぬのはいい、でも一目あの子を見たい。財布に入れてる金原の名刺を出した。どうせおまじないだろうと信じていなかったが苦しい時の神頼みである。名刺を挟んで擦り合わせた。『神様、これが最後のお願いです。一目でいいからあの子に合わせてください。遠くからでもいいんです。お願いします。この通りです』
手を合わせ目を開けるといつぞやの男が座っていた。
「呼びましたね。ここに来る途中あなたの子に会ってきました。今年から中学生ですよ。金ぴかのボタンが眩しい」
「あなたはやっぱり神様の使いなのね」
「ええ、だからあの時もそう言ったじゃありませんか」
「お願い、あの子に会えるかしら、わたしはもう歩けない」
「あの子はあれからあの二人に育てられています。妹も出来て仲睦ましく暮らしている。彼女が理解ある女性で結果よかった」
「そうですか、会いたい、一目でいい。わたしは後どれくらい生きられるでしょうか」
「失礼します」
恵子の額に右手人差し指の腹を当てた。天中から山根まで読み取る。
「今からでも病院に行って手術すれば後遺症は残るが命は繋がるでしょう」
「歩けるんですか?」
金原が首を横に振った。
「動けなくなり、他所の人の世話になって生きるほど徳がありません。一目あの子を見てこのままお迎えを待ちます」
恵子の涙は決意表明である。
「あなたは死後の希望はありますか?」
「そんな夢が叶うんですか?」
「これこそ私の得意じゃありませんか」
「私は鳩胸です。鳩が近くに来ると親近感が湧きます。鳩になってあの子の傍にいてやりたい」
「いいアイデアですね、でも鳩は寿命が短いですよ。それに転生前のことはほとんど忘れています。稀に通じる時がありますが一瞬でしょう。それでもいいですか?」
「一瞬でも通じればそんな嬉しいことはありません」
「分かりました。あの子ことだけを想って目を瞑ってください。金原は掌の生命線を額に当て掌を頭に被せた。指が裂けるほどに広げると脳に沈んで行く。寿命の末端に恵子の願いを繋いだ。そして転生した命を小指に絡んで息を吹きかけた。
入学式の朝だった。
「やっぱり北海道の春は寒いわね」
明子が小学生の長女の弁当を詰めている。
「桜が咲くのはゴールデンウイークだからね、一か月以上遅いんだ」
義明が車のエンジンを掛けに外に出た。
「どうしたんた恵一」
「鳩が来てじっと僕を見てるんだ」
義明は鳩胸だった恵子を想い出した。恵子の血を引いた恵一も鳩胸だった。
「鳩さん、僕も鳩胸だよ、ホッポー、おいでよホッポー」
鳩の目から涙が落ちた。
了
「おはようございます」
「恵子さん、おはよう。早速だけどいいかな。若い子」
「いいわよ」
さっと着替えて待合室で待っている若い男に声を掛けた。
「お兄さん、いらっしゃい」
笑顔で呼んだが若い男はきょろきょろしている。もしかして自分だったら不運だと思った。
「お兄さん、お兄さんよ、もう、可愛い顔して」
若い男は仕方なく立ち上がった。
「ほらおいで、お兄さんは出身はどこなの?色白いから東北かしら?」
若い男は下を向いて返事をしない。
「お兄さん、こったらとこ初めてだべ。ねっ、そうだべ」
恵子の訛に反応した。
「失礼ですけど北海道の方ですか?」
「よく分かったね、私なまら標準語のつもりだったんだけど」
「いやすぐに分かりました。僕は帯広の出身で菅原義明と申します。小学生の時に東京に越して来て訛が消えましたけど、お姉さんの言葉聞いて想い出しました」
「あら、近いわね、あたしは白糠町。奇遇だね」
ベッドに腰掛けて故郷の話で盛り上がった。
「さあ、時間がいたましいからサービスするべか。でも故郷近いとなんか恥ずかしいね」
素性を知ると情が湧く。ましてや生まれ故郷が近いとなおさらである。
「僕、初めてなんです」
義明は打ち明けて顔を赤くした。
「義明君幾つ?」
「21です」
「恥ずかしくなんてないわよ。あたし30歳で童貞の人と会ったよ」
「本当ですか?」
「義明君に嘘ついてもしょうがないしょ。本当よ」
義明は恵子の嘘に安心した。
「脱がせてあげるから立って」
義明が立ち上がる。
「ベルト外して、はい、ズボン脱いで、序に靴下も脱いじゃうべ」
義明の股間はパンツを持ち上げている。
「お風呂の前に一回抜いて上げるべか」
義明が頷いた。恵子は器用に口でスキンを被せる。二擦り半で爆発した。
「さあ、お風呂入るべ」
恵子もタオル地のユニフォームを脱いだ。
「あたし鳩胸でね、中学の頃『鳩胸さん、鳩真似して』ってよく同級生からからかわれたの、したから体育の授業嫌いでずっと仮病で休んでたのよ。どう?おかしいでしょ?」
「きれいです」
義明は舞いがっていた。恵子は義明の身体を隅々まで丁寧に洗う。男の性感帯を知り尽くした恵子の指運びは初体験の義明にはたまらない刺激だった。
「ここでやる?」
恵子がバスマットに仰向けに寝た。
「あたしの上に乗って」
言われるままに義明が動く。義明は自分で挿し込むことが出来ない。恵子が指で握り導いた。
「いいのよ、そこで挿すのよ」
初体験でしか感じることの出来ない快感を味わう。義明は挿したまま果てた。恵子が秘部を洗う。
「お姉さんもまだ上がってないからね、万が一ってことがあるから気を付けないとね」
義明には意味が分からない。ベッドに入り三回立て続けにやった。そのうち一回は恵子も本気だった。
「時間の延長って出来ますか?」
義明が訊いた。
「あたしはいいけど、もっと若い子と遊んだ方がいいんでないの」
「いえ、あなたが好きになりました」
恋愛経験がなく、初体験でテクニックのある女に入れ込んでしまう若者がいる。義明もその類と笑った。しかし義明はその後も金が続く限り恵子を指名した。恵子が異変に気付いたのは義明が初めて店を訪れてから4週間後であった。危ないと感じていたがまさかの油断だった。恵子は義明に伝えずに堕胎をしようと考えていた。どうせ義明の恵子に対する思いは一時的ものであると分かっていたが、もしかしたら本当に愛してくれているのかもしれないと齢から来る弱気が迷わすのである。一応確認してからでも遅くない。義明が駄目と言えばそれが本望で、もし、育てようなんて言われたらどうしようと年甲斐もなく微笑んでしまう。妊娠は初めてじゃない、三回目である。恋した男と一回、客と一回、そして義明である。年齢からして最後のチャンスでもある。恵子は義明と別れてもこの子を育てようと前向きになっていた。
「おえっ」
恵子は義明の前で大袈裟につわりを見せ付けた。
「大丈夫恵子、悪い物でも食べた?」
義明には恵子の妊娠とまで想像が膨らまない。
「明日、産婦人科に行って来る」
「まさか、妊娠、赤ちゃん、僕達の?」
恵子が頷いた。義明は飛び上がって喜んだ。恵子の予想をはるかに超えた義明の愛を感じた。
「このまま産んでもいいの?」
「当り前じゃないか、大事にしてよ。そうだ、お店は辞めよう。僕の働きで暮らそう、安月給だけど何とかなるさ」
「義明」
「恵子」
二人は抱き合って愛を確認した。
恵子の腹は西瓜を隠したように膨らんでいた。臨月である。
「今日は遅くなるかもしれない。子供のために働かないと」
恵子には分かっていた。女の勘である。若い義明が性欲を我慢することは難しと恵子も理解している。
「お前の名前は何にしようかな、男なら義明の一字を取って義男がいいかな。女の子ならやっぱり義明の一字を取って義美がいいかな」
恵子は腹に手を当て話し掛けていた。
「三度目の正直だよ。二人のお兄ちゃんかお姉ちゃんの分までお前は大きくなるんだよ」
母子でなければ分からない通じ合いが感じられる。
「お待たせ」
義明はレストランを予約していた。
「遅い。もう先に飲んじゃおうかと思った」
待っていたのは会社の上司で坂口明子26歳である。二人は三か月前から交際が始まり濃密な関係になっていた。
「先週、義明を見たよ、きれいなおばさんと一緒に歩いていたでしょ、誰なの?」
「ああ、お母さんだよ」
「ええっ、お母さん、お腹大きくない?」
「ああ、新しい旦那さんとの間に僕の弟が生まれるんだ」
義明は誤魔化した。関係を面倒にしたくない。恵子が打ち明けた時は舞い上がってしまったが、冷静に考えれば認知しない方が正解だったと悔いている。
「今度お母さん紹介して、挨拶したいから」
「ああ、でも難しい人だから」
「構わない、義明と交際していることを知っていて欲しいの。そうすれば安心でしょ」
明子に押し切られる形で日取りがまとまった。
「お帰りなさい。ご飯は?」
「食べて来た。恵子は食べた?」
「ええ、いただきました」
「実はさあ、恵子にお願いがあるんだ、これ一生のお願いだから助けて欲しい。収入にも影響があるんだ」
始まった。嘘の下手な男が嘘を吐くとき饒舌になる。やはり親子ほどの齢の差を考えずに夢みたいな理想を膨らませたのがいけなかった。しかし臨月である、どうすることも出来ない。今この男に捨てられたらどうなるだろう。我慢してでも嘘を信じた振りをすることで乗り切るしかない。
「なあに?あたしには義明しかいないから、出来ることは何でもするわ」
「ありがとう、実は部長の娘さんが僕のことを好いてくれて、付き合いを申し込まれているんだ。当然断るけど、今は僕にとっても大事な時期だから適当にあしらって娘さんの方から断るように仕組みたいんだ。いい?」
聞くに堪えない嘘ほど胸が詰まることはない。
「ええ、いいわよ。ねえ義明、戸籍を入れないとこの子が可哀そうだから、生まれる前に婚姻届けを出しましょう。その人には黙っていれば分からないでしょ」
「ああ、分かった。折を見て僕が届けて来る。それともうひとつ、恵子のことをお母さんと伝えてあるんだ。僕が言ったわけじゃなくて彼女が偶然見掛けてお母さんでしょと言うから頷いておいた。それも口裏合わせて置いてくれる」
恵子にとってこんな辛い試練はない。齢の差はあるが恋人同士、そして夫婦になる男女、その男から親に化けてくれと懇願された。
「うん」
うん、以外の言葉は出せなかった。出せば涙が湧いて来る。恵子は腹を擦りお腹の子に助けを求めるのであった。
「さあ、上がって」
義明の鼓動は高まっている。恵子が上手く演技をしてくれるだろうか。
「何かドキドキする」
明子は玄関で深呼吸を繰り返した。
「母さんはすぐに出掛けるらしいから挨拶だけでいいよ」
義明は先に居間兼用のダイニングキッチンに進み椅子に座る恵子にウインクをした。
「母さん、この人が明子さん。明子さん、うちの母です」
義明が二人を紹介した。
「母さん悪いね約束の時間があるのに待たせちゃって」
義明が追い出しに掛かった。
「お母さん、義明君と結婚を前提にお付き合いしています。きっと二人で幸せを掴みます。お母さんも、新たな恋をしていると聞きました。その結晶が羨ましいです」
義明がこの女にも嘘を吐いているのが恐かった。自分が邪魔でしかない存在に見えて来た。
「それじゃ約束があるので、ごゆっくりと」
行く当てなど無い恵子はコートを羽織って家を出た。
「きれいなお母さんね、義明の奥さんと言ってもおかしくない」
恵子を送り出した明子が言った。
恵子は近くのパン屋でクリームパンとオレンジジュースを買って公園のベンチに腰を下ろした。自宅アパートの階段が遠くに見える。あの女が帰ればすぐに戻ろうと二時間が過ぎた。ベンチの陽は陰り、膝から下が冷えて来た。お腹が痛い、これが陣痛なのか初めての経験である。足元に二羽の鳩が寄って来た。大きな一羽が小さな一羽を虐めているように見える。
「虐めないの、ほっぽー。私も鳩胸よ。仲良くしてね、ほっぽー」
聞こえたのかどうか首をぎごちなく傾けた。
『神様、助けてください。私はいいです。この子が無事に生まれて、すくすくと育って人にやさしい子にしてあげてください。それと義明がこの子を捨てないで成人するまで面倒看てくれるようお願いします。神様、この通りです』
沈んだ夕日の赤く残る空に手を合わせた。
「奥さん、奥さん」
呼ぶが返事がない。
「まずいな、少し戻すか」
金原は恵子の額に掌を当てた。指が脳に沈む。小指の先を寿命の最後に絡めて少しだけ巻き戻した。恵子の意識が戻った。金原は恵子の腹に手を当てていた。
「何をするんですか?」
恵子は見知らぬ男の頬を張った。バチーンといい音が公園のカラスを驚かした。
「失礼、あなたが気を失っていたから気付けをしたまでなんです。お腹の子に影響がないか確認していた」
赤く腫れた頬を撫ぜながら言った。
「あなたはお医者さんですか?」
「医者じゃない。こういう者です」
名刺を出した。
「あなたがお腹の子のことを心配して神に祈りを捧げた。その祈りは誠実で心底からのお願いと受け取って私が参上致しました」
「仙人、金原武?」
「ええ、そうです、神の下働きと考えてくれればいいですよ。それより医者に行きましょう。もう生まれそうだ」
陣痛が始まった。金原は渋茶色のハンチングを脱いで頭を掻いた。大きなフケが舞い上がる。空の切れ目から癪が飛んで来た。
「癪、行こう」
金原は恵子を抱いて癪に跨った。癪が産婦人科の車寄せに降りた。タクシーの運転手が目を見張っている。
「すいません。急患です」
ナースが対応してすぐに病室に運ばれた。10分もしないうちに赤子の泣き声が轟いた。待合室の妊婦と付き添いが割れんばかりの拍手を金原に送る。真実を伝える方が難しいと諦めて「どうも、どうも」と頭を下げた。
「最上さんのご主人ですね、立派な男の子です。おめでとうございます。先生がお呼びです」
金原は仕方なく病室に入った。恵子は人間の祖先は猿だと証明したような赤子を抱いて微笑んでいる。
「最上さんの旦那さんでいいのかな」
医師から問われた。恵子が目で『お願い、そうしといて』と言っている。
「ええ、まあ」
「まあって?」
「旦那です」
「恵子さん高齢出産ですけど丈夫な子が生まれましたよ。旦那さんの精子が元気な証拠です。早く入籍された方がいい。遅れると色々と面倒になりますよ」
「分かりました」
「5日ばかり様子を見て退院しましょう」
医師の説明を聞いて病室に移動した。
「すいませんでした」
恵子が謝った。
「いいえ、どうせ序ですから」
すこし不貞腐れている。
「旦那さんに連絡しましょう、私が行って来ます」
「待って、待ってください。どうせどこが家かもわからないでしょう」
「いいえ、あなたの脳に触れた時に記憶や寿命は全て私も共有しています。義明さんでしょ、まだ若い」
恵子は驚いた。そんなことは話していない。
「義明をご存知なんですか?」
「まあ、大体のとこは読ませていただきました」
恵子は信じられないでいる。
「あなたは公園のベンチで神に祈った。生まれた子がやさしく育つことを。それが私に通じたんです。あの祈りがなければあのベンチでお腹の子と一緒に危ないところでした」
恵子はつくづく不思議な男だと感じた。公園でお腹を触っていたから痴漢だと勘違いしてビンタを喰らわしたが助けてくれたようだ、それも生まれた子と共に。
「本当にあたしの祈りが通じたんですか?」
「はい、神はエンゼルに弱い。お腹の子が生まれなければエンゼルとして神の使いになります。でも助かった、人間として生涯を送ることになりました。それがいいのか悪いのかは母次第」
「相談に乗ってくれますか?」
恵子は金原に託してみようと思った。
「どうぞ、あなたの担当仙人金原武ですから、なんなりと」
金原が笑うと恵子も笑った。
ドアをノックすると義明が顔を出した。ハイヒールが倒れている。
「どちらさんですか?」
「奥さんの知り合いです」
義明は金原を廊下に追いやった。
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義明は小声で言った。
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「生まれたんだ?」
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「そりゃ生れますよ、臨月でしたから。早く迎えに行ってあげなさい」
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あの年増はこの青年と果たして苦楽を共にして生きていけるだろうか、金原は要らぬ心配をしてしまった。
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ドアが開いて明子が顔を出した。
「どうしたの義明?」
「いや何でもない。母の知り合いの人が母に会いに来たんだけ留守だと伝えていたところ」
自分の子を産んだ女を母と嘘を吐いている。金原は目の前の情けない青年に腹が立った。
「もしかしてお母さんの旦那さんですか?」
明子は金原に問い掛けた。
「ええそうです、生まれたんですよ男の子が、それで息子に知らせに来たんですがあまり喜んでもらえなくて困ってしまいました」
金原は乗り掛けた船ととことん付き合うことにした。
「どうして義明、そりゃお母さんが他の人と恋に落ちてお子さんまで産むのは実の息子としては複雑な気持ちになるのも分かるわ。でもお母さんはもう義明から離れた一人の女性よ。それを忘れないで」
「素晴らしい、あなたの言葉に感動しました。どうです、病院までお祝いに来てくれませんか、喜びますよ」
金原が明子を誘った。義明が止める。
「行こう義明、この機会を逃したら後悔すると思う。次は私達の番じゃない、お母さんを祝ってやろうよ」
三人は病院に直行した。金原に続いて病室に入る。恵子は胸が高まっていた。義明が我が子を見てどういうリアクションを取るか恐かった。
「まあ、かわいい」
最初に声を掛けたのは明子だった。事実を知らぬから素直に表現出来る。
「母さんによく似ているね」
義明の第一声である。恵子は頷いた。
「目元はお父さん似だ」
金原が義明を見て言った。
「母さん、退院はいつ?」
「四日後です」
籍はまだ入れていないが近く正式な夫婦となる男から母さんと呼び掛けられると悲しくて涙が溢れた。
「母さん、そんなに泣かないで、高齢出産で頑張ったんだから」
恵子の涙を親指で拭った。
「嬉しいのよ、ねえお母さん。きっと強い子に育つわ。お母さんガンバ」
明子にエールを送られると複雑だった。
「それじゃ行こうか明子、母さん退院日は迎えに来るからね」
義明は明子を連れ立って帰った。
「これでいいの?」
金原が恵子に訊いた。
「どうにもならないでしょ」
人生相談には乗らないことにしている。
「わたし、この子を置いて消えようかしら。わたしがいなければこの子は義明が育ててくれるとも思う」
「消えるってどこに?」
「北海道がいいわ、すすきのでマッサージでもやるわ。知り合いがいるの。ソープランドを辞めたらいつでもおいでって先輩がいて。相手がおじいちゃんになるけれどやることは大して変わらないし私には天職のような気がするの。それに義明も北海道だからいつかはこの子を連れて里帰りするだろうから。会えなくても近くにいればと思うと勇気も出るわ」
言いながら涙を溢した。
「彼が育ててくれればいいけど、先のことは分からないよ」
「その時はお願いだから知らせて、あなたを神様の使いと信じているわ」
「分かった。いつ旅立つの北海道に?」
「明日退院時にそのまま行く。その方が未練が残らない」
「送ってあげよう」
そして退院当日、病室を出ると金原が待っていた。
「やっぱり義明は来なかったね」
もし義明が迎えに来てくれたなら考えを変えるつもりもあった。
「さあ、これで未練は残らない。あの子の行く末は定期的に知らせて上げる。この名刺の裏表を親指と人差し指でこすり合わせると私に通じる。遊び心は駄目だよ、通じないよ」
「ありがとう」
金原がハンチングを脱いで頭を掻く。大きなフケが舞い上がると雲の切れ間から癪が飛んで来た。恵子は驚いて目を丸くしている。
「こいつで札幌までひとっ飛び」
「二度と嫌だ」と嫌がる恵子を抱き上げて癪の背中に乗せた。
「耳に摑まるといい。癪頼む」
癪が飛び立った。
「恵子さん、お客さん。お馴染みさん」
恵子が札幌に来てから12年が経っていた。来年還暦を迎えるが齢より若く見える恵子は食うに困らないだけの収入を得ていた。
「恵子さんは若いねえ、なまら還暦には見えない」
「まだ還暦でないよ。一年ありますよ」
持ち前の明るさも人気を後押ししていた。サービス中に頭痛がした。
「あたし上せたかもしれない。お客さん悪いけど今度にしてお金要らないから」
恵子はタクシーを呼んでアパートに帰宅した。経験したことのない痛みにもしかしたらと不安が過った。死ぬのはいい、でも一目あの子を見たい。財布に入れてる金原の名刺を出した。どうせおまじないだろうと信じていなかったが苦しい時の神頼みである。名刺を挟んで擦り合わせた。『神様、これが最後のお願いです。一目でいいからあの子に合わせてください。遠くからでもいいんです。お願いします。この通りです』
手を合わせ目を開けるといつぞやの男が座っていた。
「呼びましたね。ここに来る途中あなたの子に会ってきました。今年から中学生ですよ。金ぴかのボタンが眩しい」
「あなたはやっぱり神様の使いなのね」
「ええ、だからあの時もそう言ったじゃありませんか」
「お願い、あの子に会えるかしら、わたしはもう歩けない」
「あの子はあれからあの二人に育てられています。妹も出来て仲睦ましく暮らしている。彼女が理解ある女性で結果よかった」
「そうですか、会いたい、一目でいい。わたしは後どれくらい生きられるでしょうか」
「失礼します」
恵子の額に右手人差し指の腹を当てた。天中から山根まで読み取る。
「今からでも病院に行って手術すれば後遺症は残るが命は繋がるでしょう」
「歩けるんですか?」
金原が首を横に振った。
「動けなくなり、他所の人の世話になって生きるほど徳がありません。一目あの子を見てこのままお迎えを待ちます」
恵子の涙は決意表明である。
「あなたは死後の希望はありますか?」
「そんな夢が叶うんですか?」
「これこそ私の得意じゃありませんか」
「私は鳩胸です。鳩が近くに来ると親近感が湧きます。鳩になってあの子の傍にいてやりたい」
「いいアイデアですね、でも鳩は寿命が短いですよ。それに転生前のことはほとんど忘れています。稀に通じる時がありますが一瞬でしょう。それでもいいですか?」
「一瞬でも通じればそんな嬉しいことはありません」
「分かりました。あの子ことだけを想って目を瞑ってください。金原は掌の生命線を額に当て掌を頭に被せた。指が裂けるほどに広げると脳に沈んで行く。寿命の末端に恵子の願いを繋いだ。そして転生した命を小指に絡んで息を吹きかけた。
入学式の朝だった。
「やっぱり北海道の春は寒いわね」
明子が小学生の長女の弁当を詰めている。
「桜が咲くのはゴールデンウイークだからね、一か月以上遅いんだ」
義明が車のエンジンを掛けに外に出た。
「どうしたんた恵一」
「鳩が来てじっと僕を見てるんだ」
義明は鳩胸だった恵子を想い出した。恵子の血を引いた恵一も鳩胸だった。
「鳩さん、僕も鳩胸だよ、ホッポー、おいでよホッポー」
鳩の目から涙が落ちた。
了
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