祭囃子を追いかけて

壺の蓋政五郎

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祭囃子を追いかけて 5

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「ただいまです」
 竹内が縁側の透明ガラスから中を覗きながら言った。娘の香織を送って来たのである。
「おう、入れよ、ちょうどよかった、なんか作ってんから一杯やってけよ」
「失礼します、おっ、いい匂い、肉入り野菜炒めって感じ、玉葱たっぷり?どうすか、当たってませんか奥様」
 前掛けで手を拭きながら、縁側の前に立っている竹内の前に片膝を立てて座った。古いジーンズを切り落とした短いパンツの股間から下着が卑猥に覗いている。
「すごい、よくわかりますねえ、さあどうぞどうぞ、もういらっしゃる時間だろうからって主人が言うので、あり合わせですけど、ビールも冷えていますから」
「ただいま」
 香織が賢治に射るような視線を向け、母屋に入っていった。賢治を睨む香織の化粧は、歌舞伎の隈取を思わせるほど強力で、唇は白かった。賢治は自分の娘が、渋谷辺りでテレビ局のリポーターの質問に、ちんぷんかんぷんな返答をしている通称ガングロという少女達とそれ程変わらぬハデな化粧をしているのに驚いた。
 
 香織は中学に上がった頃から自分の部屋が欲しいということで母屋に移った。それまでは弟の拓郎と六畳間をカーテンで仕切って使っていたが、やはり年頃になると一人の空間が欲しくなるのは賢治も世津子も理解していた。
 彼女が母屋に移るにあたっては、防音対策をしたり、畳をフローリングにするなど、北川家としてはかなりの出費をして香織に提供した。自室を持つと、家族の方にはあまり顔を出さないようになってきた。高校に入学すると同時にコンビニでアルバイトを始めた。そうなると、当然夕食の時間には間に合わなくなり、アルバイト先から無料で仕入れてきた賞味期限切れの弁当やサンドイッチを自室にこもり、一人でとるようになった。サキは香織が帰宅するまで夕食時刻を遅らせて待っているが、香織は一緒にとることを敬遠している。心配した世津子は香織に『食事ぐらいは家族でしましょう、もし悩み事があったらおばあちゃんに相談して』と諭すが、逆に夫婦仲を諌められてしまう。
 サキも夜食を用意したりして、香織とコミュニケーションを図ろうと努力しているが、なかなか打ち解けてはくれない。誰の干渉も承服できない難しい時期であることは、サキも世津子も充分承知している。他所の親からその手の悩みを打ち明けられると、『ほっとけばいいのよ、時期が来れば直るから』と諭すのであるが、いざ自分の娘が、孫が、通過中であるとほっとけなかった。
 
「おまえ、香織に?」
 世津子は軽く頷いた。さっきの射るような視線はそのせいだった。賢治の刑務所行きを知らせてあると言う目の合図。
「なんだあれの顔、止めさせろよ」
「あなたから叱ってやってください、あたしの言うことなんてもう聞きませんから、最近家にいるときはお風呂とトイレ以外は部屋に閉じこもりっきりで、おばあちゃんが呼んでも返事をしないときがあるらしいんですよ、あっそうだ、竹内さんお願いしますよ、生意気なこと言ったらがっちりと叱ってやってください」
 竹内は大皿に盛られた肉入り野菜炒めを小皿にとりながら笑っている。
「いい子じゃありませんか、店ではあの化粧は落としていますよ、しっかりと公私を分けているんですよ。店長もべた褒めです」
「店長って竹内がやってんじゃないの?」
「あらあなた、存じていらっしゃらなかったの、竹内さん海の家三軒の他に、鵠沼にレストランを経営なさっているのよ、香織がアルバイトさせていただいているのがそのチャイニーズレストラン『バンブー』っていう本格中華のお店よ、ほんとに美味しいの、あまり中華が得意じゃないお母さんも美味しい美味しいっていただいていたわ」
 賢治は世津子が竹内の店へ出入りしているのを始めて知った。それにまさか母親のサキまでもが竹内の店に出向いて行って、好きでもない中華料理に舌鼓を打っているとは驚いた。
「そうなんですよ賢治先輩、配管設備工事をお願いしている海の家『竹内』のずっと辻堂よりですけど、あれっ、賢治さんに話してなかったっけ、鉄骨作りなので業者に一括投げで工事の方をお願いしているって、設備工事は僕の知人にと工事会社にお願いしたんですけど、予算の関係で当社の下請けにどうしてもやらせてくれないかとその社長からあたま下げられましてね、もっとも低予算でお願いしていますからこっちもそれ以上は無理言えなくて、それに賢治先輩忙しそうだから」
 忙しそうだからと言うところだけを竹内は笑みを浮かべ世津子に向かって言った。世津子も竹内の方を向いて笑い返した。賢治はひどく不快に感じたが、後輩の前で妻の態度を指摘するのも粋じゃないと思い、冷めたビールと一緒に飲み込んだ。
「きっと竹内さんは主人に言ったのよ、このひとすぐに忘れちゃうんだから、自分のこと意外は」
 竹内は飲み込みかけたビールを吹き出しそうになって笑った。竹内の笑い顔を世津子が嬉しそうに見つめている。
「竹内、冷たいようだけどあんまり飲まない方がいいぞ。最近特に飲酒はうるさくなってきたから。おれの二の舞踏ませるわけにはいかないし、それに俺の量刑増えても困るし」
「はい先輩、承知しています。先輩に迷惑掛けることはしません。これだけいただいたら失礼します」
 竹内は飲みかけのビールを一気に煽り、小皿に残った肉入り野菜炒めを口元に寄せ、箒で掃くように口の中に放り込んだ。
「どうもごちそうさまでした。おいしかった奥様。それじゃ賢治先輩失礼します」
 竹内は玉葱をしゃりしゃり噛みながら立ち上がり縁側に出た。彼は部屋内に蚊が入り込むのを気遣い、縁台に下りるとすぐに網戸を閉めた。
「ゆっくりなさっていけばいいのに、大丈夫よ竹内さんなら、少しぐらい飲んだってしっかりなさっているから、それにもしあれでしたら休んでいらっしゃったら、ねえあなた、母屋の方に床用意しますから」
 世津子は縁側の前に座って竹内に言った。立て膝で大きく広げられた股間が竹内の正面に向けられている。彼の視線が一瞬だが世津子の股間に移動したのを賢治は見逃さなかった。そういえば世津子を暫く抱いていなかった。暦を逆転させていくと、ゴールデンウイークに、拓郎を連れて伊豆の今井浜に一泊旅行したときに抱いたのが最後であった。もう二ヶ月以上前になる。
 賢治はふと不思議に思った。三十八歳女盛りの世津子に欲求が溜まっていない方がむしろおかしい。好きなときに好きなだけ玲子と愉しむことで自分の欲求は晴らしてきたが、世津子はどうやって処理していたのだろうか、たぶん悶々とした欲求を子供達の成長に発散させてきたに違いないと。特に拓郎には愛情を注いでいる。日祭日、柔道の試合に遠征に行くときは必ずといっていいほど同行し、大声を張り上げて応援している。会場の前の席にしゃしゃり出て、雑誌を丸めた手製の拡声器で『投げろっ、押さえてっ』と、柔道のルールさえも知らずに仲間選手の応援をする母が恥ずかしいと拓郎がこぼしていた。しかし部員達には好評であるらしい。それは世津子の応援スタイルだけでなく、幾重にも重ねた大きな重箱に、夜なべしてこさえたいっぱいの食事を振舞うからであった。数人の先輩達は、世津子が応援に同行するかしないかを拓郎に確認してから自分の弁当を用意する。柔道部の監督で数学の教師をしている独身の迫田は、おにぎりの中身まで拓郎に催促していた。 
「北川、ちょっと来い、明日おふくろさん応援に来るのか?あのほら、鳥のから揚げ、あれもう少し量を増やしてもらってくんないかなあ。先生独身だろ、帰りが遅くなるとビールのつまみ作るの面倒でな、少し分けて貰えると助かるんだがなあ、タッパは俺が持参するからおまえ適当に入れてくれ、先にな、先に分けるんだぞ、三年生にみんな食われちまうからな、あいつらおふくろさんの差し入れあてにしやがって自分の弁当は休み時間に食っちまうんだふざけやがって、おまえもがんばって早くあいつらぶん投げてやれ、いいか、わかったな」
「おっす」
 拓郎は世津子にから揚げが好評で自分の食べる分がないと嘘をついて量を増やすよう催促する。
「お母さん自慢の一品をみんながおいしいって食べてくれるのは嬉しいわ。それじゃあ拓の分は別のタッパに入れておくからそれを食べなさい」
「いやタッパじゃない方がいいなあ、先輩に見つかるから」
「それじゃあ分けてアルミホイルに包んでおくから、ねっそれならいいでしょう」
「ありがとう母さん」
 拓郎の『ありがとう母さん』が世津子の性的欲求を吹き飛ばしてくれるのだ。
 
 竹内が網戸の向こうで一礼して狭いアプローチを門に向かった。真夏であるが、人と多く接する仕事柄、しっかりと革靴を履いている。金具の埋まった靴底の砂利を踏み締める音が聞こえる。緊張と期待が竹内の靴音と同時に消えてしまった世津子は立膝を崩し、ふーっと溜息をついて立ち上がった。そしてまだ賢治が晩酌中にも関わらず飯台の食器類を片付け始めた。
「まだ食ってるっつうの」
 賢治の文句を聞き流し、肩を落とし流しに立った。短いジーパンの切れ目から太腿と臀部の狭間にできる、卑猥な色をした不気味な皺が賢治の性欲をそそった。
「おい、世津子、どうだ一発」
「いらない」
 洗剤の泡がシャボン玉のように上がり、流しの蛍光灯にあたり弾けた。
 
(六)
 
「明日宮だしだからお願いねって言ったじゃないの」
 サキは仕事帰りの賢治に言った。
 
 宮出しは、七月の十五日に、拝殿から御霊を神輿に移し、御仮屋まで移動する。例大祭でも最も重要な神事であり、この神事は日曜祭日に関係なく執り行われるので、平日に当たった場合、若い者の参加は期待できず、ほとんどが長老達や、氏子会の数人の役員によって行われている。神官によって神事は厳かに進行され、昼下がりの暑いときに、神の乗った神輿は山の上の神社から御仮屋まで移される。距離にすればいくらでもないが、急勾配の坂や階段は年寄り達にとって非常に苦しい。それにいくら隠居で暇な身とはいえ、せいぜい宮出しに参加できる者は二十人弱で、かつぐというより抱えて運ぶに近い。
 息せき切らせた年寄りに抱えられた神輿は、今にも地につきそうな感じで御仮屋まで運ばれる。神輿の重量は五百キロ以上あり、その重量が、抱えている年寄りに平均にかかるとは限らない。誰かが少し休もうとするとその前後にいる者に負担がかかり、神輿はさらに下がる。威勢のいい年寄りが気合をいれる。
「よいさ、こらさ、よいさ、こらさ」
 約四百年間、この地に神輿が誕生してから変わらぬ掛け声である。年寄り達の、気管の奥から咽ぶような掛け声に託された神輿が御仮屋を目指して進む。
無理な息継ぎに痰を絡ませ、アスファルトに吐き捨てる年寄りに同情するものはあっても、この日に限って汚いと罵るものは一人もいない。
 平均年齢六十五を越えた男衆が、必死の形相で神輿をかつぐ異様な光景である。神社から山崎信号に出て京浜の有料道路を渡る。有料道路と言っても片側一車線の狭い路である。宮出しで唯一観光客とすれ違う交差点である。古刹名刹観光、海水浴客が頻繁に利用する道路でそれに気付いた観光バスの外国人観光客がビデオカメラを回す。担ぎ手もそれに応えて今にも死にそうな形相を、無理に笑顔に変えてカッコ付ける。信号を渡れば見飽きた町内で作り笑顔もだらけてしまう。そしてなんとか御仮屋入りとなる。
 「ようし、静かに下ろせよ、やわやわ、やわやわ」。
 神輿は無事御仮屋に納められた。老人達は責任を果たしたことの嬉しさから、お互いに『よかったよかった』と声を掛け合っている。皺に染み込んだ汗を拭う。神に触れた男達に鋭気が蘇る。あとは二十二日の例大祭に、地元の若い衆が多勢集まってくれることと、家族の健康、町の繁栄を祈願してそれぞれ散開していく。自身の欲や健康は祈願の対象になっていない。
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