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サンタが街に男と女とB29 4
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夜中に忍び込み、命を張っての調達と違い、自転車やリヤカーを使っての運搬でした。憲兵に咎められましたが、そんなときはバッカスの薬が効いている米兵を利用し、難を逃れました。彼は私を弟のように可愛がってくれました。報酬も驚くほど貰いました。アパートはありませんでしたが店に寝泊りすることを許され、客が退けたあとはフカフカのソファーで眠ることができました。ある日調達前に店によると、マイケルが嫌がる娘に抱きついていました。私は嫌がる娘からマイケルを引き離すために嘘をつきました。
「マイケル、シーイズマイガール」
私が割って入ると彼は私の胸倉を締め付けましたが、バッカスの仲裁で事なきを得ました。マイケルにからかわれていた娘は不思議そうに私を見つめていました。
「婦長?」
「サンタ?」
私は両手で、彼女の両手を包み込みました。
「サンタ、婦長を瓦斯橋のアパートまで案内してやれ」
バッカスがカウンターに鍵を置いて店を出て行きました。髪を後ろで束ねた娘が、白人の弾くギターに合わせて歌っていました。確かセンチメンタルジャーニーだったと思います。
「しかし汚い川だなあ。夏になると赤潮で悪臭を放つんだ。父さん、当時はどうだった?」
「川縁にゴミが浮いていないだけいい、当時は垂れ流しの上、犬や猫の死体がゴミと一緒に浮いていた。食うことが先決で、川の汚れなど眼中になかった」
私達は都橋を渡ると交番前を左折した。
おんな
「しかし外国人の多い街だねえ伊勢佐木町は。君に案内されるたびに増えていくような気がする」
「そうねえ、ほんの数年前までは少し違和感があったけど、最近はこれがこの街の自然な姿になっているの。すっかり街に溶け込んでいて、商店街もしっかりと対応してるの。ほら、中国語や韓国語で自転車乗り入れ禁止のアナウンスもしてるでしょ」
「これもある意味進駐かな。ねえもう少し歩きたいけど付き合えるかい?」
「ええいいわ。その代わりお勘定びっくりしないでよ」
「おいおい、ほんとに牛一頭食べるつもりじゃないだろうなあ」
私達は長者町を右折して日の出橋を渡った。
大空襲の日、防空壕の入り口で、避難する人達を誘導していた坊主頭の学生は、四カ月足らずで立派な男になっていました。たぶんバッカスのお下がりだと思いますが、サンタは赤いシャツに白いパンツ、エナメルの靴を履き、映画スターのようにカッコつけて私を助けてくれました。彼が私に気付いてくれなければ、この再会はなかったかもしれません。彼は私の手をとり、再会を照れることなく喜んでくれました。私も嬉しくて子供みたいにはしゃいでしまいました。部屋を案内してくれた彼と、当然のように結ばれました。彼の求めるままに私も受け入れました。これが運命であると確信しました。それから二人の生活は始まりました。彼はバッカスの下で忠実に働いていました。幾度となく辛く厳しい体験をしたようですが、持ち前の根性と陽気さで切り抜けていました。苦しい胸のうちは私にも明かさず、一晩中床の中で耐えることで克服していました。私もバッカスの世話になっていました。彼が連れてくる、或いは彼の紹介だと訪れてくる患者を治療していました。無資格無届でしたが近所の子供達の掠り傷なども診てあげていたので、当局も見逃してくれていたのだと思います。病気は診ない、怪我も程度によっては病院に行くことを薦めるという条件で引き受けた仕事でしたが、朝から晩まで患者が詰めかけてきました。お金のない人には無料で治療しました。一日おきぐらいにバッカスが連れてくる患者が支払う治療代で充分でした。その治療費で家賃はおろか生活費のすべて、残りを貯金に回すことができました。
「婦長の夢は?」
「復讐」
「えっ、もしかしてアメリカに、一人で?」
「ばかっ、うち、煙草屋でしょ、両親も店もあの空襲で燃えてしまったから」
「そう、煙草屋の看板娘になろうって、お嬢さん、『ひかり』ひと箱ください、なんて」
「でも接収地になっているから返してくれるまで待たなければならないけどね」
「いつになるかわからないじゃん。看板ババアになっちゃうかも」
「こらサンタ」
今振り返ると彼が十六、私が十八で、ママ事をしていたのかもしれません。でも楽しかった。死んだ両親には申し訳ないが、彼の存在はすべての悲しみを忘れさせてくれました。話し方、笑い方、おかしな箸の持ち方、口笛が高音で詰まり、オクターブ下げる所、彼の行動ひとつひとつが私を癒し、生きる力を与えてくれました。
「おいらも協力するよ」
「何を?」
「婦長の夢さ」
彼は危険な仕事で得た収入のほとんどを私に預けるようになりました。
「これは将来二人で世界旅行するために別の通帳作りましょう。そうだ駅前の農行銀行がいいわ、サンタが必要なときすぐ下ろせるように」
「いいから、婦長の夢が先だ」
彼が私に預ける金額は日に日に多くなっていきました。私が心配をすると八重歯を出して笑っていました。アメリカ人も同じ人間で、むしろ日本の軍隊より優しいのではないかと国民は感じるようになりました。「ギブミーチョコレート」と、子供達は彼等にまとわりつき、ガムを噛んでオンリーになることを望む若い娘も少なくありませんでした。国民の誰もが食べること以外頭になかったと言っても過言ではないでしょう。軍の失策と捏造された報道がここまで被害を大きくしてしまったのです。子供達や娘達が彼等に近寄るのは、貧しさから脱却するための、切ない知恵であったのかもしれません。
「ここが黄金町かい?あの有名な」
「あら、まさかいらしたことあるとか」
「おいおい」
以前、お花見のときに川の向こう側から眺めたことはありましたが、私もこの黄金橋から初音橋の大岡川沿いを歩くのは初めてでした。そのとき目撃したのは、間口一軒の小さな店の前で、挑発的な服装をした女性が男を誘っている光景でした。一昔前までは日本人でしたが、最近はほとんどが中国やタイをはじめとする外国人のようです。でも最近は、今年の初めから伊勢佐木署が『バイバイ作戦』と銘打って取締りを強化しているせいで、開いている店はありませんでした。初音橋の欄干脇に警官が立っています。取締りを知らずにやって来た男性が腕をクロスさせて×マークを示すと、若い警官は人差し指で×マークを返していました。確かに犯罪は減りましたが街は寂しくなりました。健全な店にまで影響があるようです。
「寂しい街だねえ。噂と違うなあ」
「あら、どんな噂?」
「絡むじゃない」
「別に。今年は徹底的にやるそうよ伊勢佐木署。でも女性達はどこに行ったのかしら。帰るとこあるのかしら?」
「僕等には難し過ぎる」
おとこ
「昔この辺りに劇場があったんだが」
「映画館ならあるよ、二軒あったけど一軒は潰れたようだ」
なぜ私が知っているかというと、残っている映画館はポルノ専門で、仕事をさぼったとき、時間潰しに利用していたからである。
「それはマッカーサー劇場かな?それとも光音座かな?」
「たぶんマッカーサーじゃないな、あったとしても変わってるんじゃないの」
「邦画かねそれとも洋画?」
「邦画というか和製というか」
「それじゃあ光音座だ、間違いない。邦画は光音座と決まっていた」
私達はポルノ映画館の方へ足を向けた。
婦長は闇市の中で評判の女医となっていました。手の付けられない患者は病院に行くよう薦め、一刻を争う状態の患者には私に運ぶよう指示した。バッカスの紹介する患者はほとんどが愚連隊で、けんかで負った傷でした。婦長は深手を負った患者にはすぐ病院に行くように薦めましたが、彼等はそう簡単に従いませんでした。
「ジョーさん、あの患者さん、傷の先端が腸まで届いています。私にはできません」
「ちょろちょろっと縫って絆創膏でも貼ってやってくれ。傷口に蓋さえ付いてりゃ安心するから」
バッカスに助けを求めてもこの通りでした。数日後絆創膏で蓋をした患者が訪ねて来て、礼にと籠一杯のバナナを置いていくのでした。
「あの人病院に行きましたか?」
「いや、おまえさんの絆創膏が腸まで届いたんだろうよ」
中には自分で傷口に焼酎を噴霧して、呻きながらも木綿糸で傷口を縫いつけて帰る男もいました。
「野郎帰ったのか?あの傷で」
迎えに来たバッカスもさすがに驚いていました。
「ジョーさん、私無理です。もう恐くて」
「つれないこと言うなよ婦長。みんな喜んでるよ。ところであの野郎金は払っていったかい?」
「はい、糸代だって千円」
「足りるかい婦長?ははははっ」
港湾のかんかん虫(船倉にこびり付いた油や錆をかんかんと叩いて落とす作業)に行っても二百三十円ぐらいの日当でしたから、何も手を汚さず、ものの三十分で帰っていく患者はありがたいと思いました。儲けるときに儲けて、煙草屋を再開する資金を残して欲しかった。彼女の夢は私の生きがいとなり、危ない調達にも手を出すようになりました。地元のやくざや進駐軍に袋叩きにあって帰るときもありましたが、壕にいたころに受けた制裁に比べればどうということはありませんでした。稼いだ金を彼女に渡すときが最高の幸せです。彼女の煙草屋がオープンして、近所から看板娘って噂されていることを想像するだけでじっとしていられなくなりました。彼女も私も働きました。彼女は将来の二人のための貯金だと言っていましたが、私は彼女の煙草屋しか頭にありませんでした。
「うっ」
父はポルノ映画館の前で立ち止まりました。映画館は二軒に間仕切りされ、片方は所謂正常ポルノ、もう片方はホモポルノでした。父は、大きな看板に描かれている、皮のパンツに黒い鞭を振る男を不思議そうに眺めていました。もしかしたらアクション映画と勘違いしているのかもしれません。向かいにはマンションがあり、買い物に出かける婦人が怪訝そうに父と私を交互に見ていました。
「父さん、行こうよ」
「ああ、まだあるとはなあ」
光音座の看板に向かって独り言を言っていました。
おんな
「戻りましょうか?」
私達は初音橋を渡りまた大岡川沿いを戻りました。
「ここから先は飛行場だったのよ」
「飛行場?」
「そう飛行場、末吉町から長者町まで。大きな飛行機じゃなくて小型の。こっちよ荒井屋さん」
彼の腕を取り、食事先に向かいました。
ある日、本朝小学校の教頭先生が私のアパートに訪ねて来ました。用向きは防空壕にいる片脚の無い男のことでした。
「役所に相談したのですが、お国のために負傷した軍人に出て行けとは言えず、本人も近いうちに出て行くということなので辛抱してくれないかとのことでした。あの方は子供達に危害を加えるようなことはしませんが、もうじき小学校で『ハマ展』が開催されます。大勢のお客様がお見えになると思います。できることならその前に壕を出ていただけないかと思いまして、時折見られるあなたにお願いに来ました」
私は月に二度ほど壕に行き、彼の身体を拭き、軽く掃除をすることを続けていました。彼の身体は針金のように細くなり、出て行くより先に死んでしまうのではないかと心配しておりました。最初は『栄養剤』と思い込み、彼に言われるままに注射していた液体は、サンタに、あれはヒロポンだから手を出さないようにと注意され驚いた次第です。
「若い女がポン中の裸を拭いてるだと、よく今まで何もされなかったなあ、婦長止めろ、あいつに構うな」
身体を拭くなど論外で、壕にも出入りしないようバッカスにきつく言われましたが、あの壕で生き延びた仲間として、見捨てるわけにはいきませんでした。しかしバッカスに注意されたことが起きてしまったのです。それは教頭が訪ねてくる三日前の夕方でした。暗い壕に赤い眼が光っていました。
「ああ、いい所に来てくれた。『栄養剤』打ってくれないか、なっ頼む。血管がどこだか見分けがつかなくなった。なあ頼む、足に打ってくれ、よう足に」
「あなたは私に嘘をついていました。気付かなかった私も馬鹿でした。止めましょう小川さん、病院に行けばきっと直ります。元の身体に戻ってやり直してください」
「もう無理さ、このまま死ぬのが国のためだ。こんなチンバで生き残った俺は、この薄暗い穴の中でくたばるのが似合ってる。なあ、婦長、そんなことより打ってくれ、早く、早く、苦しい」
彼は立ち上がり片足跳びで私に襲い掛かってきました。私は必死に抵抗して彼を押し倒しました。バランスのとれない彼は棒が倒れるように後ろに引っくり返りました。壕を飛び出ると、彼の呻き声だけが私の背中に迫ってきました。そのことを翌朝帰宅したサンタに伝えると、何も言わずにやさしく抱いてくれました。それから一ヶ月後に彼は亡くなりました。私は押し倒したショックではないかと不安でなりませんでしたが、ヒロポンを大量に打ったショック死だと聞きました。子供達から化け物とからかわれていた戦争被害者は、戦後二年足らずでこの世を去ったのです。そうして何もなかったように『ハマ展』は開催され、多くの客が学校に訪れました。写真や、絵画などたくさん展示されました。著名人もたくさん出品していましたが、私の印象に残ったのは、小学校の生徒が書いた一枚の絵でした。『案山子』とタイトルされたその作品は、紛れもなく入り口から覗いた壕の中の小川でした。一本足で両手を広げるその姿は、なぜか十字架と重なってしまいました。どこか遠くを見つめ、さびしく微笑えんでいました。今でも教会の十字架を見ると彼が立っているような気がします。
私達は和室に案内されました。
「さ、好きなの食べてくれ」
「ほんとに?じゃあこれとこれ、これも」
「さすが、参りました」
和服姿の中井さんが笑っていました。
おとこ
いくら親子とはいえ、男二人でホモポルノ映画館の看板前に立っているのは抵抗がありました。じっと看板を見詰める父を急かし大通りに出ました。場外馬券場を通り過ぎた所で父が煙草に火をつけました。
年が明けても私はバッカスの下で忠実に働いておりました。かなりの収入がありましたが、その大半を婦長に預けていました。煙草も酒もバッカスからくすめ、見つかるとよく怒られました。でも彼は私のために、手の届く所に置いていました。予想通り翌朝なくなっていると薄笑いを浮かべ私を睨みつけました。私は毎夕、バー『バッカス』に顔を出し、軽くウイスキーを飲み、打ち合わせをしてから出かけました。若い女の子達はオンリーの贅沢さを見て憧れるのでした。バッカスはそんな貧しい娘を店で使い、進駐軍を紹介するのでした。オンリーになった娘のあとをつけてリヤカーを引きました。キャンプから仕入れた品物は法外な値段でもすぐに売れました。
「南京街の闇屋に閉鎖命令が出た」
「どうして?みんなあそこの食い物は美味いって喜んでいるのに」
「そんなこと知るか、GHQの命によりだ」
横浜の各所で露天商の取り締まりが厳しくなってきました。バッカスが言うには、野毛や桜木町にも、そう遠くないうちに閉鎖命令が出る。土地の権利はいただいたようなものだから強制撤去になっても必ず大替地を用意する。その前に金を残して悠々自適といこうじゃないかと笑っていました。しかし閉鎖と同時に孤児の行き先がなくなるのでした。南京街を管轄している加賀町署では孤児三百人近くを振興クラブに収容しました。どこの闇市にも戦争孤児が大勢いて、残り物を分けて貰ったり、食べ残しを漁ったりしてその日暮らしをしているのでした。たまたま終戦時に子供であったか大人であったか、ただそれだけの違いです。婦長は診療が一段落すると握り飯をたくさん作って近所に屯する孤児に分け与えていました。しかし、その噂が広がると、夕方診療所の前に子供達が群がるようになりました。もう彼女の手に負えなくなったある日、集まった子供達を当局が保護し、施設に連れて行きました。彼女は自分の軽率な慰めが、大勢の子供達から自由を奪ってしまったと悔い悩んでいましたが、施設に入り、しっかりとした教育を受けることの大事さを職員から聞かされ、安心するのでした。読み書きを覚えることは、その場しのぎの握り飯よりはるかに重要であると納得したのです。あの大空襲から二年が経とうとしたある日、壕の男がおかしいと学校から使いの人が来たのでバッカスと二人で様子を見に行きました。
「私も行きます」
「だめだ、女にゃあ毒だ。あんたは野郎のことをよく面倒看た、最後の処分は男の仕事だ」
まだ死んだと報告を受けたわけではありませんが私達の胸のうちは一致していたと思います。バッカスはきつく婦長の同行を拒否しました。私もその方がいいと思いました。先日、小川に襲われかけたことを泣きながら私に告白しました。そのことはバッカスにも報告していました。
「言わねえこっちゃねえ、いままで何もなく看病続けて来たのが不思議なくれえだ。もうガキじゃねえんだからその位わきまえるようにおまえからがっちり言ってやれ」
私は彼女を宥め部屋に残るよう説得しました。学校に行くと小使いさんが懐中電灯を下げて先導してくれました。
「一昨日の昼間に壕を覗きに行った子供達がしきりに「おかしい、おかしい」と騒ぐものですから気になりましてね。よく訪ねられる橘という軍人さんにも連絡しました。何かあったらすぐに連絡するように連絡先を残されていたので一番に電報で知らせました」
私はこれでと、小使いさんは逃げるように懐中電灯を私におしつけ、校舎の中に消えて行きました。壕に入ると尿の強烈な臭いが鼻を刺しました。婦長が壕に出入りしなくなってから、小川は身体を拭くことはおろか、糞尿まで壕の中で用足していたようです。彼女の告白から私も足を遠のけていたことを少し悔やみました。辛いときの彼の口笛にどれだけ励まされたことか。バッカスは鼻をつまみ座ったままの小川を小突きました。何も言わず筵に倒れました。手には注射器を握り、目は見開いていました。蝋燭を持った男が小川に近づいて行きました。橘でした。
「ご迷惑をお掛けしました」
「あんたのダチ公かい?」
「私の命の恩人です」
「そうかい、そりゃあしっかりと送ってやらなきゃな」
橘は彼の纏っているボロをナイフで裂き、濡れ手拭いで拭き始めました。
「白装束とはいかねえがそれっぽいもん調達してくる」
バッカスは出て行きました。私は壕の中を掃除しました。万年床になっていた筵は持ち上げるとぱらぱらとわらが落ちました。小使いさんに掃除道具一式を貸してもらい、明日から封鎖されるであろうこの壕を掃除しました。橘はバケツの水を何回も取替え、丹念に小川の身体を清めていました。紫色の太腿の付け根をやさしく拭きながら何かを話しかけているようでした。二時間ほどでバッカスが戻ってきました。掃除の終わった部屋にアメリカ製の香水を振りまきました。私は香水が好きでなかったので、きつい香りより嗅ぎ慣れている便所臭さの方が苦にならなかった。戦友によって尻の穴まできれいに拭われた小川の表情は気のせいか生気を取り戻したようでした。
「さあ、通夜だ」
バッカスは四つの湯飲みに酒を注いだ。あまり感傷的にならないバッカスでしたが今夜は違いました。ほとんど自分自身の身の上について語ることのなかった彼でしたが、海軍にいたことを、このとき初めて知りました。橘が手拭いの片方の端にたっぷりと湿した酒を小川の唇の上に垂らしました。
「すまん小川」
唇から首を伝う酒の滴を、手拭いのもう片方の端で拭き取りました。彼は小川の十八番『ラバウル小唄』を囁くように歌い始めました。バッカスも酔いが回り始めたのか一緒になって歌いだしたのです。私は歌詞を知らなかったので口笛で二人に合わせました。『ラバウル小唄』は一晩中壕の中に流れました。繰り返し聞いているうちに私も歌詞を覚え、一緒に声を張り上げました。橘に肩を支えられている小川も、口笛で伴奏しているようでした。
♪さ~ら~ばラバウルよ~を またくるま~で~は~
し~ば~しわっか~れ~の~なみだがに~じ~む~
こ~いしな~つかしあのやまみ~れ~ば~
や~しのはかげにじゅうじせ~い~
♪な~み~のしぶき~で~え ねむれぬよ~る~は~
か~た~りあっかそうよデッキのう~え~で~
ほ~しがま~た~た~く~ あのそらみ~れ~ば~
く~わ~え~たば~こ~も~ ほ~ろ~にが~い~
「父さん、父さん、父さんって」
「うっ?」
「煙草煙草、指火傷するよ」
「ああ」
父は携帯灰皿に、フィルターだけになった吸殻を捨てました。
「マイケル、シーイズマイガール」
私が割って入ると彼は私の胸倉を締め付けましたが、バッカスの仲裁で事なきを得ました。マイケルにからかわれていた娘は不思議そうに私を見つめていました。
「婦長?」
「サンタ?」
私は両手で、彼女の両手を包み込みました。
「サンタ、婦長を瓦斯橋のアパートまで案内してやれ」
バッカスがカウンターに鍵を置いて店を出て行きました。髪を後ろで束ねた娘が、白人の弾くギターに合わせて歌っていました。確かセンチメンタルジャーニーだったと思います。
「しかし汚い川だなあ。夏になると赤潮で悪臭を放つんだ。父さん、当時はどうだった?」
「川縁にゴミが浮いていないだけいい、当時は垂れ流しの上、犬や猫の死体がゴミと一緒に浮いていた。食うことが先決で、川の汚れなど眼中になかった」
私達は都橋を渡ると交番前を左折した。
おんな
「しかし外国人の多い街だねえ伊勢佐木町は。君に案内されるたびに増えていくような気がする」
「そうねえ、ほんの数年前までは少し違和感があったけど、最近はこれがこの街の自然な姿になっているの。すっかり街に溶け込んでいて、商店街もしっかりと対応してるの。ほら、中国語や韓国語で自転車乗り入れ禁止のアナウンスもしてるでしょ」
「これもある意味進駐かな。ねえもう少し歩きたいけど付き合えるかい?」
「ええいいわ。その代わりお勘定びっくりしないでよ」
「おいおい、ほんとに牛一頭食べるつもりじゃないだろうなあ」
私達は長者町を右折して日の出橋を渡った。
大空襲の日、防空壕の入り口で、避難する人達を誘導していた坊主頭の学生は、四カ月足らずで立派な男になっていました。たぶんバッカスのお下がりだと思いますが、サンタは赤いシャツに白いパンツ、エナメルの靴を履き、映画スターのようにカッコつけて私を助けてくれました。彼が私に気付いてくれなければ、この再会はなかったかもしれません。彼は私の手をとり、再会を照れることなく喜んでくれました。私も嬉しくて子供みたいにはしゃいでしまいました。部屋を案内してくれた彼と、当然のように結ばれました。彼の求めるままに私も受け入れました。これが運命であると確信しました。それから二人の生活は始まりました。彼はバッカスの下で忠実に働いていました。幾度となく辛く厳しい体験をしたようですが、持ち前の根性と陽気さで切り抜けていました。苦しい胸のうちは私にも明かさず、一晩中床の中で耐えることで克服していました。私もバッカスの世話になっていました。彼が連れてくる、或いは彼の紹介だと訪れてくる患者を治療していました。無資格無届でしたが近所の子供達の掠り傷なども診てあげていたので、当局も見逃してくれていたのだと思います。病気は診ない、怪我も程度によっては病院に行くことを薦めるという条件で引き受けた仕事でしたが、朝から晩まで患者が詰めかけてきました。お金のない人には無料で治療しました。一日おきぐらいにバッカスが連れてくる患者が支払う治療代で充分でした。その治療費で家賃はおろか生活費のすべて、残りを貯金に回すことができました。
「婦長の夢は?」
「復讐」
「えっ、もしかしてアメリカに、一人で?」
「ばかっ、うち、煙草屋でしょ、両親も店もあの空襲で燃えてしまったから」
「そう、煙草屋の看板娘になろうって、お嬢さん、『ひかり』ひと箱ください、なんて」
「でも接収地になっているから返してくれるまで待たなければならないけどね」
「いつになるかわからないじゃん。看板ババアになっちゃうかも」
「こらサンタ」
今振り返ると彼が十六、私が十八で、ママ事をしていたのかもしれません。でも楽しかった。死んだ両親には申し訳ないが、彼の存在はすべての悲しみを忘れさせてくれました。話し方、笑い方、おかしな箸の持ち方、口笛が高音で詰まり、オクターブ下げる所、彼の行動ひとつひとつが私を癒し、生きる力を与えてくれました。
「おいらも協力するよ」
「何を?」
「婦長の夢さ」
彼は危険な仕事で得た収入のほとんどを私に預けるようになりました。
「これは将来二人で世界旅行するために別の通帳作りましょう。そうだ駅前の農行銀行がいいわ、サンタが必要なときすぐ下ろせるように」
「いいから、婦長の夢が先だ」
彼が私に預ける金額は日に日に多くなっていきました。私が心配をすると八重歯を出して笑っていました。アメリカ人も同じ人間で、むしろ日本の軍隊より優しいのではないかと国民は感じるようになりました。「ギブミーチョコレート」と、子供達は彼等にまとわりつき、ガムを噛んでオンリーになることを望む若い娘も少なくありませんでした。国民の誰もが食べること以外頭になかったと言っても過言ではないでしょう。軍の失策と捏造された報道がここまで被害を大きくしてしまったのです。子供達や娘達が彼等に近寄るのは、貧しさから脱却するための、切ない知恵であったのかもしれません。
「ここが黄金町かい?あの有名な」
「あら、まさかいらしたことあるとか」
「おいおい」
以前、お花見のときに川の向こう側から眺めたことはありましたが、私もこの黄金橋から初音橋の大岡川沿いを歩くのは初めてでした。そのとき目撃したのは、間口一軒の小さな店の前で、挑発的な服装をした女性が男を誘っている光景でした。一昔前までは日本人でしたが、最近はほとんどが中国やタイをはじめとする外国人のようです。でも最近は、今年の初めから伊勢佐木署が『バイバイ作戦』と銘打って取締りを強化しているせいで、開いている店はありませんでした。初音橋の欄干脇に警官が立っています。取締りを知らずにやって来た男性が腕をクロスさせて×マークを示すと、若い警官は人差し指で×マークを返していました。確かに犯罪は減りましたが街は寂しくなりました。健全な店にまで影響があるようです。
「寂しい街だねえ。噂と違うなあ」
「あら、どんな噂?」
「絡むじゃない」
「別に。今年は徹底的にやるそうよ伊勢佐木署。でも女性達はどこに行ったのかしら。帰るとこあるのかしら?」
「僕等には難し過ぎる」
おとこ
「昔この辺りに劇場があったんだが」
「映画館ならあるよ、二軒あったけど一軒は潰れたようだ」
なぜ私が知っているかというと、残っている映画館はポルノ専門で、仕事をさぼったとき、時間潰しに利用していたからである。
「それはマッカーサー劇場かな?それとも光音座かな?」
「たぶんマッカーサーじゃないな、あったとしても変わってるんじゃないの」
「邦画かねそれとも洋画?」
「邦画というか和製というか」
「それじゃあ光音座だ、間違いない。邦画は光音座と決まっていた」
私達はポルノ映画館の方へ足を向けた。
婦長は闇市の中で評判の女医となっていました。手の付けられない患者は病院に行くよう薦め、一刻を争う状態の患者には私に運ぶよう指示した。バッカスの紹介する患者はほとんどが愚連隊で、けんかで負った傷でした。婦長は深手を負った患者にはすぐ病院に行くように薦めましたが、彼等はそう簡単に従いませんでした。
「ジョーさん、あの患者さん、傷の先端が腸まで届いています。私にはできません」
「ちょろちょろっと縫って絆創膏でも貼ってやってくれ。傷口に蓋さえ付いてりゃ安心するから」
バッカスに助けを求めてもこの通りでした。数日後絆創膏で蓋をした患者が訪ねて来て、礼にと籠一杯のバナナを置いていくのでした。
「あの人病院に行きましたか?」
「いや、おまえさんの絆創膏が腸まで届いたんだろうよ」
中には自分で傷口に焼酎を噴霧して、呻きながらも木綿糸で傷口を縫いつけて帰る男もいました。
「野郎帰ったのか?あの傷で」
迎えに来たバッカスもさすがに驚いていました。
「ジョーさん、私無理です。もう恐くて」
「つれないこと言うなよ婦長。みんな喜んでるよ。ところであの野郎金は払っていったかい?」
「はい、糸代だって千円」
「足りるかい婦長?ははははっ」
港湾のかんかん虫(船倉にこびり付いた油や錆をかんかんと叩いて落とす作業)に行っても二百三十円ぐらいの日当でしたから、何も手を汚さず、ものの三十分で帰っていく患者はありがたいと思いました。儲けるときに儲けて、煙草屋を再開する資金を残して欲しかった。彼女の夢は私の生きがいとなり、危ない調達にも手を出すようになりました。地元のやくざや進駐軍に袋叩きにあって帰るときもありましたが、壕にいたころに受けた制裁に比べればどうということはありませんでした。稼いだ金を彼女に渡すときが最高の幸せです。彼女の煙草屋がオープンして、近所から看板娘って噂されていることを想像するだけでじっとしていられなくなりました。彼女も私も働きました。彼女は将来の二人のための貯金だと言っていましたが、私は彼女の煙草屋しか頭にありませんでした。
「うっ」
父はポルノ映画館の前で立ち止まりました。映画館は二軒に間仕切りされ、片方は所謂正常ポルノ、もう片方はホモポルノでした。父は、大きな看板に描かれている、皮のパンツに黒い鞭を振る男を不思議そうに眺めていました。もしかしたらアクション映画と勘違いしているのかもしれません。向かいにはマンションがあり、買い物に出かける婦人が怪訝そうに父と私を交互に見ていました。
「父さん、行こうよ」
「ああ、まだあるとはなあ」
光音座の看板に向かって独り言を言っていました。
おんな
「戻りましょうか?」
私達は初音橋を渡りまた大岡川沿いを戻りました。
「ここから先は飛行場だったのよ」
「飛行場?」
「そう飛行場、末吉町から長者町まで。大きな飛行機じゃなくて小型の。こっちよ荒井屋さん」
彼の腕を取り、食事先に向かいました。
ある日、本朝小学校の教頭先生が私のアパートに訪ねて来ました。用向きは防空壕にいる片脚の無い男のことでした。
「役所に相談したのですが、お国のために負傷した軍人に出て行けとは言えず、本人も近いうちに出て行くということなので辛抱してくれないかとのことでした。あの方は子供達に危害を加えるようなことはしませんが、もうじき小学校で『ハマ展』が開催されます。大勢のお客様がお見えになると思います。できることならその前に壕を出ていただけないかと思いまして、時折見られるあなたにお願いに来ました」
私は月に二度ほど壕に行き、彼の身体を拭き、軽く掃除をすることを続けていました。彼の身体は針金のように細くなり、出て行くより先に死んでしまうのではないかと心配しておりました。最初は『栄養剤』と思い込み、彼に言われるままに注射していた液体は、サンタに、あれはヒロポンだから手を出さないようにと注意され驚いた次第です。
「若い女がポン中の裸を拭いてるだと、よく今まで何もされなかったなあ、婦長止めろ、あいつに構うな」
身体を拭くなど論外で、壕にも出入りしないようバッカスにきつく言われましたが、あの壕で生き延びた仲間として、見捨てるわけにはいきませんでした。しかしバッカスに注意されたことが起きてしまったのです。それは教頭が訪ねてくる三日前の夕方でした。暗い壕に赤い眼が光っていました。
「ああ、いい所に来てくれた。『栄養剤』打ってくれないか、なっ頼む。血管がどこだか見分けがつかなくなった。なあ頼む、足に打ってくれ、よう足に」
「あなたは私に嘘をついていました。気付かなかった私も馬鹿でした。止めましょう小川さん、病院に行けばきっと直ります。元の身体に戻ってやり直してください」
「もう無理さ、このまま死ぬのが国のためだ。こんなチンバで生き残った俺は、この薄暗い穴の中でくたばるのが似合ってる。なあ、婦長、そんなことより打ってくれ、早く、早く、苦しい」
彼は立ち上がり片足跳びで私に襲い掛かってきました。私は必死に抵抗して彼を押し倒しました。バランスのとれない彼は棒が倒れるように後ろに引っくり返りました。壕を飛び出ると、彼の呻き声だけが私の背中に迫ってきました。そのことを翌朝帰宅したサンタに伝えると、何も言わずにやさしく抱いてくれました。それから一ヶ月後に彼は亡くなりました。私は押し倒したショックではないかと不安でなりませんでしたが、ヒロポンを大量に打ったショック死だと聞きました。子供達から化け物とからかわれていた戦争被害者は、戦後二年足らずでこの世を去ったのです。そうして何もなかったように『ハマ展』は開催され、多くの客が学校に訪れました。写真や、絵画などたくさん展示されました。著名人もたくさん出品していましたが、私の印象に残ったのは、小学校の生徒が書いた一枚の絵でした。『案山子』とタイトルされたその作品は、紛れもなく入り口から覗いた壕の中の小川でした。一本足で両手を広げるその姿は、なぜか十字架と重なってしまいました。どこか遠くを見つめ、さびしく微笑えんでいました。今でも教会の十字架を見ると彼が立っているような気がします。
私達は和室に案内されました。
「さ、好きなの食べてくれ」
「ほんとに?じゃあこれとこれ、これも」
「さすが、参りました」
和服姿の中井さんが笑っていました。
おとこ
いくら親子とはいえ、男二人でホモポルノ映画館の看板前に立っているのは抵抗がありました。じっと看板を見詰める父を急かし大通りに出ました。場外馬券場を通り過ぎた所で父が煙草に火をつけました。
年が明けても私はバッカスの下で忠実に働いておりました。かなりの収入がありましたが、その大半を婦長に預けていました。煙草も酒もバッカスからくすめ、見つかるとよく怒られました。でも彼は私のために、手の届く所に置いていました。予想通り翌朝なくなっていると薄笑いを浮かべ私を睨みつけました。私は毎夕、バー『バッカス』に顔を出し、軽くウイスキーを飲み、打ち合わせをしてから出かけました。若い女の子達はオンリーの贅沢さを見て憧れるのでした。バッカスはそんな貧しい娘を店で使い、進駐軍を紹介するのでした。オンリーになった娘のあとをつけてリヤカーを引きました。キャンプから仕入れた品物は法外な値段でもすぐに売れました。
「南京街の闇屋に閉鎖命令が出た」
「どうして?みんなあそこの食い物は美味いって喜んでいるのに」
「そんなこと知るか、GHQの命によりだ」
横浜の各所で露天商の取り締まりが厳しくなってきました。バッカスが言うには、野毛や桜木町にも、そう遠くないうちに閉鎖命令が出る。土地の権利はいただいたようなものだから強制撤去になっても必ず大替地を用意する。その前に金を残して悠々自適といこうじゃないかと笑っていました。しかし閉鎖と同時に孤児の行き先がなくなるのでした。南京街を管轄している加賀町署では孤児三百人近くを振興クラブに収容しました。どこの闇市にも戦争孤児が大勢いて、残り物を分けて貰ったり、食べ残しを漁ったりしてその日暮らしをしているのでした。たまたま終戦時に子供であったか大人であったか、ただそれだけの違いです。婦長は診療が一段落すると握り飯をたくさん作って近所に屯する孤児に分け与えていました。しかし、その噂が広がると、夕方診療所の前に子供達が群がるようになりました。もう彼女の手に負えなくなったある日、集まった子供達を当局が保護し、施設に連れて行きました。彼女は自分の軽率な慰めが、大勢の子供達から自由を奪ってしまったと悔い悩んでいましたが、施設に入り、しっかりとした教育を受けることの大事さを職員から聞かされ、安心するのでした。読み書きを覚えることは、その場しのぎの握り飯よりはるかに重要であると納得したのです。あの大空襲から二年が経とうとしたある日、壕の男がおかしいと学校から使いの人が来たのでバッカスと二人で様子を見に行きました。
「私も行きます」
「だめだ、女にゃあ毒だ。あんたは野郎のことをよく面倒看た、最後の処分は男の仕事だ」
まだ死んだと報告を受けたわけではありませんが私達の胸のうちは一致していたと思います。バッカスはきつく婦長の同行を拒否しました。私もその方がいいと思いました。先日、小川に襲われかけたことを泣きながら私に告白しました。そのことはバッカスにも報告していました。
「言わねえこっちゃねえ、いままで何もなく看病続けて来たのが不思議なくれえだ。もうガキじゃねえんだからその位わきまえるようにおまえからがっちり言ってやれ」
私は彼女を宥め部屋に残るよう説得しました。学校に行くと小使いさんが懐中電灯を下げて先導してくれました。
「一昨日の昼間に壕を覗きに行った子供達がしきりに「おかしい、おかしい」と騒ぐものですから気になりましてね。よく訪ねられる橘という軍人さんにも連絡しました。何かあったらすぐに連絡するように連絡先を残されていたので一番に電報で知らせました」
私はこれでと、小使いさんは逃げるように懐中電灯を私におしつけ、校舎の中に消えて行きました。壕に入ると尿の強烈な臭いが鼻を刺しました。婦長が壕に出入りしなくなってから、小川は身体を拭くことはおろか、糞尿まで壕の中で用足していたようです。彼女の告白から私も足を遠のけていたことを少し悔やみました。辛いときの彼の口笛にどれだけ励まされたことか。バッカスは鼻をつまみ座ったままの小川を小突きました。何も言わず筵に倒れました。手には注射器を握り、目は見開いていました。蝋燭を持った男が小川に近づいて行きました。橘でした。
「ご迷惑をお掛けしました」
「あんたのダチ公かい?」
「私の命の恩人です」
「そうかい、そりゃあしっかりと送ってやらなきゃな」
橘は彼の纏っているボロをナイフで裂き、濡れ手拭いで拭き始めました。
「白装束とはいかねえがそれっぽいもん調達してくる」
バッカスは出て行きました。私は壕の中を掃除しました。万年床になっていた筵は持ち上げるとぱらぱらとわらが落ちました。小使いさんに掃除道具一式を貸してもらい、明日から封鎖されるであろうこの壕を掃除しました。橘はバケツの水を何回も取替え、丹念に小川の身体を清めていました。紫色の太腿の付け根をやさしく拭きながら何かを話しかけているようでした。二時間ほどでバッカスが戻ってきました。掃除の終わった部屋にアメリカ製の香水を振りまきました。私は香水が好きでなかったので、きつい香りより嗅ぎ慣れている便所臭さの方が苦にならなかった。戦友によって尻の穴まできれいに拭われた小川の表情は気のせいか生気を取り戻したようでした。
「さあ、通夜だ」
バッカスは四つの湯飲みに酒を注いだ。あまり感傷的にならないバッカスでしたが今夜は違いました。ほとんど自分自身の身の上について語ることのなかった彼でしたが、海軍にいたことを、このとき初めて知りました。橘が手拭いの片方の端にたっぷりと湿した酒を小川の唇の上に垂らしました。
「すまん小川」
唇から首を伝う酒の滴を、手拭いのもう片方の端で拭き取りました。彼は小川の十八番『ラバウル小唄』を囁くように歌い始めました。バッカスも酔いが回り始めたのか一緒になって歌いだしたのです。私は歌詞を知らなかったので口笛で二人に合わせました。『ラバウル小唄』は一晩中壕の中に流れました。繰り返し聞いているうちに私も歌詞を覚え、一緒に声を張り上げました。橘に肩を支えられている小川も、口笛で伴奏しているようでした。
♪さ~ら~ばラバウルよ~を またくるま~で~は~
し~ば~しわっか~れ~の~なみだがに~じ~む~
こ~いしな~つかしあのやまみ~れ~ば~
や~しのはかげにじゅうじせ~い~
♪な~み~のしぶき~で~え ねむれぬよ~る~は~
か~た~りあっかそうよデッキのう~え~で~
ほ~しがま~た~た~く~ あのそらみ~れ~ば~
く~わ~え~たば~こ~も~ ほ~ろ~にが~い~
「父さん、父さん、父さんって」
「うっ?」
「煙草煙草、指火傷するよ」
「ああ」
父は携帯灰皿に、フィルターだけになった吸殻を捨てました。
0
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