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蠱惑『法華の満月』
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家内が満月に恋をしたのは三年前でした。その頃から夫婦の夜の営みはなくなりました。台風の日も雪の日もベランダに出て肉眼では見えない満月を見つめています。今日は三月今年二度目の雪の日の満月です。
「寒いから閉めてくれないか」
家内は笑ってベランダのガラス戸をゆっくりと閉めました。『ピシャ』と内外をシャットアウトするとまた暖房の乾いた空気が部屋中に蔓延って咽て来ました。
「ほんの少しだけ開けて」
満月を見つめる家内には聞こえません。夫婦を遮るのは薄いガラス一枚ですが、そのガラス一枚の壁がもう永遠に取り除けないかもしれない、そんな気がしました。開けた方が不明な非を認めてしまう。そして恥ずかしく逃げたくなる、見えるけど触れることのできない安堵。
団地の二階の窓から見えるのは道路を挟んだ向かいの二階家の屋根に積もった雪だけです。『こんこん』と雪の降る音は誰が表現したのでしょうか、実に見事にその情景を描写している。向かいの屋根の瓦に張り付いて、もう我慢の限界に来た少しが滑り落ちていく。
ベランダのアルミの手摺に載せた家内の手に雪が落ちて溶けて消える。溶け切れずに残った結晶が肌に染みていく。体温の下がる手に雪の一粒が残りまた一粒が重なる。もう家内の手は辺りの芝や植木と同じような存在です。雪も躊躇うことなく積もるだけです。それでも家内はじっと満月を見つめている。誰にも見えない雪がこんこんと降る昼下がりの満月を見つめているのでした。吹き込む雪が肩まで届き黒髪も雪化粧をしました。北風が突風になって家内の髪を舞い上げます。樹氷のように美しい雪化粧が台無しです。また一からやり直し。
風が収まりました。黒髪は純白の帽子を被ったように可愛く、家内の後ろ姿はまるで少女のようです。そうだ少年少女合唱団のソロを演じているようです。変声期前の穢れの無い歌声が雪の『こんこん』というタクトにリズムを合わせています。このままずっといつまでも聴いていたい。しかしこのまま歌い続けていれば死んでしまう。寝巻に薄い青のカーディガンの上から溶けた雪は千枚通しのように肌を刺しているのではないでしょうか。
雪雲が厚くなり黒くなりました。不思議なことに黒くなると満月の輪郭がぼやけて見えるのです。家内の身体がその輪郭に嵌りました。まさか満月の熱が届いたわけでもないでしょうが肩から、手から、頭から雪が溶けていくのです。総ての雪が溶けると家内の身体から湯気が上がり始めました。その湯気が辺りの雪を溶かし始めました。家内自身が熱を発生させているのでしょうか。家内を囲む満月の輪郭が光り始めました。真っ黒な雪雲の中でうちのベランダに満月が落ちたようです。
太鼓の響きがガラスを素通りして私の身体に振動を与えています。ベランダの前で止まり更に強くなりました。外を見ると大勢の白装束が満月と化した家内に向けてお題目を唱えながら法華の太鼓を打ち鳴らしているのです。二階のベランダ手摺より上に彼等の上半身が出ています。相当大きい人かと驚きましたが実はそうではなく、宙に浮き上がっているのです。題目を唱える顔は皆笑顔です。
『でんでん、でんでん、でんでん』
太鼓と題目が見事に重なりました。するといままでピクリとも動かなかった家内が踊り始めたのです。奇妙な動きです。右手を肘で曲げて上げると同時に左足太腿を膝で曲げて上げる。それをゆっくりと左右交互に繰り返すへんてこな踊りです。まるで裏返された亀が慌てふためく様な動きとでもいいましょうか。ですが白装束の一団は家内の踊りにすごく喜んでいます。宙に浮いた彼等も喜びの絶頂でしょうか宙返りをしたり逆立ちをしたりと家内に向け太鼓をより強く打ち鳴らすのです。家内の踊りも段々と速くなり、一連の繰り返しに首の動きが加わりました。前後に振ったり横に回したり、梟のように一回転させたりします。回転中に私と目が合うと不思議そうな顔して連続回転を始めました。
「そんなに同じ方向に回転したら首がねじ切れてしまうよ」
声は届きませんが口の動きで分かってくれたのか反転を始めました。ねじりパンのような首が反転と同時に元に戻ります。そして踊りに回転運動が加わりました。月は球体だと生れ付いて何の疑いもせずにずっと思っていましたがそうではありませんでした。回転を見て初めて知りました。円形なのです。下弦上弦、半月、三日月、総ての姿を見せてくれました。そして白装束の一団は家内の周りに、いや満月を取り囲みました。太鼓は皮が破れるほどに、題目は喉が嗄れるほどに激しくなりました。そして私は見たのです、満月が家内を愛し始めるのを。
満月は『でんでん』と法華の太鼓のように音を発しました。満月の中には撥が浮かび上がり踊る家内の子宮にのめり込んで行くのです。左右交互の踊りは総て同時運動に変わりました。太く固い撥は先端が家内の口から飛び出しました。満月も家内も絶頂です。真っ赤に光るのはスーパームーンでした。そしてそのままベランダのずっと上の空に上りました。月明かりの下にはもう残雪はありません。白装束の一団も引き下がって行きました。そして朝焼けの空にゆっくりと満月は消えて行くのでした。『ひゅっー』と部屋の気圧が抜けました。息苦しかった私は一瞬ですが新鮮な空気を吸えました。家内は何事もなかったように布団を捲り私の横に潜って来ました。三年前の事故で身体の動きを失った私の横に。
「寒いから閉めてくれないか」
家内は笑ってベランダのガラス戸をゆっくりと閉めました。『ピシャ』と内外をシャットアウトするとまた暖房の乾いた空気が部屋中に蔓延って咽て来ました。
「ほんの少しだけ開けて」
満月を見つめる家内には聞こえません。夫婦を遮るのは薄いガラス一枚ですが、そのガラス一枚の壁がもう永遠に取り除けないかもしれない、そんな気がしました。開けた方が不明な非を認めてしまう。そして恥ずかしく逃げたくなる、見えるけど触れることのできない安堵。
団地の二階の窓から見えるのは道路を挟んだ向かいの二階家の屋根に積もった雪だけです。『こんこん』と雪の降る音は誰が表現したのでしょうか、実に見事にその情景を描写している。向かいの屋根の瓦に張り付いて、もう我慢の限界に来た少しが滑り落ちていく。
ベランダのアルミの手摺に載せた家内の手に雪が落ちて溶けて消える。溶け切れずに残った結晶が肌に染みていく。体温の下がる手に雪の一粒が残りまた一粒が重なる。もう家内の手は辺りの芝や植木と同じような存在です。雪も躊躇うことなく積もるだけです。それでも家内はじっと満月を見つめている。誰にも見えない雪がこんこんと降る昼下がりの満月を見つめているのでした。吹き込む雪が肩まで届き黒髪も雪化粧をしました。北風が突風になって家内の髪を舞い上げます。樹氷のように美しい雪化粧が台無しです。また一からやり直し。
風が収まりました。黒髪は純白の帽子を被ったように可愛く、家内の後ろ姿はまるで少女のようです。そうだ少年少女合唱団のソロを演じているようです。変声期前の穢れの無い歌声が雪の『こんこん』というタクトにリズムを合わせています。このままずっといつまでも聴いていたい。しかしこのまま歌い続けていれば死んでしまう。寝巻に薄い青のカーディガンの上から溶けた雪は千枚通しのように肌を刺しているのではないでしょうか。
雪雲が厚くなり黒くなりました。不思議なことに黒くなると満月の輪郭がぼやけて見えるのです。家内の身体がその輪郭に嵌りました。まさか満月の熱が届いたわけでもないでしょうが肩から、手から、頭から雪が溶けていくのです。総ての雪が溶けると家内の身体から湯気が上がり始めました。その湯気が辺りの雪を溶かし始めました。家内自身が熱を発生させているのでしょうか。家内を囲む満月の輪郭が光り始めました。真っ黒な雪雲の中でうちのベランダに満月が落ちたようです。
太鼓の響きがガラスを素通りして私の身体に振動を与えています。ベランダの前で止まり更に強くなりました。外を見ると大勢の白装束が満月と化した家内に向けてお題目を唱えながら法華の太鼓を打ち鳴らしているのです。二階のベランダ手摺より上に彼等の上半身が出ています。相当大きい人かと驚きましたが実はそうではなく、宙に浮き上がっているのです。題目を唱える顔は皆笑顔です。
『でんでん、でんでん、でんでん』
太鼓と題目が見事に重なりました。するといままでピクリとも動かなかった家内が踊り始めたのです。奇妙な動きです。右手を肘で曲げて上げると同時に左足太腿を膝で曲げて上げる。それをゆっくりと左右交互に繰り返すへんてこな踊りです。まるで裏返された亀が慌てふためく様な動きとでもいいましょうか。ですが白装束の一団は家内の踊りにすごく喜んでいます。宙に浮いた彼等も喜びの絶頂でしょうか宙返りをしたり逆立ちをしたりと家内に向け太鼓をより強く打ち鳴らすのです。家内の踊りも段々と速くなり、一連の繰り返しに首の動きが加わりました。前後に振ったり横に回したり、梟のように一回転させたりします。回転中に私と目が合うと不思議そうな顔して連続回転を始めました。
「そんなに同じ方向に回転したら首がねじ切れてしまうよ」
声は届きませんが口の動きで分かってくれたのか反転を始めました。ねじりパンのような首が反転と同時に元に戻ります。そして踊りに回転運動が加わりました。月は球体だと生れ付いて何の疑いもせずにずっと思っていましたがそうではありませんでした。回転を見て初めて知りました。円形なのです。下弦上弦、半月、三日月、総ての姿を見せてくれました。そして白装束の一団は家内の周りに、いや満月を取り囲みました。太鼓は皮が破れるほどに、題目は喉が嗄れるほどに激しくなりました。そして私は見たのです、満月が家内を愛し始めるのを。
満月は『でんでん』と法華の太鼓のように音を発しました。満月の中には撥が浮かび上がり踊る家内の子宮にのめり込んで行くのです。左右交互の踊りは総て同時運動に変わりました。太く固い撥は先端が家内の口から飛び出しました。満月も家内も絶頂です。真っ赤に光るのはスーパームーンでした。そしてそのままベランダのずっと上の空に上りました。月明かりの下にはもう残雪はありません。白装束の一団も引き下がって行きました。そして朝焼けの空にゆっくりと満月は消えて行くのでした。『ひゅっー』と部屋の気圧が抜けました。息苦しかった私は一瞬ですが新鮮な空気を吸えました。家内は何事もなかったように布団を捲り私の横に潜って来ました。三年前の事故で身体の動きを失った私の横に。
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