蠱惑

壺の蓋政五郎

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蠱惑『とじ針』

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 横浜に雪がこんなに積もったのは何年振りでしょうか。夜間専門の警備員をしてもう十五年になりました。定職にも就かず、手に職も持たず、そして好きな職業も見つからず、誘われて始めたこの夜間警備の仕事に就いたのが六十の時でした。あと何年出来るか、いや何年生きられるか、幸い定年の無い会社です。そして夜間警備と言ってもただ店舗の前で立っているだけの仕事です。工事をしている店先に停めた職人さんの車を見ていればいいのです。カラーコーンを並べて通行人があれば先の赤い棒を振って案内すればいいだけです。深夜に人通りなどほとんどありません。
 橋の欄干を見れば積雪量が分かります。もう十センチにもなるでしょうか。夕方から降り出した雪は視界が奪われるほどの大粒の雪となりました。降り始めから雪でしたので乾いたアスファルトは吸い込むことも出来ずに降った量だけその嵩を増して行きました。
「お疲れ様、また今晩宜しく」
 職人さんが帰るのはの午前四時頃です。私はカラーコーンを片付けてから歩いて帰宅します。吉田町から都橋を渡り都橋商店街を左折して川沿いを歩きます。雪を踏みしめるサクサクと言う音からキュッキュッと変わりました。それは雪嵩のせいでしょうか。自宅は黄金町初音町を抜け赤門通り近くのアパートです。黄金初音に賑やかな店はありません。二十五年前警察による「バイバイ作戦」で売春宿は一掃されました。世間様からすれば良かったのでしょう、犯罪の目を一つ潰したわけですから。ですが潰れたのは箱だけで中身は引っ越したに過ぎません。それに私のような独り身には大切な場所でした。
 黄金橋を過ぎると雪は更に強くなりました。年老いた桜には荷が重いでしょう。突然メキッと言う音が聞こえ通り過ぎた桜が川面に向かい倒れ始めました。そして腐った幹の根元がパキッと音を立てて倒れたのです。私はその桜の木まで戻りました。染井吉野の寿命は平均で六十年と言います。私より恐らく若い桜は大雪によって生涯を閉じたのです。毎年楽しませてくれる川沿いの一本に手を合わせました。立ち去ろとした時折れた幹に何かが挟まっているのに気付きました。襤褸切れのような衣服のような、手に取ると五十センチほどの長さで毛糸、そうだ網掛けのマフラーでしょう。誰かが木の幹に掛け忘れたものか、木の幹にずっと引っ掛かっていたものか分かりません。雪明りに照らすと臙脂色です、そして網掛けである証拠にはとじ針が付いたままでした。いずれにしても誰かの忘れ物であるに違いない。すぐ近くの地蔵さんがいい、落とし主が気付くかもしれない。短いので首に巻き付けることは出来ません。肩掛けのようですが無いよりは地蔵さんも暖かいでしょう。手を合わせ帰路に就きました。
 翌日も雪は続きました。降り方は弱くなりましたが小粒で肌に当たると痛みを感じる悪戯な雪です。雨合羽が古いので二日続けて着ていると肩に積もって溶けた雪が防寒着に染み込みその湿り気が肩を冷やします。身体の震えはブルブルからガタガタに変わりました。カラーコーンの前を行ったり来たりしても身体が温まることはありませんでした。職人さんが差し入れしてくれた缶コーヒーを握ると軍手の上から僅かな温もりを感じます。でも飲まずに我慢しました。店内のトイレを利用するには合羽と長靴を脱がなければならないからです。
「お疲れ様です、明日もう一日ね」
 手が痺れてカラーコーンが掴めません。両手で挟み込みやっと片付けました。都橋の欄干には三十センチも積もっています。橋を渡りながら肘で突いて雪を落としてみました。すぐには沈まずに橋の下を流れて行きました。
 昨日倒れた桜の木はそのままでした。注意をするよう黄色いテープが幹回りに張られていています。そしてお地蔵さんに手を合わすとどうでしょう。肩に掛けた臙脂色の網掛けのマフラーがお地蔵さんの腰の当たりまであるではありませんか。私は毛糸が水分を吸って伸びたのか、いや私の思い違いかもしれません。私は伸びた分を胸で合わせてとじ針で止めました。あと五十センチ伸びれば、ぐるっと一巻きしてあげられる。飴玉を置いて自宅に向かいました。
 翌日は午後から晴れ間が広がりました。しかし雪を解かすだけの日差しではありませんでした。出勤時の午後七時にはギュッと踏み締められて歩いても靴が沈むことはありません。ですが硬く滑りやすい。行き交う人はみな内股で慎重に歩いています。どこに行くにしても普段の三倍は時間が掛かるでしょう。
「危ない」
 娘さんが尻もちを付きました。腰を打ったのか、立てないようです。私は後ろから両脇に手を入れ抱え起こしました。
「歩けるかい」
 痛そうに首を振りました。
「タクシーを掴まえて上げよう」
 タクシーもここまでは入れない。娘さんを負ぶって太田橋まで歩きました。チェーンをガチャガチャさせた黄色いタクシーを止めました。娘さんに名前を聞かれましたが笑ってドアを閉めました。急ぎ足で行かなければ遅刻してしまいます。万が一工事現場の前に車が停めてあれば職人さんが停められません。人だけなら隣でもいいのですが、セメントや砂の取り込みがあります。
 悪い予測は当たります。現場の前には黒い高級車が停まっていました。そろそろ職人さんが来ます。私はカラーコーンを出して準備していましたが、黒い車の持ち主は現れません。そのそも道路使用許可を得ているわけではないので、うちの工事優先ではありません。そのために、二時間前から私がカラーコーンを並べるのです。職人さんが黒い車の後ろに停めて歩いて来ました。
「これじゃどうしょうもないね。おじさん何時に来たの?」
「二時間前からずっと停めてあるんです」
「それじゃ仕方ないね。もう少し待とう。最悪材料だけは取り込んでいきたい」
 私は嘘を吐いてしまいました。嘘など吐く必要などない。正直に言えばよかった。それで誤解されても嘘よりいいじゃないか。そしてずっと待っていました。職人さんはエンジンを掛けたまま寝ているようでした。私はカラーコーンに手を掛けて、車の持ち主を待ちました。反対側のビルに雀荘があります。私はそこのお客さんだと思いました。もう三時間、日付が変わりました。出勤時にシャーベットだった雪は完全にアイスになりました。月に照らされ光っています。思い切って雀荘を訪ねてみようか、職人さんは足をハンドルに載せ、リクライニングして寝ています。
 ドアを開けるとパイを打ち付ける音があちこちで聞こえます。フロントに行きました。
「すいませんが、前の工事の者です。下のあの黒い車の持ち主の方がおられましたら、もう少し前に出していただきたいとお願いに上がりました」
 年配の男は窓を開け下を見た。そして卓の男を見た。
「おじさん、悪いが諦めた方がいい、三時には終わるからそれまで待つしかない」
「職人さんが仕事にならずずっと待機しています。お願いします」
「おじさんもしつこいね。俺の車ならすぐにでも動かしてあげるよ。でも運が悪いと諦めるんだな。職人には帰るか三時過ぎまで待つか。そう伝えた方がいい。なんなら俺が言って事情を話してやってもいいよ」
 雀荘の男は口利きは横柄ですが私の立場を理解してくれています。ですがこのまま職人さんに伝えることは出来ません。雀荘の男が見つめている人が黒い車の持ち主でしょう。私は直接お願いすれば分かっていただけると思いました。年寄りが頭を下げれば何とかなるだろうと雀荘の男が離れた隙にその方の後ろまで近付きました。
「おい、てめえ洒落た真似すんじゃねえか」
 対面の男に捨牌を投げ付けました。私はどうしたらいいのかうろたえました。この宅にいる四人全員が見るからにやくざです。黒の車の男とその右に座る男が仲間のようで、対面と左に座る男が一緒のように見えます。
「何すんだこら、負けが込んでいちゃもん付けて逃げようってか。有り金出して土下座しろ」
「何を、こんなじじいを鏡に使いやがって雀士の屑だな」
 どういことでしょうか、私がいかさまの張本人にされています。フロントの男が飛び出して来てくれました。
「すいません、このじいさんは前の工事の警備員で車のことで寄っただけで、すいません」
 男に腕を引っ張られ店から出ました。
「じいさん、怪我したくなかったら、今晩は警備辞めて帰るんだな。外に出たら俺は助けられねえぞ。職人にも言っときな」
 フロントの男はそう言ってドアを閉めました。あの卓の四人がどうなったかは知りません。黒の車の男が大負けしていて私が後ろに立ったことでいかさまだと因縁を付けたようです。私は職人さんの車の運転席をノックしました。ドアノブを掴みましたがロックされています。熟睡しています。そして三時になりました。車の持ち主と相棒が降りて来ました。
「こら、じじい、俺の車に何した?」
 私は胸倉を掴まれました。
「何もしていません、ここで警備しているだけです」
「カラーコーンが触れてんじゃねえか」
 相棒の男が因縁を付けて来ました。触れるわけありません。一メートルも離して配置しています。職人さんが気付いて車から飛び降りて来てくれました。
「すいません、どうかしたでしょうか、うちの警備員が何か粗相をしたんでしょうか」
「おっそうか、あんたがこのじじいの雇用元か、それなら話が早い。雀荘まで押しかけてきて、車をどかせとはどういう了見だ」
「警備さん本当ですか?」
「本当ですかとは何だ、俺が与太言ってるってことかこら」
 あろうことか職人さんは二人に殴る蹴るの乱暴を受け氷の上に倒れました。男はカラーコーンを道路の真ん中に投げ付け、それを踏み潰して走り去りました。職人さんはバンパーに摑まり立ち上がりました。
「余計なことしないで待っていりゃいいものを」
 そして材料も下ろさずに帰ってしまいました。私はカラーコーンを片付けました。潰れたコーンを一番上に重ねると折れ曲がった部分がサンタの帽子のようです。私は氷の道を歩きました。いつものように都橋を渡り川沿いを歩きました。滑るので内股で小幅、それでも何回か滑って転倒しました。午前四時です。満月が転んだ私を笑っているようです。そして昨日折れた桜の木に手を合わせて歩き出そうとした時に歩道の斜面で転倒しました。後頭部を打ち一瞬意識を失いました。
「おにいさん、おにいさんたら」
 誰かが私の肩を揺すっています。首を振って目を開けると若くて美人の女性が笑っていました。
「いつまでそんなとこで寝ているんだい、風邪ひくよ」
 私は立ち上がりました。するとどうでしょう、桜が満開ではありませんか、南風が吹くと早咲きの花びらが大岡川にはらはらと舞い降りて行きます。手を合わせた折れた桜の木は見当たりません。そこには植えたばかりの若木の桜が、淡い桃色の花を咲かせていました。腰の当たりで二股に別れた幹に網掛けのマフラーが掛けてありました。若い女は私が起き上がるとそのマフラーを手にして店の前の丸椅子に腰掛けて続きを編み始めたのです。そのマフラーは一昨日私が倒れた桜の幹に挟まっていた物に色も長さもそっくりで、とじ針も付いています。
「おにいさん、忙しかないだろ、編み上がるまで花見でもしてておくれよ」
 透き通るような色白の女は笑って言いました。
「そのマフラーはどなたに?」
「これかい、生まれずに死んだ子にさ」
 膝の上で転がる毛糸玉を落ちないように器用に太腿を上げ下げしています。
「そうかい、嫌なことを想い出させてしまった」
「いいんだよ。そうだおにいさん、迎えが来たらこのマフラーを南太田の水天宮に持って行っておくれよ、迎え船が来る前に急いで編み上げるからさ」
 女はせっせと編んでいます。しかし迎えが来るとはどういことでしょう。
「持って行ってあげるが誰に渡せばいいのかな?」
「奥まで行って左の狛犬の首に巻いておくれよ。水子まで走って届けてくれるらしいから」
 黄金桟橋で誰かが呼んでいます。
「おーい、おにいさんそろそろ行くかい、お天道様が顔出す前にさ」
 伝馬船の船頭は私を呼んでいるようです。私は桟橋に降りました。
「私を呼んでいるのかい?」
「決まってんじゃありませんか、兄さん以外に誰がいるんですかい。もう時間がありませんよ。お天道様が顔出したら上流から黒い伝馬船が来て兄さんを無理やりにでも乗せて行ってしまうよ」
 女が黄金桟橋に来ました。
「出来たよにいさん、お願いするよ」
 そう言って女は私の首に編み上がった臙脂色のマフラーを巻いてくれました。川風で飛んではいけないと胸の前でとじ針で止めてくれました。
「暖かい、しっかりと狛犬に巻いて来ますよ。姉さん、こんなこと言っちゃおかしいがこんだ遊びに上がらしてもらってもいいかい?」
 女は笑った。
「さあ、出すよにいさん、ヨーソロー」
 夜明け前に船は出ました。川にせり出した桜の枝が頭を擦ります。
「にいさん、みよしに立っていたんじゃ先が見通せないよ。座ってくんな、ヨーソロー」
 下流から突風が吹きました。船頭は助かるでしょうが桜には切ない風です。花びらが吹き飛ばされ濠の中を前が見通せないほど舞っています。少しすると舞った花びらが川に積もっています。船はそれを切り裂くように進みます。この世の景色でしょうか。船もすっかり花びらで一杯です。山王橋を潜りました。橋の下にぶら下っていた蝙蝠が一斉に飛び立ちました。
「にいさん、ここまでが大岡川でこっから三途に入るよ、面舵着るから摑まってておくれよ」
 船頭はおかしなことを言いました。大岡川に流れ込む支流などここにはありません。
「面舵いっぱい、ヨーソロー」
 靄が立ち込め川面は見えません。しかし船が進んでいるのだから川に違いないのでしょう。水天宮の鳥居が見えてきました。
「にいさん、ここまでであっしのお役は御免です。気を付けて行ってらっしゃいよ」
「ああ、ありがとう」
「ヨーソロー、ヨーソロー」
 船頭は勢いよく櫂を漕ぎました。間もなく霧の中に消えてしまいました。一礼して鳥居を潜ると先に狛犬が見えて来ました。女に言われたように左の狛犬の首にマフラーを巻きました。驚いたことに狛犬はぶるぶると首を震わせました。
「頼んだよ、あの世の水子に巻いておくれ」
 チリン、後ろで金属音がしました。振り返ると狛犬は消え石畳にとじ針が落ちています。私はそれを拾いました。神殿を見ると黄金色に光っています。自然に足が向いて行きました。賽銭を入れとじ針を親指に掛けました。
「神様、どうか今夜は工事現場の前に車が置かれませんように」
 
「昨日のおじさんはどうした?」
「実は明け方に亡くなりました。私が交代で」
「そうかい、実はあのじいさんに因縁吹っ掛けてな、悪いことしたと反省したんだ。こんなことないんだがな、俺もやくざ失格だ。じいさん家族は」
「お一人です。南太田の水天宮の賽銭箱の前で倒れていたのを神主さんに発見されました」
「そうかい、神様の前でね。これ剥き出しで悪いが線香代だと渡してくんな」



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