チェリー叔母さん

壺の蓋政五郎

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チェリー叔母さん 終

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「仕事上の守秘義務があってね、それは言えない。でもどうして幸太郎君はそんなことを知りたいの?何か僕のことを疑っているように感じるんだけど。でもいいさ、それぐらい好奇心が無いと弁護士にはなれないからね」
「あなた、そろそろ」
 チェリー叔母さんが旦那さんを促した。
「大将、お勘定して、チェリー出しといて」
 チェリー叔母さんはバッグから財布を出した。
「いいよ、叔母さん、僕が支払うよ」
 僕は悔しかった。どうして旦那さんが支払わないんだ。どうしてチェリー叔母さんの財布なんだ。ストリッパーで稼いだ金、休みなしに踊り通して得た血の滲む金をこんな場面で使わせたくなかった。
「いいからいいから、幸太郎君はお客さん、それにここまで妻を送ってくれたお礼だから、いいのいいの。チェリーは男達を魅了して稼ぐんだから、君は貧しい、弁護士を目指す学生の分際で余計なことしないの。ここは大人に任せなさい」
 旦那さんが笑って言った。「小肌」と大将に追加して残ったビールを飲みほした。
「吉岡さんは大手デパートの再建で莫大な報酬を得たのではないですか。吉岡さんにご馳走して欲しかった」
 チェリー叔母さんが僕の腕を掴んで揺さ振った。それでも僕は止めなかった。
「チェリー叔母さんは毎日休みなしで、昼も夜も劇場に出て、休みは月曜の午後だけで半年間働き続けた。月曜の午後に二人で銭湯に行って、その帰りに定食屋で一杯飲んで帰る途中に必ず電話ボックスに寄って、泣いていた。それはあなたと連絡が付かないからです。半年間、毎週月曜日の夜に電話ボックスで十五分泣き続ける叔母さんをずっと見て来ました。お願いです吉岡さん、叔母さんにお金で苦労掛けないでください」
 僕は言い終えて泣いていた。
「誰が勘定払うのかな、旦那さんなら四万二千両、坊ちゃんなら二千両、チェリー姉さんなら借りがあるから無料、若い自分にお世話になった」
 大将が笑って言った。旦那さんが立ち上がり僕を突いた。
「生意気言うんじゃねえよこのガキが、チェリーの甥っ子だと思って堪えていりゃあ偉そうに、チェリーの財布は俺の財布だ、チェリーは俺に尽くすのが運命なんだ。分かった振りすんじゃねえぞ、男と女のイロハも知らねえで今度その口開いたらぶっ殺すぞ」
 僕は体当たりして旦那さんを突き飛ばした。酔っていて足がもつれて床に倒れた。
「何すんだよ幸太郎」
 チェリー叔母さんは倒れた旦那さんを介抱した。
「叔母さん、僕と一緒に横浜に帰ろう。また僕のアパートで、狭いけど、一緒に暮らそう」
「ふざけるな、この人はあたいが一生掛けて面倒見るんだ、そう決めて生きてるんだ」
 チェリー叔母さんは話ながら途中から泣き出した。
「この人は、あたいの踊りをちゃんと見てくれた、たったひとりなんだよ。毎日、毎日、ミュージック劇場に足を運んで、裸を喜ぶ客と違ってあたいの踊りを見てくれたたったひとりの大切な人なんだ。この人がいるから頑張れる、このひとがいなきゃあたいはとうに死んでるよ」
 言い終えて号泣している。旦那さんが起き上がりチェリー叔母さんを介抱しながら寿司屋を出ていった。僕の存在はなんだったのだろう。
「大将、すいません、四万二千円もないんですけど、帰ったら現金書留で送ります」
 大将がカウンターから出て来て座敷に呼ばれた。
「車だろ、泊まるとこないんだろう」
 大将は女将さんに座敷に寝具を用意するように伝えた。女将さんは「あいよ」と言って奥に下がった。
「あんちゃん、そんなもんだよ男と女は。金はいいから、想い出したらまた遊びに来なよ友達連れて、どんどん寂れてよ、いい温泉だし人情あるし、いい町なんだがなあ芦ノ牧も」
 僕は女将さんが用意してくれた床ですぐに眠ってしまった。旦那さんがオートバイを玄関から出す音で目が覚めた。四時だった。
「ご迷惑掛けました、必ず遊びに来ます」
 大将は僕の肩を叩いて出て行った。僕は布団を畳んだ。玄関に立ち中に向かって一礼した。車に戻ると運転席に紙切れが置いてあった。
『幸太郎、ごめん。叔母さんも本当は幸太郎が好きだった』
 僕は何故か涙が溢れ出て止まらなかった。チェリー叔母さんを騙す男を退治したつもりが、叔母さんは騙されることを承知で愛していることを知った。車を走らせる。
「幸太郎」
 呼び声が聞こえた。バックミラーにうつるチェリー叔母さんは手を振っていた。僕はハザードランプを点滅させた。

 回復すると信じていた昭和天皇が崩御した。一日中どのラジオ局もその特番だった。僕がその訃報を聞いたのは机に向かっている時のラジオニュースだった。はっきり言ってあまり驚かなかった。空気の入れ替えをしようとベランダのガラス戸を開けた。ベランダに出るとすすり泣く声が聞こえた。隣の順次兄貴のベランダだった。ベランダに出て隔立越しに覗くと順次兄貴が冷たいベランダに正座して泣いていた。もしかしたら恋に破れて泣いているのか、それとも麻雀代打ちで大負けしたのか。でも時折太陽を見つめ、ひれ伏している様子からしてやはり昭和天皇の崩御を悲しんでいるようだった。僕のような学生が無関心で、やくざの順次兄貴がこれほどまでに悲しみを表現している。その理由を僕は知りたかった。図書館に通い資料を借りて来て読んだ。その壮絶な人生、マッカーサーとのツーショットを見て順次兄貴の悲しみを感じることが出来た。
 時代は変わり僕は予備試験に合格し司法試験への切符を手にした。
「いよいよ、弁護士誕生だな、俺も鼻が高い、何しろうちの定食が栄養になったってんだ」
 ご主人が僕の脇に立って腕組みをして唸った。
「そうだよ、ラッキーだよこの子は、うちの定食との相性が良かったんだよ」 
 女将さんも喜んでくれたが僕の寝ずの頑張りより定食の栄養効果によって予備試験に合格したと思い込んでいる。それでもよかった。ここの定食で頑張れたのは事実である。
「今度、新メニューを考えたんだ。弁護士定食、どうだ」
「なんかこれ見よがしだよ、法律弁当なんてどう」
「それこそそのまんまじゃねえか、そうだ、検事セットと弁護士セットの選択が出来るなんていいアイデアじゃねえか」
「それじゃ何かい、検事セットは目がきついから秋刀魚のお頭付き、弁護士セットは温情を表してミニの暖かい卵とじ饂飩付きかい」
「ごちそうさまでした」
 二人はずっとやり取りしていた。僕は勘定をテーブルに置いて店を出た。公衆電話は誰かが利用していた。女の人が俯いて悲しい顔をしている。チェリー叔母さんの顔が浮かんだ。

 大学を卒業して五年で司法試験に合格した。実家の両親と弟は喜んでくれた。
「こっちはいいから、弱い人を助ける弁護士になれや」
 父の言葉が身に染みた。
 あのアパートは二年前に引き払った。その半年前に順次兄貴は傷害と詐欺で逮捕された。
「幸太郎、やくざなんてこんなもんだ、マネすんじゃねえぞ」
 手錠を掛けられて玄関前で僕を説教してくれた。そのおかげで警察から何回も呼び出される羽目になった。僕は法律事務所の所長が経営しているマンションに入居することになった。チェリー叔母さんとは芦ノ牧で別れて六年になる。何回か銭湯の帰りに電話を入れたが出なかった。そしてどうしてもあの人達に挨拶がしたくて横浜に来た。
「社長の言葉で踏ん切りがついたと感謝しております。ありがとうございます」
 僕は春風座の社長に挨拶に行った。
「君は君の考えで頑張ったんだ、今度は堂々と客で遊びに来てくれ。とは言っても来年で店仕舞いだ」
 社長は寂しく言った。
「おい」
 僕の肩を叩いたのは関さんだった。そして隣に髪を伸ばしてスカートを履いたさざえ姉さん、手を繋ぐ男の子は間違いなくさざえ姉さんの子だ。さざえ姉さんを二回り小さくしたそのままの顔だった。
「あれっ」
 僕が驚くと照れるように話し始めた。
「どうもこうもねえさ、こういうことよ、子は鎹って言うけど俺から迎えに行った」
 関さんが言った。
「幸太郎ちゃん、弁護士だって、もったいないよもう一度ゴンドラ運転しなよ」
 さざえ姉さんが笑って言った。さざえ姉さんは近所のスーパーでパートをしているらしい。
「二人の稼ぎでやっとの暮らしだが、苦しくてもこいつがその穴埋めをしてくれる」
 関さんは息子の頭を撫ぜた。僕は財布から一万円を出して子に握らせた。
「駄目だよ、そんなことしちゃ」
「僕はまださざえ姉さんに結婚のお祝いもしてないし」
 関さんが「サンキュー」と照れて言った。
「ところで幸太郎ちゃん、チェリーはどうしてる。連絡あるかい?」
 僕が首を振ると「そう」と頷いた。春風座を離れて定食屋に向かった。昼時だったせいもあるが定食屋は繁盛していた。
「ええと、法律、検事セット」
「俺は弁護士」
 客が注文したのは冗談かと思っていた定食名だった。女将さんが僕のテーブルに氷入りの水を運んで来た。スーツ姿で七三分けの僕に気が付かない。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
 何も言わずじっと女将さんを見ていた。やっと気付いたようで厨房に駆け込んだ。ご主人と息子が出て来た。
「みなさん、お食事中すいません。実はこの方が法律定食の元なんです。彼は寝ずに五年間勉強して見事弁護士になりました。あたしはね、こんな偉い学生がいるのかと、それでその記念にみなさんお召し上がりの法律定食を出しました。頑張れば出来る、続ければ叶う、見本をみせてくれた。そんな彼の旅立ちに祝福してやってくだしさい」
 箸を止めて拍手喝采を浴びた。元祖法律定食弁護士セットをいただいた。外に出ると女将さんが出て来た。
「チェリー叔母さんは元気かい?」
「便りがないのは元気な証拠、ならいいんですけど」
 世話になったこの街を後にした。
 それから十年が過ぎた。チェリー叔母さんのことは忘れたわけではない。電話は留守から『現在使われていません』に変わった。仙台に行く用事があり、その序に芦ノ牧に足を延ばした。ミュージック劇場を覗く、昼だから営業はしていないのかもしれない。姉さん冠りのおばさんが舞台を拭き掃除していた。
「すいません」
「なんだい」
 おばさんは手を休めずに返事をした。
「すいませんけど」
「五分待ってくれないかい、ワックスの途中だからさ、悪いね」
 僕は外に出てベンチに座って待った。
「暑い暑い、あんたサイダー飲むかい」
 僕が礼を言うと「それじゃ三百円と手を出した」
「お願いします」
 姉さん冠りのおばさんは目の前の商店に入った。姉さん冠りを外したおばさんと向かい合った。チェリー叔母さんだった。
「叔母さん」
 僕が声を上げるとチェリー叔母さんはサイダーをアスファルトに落とした。瓶が割れて泡が湧いた。それからミュージック劇場の入り口の長椅子に座り込み話し込んだ。僕の予想通りと言うかあの吉岡と言う男は福岡に行くと言ったまま六年間帰っていないと言う。チェリー叔母さんは誤魔化し誤魔化し二年前まで踊り子を続けていたが腰を痛めたのをきっかけに身体が動かなくなり五十歳で現役を引退した。劇場の管理や掃除一切を任されていた。旦那名義のアパートも僅かな収入では支払い切れず解約した。
「叔母さんは今どこに?」
「劇場に寝てる」
 チェリー叔母さんは小声で言った。
「叔母さん、僕は東京の鎌田にいる。相変わらずひとりだ。だけどあんときのアパートよりずっと広いよ、部屋は二つあるし、台所も広い、小さいけど風呂もある。一緒に暮らしませんか。僕に気兼ねなんて必要ありません」
 チェリー叔母さんは黙っていた。二つ返事で賛成してくれるものと思っていた僕はショックだった。
「もう幸太郎なんて呼び捨て出来ないね。立派な弁護士先生なんだよね。あの人ね、帰って来るんだよいつか、いつだか分からないけどね。そん時にあたしがいなかったらどうなると思う。野垂れ死にするよ」
「でもそれじゃ、叔母さんが野垂れ死にしちゃうよ。もし旦那さんが帰って来たらその時考えればいいじゃないか。連絡先だけ教えてさ、はっきり言って叔母さんの姿見ていて辛いんだ」
 チェリー叔母さんは笑った。
「幸太郎さん、それは違うよ。あたしはこの仕事が辛いなんて感じたことないよ。あたしを育ててくれた芦ノ牧の舞台、あたしの踊りを見初めてくれた旦那、そんな場所でずっと仕事していられるほど嬉しいことはないんだよ。若い踊り子が滑らないように、足に刺が刺さらないように磨いてさ、恩返しなんだよ。そしてあの人は必ずいつか帰って来る。嘘八百並べてさ、あたしを抱いてくれるんだ。その繰り返しでいいんだ、あたしはそうやって生きていきたいんだ」
 その晩僕は宿を探した。宿代は僕が考えている半分でいいから舞台に泊まれとチェリー叔母さんに言われた。お願いしますと五万円を渡した。寿司屋に行くと大将は僕を覚えていた。
「その節はお世話になりました」
「立派におなりになって、あの晩追い出さないでよかった」
 大将は笑った。
「大将、弁護士になったよ本当に」
 チェリー叔母さんが自慢した。
「そうかい、そりゃおめでとうございます。あの晩の正義を失わずずっと持ち続けていなさったんだねえ」
「お恥ずかしい」
 僕はあの時ツケにした四万二千円も併せて支払った。大将は拒んだが女将さんが受け取った。
「あんた、失礼だよ。この方の一生の重荷になるよ。それを証拠に十五年も前の金額を覚えていたんだ。ずっと刺のように刺さっていたんだよ。気になる刺抜いてもらってさ、弱い人助けてもらわなきゃ困るでしょ」
 大将は笑って頭を下げた。
「また、福島に、ここ芦ノ牧にもお寄りください。いいとこだと皆さんにふれて回ってください」
 舞台に布団を敷いた。僕は上着だけを脱いで床に就いた。チェリー叔母さんは寝巻だった。
「幸太郎さん、懐かしいね、二人同じ布団に寝たね一緒に、あなたのおんぼろアパートでさ、覚えている、一度危なかったの」
 チェリー叔母さんは覚えていた、一度ニアミスを起こしたことを。叔母さんが寝返りを打ったのは一線を越えてはいけない関係と考えたからだった。おかしな雰囲気になって来た。
「幸太郎さん、まだ私のこと好き」
「叔母さんは僕にとって永遠に初恋の人です」
 二人は衣服を剥ぎ取るように脱がせた。チェリー叔母さんが「ちょっと待って」と舞台の照明を点けた。ミラーボールが光ってる。舞台が回る。
「チェリ~お~ば~さ~ん」



 
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