サンタが街に男と女とB29

壺の蓋政五郎

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サンタが街に男と女とB29 5

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おんな

「ふーっお腹いっぱい」
「そりゃあよかった、そうだおばあさんの分頼んだら」
「はーい」
 私は祖母への持ち帰りを仲居さんにお願いしました。保冷用の氷に挟まれた肉を彼が持ってくれました。
「どうします?」
「まだいいじゃないか、そこらをぶらついてお茶でも飲もうよ」
 ネオンがまぶしくなった福富町仲通りを吉田町に向かって歩き出しました。

 大空襲から二年が過ぎ去ろうとしていました。伊勢山皇大神宮大祭の日に、伊勢佐木署がデンスケ賭博の一斉手入れをしました。瓦斯橋まで逃げてきた関西から来たグループを、警察が追い詰めるという大捕り物を目撃しました。大阪弁で騒ぐ男を警官が三人がかりで取り押さえました。大阪弁などラジオで聴くぐらいで、間近で耳にしたのは初めてでした。
「頑張ってくれてるみたいだね、近所の人からは料金をいただかないそうじゃないか。だがやはりいつまでも無資格では困るんだ。それにもしかしたら君のことをねたんで垂れ込む者も出てくるかもしれない。そうなると我々は動かないわけにはいかない。どうなんだろう、このまま続けるのなら資格を取るよう努力してくれないか」
 でんすけの一斉手入れついでに、闇市界隈を巡回していた刑事が私に言いました。
「すいません。うちは山田町で、あの大空襲で親も店も焼けてしまいました。住んでいた土地は接収され、行き場を失ってしまいました。接収解除になったら煙草屋を再開するつもりです。もし、ご迷惑をお掛けするようでしたすぐに辞めます」
「そう、そういう事情。だったら君がお店を再開するまで子供達看てやってよ。みんなが金を出して医者にかかれるようになるまで続けて欲しい。もしなんかのときは事前に連絡するから」
 彼は敬礼してアパートをあとにしました。バッカスが言っていましたが、これからはあちこちで手入れ、そして強制撤去が執行されるでしょう。
「いいか婦長、景気がよくなり、みんなが豊かになるとき俺達は不要になるんだ。その兆しが見えてきた。南京街をはじめあっちこっちに手入れが入ってるだろ、景気が回復するって国は算段してるんだ。豊かになるときにゴミは処分するんだ。なあ婦長、ゴミだって一時期貢献したことは間違いねえ。今のうちに金残して、ゴミ箱から這い出るときは人並みといこうじゃねえか」
 私が診療所を始めたのは他ならぬバッカスの命令でした。何か、無責任のような気がしましたが、彼の紹介してくれる患者によって私の預金通帳が膨れていったのは間違いありません。サンタは私の煙草屋再会の夢のため、寝る間も惜しんで仕事をしていました。バッカスの指示する仕事だけではなく、飛び込みの仕事にも手を出すようになりました。
「夜中にジョーさんがサンタいるかって訪ねて来たわよ、会ってないの」
「気にしない気にしない」
 サンタとは同じ屋根の下で暮らしていますが、彼は夕方に出かけて、帰宅はいつも明け方でした。私は朝から晩の七時まで、日曜も祝祭日もなく診療していましたので、一緒に休むことはほとんどありませんでした。
「もしかしたら今日は帰って来れないかもしれないけど心配しないでいいから」
「無理しないで」
 私の心配をよそに彼は笑って出かけて行きました。そして二晩彼は帰って来ませんでした。
「ジョーさん、サンタが帰って来ませんが心当たりはないでしょうか」
「何?アパートで休んでるんじゃないのかあいつ。最近俺に内緒で他の仕事も請けてるみたいだ。まあいつまでも俺の下に付いてるとは考えちゃあいねえが、義理を欠いたらこの世界生きちゃいけねえ。心当たりはあるから当たってやるよ。だがちっとは説教しねえとなあ、まあ婦長の手に負えるぐらいには済ませる」
 バッカスは笑っていましたが、背筋の凍るような眼差しを感じました。私は診療を終えると、いてもたってもいられなくなりサンタを捜しに行きました。これと言って心当たりがあるわけではありませんが、伊勢佐木町から黄金町、若葉町、福富町などの繁華街や闇市の立つ辺りを回って歩きました。しかし所詮無理なことでした。若葉町の飛行場の脇で休んでいると、マンダリンの澄んだ音が流れてきました。横浜出身の少女歌手が歌うメロディでした。しばらく聞いていたように記憶しています。明け方戻ると玄関に濡れた足跡がありました。
「サンタ、お帰り、心配したわ」
 彼は電気も付けず、毛布に包まって壁を向いて寝ていました。毛布が小刻みに震えているのがわかりました。そっと毛布を捲ると、火傷痕から血が染み出ていました。白い肌はどす黒く変わっていました。
「サンタ、どうしたの?ねえどうしたの?」
「ごめん、しくじっちゃった。明日はちゃんと稼いでくるから。ごめん」
 私は彼の顔を覗かずに、背中越しに傷を消毒し薬を塗りました。あのときと一緒です。壕の中で調達に失敗して帰ってきたときも彼は肩を震わせ謝りました。何処で誰に何をされたのか、誰にも打ち明けず、肩を震わせ啜り泣くことで解決するのでした。あのときは口笛で啜り泣きを隠してくれる軍人がいました。私は『悲しい口笛』をハミングしました。

「伊勢佐木モールに戻ろう」
 彼が私の肩を抱き寄せました。中国人の呼び込みが、ぶらつく男にいい女がいると呼び込んでいます。一人や二人ではありません。韓国人女性が携帯電話に大声で話しかけています。色の浅黒い女性の集団が大きな笑い声を上げながらエレベーターに乗り込みました。胸を強調した白人女性が煙草を排水溝に投げ捨てました。このような光景が通りのあちこちで見られます。鏡を向かい合わせたように繋がっています。私達の存在の方が不自然なのかもしれません。
「はい」
 彼の腰にしっかりと掴まり、伊勢佐木モールまで戻りました。

おとこ

「父さん、ランドマーク上ったことないだろう?」
「ああ、高いんだろう?」
「そりゃあ日本で一番高いビルだ」
「そのぐらいは知っている、そうじゃなくて料金が」
「しけた事言うなあ父さんも、さあ行こう」
 私達は、身体を上に摘み上げられるようなエレベーターに乗り、あっと言う間に最上階の展望台に着いた。
「高い」
 父が独り言のようにつぶやいたのはやはり料金のことだと思いました。

 バッカスの下で働くようになって三年が過ぎました。新潟の母には二ヶ月に一度はがきを、また三ヶ月に一度、送金もしていました。バッカスからは日払いで貰えるので毎日婦長に預けていました。サラリーマンの初任給が千二百円ぐらいでしたから、私はその数倍は楽に稼いでいました。母に送金するときは婦長に頼んでいましたが、彼女は私の預けた金額に自分の金を足して送金していました。兄が代筆した手紙に『確かに○○円預かりました。ありがとう』と書いてあるのでわかりました。彼女の厚意をお節介だと思いました。婦長の店が開店したら、次は稼いだ全額を母に送るつもりでいたからです。何もかも一瞬に失い、誰よりも悲しみのどん底にいるにもかかわらず、目の前にいる弱い者へ手を差し伸べる、困った人を見過ごせない、そんな婦長の夢である煙草屋を一刻も早く再開させてあげたかった。母への仕送りはそれからでも充分間に合うと思っていました。サンタは若いけど、調達に失敗して制裁を受けても泣きを入れない、だからクライアントに迷惑をかけない、という噂は闇屋の間では評判になっていました。ですからバッカスに内緒で頼まれることも多くなってきました。バッカスは命の恩人であり、強引ではありましたが、彼から調達の仕事を勧誘されなければ、小川と同じ運命を辿っていたかもしれない私でした。何があろうと彼の命令が絶対でした。ですが早く終わったり、中止になったりしたときは他の仕事も請けていました。もちろんバッカスには知らせませんでしたが、人一倍勘のいい彼のことですから、気が付いていたかもしれません。他所からの仕事を請けたからといって、バッカスの仕事を疎かにしたことはありませんでした。しかし疲労が、俊敏な行動を求められる、高額報酬の仕事の負担になっていたのは、自分自身がよくわかっていました。
「サンタ、稼ぐのもいいがどじ踏むなよ。おめえは袋にされて痛い思いで済む、方輪になっても殺されやしねえだろうからなあ。だが元受はそうはいかねえ、信用がなくなり食えなくなる、その商売に携わった全員がだ。歳は若いがおめえも一端の調達屋だ、おれもケチなことは言わねえが仁義だけは欠くなよ」
 バッカスの忠告はこれ一回切りでした。私は真剣に仕事をし、迷惑をかけないようにしました。そんなある日高額報酬の仕事依頼がありました。
「サンタさんですね?後藤一家の工藤といいますけど、あんたの力借りたくてねえ、話だけでも聞いてくれませんか?」
 後藤一家は野毛一帯を取り仕切るやくざでした。バッカスも緑橋に露天を出したときに、後藤一家から事務所に呼び出されたことがありました。

「バッカスさんでいいのかな?」
「はい、バッカスのジョーと言います」
「うちの組合に参加協力してくれないか?」
「命令ですか?」
「いや、このわしがお願いしてるだけだ」
「わかりました、少し考えさせてください」
 バッカスは後藤一家の組長に脅しに似た勧誘の返事を迫られていました。それからアメリカ軍の駐留が始まり、進駐軍とのパイプを太くしていったバッカスはそれをバックに仕事も拡げていきました。後藤の会長も、返事を先延ばしにしている彼に、迂闊に手を出せなくなってしまったのです。ある日後藤一家が、バッカスに夜襲をかけると情報が入りました。バッカスは夜襲に備え、手懐けた兵士を七人、店に待機させていました。店はいつも通り開店し、中からはブルースが流れていました。ドアを蹴り倒し踏み込んだ後藤の六人は、日本刀を持って乱入しました。店内では米軍が最新兵器を持って待ち構えていました。一人の兵士が殴りこんで来た後藤一家の足元に機関銃を乱射しました。
「いらっしゃい、酒かい、女かい?」
 バッカスは何も言わずに立ち竦んでいる男の手から日本刀を奪い取ると耳を摘まんで切り落としました。男は声を上げずに痛みを堪えていました。
「組長に伝えといてくれ、アメリカとやるなら刀じゃ無理だって」
 引き上げようとする後藤一家に、一人の兵士が耳を拾い、耳を切り落とされた男とは別の男の口に銜えさせました。
「GET OUT」
 逃げる彼等に機関銃の乱射と高笑いが追いかけました。それ以後、後藤一家からバッカスへのちょっかいはなくなりました。

 その中の一人が私を訪ねて来たのです。
「勘違いしないでくださいよ、あのときの恨みなんてありません。報酬は前金で用意しました」
 彼は私の前に百円札で二万円の束を置きました。私は内容も確認せずに金を受け取ってしまいました。煙草屋再開に大きく近づく、そう思うと仕事内容の危険度など気になりませんでした。
「明日、ゲーリック球場(横浜球場)で進駐軍対抗試合があります。キャンプの見張りが手薄になる。その隙を突いて洋酒を倉庫ごとパクる。適当なオンリー見繕ってもらって中に入る段取りを頼みますよ」
 私はサムという黒人兵に頼んだ。見返りに三千円を渡した。一夜漬けのオンリーにも小遣いを渡し、荷物を運ぶということでキャンプに進入した。もちろんどじったときは、サムもオンリーも無関係という条件である。工藤の言う通り警備は普段より薄かった。私と後藤一家の二人はオンリーの身内としてうまく入り込んだ。私は経験から酒や煙草の倉庫がわかるようになっていました。倉庫裏のスレートを剥がし、胴縁の隙間から侵入しました。後藤の二人は私がなまこのように身体をくねらせるのを見て驚いていました。
「いいか、落とすなよ、ビンが割れる音は響く」
 私は中から手当たりしだいに外の男に渡しました。もう一人がフェンスの外で待つ男にフェンスの下から渡しました。作戦通りに進みました。時間は三十分でした。八時ジャストにサムと待ち合わせをしていました。
「もう荷台が満杯で乗らないらしい、それにぼちぼち時間だ」
 私から受け取っていた男が言いました。そのときです、倉庫内の灯りと同時に私の背中に銃が突きつけられました。私は取り押さえられゲートに連れて行かれました。表の二人は気付かれずに待ち合わせ場所までうまく逃げました。まさにサム達がキャンプを出るところでした。警備の一人がサムに問いました。
「おまえの友達か」
 首を振って知らないとサムは答えました。二日間制裁を受けましたが我慢できるものでした。一週間でも十日でも辛抱する自信がありました。尋問する兵士達は私が口を割らないのが不思議でならないようでした。尋問をする一人の兵士はバッカスで見かけたことのある男でした。彼は私と婦長の関係を知っており、共犯者を割らないと診療所を閉鎖すると脅されました。これは効きました。彼女に迷惑だけはかけたくなかった。そして絶対に欠いてはならない仁義を破ってしまったのです。私は共犯者を吐いたことで釈放されました。キャンプから歩いて帰る途中でした。いきなり車に押し込められ暴行を受けました。後藤一家が懇親にしている兵士から私の情報を仕入れ待ち伏せていたのです。そして中村川に浮かぶ水上ホテルに連れて行かれました。口にぼろ雑巾を咥えさせられて大空襲で負った火傷の跡を匕首で削ぎ落とされました。この制裁は今までで一番でした、気を失いかけました。すると聞き覚えのある声が朦朧とした意識の中で聞こえてきました。ぼやけた眼で声の方を見るとバッカスが立っていました。どうして彼がいるのかわかりませんでした。
「ようバッカス、この間は世話になったな。おかげさんで耳糞が掘りやすくなったぜ。ところでこのガキおめえんとこの稼ぎ頭だろ?」
「どうかな、ガキに聞いてみな」
「そうかい、ようもう一皮剥いてやれ」
 私は痛さのあまり失禁してしまいました。
「だったらどうする?」
「そうかい、物分りがいいじゃねえか、押さえろ」
 バッカスは六人の男に羽交い絞めにされ、頭を横向きにデッキに押さえつけられました。私の倒れている目の前でした。
「あんちゃん、ようく見てろ。若い衆が粗相すると兄いはどうなるか」
そう言うとバッカスの耳を付け根からゆっくりと匕首で切り落としました。奥歯を噛んで堪えているバッカスの顔が私の目の前にありました。そして二人は、川に放り込まれました。そのあとは意識朦朧でした。ただ誰かにおぶられて帰ったような気がします。誰かというのはバッカス以外にいないでしょう。『ラバウル小唄』が子守唄のように聞こえました。しばらくすると私は放り投げられ、そのまま眠ってしまいました。気が付くと婦長のアパートで、倒れている場所は自分の布団の上でした。そこで始めてバッカスに助けてもらったのだと気が付きました。情けなくて涙が零れました。そして自分の愚かさに気が付くと同時に、バッカスの強さを感じました。もうバッカスの耳は元に戻らない。生涯彼の手足となって償うと心に誓いました。ドアが開き、誰かが入って来ました。婦長です。彼女はそっと毛布を捲り、嗚咽を漏らしました。私の身体をきれいに拭いて消毒し、薬を塗ってくれました。泣いているように聞こえましたが、流行歌を歌っているようにも聞こえました。

「父さん、ほら家が見える」
「いい眺めだ、夜景がきれいだ横浜は」
 父は子供のようにガラスにへばりついていました。死に物狂いで駆け回った六十年前を、こんな高い所から眺めるなどと想像したでしょうか。

おんな

「恐かったろう?」
「ええ」
 私はこの地元で生まれ育ちましたが、夜の福富町を歩いたのは初めてでした。裏と表がこんなにはっきりしている街は他にもあるのでしょうか?家族連れや恋人達で賑わう伊勢佐木モールと、それと平行する、欲望だけが通り過ぎる福富町東通りは、裏表に彫られた一枚の版画なのかもしれません。表から裏へ通ずる路地は、たかだか数十歩でしかありませんが、いきなり街の表情を一変するのではなく、歩行者の目を慣らすために、順を踏んでいることにまた驚きました。

 サンタは驚異的な回復力で仕事に復帰しました。彼の怪我とバッカスの片方の耳がなくなっているのは、何か関係があるのだとは思いましたが、私が訊ねても、サンタは白い歯を剥き出して笑うだけでした。野毛のマーケットで大火があった翌年、各地の闇市を閉鎖する話が具体的になってきました。焼き払ってしまうという強引な手段もあったようです。
「パンパンと浮浪者が消えた。風通しがよくなったが、いったいどこに連れて行ったんだ」
 バッカスが首をひねって言いました。バッカスは耳がなくなってから鳥打帽を被っていました。それに合わせて服装も変え、赤いシャツに麻のジャケット姿から、迷彩服に編み上げの軍靴を履くようになっていました。博覧会会場近くを横行する娼婦千人弱と、浮浪者千人弱を、市警が検挙しました。バッカスの言うように、確かにそんな大きな収容所があるのかどうか信じられませんでした。脅かすか、或いはいくらかの金銭を与え、博覧会が終わるまでどこかに移動させたのだと思います。
「よう婦長、ここらも長くて三~四年だ。引き際誤ると元の木阿弥だ。それとサンタのことだが、まあいいや、ただあいつも俺とおんなじ世界に住む男だ」
 バッカスはたぶん、「サンタのことを信じ過ぎてはいけない」と言おうとしたのだと思います。逃げ惑う人達を誘導していた無垢な少年から、プロの調達屋として信頼される男になっていましたが、それは裏社会でのみ通用することで、一般社会から見ればただのやくざに過ぎなかったのかもしれません。すべてを失った国民は終戦をスタートラインにし、確実に前に進んでいきました。それも力強く全速力で進み始めたのです。そうなると私達闇市に暮らす者にとって、特にバッカスやサンタのような存在は影が薄くなるのでした。

 年が明けて、桜川埋め立て整備が始まりました。瓦斯橋寄り側に出店していた露天商達は、既に埋め立てられた反対側に無断で移転したので市は困っているようでした。当然私が暮らすアパートも、近いうちに立ち退き勧告が発令されるでしょう。整備事業は着々と進められ、戦争罹災者を踏み台に、新生日本が創られていくのでした。じめじめと長雨が続くある日、朝鮮で戦争が始まりました。わが日本はその影響で鉄鋼産業、繊維産業が忙しくなりました。『金ヘン、糸ヘン』と言って、所謂『特需景気』の中でも抜きん出て景気がよかったのです。
「婦長、新潟に帰らなければならない」
 こうサンタから打ち明けられたのはお盆を過ぎてからでした。
「お母さんを安心させてあげなさい。あなたも少しゆっくりと身体休めたらいいわ」
「そうじゃないんだ、兄が警察予備隊に志願して東京に出るらしい。おふくろが一人なってしまう」
「いつまで?」
「わからない」
「三年?」
「たぶん」
「待ってるわ」
 ショックでした。恩知らずと言われるかもしれませんが、両親が焼け死んだときより苦しかった。彼のいない生活など考えられませんでした。彼の真っ白な歯を出して笑う顔が、辛い想い出を忘れさせてくれました。これから眠れない夜に、母の裁縫姿や、父が植木を眺める姿が浮かんだらどうすればいいのでしょうか。毎日が落ち着かず診療にも実が入りませんでした。あの大空襲の日に出会い、五年間彼と生活を共にしました。仕事の関係で、一つ屋根の下にいても寄り添う時間は少なかった。彼が帰郷するまでの二週間は、バッカスの取り計らいもあって、二人きりで過ごすことができました。今振り返っても、人生で一番かけがえのない時でした。

「どうします?」
「軽く一杯やろうか、古い店がいいなあ」
 私は時間の許す限り彼と一緒にいたかった。彼の仕事上次に会えるのは一月後になってしまう。
「野毛に感じのいい店があるわ、スナックだけど」
「ああいいねえ、桜木町も近いし、終電の十分前まで君と一緒にいられる」
「あら、本気にしていいのかしら」
「心配なのはその肉だ」
「大丈夫、お店に着いたら氷いただくは」
 私達は伊勢佐木町から吉田町に入った。火照った顔に風が心地よかった。 
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