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祭囃子を追いかけて 18
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「ほうらやっぱりこんなに凝っちゃって」
『五番街のマリー』を口ずさみながら首筋から背中にかけて、里美の指が世津子の憂いをほぐす。歌詞の忘れた部分はハミングに変えた。
(十七)
「こんばんは」「こんばんは」
「はい、どちら様ですかって柔道着をかついでいては幸一の友達かな?」
「おっす、内田です」
「北川です。中島先輩いらっしゃいますか?」
「ちょっと待っててね」
中島の父親は右手をだらりと下げ、右足を引き摺って奥に消えた。
「おおい、おまえ等、今手が離せないから、上がって来い」
台所の方から中島の声がした。
「おっす、失礼します」
二人は中島の声がした台所に向かった。
「なんだおまえらこんな時間に、まだ稽古が足りないっていうなら今日は勘弁してくれ、こうみえても意外と忙しいんだ。そうだ、飯食ったか?食ったわけねえよなあ、じゃあ食ってけ。父さん、こいつらに飯食わせてもいいかなあ?たぶん父さんと母さんの分までなくなるけど?」
「ああ、構わん、だが家に連絡してからにしなさい」
拓郎は電話を借りた。
「もしもし母さん?」
「あたしが出るからいいよ、たぶん拓じゃないか、・・・はいもしもし、残念でした、大の母ちゃんでした。遅いぞ、大も一緒か?」
「やべえ、大のおふくろだ」
拓郎は大に受話器を差し出したが、大は首を振り拓郎に任せた。
「こんばんは、大はトイレに行ってます。これから中島先輩んちで夕飯ご馳走になるので、少し帰りが遅れます。八時半頃には帰れると大が言ってます」
「ふーん、トイレから随分と近いんだなその電話。うん、わかった、気をつけて帰って来るんだよ、ママには伝えておくから、ああそれからトイレの大に言っといて、帰ったら電気按摩だって」
「はい、失礼します、ああっあの、うちの母さん元気ですか?」
里美は受話器を押さえて世津子に言った。
「母さん元気ですかだってさ」
世津子の目からぼろぼろと涙が零れた。電話口に出ないだけで心配してくれる息子が嬉しかった。自身の欲のために悩んでいるのが情けなかった。竹内の陰影が頭から薄れていった。
「なんだって、うちの母ちゃん」
「電気按摩だって」
「まじかよ、きついんだよなああれ」
台所からいい匂いがしてきた。
「座れ座れ、電話したのか?」
「おっす」「おっす」
「特性の麻婆豆腐だ、ごはんにかけて食え、うちは誰もよそってくれないから自分でやれ」
「おっす」「おっす」
三人は猛烈な勢いでかき込んだ。それぞれが先を争ったが二杯ずつで釜の飯は空になった。
「中島先輩、飯食うの早いっすねえ」
「ばかやろう、おまえが一番早いじゃねえか、うちじゃあな、俺が四杯、親父とおふくろが軽く一杯づつなんだ。これじゃあ後でなんか食わねえと眠れねえなあ」
父親が台所に入ってきた。
「父さん、飯全部食ってしまったから少し炊いておこうか?」
「ほーっ、もう食べたのかね、気持ちのいい食べっぷりだねえ、いやいいよ、母さん帰ってきたらソーメンでもいただくから」
「ねえ父さん、麻婆豆腐はフライパンに残してあるから、あっそうだ少し食べてみて」
幸一はれんげで小皿にしゃくってテーブルにおいた。父親は左手にれんげを持ち、顔を小皿に近づけて口に入れた。
「うん美味しい、まあまあ合格だろう」
「やったあ、今度黄さんにも食べてもらおう、もし合格ならお店で作るよ俺」
「気が早いな幸一、まあまあ合格というのは合格じゃない。お金をいただくにはまあまあが取れなければ駄目だ、そこまでは意外と早く到達する、そこからが毎日の経験と、眠る間を惜しんでの努力しかない。かといって中途半端で追求を諦めては成功しない。お金を稼ぐというのは簡単じゃない、まあ始めは黄さんのやることをよく見て、料理を作るなんて考えずに、邪魔にならないようにしていなさい」
「はい」
幸一はテーブルの食器を片付け始めた。うぬぼれを父親に一蹴されがっくりしている。二人はこんな中島を見たのは初めてだ。いつも中島をイメージするのは、投げ飛ばされては踏まれ、見上げると両手を腰にあてがい高笑いしているロケーションである。
食器を洗い終えると中島が戻って来た。
「父さん、俺、こいつら送ってくるから」
「道場ではいいが外でこいつら呼ばわりは止めなさい」
「はい」
また叱られた。大は今の中島からなら一本取れそうな気がした。
「行ってきます」
「失礼します。ごちそうさまでした」
「はい、また遊びに来てください」
中島を先頭に二人は少し距離をおいて歩いた。柔道着を背負ってグラウンドを横切る威勢は微塵も感じられない。中島が遅れる二人を振り返り追いつくのを待ってくれた。
「ところでなんか話があるんじゃないのか、飯食いに来たわけでもないだろう」
「中島先輩はいつも食事の支度をしているんですか?」
「ああ、親父は病気だろう、おふくろが料亭で仕事しているから帰ってくるのが遅いんだ。晩の食事と後片付け、それと洗濯が俺の役目なんだ。それがどうした?」
「いえ、別に、ただ偉いなあと思って」
「おまえに褒められても嬉しくねえよ」
「中島先輩」
大が意を決する。立ち止まり直立した。
「なんだ内田、改まって」
「おっす、今日お邪魔したのは先輩にお願いがあって来ました」
「直れ、さっきも親父に叱られたのわかっただろう、柔道着を着ているときだけ上下関係がはっきりするんだ。あとは普通の先輩後輩だ。立ち止まると蚊に喰われるから歩きながらでいいよ、言ってみな」
中島と大が並び一歩遅れて拓郎が続いた。後ろから見ると大の上背は中島とほぼ変わらないくらい伸びていた。拓郎は遠い存在だった中島が少し近づいたような気がした。
「はい、中島先輩、自分達と試合してください。自分が十番、拓が十番」
「ああ、いつでも挑戦受けてやるぞ、なんだったら今からでも構わない。でもどうして?」
「おっす、もし先輩から一本でも取れたら小間使いを命令しないでください。お願いします」「お願いします」
「そうか、それを言いに来たのか、おまえらが俺んちに遊びに来るわけないだろうと思っていたんだ。俺はなあ、おまえ等、特に内田、恵まれた身体をしていながら俺に投げを喰らう、何故だかわかるか、走り込みが足りないんだ、道場での稽古だけで強くなれるなんて考えていたらとんでもない、俺は毎朝飯前に六キロ走ってる。これは一年のときから欠かさずだ。俺はな、小学五年のときから近所の道場に通っていたんだ。その頃から身体は同級生を圧倒してた、負ける気なんかなかった。中学に入ってからも先輩と互角以上の勝負をしていて天狗になっていたんだ。でもな、対抗試合で北川ぐらいの体格のやつに背負い喰らったんだ。俺口惜しくてなあ、その学校に行って再試合をお願いしたんだ。三本やって全部背負い喰らった。その人は今、国体で上位に顔を出しているひとだ。そのひとにな、『君走ってる?走ってないでしょう。足裏に根が張ってないから僕みたいな小柄な選手にも投げられてしまうんだよ。走り込みを続けていれば土踏まずから畳に根が差し込んでいくのがわかるから、そうしたら僕なんか君の相手にならない』そう言われてなあ、走ったぞう、朝のランニングは勿論欠かさず、何をするにも何処へ行くにも走った。そしてな、俺が中二で、その人が高二のときだ、俺なあ、その人の学校に行ってな、無理に稽古に参加させてもらって、最後に試合をお願いしたんだ。お互い充分に組み合って、その人が投げ技に入るとき、竹の根みたいに足裏が畳に刺し込むのがわかったんだ。何度か投げ技を仕掛けられたが俺の足裏は畳から離れることはなかった」
「勝ったんですか?」
「いや、内股から押さえ込まれて負けた、でもその人が最後に『強くなったねえ、走り込んでるね相当、これで寝技を練習すれば君は世界も夢じゃないと思う、この学校に来ないか、監督に推薦しておくよ僕から』嬉しかったなあ。投げ飛ばされてわかったんだ、走り込んだ成果だって。おまえ達も走り込めば強くなれる、そう思って小間使いをダッシュで行かせたりしていたんだ。道場で何時間練習しても足に根は生えない、道場で二時間練習するなら一時間にして、あとはランニングやスクワットなんかをやって足腰を鍛えた方が強くなれる、あのひとに言われたことを経験で確信した。おまえ等柔道続けるんだろう、だったら走り込みやれ、損はない、勝てなかった相手から一本取れたとき、ああ、走り込んで良かったなあって絶対思うから」
「おっす」「おっす」
常夜灯のカバーに大きな蛾がへばりついている。拓郎がそれを発見し、三人はその常夜灯から離れて歩いた。
「明日からおまえ等に用を言いつけるのは止める、これは約束する。たださっきの挑戦状はきっちり受ける、いつがいい、明日か明後日か?」
小間使いを止めてくれるなら試合などしたくはなかった。試合の申し込みなどせずに、正直に訴えれば中島はわかってくれたと後悔したが、既にサイは大達から投げてしまった。
「土曜日でどうでしょうか?」
「どうでしょうかって随分と弱気じゃねえか、心配するな、俺が全勝してもおまえ等に用は言いつけないから、明日か明後日か?」
さっきまで父親に料理の味付けや、言葉使いを指摘されて元気のなかった中島だが、二十番勝負を申し込まれてからは目が輝き、落ちていた肩が首を埋めるように盛り上がってきた。
「おっす、実は明後日町内の祭で神輿をかつぐんです、もし怪我でもしたらかつげなくなってしまうんで、それで土曜日以降にして欲しいんですけど」
「欲しいっておまえ等から申し込んできたんじゃねえか、まあいいや、そうかわかった、怪我も覚悟で俺に挑戦してくるつもりだな、俺も手加減しない」
「う、うっす」
「ちょっと待ってろ、買いもんしてくんから」
中島はコンビニに入った。大と拓郎は口を開く元気もなくなり、ただしょんぼりと彼を待った。中島は袋からメロンパンと牛乳をそれぞれに渡した。
「おまえ等に俺の飯食われたから痛い出費だ」
「いただきます」「いただきます」
「じゃあな、ここまでだ、また飯食いに来いよ、実はな俺、中華の鉄人目指してんだ、それじゃな、ああそれとごみはその辺に捨てんなよ」
「おっす、ありがとうございます」
中島はコンビニの袋を肩にかつぎ、闇に紛れていった。
「やべえ、もう八時だ、三十分で帰れんかなあ」
「よし大、走って帰んべえ」
「まじかよ、牛乳が零れちゃうよ」
「鍛錬鍛錬」
右手に柔道着、左手にメロンパンと牛乳を持ち、齧りながら、ストローを吸いながら走って家路を急いだ。
「さあてそろそろ帰るか、デブ二号が腹空かして帰って来るから」
「頭は?」
「御仮屋の番で留守なのよ、ありがたやありがたや、酒でもかっくらって裏ビデオでも観て寝っか」
「ありがとう里美さん。なんか凄く気が楽になったわ、もやもやも素っ飛んで行っちゃった」
「そうか、良かった、ちょくちょく来るから、金のこと遠慮すんなよ。それから最後の晩は賢治におもいっきり抱きついちゃえ、いいな、おもいっきりだぞ」
世津子は頷いて笑った。
「あれ、お囃子も終わったのかねえ、静かになっちゃった」
里美は踵の薄い網のサンダルをつっかけて鼻歌混じりに帰って行った。世津子は飯台の空き缶を片付け、もうじき帰宅する拓郎のために支度を始めた。
(十八)
「いらっしゃい賢ちゃん、高橋の社長来ていらっしゃるわよ」
オリーブのママが賢治を迎えてくれた。
『五番街のマリー』を口ずさみながら首筋から背中にかけて、里美の指が世津子の憂いをほぐす。歌詞の忘れた部分はハミングに変えた。
(十七)
「こんばんは」「こんばんは」
「はい、どちら様ですかって柔道着をかついでいては幸一の友達かな?」
「おっす、内田です」
「北川です。中島先輩いらっしゃいますか?」
「ちょっと待っててね」
中島の父親は右手をだらりと下げ、右足を引き摺って奥に消えた。
「おおい、おまえ等、今手が離せないから、上がって来い」
台所の方から中島の声がした。
「おっす、失礼します」
二人は中島の声がした台所に向かった。
「なんだおまえらこんな時間に、まだ稽古が足りないっていうなら今日は勘弁してくれ、こうみえても意外と忙しいんだ。そうだ、飯食ったか?食ったわけねえよなあ、じゃあ食ってけ。父さん、こいつらに飯食わせてもいいかなあ?たぶん父さんと母さんの分までなくなるけど?」
「ああ、構わん、だが家に連絡してからにしなさい」
拓郎は電話を借りた。
「もしもし母さん?」
「あたしが出るからいいよ、たぶん拓じゃないか、・・・はいもしもし、残念でした、大の母ちゃんでした。遅いぞ、大も一緒か?」
「やべえ、大のおふくろだ」
拓郎は大に受話器を差し出したが、大は首を振り拓郎に任せた。
「こんばんは、大はトイレに行ってます。これから中島先輩んちで夕飯ご馳走になるので、少し帰りが遅れます。八時半頃には帰れると大が言ってます」
「ふーん、トイレから随分と近いんだなその電話。うん、わかった、気をつけて帰って来るんだよ、ママには伝えておくから、ああそれからトイレの大に言っといて、帰ったら電気按摩だって」
「はい、失礼します、ああっあの、うちの母さん元気ですか?」
里美は受話器を押さえて世津子に言った。
「母さん元気ですかだってさ」
世津子の目からぼろぼろと涙が零れた。電話口に出ないだけで心配してくれる息子が嬉しかった。自身の欲のために悩んでいるのが情けなかった。竹内の陰影が頭から薄れていった。
「なんだって、うちの母ちゃん」
「電気按摩だって」
「まじかよ、きついんだよなああれ」
台所からいい匂いがしてきた。
「座れ座れ、電話したのか?」
「おっす」「おっす」
「特性の麻婆豆腐だ、ごはんにかけて食え、うちは誰もよそってくれないから自分でやれ」
「おっす」「おっす」
三人は猛烈な勢いでかき込んだ。それぞれが先を争ったが二杯ずつで釜の飯は空になった。
「中島先輩、飯食うの早いっすねえ」
「ばかやろう、おまえが一番早いじゃねえか、うちじゃあな、俺が四杯、親父とおふくろが軽く一杯づつなんだ。これじゃあ後でなんか食わねえと眠れねえなあ」
父親が台所に入ってきた。
「父さん、飯全部食ってしまったから少し炊いておこうか?」
「ほーっ、もう食べたのかね、気持ちのいい食べっぷりだねえ、いやいいよ、母さん帰ってきたらソーメンでもいただくから」
「ねえ父さん、麻婆豆腐はフライパンに残してあるから、あっそうだ少し食べてみて」
幸一はれんげで小皿にしゃくってテーブルにおいた。父親は左手にれんげを持ち、顔を小皿に近づけて口に入れた。
「うん美味しい、まあまあ合格だろう」
「やったあ、今度黄さんにも食べてもらおう、もし合格ならお店で作るよ俺」
「気が早いな幸一、まあまあ合格というのは合格じゃない。お金をいただくにはまあまあが取れなければ駄目だ、そこまでは意外と早く到達する、そこからが毎日の経験と、眠る間を惜しんでの努力しかない。かといって中途半端で追求を諦めては成功しない。お金を稼ぐというのは簡単じゃない、まあ始めは黄さんのやることをよく見て、料理を作るなんて考えずに、邪魔にならないようにしていなさい」
「はい」
幸一はテーブルの食器を片付け始めた。うぬぼれを父親に一蹴されがっくりしている。二人はこんな中島を見たのは初めてだ。いつも中島をイメージするのは、投げ飛ばされては踏まれ、見上げると両手を腰にあてがい高笑いしているロケーションである。
食器を洗い終えると中島が戻って来た。
「父さん、俺、こいつら送ってくるから」
「道場ではいいが外でこいつら呼ばわりは止めなさい」
「はい」
また叱られた。大は今の中島からなら一本取れそうな気がした。
「行ってきます」
「失礼します。ごちそうさまでした」
「はい、また遊びに来てください」
中島を先頭に二人は少し距離をおいて歩いた。柔道着を背負ってグラウンドを横切る威勢は微塵も感じられない。中島が遅れる二人を振り返り追いつくのを待ってくれた。
「ところでなんか話があるんじゃないのか、飯食いに来たわけでもないだろう」
「中島先輩はいつも食事の支度をしているんですか?」
「ああ、親父は病気だろう、おふくろが料亭で仕事しているから帰ってくるのが遅いんだ。晩の食事と後片付け、それと洗濯が俺の役目なんだ。それがどうした?」
「いえ、別に、ただ偉いなあと思って」
「おまえに褒められても嬉しくねえよ」
「中島先輩」
大が意を決する。立ち止まり直立した。
「なんだ内田、改まって」
「おっす、今日お邪魔したのは先輩にお願いがあって来ました」
「直れ、さっきも親父に叱られたのわかっただろう、柔道着を着ているときだけ上下関係がはっきりするんだ。あとは普通の先輩後輩だ。立ち止まると蚊に喰われるから歩きながらでいいよ、言ってみな」
中島と大が並び一歩遅れて拓郎が続いた。後ろから見ると大の上背は中島とほぼ変わらないくらい伸びていた。拓郎は遠い存在だった中島が少し近づいたような気がした。
「はい、中島先輩、自分達と試合してください。自分が十番、拓が十番」
「ああ、いつでも挑戦受けてやるぞ、なんだったら今からでも構わない。でもどうして?」
「おっす、もし先輩から一本でも取れたら小間使いを命令しないでください。お願いします」「お願いします」
「そうか、それを言いに来たのか、おまえらが俺んちに遊びに来るわけないだろうと思っていたんだ。俺はなあ、おまえ等、特に内田、恵まれた身体をしていながら俺に投げを喰らう、何故だかわかるか、走り込みが足りないんだ、道場での稽古だけで強くなれるなんて考えていたらとんでもない、俺は毎朝飯前に六キロ走ってる。これは一年のときから欠かさずだ。俺はな、小学五年のときから近所の道場に通っていたんだ。その頃から身体は同級生を圧倒してた、負ける気なんかなかった。中学に入ってからも先輩と互角以上の勝負をしていて天狗になっていたんだ。でもな、対抗試合で北川ぐらいの体格のやつに背負い喰らったんだ。俺口惜しくてなあ、その学校に行って再試合をお願いしたんだ。三本やって全部背負い喰らった。その人は今、国体で上位に顔を出しているひとだ。そのひとにな、『君走ってる?走ってないでしょう。足裏に根が張ってないから僕みたいな小柄な選手にも投げられてしまうんだよ。走り込みを続けていれば土踏まずから畳に根が差し込んでいくのがわかるから、そうしたら僕なんか君の相手にならない』そう言われてなあ、走ったぞう、朝のランニングは勿論欠かさず、何をするにも何処へ行くにも走った。そしてな、俺が中二で、その人が高二のときだ、俺なあ、その人の学校に行ってな、無理に稽古に参加させてもらって、最後に試合をお願いしたんだ。お互い充分に組み合って、その人が投げ技に入るとき、竹の根みたいに足裏が畳に刺し込むのがわかったんだ。何度か投げ技を仕掛けられたが俺の足裏は畳から離れることはなかった」
「勝ったんですか?」
「いや、内股から押さえ込まれて負けた、でもその人が最後に『強くなったねえ、走り込んでるね相当、これで寝技を練習すれば君は世界も夢じゃないと思う、この学校に来ないか、監督に推薦しておくよ僕から』嬉しかったなあ。投げ飛ばされてわかったんだ、走り込んだ成果だって。おまえ達も走り込めば強くなれる、そう思って小間使いをダッシュで行かせたりしていたんだ。道場で何時間練習しても足に根は生えない、道場で二時間練習するなら一時間にして、あとはランニングやスクワットなんかをやって足腰を鍛えた方が強くなれる、あのひとに言われたことを経験で確信した。おまえ等柔道続けるんだろう、だったら走り込みやれ、損はない、勝てなかった相手から一本取れたとき、ああ、走り込んで良かったなあって絶対思うから」
「おっす」「おっす」
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小間使いを止めてくれるなら試合などしたくはなかった。試合の申し込みなどせずに、正直に訴えれば中島はわかってくれたと後悔したが、既にサイは大達から投げてしまった。
「土曜日でどうでしょうか?」
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さっきまで父親に料理の味付けや、言葉使いを指摘されて元気のなかった中島だが、二十番勝負を申し込まれてからは目が輝き、落ちていた肩が首を埋めるように盛り上がってきた。
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「欲しいっておまえ等から申し込んできたんじゃねえか、まあいいや、そうかわかった、怪我も覚悟で俺に挑戦してくるつもりだな、俺も手加減しない」
「う、うっす」
「ちょっと待ってろ、買いもんしてくんから」
中島はコンビニに入った。大と拓郎は口を開く元気もなくなり、ただしょんぼりと彼を待った。中島は袋からメロンパンと牛乳をそれぞれに渡した。
「おまえ等に俺の飯食われたから痛い出費だ」
「いただきます」「いただきます」
「じゃあな、ここまでだ、また飯食いに来いよ、実はな俺、中華の鉄人目指してんだ、それじゃな、ああそれとごみはその辺に捨てんなよ」
「おっす、ありがとうございます」
中島はコンビニの袋を肩にかつぎ、闇に紛れていった。
「やべえ、もう八時だ、三十分で帰れんかなあ」
「よし大、走って帰んべえ」
「まじかよ、牛乳が零れちゃうよ」
「鍛錬鍛錬」
右手に柔道着、左手にメロンパンと牛乳を持ち、齧りながら、ストローを吸いながら走って家路を急いだ。
「さあてそろそろ帰るか、デブ二号が腹空かして帰って来るから」
「頭は?」
「御仮屋の番で留守なのよ、ありがたやありがたや、酒でもかっくらって裏ビデオでも観て寝っか」
「ありがとう里美さん。なんか凄く気が楽になったわ、もやもやも素っ飛んで行っちゃった」
「そうか、良かった、ちょくちょく来るから、金のこと遠慮すんなよ。それから最後の晩は賢治におもいっきり抱きついちゃえ、いいな、おもいっきりだぞ」
世津子は頷いて笑った。
「あれ、お囃子も終わったのかねえ、静かになっちゃった」
里美は踵の薄い網のサンダルをつっかけて鼻歌混じりに帰って行った。世津子は飯台の空き缶を片付け、もうじき帰宅する拓郎のために支度を始めた。
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