祭囃子を追いかけて

壺の蓋政五郎

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祭囃子を追いかけて 4

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 足場が振り子のように揺れて、内側に寄ったときに立地丸太が瓦を叩き、一枚が割れて落ちた。運悪くその欠片が内田の右頬を掠めた。頬に白い線が走り、傷つけられた毛細血管から薄っすらと血が染み出てきた。快感にも似た微かな痛みを感じた内田は左手で頬を撫でそれを見た。内田の顔色と表情が変わっていくのが部屋内から野次馬を決め込んでいる三人にもわかった。佐々木は右手で足場に掴まり、左の五本指は口に突っ込んで震えている。
「や、やばいっすよ賢治さん」
 佐藤が内田の異常を察した。中学の同級生で、高校も同じ学校に進学し、そして同時に退学した賢治と内田だった。けんかは強い方ではなかったが切れると収拾がつかなくなる。雄叫びをあげて相手に突進するのだ。殴られ、蹴られ、血だるまになっても押し相撲の力士みたいに突進していく。相手はその単純で執拗な突進に辟易としてしまい、退散するのであった。実力で勝負に勝ったと勘違いした内田は、その場で両拳を握り締め、血だるまになった顔を天に向け、『わおーっ』と雄叫びを上げるのだった。しかしここでそれをやれば完全に佐々木は足場から墜落して、死、よくても重症は避けられない。
「内、もう許してやれよ」
 リミットを感じ取った賢治が窓から内田のダボシャツの裾口を掴んだ。
「佐々木を殺したっておまえの名が汚れるだけだぞ、名門鳶内田組の頭が半端大工を殺したって、それこそご先祖様に申し訳立たねえじゃねえか、な、内、俺からもがっちり言っておくから今日は許してやれって」
「ふーーーーっ」
 内田は一度に吐き切れなかった体内ガスをしぼり出した。息継ぎのタイミングがずれた賢治はまともに吸い込んでしまった。こんな事態でなかったら、朝食に何を食ったか突き詰めて、思いつく限りの罵声を浴びせてやりたかった。
「おまえら笑ってたな」
 内田は佐々木から若い衆に矛先を変えた。
「えっ」
 佐藤斉藤は声を揃えて梯子の近くに後ずさりしている。
「佐藤、てめえはそのフローリングに手を叩いて転げ回っていたな。斉藤、おまえの頬に伝わるその雫の後はなんなんだ?涙じゃねえのか、志村けんのギャグ見たって涙が出るまで笑わないよな、てめえら俺が足場を揺らしてるとき、人差し指を、佐々木じゃなくて俺を指して笑っていやがったなあーっ、おーりゃあ」
「すいませーん、許してくださーい」
 梯子を伝わるというより滑り落ちるように佐藤斉藤は逃げ出した。足場から、窓越しに部屋内に飛び移ろうとした内田は足袋の先をサッシに引っ掛けて転んだ。中学時代柔道部だった彼は受身を取り、右手で床を叩いて起き上がった。起き上がり様に賢治にVサインを送り、撓る梯子を確実に降りて、姿の見えなくなった若い衆を追った。
「けんじーっ、話があるから晩に電話くれーっ」
 通りから片手を上げ、大声で叫んだ。用があるならおまえが電話しろと賢治は言いたかったがそれも面倒臭く軽く手を上げて応えた。人目をはばかることなく大声を上げて走り出す内田の非常識に下校途中のセーラー服の行列の目が厳しく光る。
「賢ちゃん行っちゃいましたよ頭、足場どうしたらいいんですかね」
「そんなこと知るか俺が、ざまあみろ」
「そんなこと言わないでなんとか頼みますよ、俺これから足場払します、だから賢ちゃんから頭に言っといてくれない、お願いしますこの通り」
「ようしわかった、そのかわり俺の留守中おまえが『かず』に出入りしたと噂を聞いただけでも始末するように内田に頼んでおくからな」
 佐々木は首をうな垂れていたが、その低い首の位置から更にコクンと頷いた。温水洗浄式便器を取り付けた賢治は早速使用した。自分で取り付けた便器は必ず最初に使用する。犬が電柱に縄張りを主張するが如く、この家は俺が建てたんだ、一生、俺が取り仕切るんだと悦に浸りそしてプレッシャーをかけるのであった。
「おい佐々木、帰るぞ」
 賢治は窓から顔を出し、孤軍奮闘している佐々木に声をかけた。
「はいわかりました。くれぐれも頭に宜しく言っておいてくださいね、絶対に言い忘れないでね賢ちゃん」
「おう、それとなあ、トイレの入り口に使用禁止ってでっかく紙に書いて貼っとけよ。この家の御主人様に使い初めしてもらうんだからな、職人に使わせるなよいいか」
「えっ、でも今日賢ちゃんが便器付けてくれるから、表の簡易トイレ明日返す段取りしてあるんですよ、汚したらちゃんと掃除させますからいいでしょ」
「だめだ、絶対に許さねえ、トイレの返却伸ばせばいいじゃねえか」
「でも来週から頭がブロック積みに来るんですよ、あれがあると邪魔になってまた怒られますよ」
「なにしろだめだ、もし使わせるんだったらあの便器はおまえが買え、いいな、忘れんなよ、紙貼っとけよ」
 道具を担いで片手で梯子を下りるのは容易でない。
「早く階段つけろよばか野郎」
 捨て台詞を残して賢治は外に出た。梅雨明け後の湿った太陽が真上から照らしつけている。道路に出ると信号待ちしているセーラー服の大軍団が横一列に並んでいる。女学生が渡り始める前に車を出さないと、焼けた車内に二分は閉じ込められる。速足で道路を渡り、荷台に道具を放り投げ、エンジン始動と同時に車を発進させた。タイヤの空転で砂利が飛び、プロパンガスの瓶に当たった。舌を出して暑さしのぎをしていた柴犬が、キーンという高音に腹を立て、もごもごと何か喋った。
 
 (五)
 
「香織遅えなあ、バイト行ってんのか海の家?」
「さっき竹内さんから電話がありました。海開きしてから最初の日曜だから忙しかったのよ。よく頑張ってくれるって竹内さん喜んでいたわ」
 竹内は高校の後輩で、賢治が二年生で中退してから疎遠であったが、六年前、元受の吉田工務店に海の家の配管設備一式を頼まれて、下見で現場に出向いたとき、吉田社長が深々と頭を下げる海の家のオーナーが偶然にも竹内であった。
 
「あっ、賢治先輩じゃありませんか?」
「あっおまえ」
 竹内に人差し指を向け、おまえ呼ばわりしている賢治に吉田社長は顔をしかめた。
「おい賢ちゃん、おまえってことあるかよ、オーナーさんに向かって、どうもすいません」
 事情の把握できない吉田社長は賢治の応対に真剣に怒っている。しかし賢治は言葉遣いを咎められても、気に留めることなく過去の上下関係で話し始めた。
「いやあ十年ぶり?もっとすか?」
 学生時代に確立された上下関係は生涯薄らぐことなく続くものである。一瞬にして当時の上下関係、それに伴う言葉遣いが再現されるが、それは照れ臭さを隠すためにお互いが故意に戻してしまうのである。
「おまえ、海の家のオーナーかよ、すげえじゃん。権利金とか高いんだろう、何やって儲けたんだ。まああの頃から口上手かったからなあ、ナンパの特攻隊長だったもんな」
「賢治さんも変わってないっすねえ、あのときのまんま、髪型も同じじゃないすっか」
「あのう」
 二人の関係が親密なものだと察した吉田社長が、恐る々話に割って入った。彼にしてみればいくら賢治の後輩とはいえ、利益がらみの立派なお施主さんである、賢治のように接するわけにはいかない。
「お知り合いで?」
「そうなんですよ社長、こいつ高校んときの一個後輩でよく遊んでたんですよ。まあ俺が二年間で特別退学したから付き合った期間は一年もないけど毎日遊んだなあ、毎日朝から晩までなあ、こいつちょっと二枚目でしょ、女にもてるからナンパ専門、なっ」
「でもいい女はいつも賢治先輩とたまに内田先輩に持っていかれて、僕はスカばっかだったんですよ、そういえば内田先輩元気ですか?」
「あいつは相変わらずだよ、捩れた正義押し付けて闊歩してるよ」
「そうすか、相変わらずすか、逢いたいなあ内田先輩と、なんか好きだったんですよねえ」
「連れて来てやるよ、おまえがここで海の家オープンするって聞いたら、翌日アドバルーン上げに来るよ。そしてあいつがすべての知人友人と思い込んでいる奴等全員に声をかけ、鵠沼行ったらおまえんとこ使えって命令するに決まってる」
「ワオーッ、ぞくぞくするなあ、一杯やりたいですねえ、賢治先輩早速セットしてくださいよ」
「おう、取り敢えずそこのおでん屋で軽くやんべえ、じゃあ社長、そういうわけなんでここで、帰りはこいつに送って貰うから心配しないでください」
「どうも吉田さん、仕事の方は北川さんにお願いしておきますから、また何かあったら連絡します」
 それ以来吉田工務店からの仕事はこなくなった。
 
「随分とおまえ、竹内の話題になると頬が緩んでんじゃねえか、いくら俺の古い後輩だからって高校生の香織を夜中まで付き合わせるのは納得がいかねえなあ、一言釘刺してやろう」
「あなた夜中ってまだ八時半よ、あなたがここにいる方が珍しいのよ、ツキから見放されると人も離れて行くってそうなのね、最近電話もあまりこないみたいじゃありませんか」
 賢治には付き合いだして一年になる玲子という愛人がいた。玲子は二十六歳で、藤沢のクラブに勤めている。賢治が竹内に誘われたクラブで知り合ったのがきっかけで交際が始まった。賢治が声をかけて関係を築いたというより、玲子の方が賢治に惹かれたのであった。
 始めのうちは、人目をはばかり、隠れるように交際していたが、根っからのお喋りと、寂しがりやの性格が、友人関係から仕事関係の席にまで玲子を連れ回すようになってしまった。友人達も賢治のいない席では彼の倫理を欠いた行動を非難しているが、実のところは玲子の美貌と手際のいい接客態度に、羨望と嫉妬をしているのであった。
 玲子は、運転免許証も取り上げられ、六ヶ月の懲役を言い渡された賢治にそれほど魅力を感じなくなっていた。そもそも運転免許のことより付き合いが面倒臭くなっていた。毎日一回は必ず電話をしていたがそれも億劫になっていた。賢治は仕事から帰宅して風呂上りのタイミングで掛かって来る電話を待ち構えて自分で受話器を取る。それが玲子の気まぐれで待っていても掛かって来ず、電話の前で本を読んだり詰将棋をしている。電話機は玄関前の廊下に有るので家族から邪魔者扱いされていた。
「うるせいなあ、香織の心配しているのにどうしてそっちにいくんだよう。ところでおまえよう、おふくろが半纏のほころび繕っているのに、少しは手伝ってやればいいじゃねえか、今年はかつぎ手八人来るからな、それと元受の社長連中も呼んでるから俺に恥をかかすような接待するんじゃねえぞ」
「はいはい旦那様、ようくわかりましてございます。あなた様があと数日で旅立たれるのを家族共々光栄に感じております。ふん」
 あと十日で懲役に行くという現実を世津子に引き戻された。反論するために必要な、喉を震わせて発声する動作すらも億劫になってしまった。
「なんか他につまみねえのか、この塩辛しょっぱい」
 箸の先に付着したイカのわたをしゃぶって覇気の無い声で言った。世津子は冷蔵庫からザアサイのビン詰とナメタケのビン詰を取り出し、飯台の上にドンドンと絶妙な時間差をとって置いた。
「おまえこりゃあねえべ、しょっぱいもんのオンパレードじゃねえかよ、刑務所行く前に血圧上がって死んじゃうっつうの」
 顔を見合わせた二人はお互いに後ろに引っくり返って笑い出した。緊張感を保つよう目一杯巻かれていたぜんまいが一気に緩んでしまった。伸びきったバネを再び螺子に絡めるのは困難のようだ。飯台の下で脚を折り曲げ、二人は仰向けになって、刑務所に入る前日に脳卒中で死んだ自分を、亭主を想像して、収まることなく腹の底から涌いてくる笑いをたんのうしている。賢治は涙を流しながら言った。
「かかかかっ、おまえよう、ビンの置き方、あれはすごくよかった。かかかかっ」
「あーははははっ、何か作るわ」
 世津子は腹を抱えて立ち上がり、流しの前に立ってまな板を叩き出した。世津子は、時折肩を大きく上下に揺らして笑いに嵌まり込んでいる。賢治は世津子が笑っているのが嬉しかった。大きく揺れる世津子の肩を飽きることなく眺めていた。
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