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祭囃子を追いかけて 16
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「実は香織ちゃん、私は今週いっぱいでここを辞めます。この話はもう一月以上も前のことです。香港から新しい料理人が来ることを聞き、ああそろそろ私の役は終わったのだと悟りました。社長の話では、彼はまだ若いからアドバイザーとして、またスタッフのまとめ役として私に残ってくれないかとのことでした。私みたいな料理人には本当にありがたい話ですが丁重にお断りしました」
「えっ、新しい料理長って、料理長が代わるんですか?そんなあ、ここまでこの店を盛り上げたのは料理長です。それなのに一方的に交代なんてひどいわ、そんなやり方許せません。抗議しましょう、抗議して、料理長、頑張って続けてください」
「実はその話があった日から私も準備を始めていたのです。もし一週間前までにそれが間に合わなければ、社長のお言葉に甘えて、準備が整う期間、ここで楽させてもらおうと思ってましたヨ。したたかでしょう、自分の都合に合わせて、話を正当化しようとしているのですヨ。でもね、大船に店を出してみないかと言ってくれる人がいてね、もう今週の日曜日に開店しますヨ。その人は私が中華街で修行していたときの先輩で、色々面倒を看てくれた人です。日本人と結婚して子供ができたのをきっかけに独立しましたが、脳卒中で倒れ、右手が使えなくなり料理人を捨てましたヨ。その後彼はお店を賃貸で貸していましたが、あまり繁盛する店はなくて、長く続いた店でも三年だったらしいです。彼は何度も手放そうと考えていたらしいのですけど、来年中学を卒業する息子さんが料理人として勉強したいと言い出したので、確保しておくことに決めたのです。私が相談に行くと彼は自由にその店を使うことを勧めてくれたのですヨ。敷金も礼金も権利金も要らない、家賃は売り上げによって調整してくれて結構だ、客が一人も来ない辛い日もあるだろう、そんなときも当然要らない、売り上げから仕入れを引いて、生活費を引いて、嫌なことを忘れる酒代も引いて、台湾の家族に仕送りしているならそれも引いて、尚且つ余裕があればそれをくれればいいと言ってくれました。友達はありがたいと思いましたヨ。でも私にはいくらかの蓄えがあります。半分を改築に、もう半分を家賃代わりにと先日預けてきました。彼は預かっておくが困ったときは利用してくれと言ってくれました」
香織は驚きと同時に自分の存在の低さを痛感した。高校を中退してまで料理の道に足を踏み入れようと決心していたのに、信頼している社長を始め、尊敬して弟子になろうと心に決めた料理長までもが一言も話してくれなかったことに。
「お店の名前なんて言うんですか?」
「色々考えましたが、どれもこれもあるような名前なので四川料理『黄の店』に決めました、可笑しいですか?」
「いいえ、なんか料理長らしくていいと思います。清潔で明るくて優しい感じがします。広さは、お店の?」
「小さいヨ、カウンターが六席、四人席が二つ、円形の十人席が一卓、満員になると二十四人だヨ」
「でも満員になったら料理長一人では大変じゃないですか、あたし開店日に手伝いに行きます」
「ありがとう香織ちゃん、でも香織ちゃんが活躍できるほどのお客さんが来てくれればいいのですが。実は友人の息子さんが修行したいと私に弟子入りを志願して来ました。私なんかに弟子入りしてもいいことないからと断ったのですが、掃除から皿洗い、出前までなんでもするから傍においてくれと頭を下げられましてね。バイト代もろくに払えないと言ったのですがそれでもいいって、私のやり方を傍で見ているだけでいいからと、その子が私に何度もあたまを下げるのですヨ、その根気に負けて手伝ってもらうことにしました。自分の修行時代を想い出してしまいました。決断するのも諦めるのも早い方がいいと思いましてね、高校受験までにはまだ時間があるから、この夏休み中にでもはっきりすれば彼のためにもいいと思いました」
香織の顔も光と影の縦縞模様になっていた。
「きっと忙しくなりますよ、きっと」
「さあそろそろお店にもどりましょうか、時給稼がないと」
「はい」
黄が持ちかけた灰皿を香織が取り上げた。黄の指に、真っ黒な液体が付着するのを見たくなかったのである。
「あとで掃除しておきます」
階段室の端に一本足の吸殻入れを置いた。静かに下ろしたつもりだが、据わりの悪い台座のせいで少し床に零れてしまった。
(十五)
「あっ、世津子、もう支度しちゃったかな夕飯?これから高橋社長と打ち合わせに行くからいらない。来月から建売を三棟やるらしいから、その打ち合わせなんだ、ところでおまえ明からなんか聞いてる?」
明の披露宴で独立を告白されてからその話題には触れなかった。もしかしたらその話は自然に消えてしまうのではないかと微かな期待をしていたし、その逆に、予定通りに独立すると駄目押しされるのも不安であった。
「何も聞いていません、予定通り独立するんじゃないの」
「そうか、何も言ってないか、まあ俺の失態であいつの人生に待ったかけたくないしな、それに着々と準備しているだろうから急にお願いしても無理だろう、まあカズのことを宜しくお願いしてこよう社長に、あ~あ、ほんとはうちでゆっくりと、おまえの手料理でビールでも飲んでさあ、眠くなったらそのままバタンと横になるのが一番なんだけどなあ、こんな暑い日は」
「社長呼んだらどうですかうちに?すぐに支度しますよ、あなたが今晩使う予定の予算を回していただければ飛び切りのご馳走を用意します。ねえそうしましょうよ、お鮨なんかどうですか?拓もおばあちゃんも喜びますよ」
「そうはいかないんだなあそれが、下請けのつらいとこなんだよなあ、あっ、時間がねえや、シャワー浴びるから下着出しておいてくれる」
賢治は最悪の事態に発展しないうちに話を打ち切り、パンツを下げながらバスルームに逃げ込んだ。賢治は予定を立てていた。今日を含めて貴重な夜は六回しか残されていない。今晩は『オリーブ』で飲んだあと玲子としけこむ算段をしている。明日の晩は御仮屋の番で外には出られない。明後日は例大祭で宮入してから、そしてうちに戻り飲み明かし、そのままダウンするのが恒例だ。翌日は仕事を休み、本家や親戚に回って留守中のことをお願いしておこう。土曜日は早めに仕事を終わらせて若い衆と焼き肉でも食おう、元受との連絡体系をカズにもしっかりと叩き込んでおかなければならない。明には独立の祝いになにかプレゼントしようとも考えていた。土曜日と日曜日の晩はなんとしても世津子を抱こうと決めている。しかし拓郎への告白をいつにするか決めていない、それを思うと胸が高まった。向かい合って上手く言えるだろうか、『父さんの留守中ばあちゃんと母さんを守ってやれよ』なんて偉そうに諭せない。人助けのために悪いやくざと喧嘩して、過剰防衛かなにかで刑務所に入るならまだ格好いいが、酔っ払い運転で暴れて逮捕され、その舌の根も乾かないうちにまた酔っ払い運転を繰り返して捕まったのだから友達にも恥ずかしくて打ち明けられないだろう。それにしっかりと蓄えがあるならいいが、自分の預貯金はゼロに等しい。あたまを下げれば本家や親戚、それに内田をはじめとした友達も用立ててくれるだろう。しかし絶対に子供達にまで気を遣わせたくなかった。なんとしても自分の器量で六ヶ月間を切り抜けたいと思っていた。そのためには高橋の世話になる以外方法がなかった。
賢治はシャワーの温度を下げ、下半身を丁寧に洗い出した。玲子の裸体が頭に浮かんだ。汗ばんだ豊満な肉体が賢治に絡みついてくる。シャワーを真水にした。気持ちも火照りも治まるまで冷水を浴びた。
世津子は賢治の肌着を更衣室の籠に入れた。賢治の裸体がドア越しに薄ぼんやりと透けて見える。ぼやけた下半身を脳が鮮明にして世津子の瞼に映し出した。竹内に抱きつき、唇を吸った淫らな行為と賢治のシルエットが重なり身体が火照った。ジーンズのジッパーに沿って手を滑り込ませた。車内での続きが始まった。
「世津子、世津子いるのか?」
竹内の白いパンツのジッパーを下ろしたところで映像は打ち切られた。
「下着ここに置きます」
「世津子、どうにかしてくんない、これ」
賢治は浴室のドアーを半分開け、玲子との密愛を想像して勃起した下半身を突き出した。
「きゃー気持ち悪い」
「おい、でっけえ声出すなよ、おふくろが表で水撒いてんじゃねえのか」
世津子が更衣室から出ると、サキがホースを放り投げて縁側から飛び込んで来た。
「どうしたの?世津子さん」
「あっ、すいません、鼠が、お風呂場を走り抜けたものですからびっくりして」
「そう、こっちにも出たのかい、母屋にもいるんだよ大きいのが、やっぱりお風呂場の排水から入ってくるんじゃないかねえ、こないだなんか親子で来て、すのこの下で遊んでいたんだよう気持ち悪い」
「鼠ホイホイだめですか?」
「だーめ、うちのチュー太郎はずる賢いから全然、排水の近くに仕掛けたんだよ、がさがさ音がするからそーっと覗いて見たらホイホイの上に乗っかってあたしの方見ているんだよ、手を口先でもぞもぞしながら笑っているんだよ、憎たらしいよほんとに」
「笑うんですか鼠?」
「どうなんだかねえ、賢治に看てもらうように言っといて、あの子はうちのことは何もしないんだからまったく、そう言えばどぶ鼠によく似ているよあの子は」
二人は顔を見合わせて笑った。サキはホースをそのままにしているのを思い出し、慌てて出て行った。
賢治が浴室から出てキッチンを覗くと、世津子が流しに立っていた。世津子は指先にシャワーを当て、昂ぶった気持ちを冷ましている。あたまの中は真っ白で、賢治の存在すらも気付かず、ただ指先に冷水を浴びせていた。賢治は寝室で、世津子の用意したどらえもんの柄パンツを脱ぎ棄て、シルクのパンツと履き替えた。アルマーニのチノパンツに同じくアルマーニの黒のT シャツ、その上に麻のジャケットを羽織った。これが賢治の所有する最高のおしゃれであった。
再び居間からキッチンを覗くと世津子がさっきと寸分違わぬ姿勢で流しの前に立っている。声をかけようか迷ったが大事な夜を優先した。縁側に下り網戸を閉めた。靴を用意するのを忘れていた。北川家では縁側から出入りをしているので、小さな玄関の鍵は年中掛けっぱなしにしてある。再度部屋に戻り、玄関に下りて下駄箱から靴を取り出しているのを世津子に見つかりたくなかった。ジャケットを着ているだけでも世津子を刺激するに決まっているからである。仕方なくいつもの雪駄を履いた。何か不釣合いな感じがしたが、夏だし、祭りも近いから自分が可笑しいと感じるほど他人は気にしないだろうと納得した。薄暗くなった狭いアプローチの途中で、右足が水溜りに嵌った。
「ちっきしょう、おふくろのやろう」
新しい雪駄なら多少防水効果があるので染みてはこないが、履き古した賢治の雪駄は一瞬にして足裏までグジュグジュと嫌な感触を伝えた。鼻緒の親指よりのところに極小の小石が挟まって気になる。
てんてん、てんつく、てん、てん、ててんつく、
てんてん、
ひゃーり、ひゃりらり、ひゃりらひゃりら、
ひゃーりら、ひゃーり、ひゃりら、
てん、てん、てんてん、てんつくてん、
ひゃーりら
門を出ると祭り囃子が鳴り出した。右に出て御仮屋の前を行けば大通りまで五分で行けるが、町の長老達が屯しているだろうし、番屋に当番が詰めていたら素通りはできない。こんな格好して前を通過したら冷やかされるに間違いない。賢治は遠回りであるが左に曲がった。大通りまで二十五分はかかるが御仮屋の前を通過するリスクを考えると仕方がないと諦めた。門を出て左に曲がったのは随分昔にまで遡らなければ記憶がない。煙草屋の角を左に曲がると中田重太郎宅の前に出た。自宅の真裏であるが、門から門までは八分近くもかかってしまう。
中学生のとき、洋子の顔が見たくて、七段も積まれたブロック塀を乗り越え、裏道から重太郎宅の前を抜けて学校まで通った。ゴミを捨てに出てくる洋子に会うと、賢治はあたまを下げた。『行ってらっしゃい賢ちゃん』嬉しくて、恥ずかしくて、自分でも顔がくしゃくしゃに崩れていたのがわかった。
玄関の前に女性が出て来た。框の上に重太郎と俊夫が立っていて、その女性とにこやかに話している。話の区切りがついたのか俊夫と女性は軽く頭を下げ合い、重太郎は軽く手を上げた。俊夫が賢治に気付いた。重太郎の肩を揺さぶり賢治を指差した。重太郎が礼をしたので賢治は立ち止まり一礼した。僅か五メートルのアプローチを歩き出したその女性は首を傾げて賢治を見た。
「えっ、新しい料理長って、料理長が代わるんですか?そんなあ、ここまでこの店を盛り上げたのは料理長です。それなのに一方的に交代なんてひどいわ、そんなやり方許せません。抗議しましょう、抗議して、料理長、頑張って続けてください」
「実はその話があった日から私も準備を始めていたのです。もし一週間前までにそれが間に合わなければ、社長のお言葉に甘えて、準備が整う期間、ここで楽させてもらおうと思ってましたヨ。したたかでしょう、自分の都合に合わせて、話を正当化しようとしているのですヨ。でもね、大船に店を出してみないかと言ってくれる人がいてね、もう今週の日曜日に開店しますヨ。その人は私が中華街で修行していたときの先輩で、色々面倒を看てくれた人です。日本人と結婚して子供ができたのをきっかけに独立しましたが、脳卒中で倒れ、右手が使えなくなり料理人を捨てましたヨ。その後彼はお店を賃貸で貸していましたが、あまり繁盛する店はなくて、長く続いた店でも三年だったらしいです。彼は何度も手放そうと考えていたらしいのですけど、来年中学を卒業する息子さんが料理人として勉強したいと言い出したので、確保しておくことに決めたのです。私が相談に行くと彼は自由にその店を使うことを勧めてくれたのですヨ。敷金も礼金も権利金も要らない、家賃は売り上げによって調整してくれて結構だ、客が一人も来ない辛い日もあるだろう、そんなときも当然要らない、売り上げから仕入れを引いて、生活費を引いて、嫌なことを忘れる酒代も引いて、台湾の家族に仕送りしているならそれも引いて、尚且つ余裕があればそれをくれればいいと言ってくれました。友達はありがたいと思いましたヨ。でも私にはいくらかの蓄えがあります。半分を改築に、もう半分を家賃代わりにと先日預けてきました。彼は預かっておくが困ったときは利用してくれと言ってくれました」
香織は驚きと同時に自分の存在の低さを痛感した。高校を中退してまで料理の道に足を踏み入れようと決心していたのに、信頼している社長を始め、尊敬して弟子になろうと心に決めた料理長までもが一言も話してくれなかったことに。
「お店の名前なんて言うんですか?」
「色々考えましたが、どれもこれもあるような名前なので四川料理『黄の店』に決めました、可笑しいですか?」
「いいえ、なんか料理長らしくていいと思います。清潔で明るくて優しい感じがします。広さは、お店の?」
「小さいヨ、カウンターが六席、四人席が二つ、円形の十人席が一卓、満員になると二十四人だヨ」
「でも満員になったら料理長一人では大変じゃないですか、あたし開店日に手伝いに行きます」
「ありがとう香織ちゃん、でも香織ちゃんが活躍できるほどのお客さんが来てくれればいいのですが。実は友人の息子さんが修行したいと私に弟子入りを志願して来ました。私なんかに弟子入りしてもいいことないからと断ったのですが、掃除から皿洗い、出前までなんでもするから傍においてくれと頭を下げられましてね。バイト代もろくに払えないと言ったのですがそれでもいいって、私のやり方を傍で見ているだけでいいからと、その子が私に何度もあたまを下げるのですヨ、その根気に負けて手伝ってもらうことにしました。自分の修行時代を想い出してしまいました。決断するのも諦めるのも早い方がいいと思いましてね、高校受験までにはまだ時間があるから、この夏休み中にでもはっきりすれば彼のためにもいいと思いました」
香織の顔も光と影の縦縞模様になっていた。
「きっと忙しくなりますよ、きっと」
「さあそろそろお店にもどりましょうか、時給稼がないと」
「はい」
黄が持ちかけた灰皿を香織が取り上げた。黄の指に、真っ黒な液体が付着するのを見たくなかったのである。
「あとで掃除しておきます」
階段室の端に一本足の吸殻入れを置いた。静かに下ろしたつもりだが、据わりの悪い台座のせいで少し床に零れてしまった。
(十五)
「あっ、世津子、もう支度しちゃったかな夕飯?これから高橋社長と打ち合わせに行くからいらない。来月から建売を三棟やるらしいから、その打ち合わせなんだ、ところでおまえ明からなんか聞いてる?」
明の披露宴で独立を告白されてからその話題には触れなかった。もしかしたらその話は自然に消えてしまうのではないかと微かな期待をしていたし、その逆に、予定通りに独立すると駄目押しされるのも不安であった。
「何も聞いていません、予定通り独立するんじゃないの」
「そうか、何も言ってないか、まあ俺の失態であいつの人生に待ったかけたくないしな、それに着々と準備しているだろうから急にお願いしても無理だろう、まあカズのことを宜しくお願いしてこよう社長に、あ~あ、ほんとはうちでゆっくりと、おまえの手料理でビールでも飲んでさあ、眠くなったらそのままバタンと横になるのが一番なんだけどなあ、こんな暑い日は」
「社長呼んだらどうですかうちに?すぐに支度しますよ、あなたが今晩使う予定の予算を回していただければ飛び切りのご馳走を用意します。ねえそうしましょうよ、お鮨なんかどうですか?拓もおばあちゃんも喜びますよ」
「そうはいかないんだなあそれが、下請けのつらいとこなんだよなあ、あっ、時間がねえや、シャワー浴びるから下着出しておいてくれる」
賢治は最悪の事態に発展しないうちに話を打ち切り、パンツを下げながらバスルームに逃げ込んだ。賢治は予定を立てていた。今日を含めて貴重な夜は六回しか残されていない。今晩は『オリーブ』で飲んだあと玲子としけこむ算段をしている。明日の晩は御仮屋の番で外には出られない。明後日は例大祭で宮入してから、そしてうちに戻り飲み明かし、そのままダウンするのが恒例だ。翌日は仕事を休み、本家や親戚に回って留守中のことをお願いしておこう。土曜日は早めに仕事を終わらせて若い衆と焼き肉でも食おう、元受との連絡体系をカズにもしっかりと叩き込んでおかなければならない。明には独立の祝いになにかプレゼントしようとも考えていた。土曜日と日曜日の晩はなんとしても世津子を抱こうと決めている。しかし拓郎への告白をいつにするか決めていない、それを思うと胸が高まった。向かい合って上手く言えるだろうか、『父さんの留守中ばあちゃんと母さんを守ってやれよ』なんて偉そうに諭せない。人助けのために悪いやくざと喧嘩して、過剰防衛かなにかで刑務所に入るならまだ格好いいが、酔っ払い運転で暴れて逮捕され、その舌の根も乾かないうちにまた酔っ払い運転を繰り返して捕まったのだから友達にも恥ずかしくて打ち明けられないだろう。それにしっかりと蓄えがあるならいいが、自分の預貯金はゼロに等しい。あたまを下げれば本家や親戚、それに内田をはじめとした友達も用立ててくれるだろう。しかし絶対に子供達にまで気を遣わせたくなかった。なんとしても自分の器量で六ヶ月間を切り抜けたいと思っていた。そのためには高橋の世話になる以外方法がなかった。
賢治はシャワーの温度を下げ、下半身を丁寧に洗い出した。玲子の裸体が頭に浮かんだ。汗ばんだ豊満な肉体が賢治に絡みついてくる。シャワーを真水にした。気持ちも火照りも治まるまで冷水を浴びた。
世津子は賢治の肌着を更衣室の籠に入れた。賢治の裸体がドア越しに薄ぼんやりと透けて見える。ぼやけた下半身を脳が鮮明にして世津子の瞼に映し出した。竹内に抱きつき、唇を吸った淫らな行為と賢治のシルエットが重なり身体が火照った。ジーンズのジッパーに沿って手を滑り込ませた。車内での続きが始まった。
「世津子、世津子いるのか?」
竹内の白いパンツのジッパーを下ろしたところで映像は打ち切られた。
「下着ここに置きます」
「世津子、どうにかしてくんない、これ」
賢治は浴室のドアーを半分開け、玲子との密愛を想像して勃起した下半身を突き出した。
「きゃー気持ち悪い」
「おい、でっけえ声出すなよ、おふくろが表で水撒いてんじゃねえのか」
世津子が更衣室から出ると、サキがホースを放り投げて縁側から飛び込んで来た。
「どうしたの?世津子さん」
「あっ、すいません、鼠が、お風呂場を走り抜けたものですからびっくりして」
「そう、こっちにも出たのかい、母屋にもいるんだよ大きいのが、やっぱりお風呂場の排水から入ってくるんじゃないかねえ、こないだなんか親子で来て、すのこの下で遊んでいたんだよう気持ち悪い」
「鼠ホイホイだめですか?」
「だーめ、うちのチュー太郎はずる賢いから全然、排水の近くに仕掛けたんだよ、がさがさ音がするからそーっと覗いて見たらホイホイの上に乗っかってあたしの方見ているんだよ、手を口先でもぞもぞしながら笑っているんだよ、憎たらしいよほんとに」
「笑うんですか鼠?」
「どうなんだかねえ、賢治に看てもらうように言っといて、あの子はうちのことは何もしないんだからまったく、そう言えばどぶ鼠によく似ているよあの子は」
二人は顔を見合わせて笑った。サキはホースをそのままにしているのを思い出し、慌てて出て行った。
賢治が浴室から出てキッチンを覗くと、世津子が流しに立っていた。世津子は指先にシャワーを当て、昂ぶった気持ちを冷ましている。あたまの中は真っ白で、賢治の存在すらも気付かず、ただ指先に冷水を浴びせていた。賢治は寝室で、世津子の用意したどらえもんの柄パンツを脱ぎ棄て、シルクのパンツと履き替えた。アルマーニのチノパンツに同じくアルマーニの黒のT シャツ、その上に麻のジャケットを羽織った。これが賢治の所有する最高のおしゃれであった。
再び居間からキッチンを覗くと世津子がさっきと寸分違わぬ姿勢で流しの前に立っている。声をかけようか迷ったが大事な夜を優先した。縁側に下り網戸を閉めた。靴を用意するのを忘れていた。北川家では縁側から出入りをしているので、小さな玄関の鍵は年中掛けっぱなしにしてある。再度部屋に戻り、玄関に下りて下駄箱から靴を取り出しているのを世津子に見つかりたくなかった。ジャケットを着ているだけでも世津子を刺激するに決まっているからである。仕方なくいつもの雪駄を履いた。何か不釣合いな感じがしたが、夏だし、祭りも近いから自分が可笑しいと感じるほど他人は気にしないだろうと納得した。薄暗くなった狭いアプローチの途中で、右足が水溜りに嵌った。
「ちっきしょう、おふくろのやろう」
新しい雪駄なら多少防水効果があるので染みてはこないが、履き古した賢治の雪駄は一瞬にして足裏までグジュグジュと嫌な感触を伝えた。鼻緒の親指よりのところに極小の小石が挟まって気になる。
てんてん、てんつく、てん、てん、ててんつく、
てんてん、
ひゃーり、ひゃりらり、ひゃりらひゃりら、
ひゃーりら、ひゃーり、ひゃりら、
てん、てん、てんてん、てんつくてん、
ひゃーりら
門を出ると祭り囃子が鳴り出した。右に出て御仮屋の前を行けば大通りまで五分で行けるが、町の長老達が屯しているだろうし、番屋に当番が詰めていたら素通りはできない。こんな格好して前を通過したら冷やかされるに間違いない。賢治は遠回りであるが左に曲がった。大通りまで二十五分はかかるが御仮屋の前を通過するリスクを考えると仕方がないと諦めた。門を出て左に曲がったのは随分昔にまで遡らなければ記憶がない。煙草屋の角を左に曲がると中田重太郎宅の前に出た。自宅の真裏であるが、門から門までは八分近くもかかってしまう。
中学生のとき、洋子の顔が見たくて、七段も積まれたブロック塀を乗り越え、裏道から重太郎宅の前を抜けて学校まで通った。ゴミを捨てに出てくる洋子に会うと、賢治はあたまを下げた。『行ってらっしゃい賢ちゃん』嬉しくて、恥ずかしくて、自分でも顔がくしゃくしゃに崩れていたのがわかった。
玄関の前に女性が出て来た。框の上に重太郎と俊夫が立っていて、その女性とにこやかに話している。話の区切りがついたのか俊夫と女性は軽く頭を下げ合い、重太郎は軽く手を上げた。俊夫が賢治に気付いた。重太郎の肩を揺さぶり賢治を指差した。重太郎が礼をしたので賢治は立ち止まり一礼した。僅か五メートルのアプローチを歩き出したその女性は首を傾げて賢治を見た。
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