祭囃子を追いかけて

壺の蓋政五郎

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祭囃子を追いかけて 25

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香織は嬉しかった。自分のことのように嬉しかった、いずれは黄のように修行を重ね、独自の味を確立させ、店を構え、満足のいく料理を提供したいと、新たな決意が燃え上がるのであった。
「二人にお願いがあります、すべての料理、もちろん野菜のきざみから鍋の洗いまで私一人でやります。それはあなた達のやり方が気にいらないというわけではありませんヨ、この規模の店を一人で切り盛りできなければそれは既に失格です。ですから二人には接客とレジ、それ以外は手を出さず、時間があれば私の仕事を見て盗んでください」
 まさにスタート台に立った黄は、これから中華の道を目指す若い二人に厳しく言い聞かせた。
「それからレジを打ったあとは必ず手洗いを励行してください。手拭も何枚も用意してあります。手拭が汚れていては手洗いの意味がなくなります、ですからまめに取り替えてください。それから店内では暑くても前掛けと帽子は外さないように、それともうひとつ、お盆は丼や皿と同じ食器と考えてください、だから一回々洗います。うるさいこと言ってご免ね」
「はい」
 香織は黄の接客マナー、特に衛生面での気の遣いようはチャイニーズレストラン『バンブー』で心得ていた。
「まだ開店まで二時間あります。開店祝いはありませんヨ、知人友人が大勢来るかもしれませんが、友達だからといって大事なお客様に変わりありませんヨ、手を抜かずに接客してください。では開店まで心の準備と対応をイメージしていてください」
 そういうと黄は目を瞑り、腕を組んでシュミレーションを始めた。時折納得したように頷き、マジシャンが物体を空中浮遊させるみたいに両手で何かを転がしている。  
 「幸一君て呼んでいいですか?」
 活発な香織は、身体は大きいがおとなしい中島に小声で尋ねた。
「はい」
「高校生ですか?」
「中三です」
「うそー、あたしより上かと思った、どこの中学?」
「深中です」
「あたしの後輩だ、黄さんとはどういう関係なの?あたしはバイト先の料理長が黄さんだったの」
「僕の親父と黄さんが友達なんです」
「あっ、そういえばこの前黄さんから聞いた、じゃ進学しないで中華の修行するの?」
「そのつもりです」
「お父さんの夢を繋ごうとしてるわけ、偉いわね」
「それもありますけど、なによりも黄さんがうちに遊びに来るたびに作ってくれる料理に感動しました」
「そうでしょ、黄さんの料理は素晴らしいわ、それに衛生面ではほんとに感心するわ、まな板、シンク、ガスレンジ、床壁、表面だけじゃないわ、箸箱、トレイ、調味料入れ、厨房と店内のありとあらゆる物までに気を遣っているの、尊敬するわ、あたしも黄さんのような料理人になりたい」
「僕もです」
 話していくうちに二人のトーンはあがったが、黄の耳には届いていなかった。相変わらずイメージトレーニングをしている。冷蔵庫の方へ向きを変えたり、鍋を大きく柔らかく振るようなジェスチャーをしたり、二人にはまるで太極拳の型を舞っているように思えた。

「拓なんか言ってましたか?」
 拓郎が自転車を漕ぎ出す音を聞いて世津子が戻ってきた。
「うん、がんばってた、涙が畳を濡らさないように堪えていたよ。随分と大人になったもんだ」
「そう、強くなったわね拓」
「ああ成長した。俺の体裁のいい誤魔化しも見破っていたかもしれないな、柔道薦めてよかったな」
 世津子はお茶を入れて賢治の前に座った。灰皿の横にハイライトのケースが捩じって置いてある。
「たばこ買って来ましょうか?」
「いいよ、今日から止めるのも明日から止めるのもおんなじだ、世津子こっちこい」
 世津子は立ち上がらずに膝をずらして賢治の胸にもたれた。
「ひとつだけ拓が心配してた。離婚するなって、おまえを離すなってよ、生意気に」
 世津子ははっとした、もしかしたら御仮屋の前で竹内の車に乗るところを目撃されたのではないかと。
「ねえ抱いて」
 世津子は賢治に覆い被さった。
「世津子さん、おっとっと」
 茹でたうどんを差し入れに行ったサキは網戸の前でU ターンした。

「中島先輩進学しないらしい」
 大と拓郎はベッドの上で仰向けになり、天井のブルース・リーに憧れていた。
「マジで?」
「横田先輩が言ってた」
「なんで、あんな強い人が」
「横田先輩も言ってた、多くの高校から誘いが来てるって、ほとんどが私立の付属高校で、只で大学まで進めたのになあって、それにあいつならオリンピックも夢じゃないって、日本の損失だって」
「もしかして大に一本取られたから恥ずかしくてとか」
「それはないと思うけどなあ、もしそうだったら俺が引退に追い込んだってことになるな、あの中島を引退に追い込んだ男、内田大が私です、ワッハッハッハッ」
 大はベッドに立ち上がり大袈裟に笑った。
「何がわっはっはだバカタレ」
 いきなりドアーが開けられ、里美がスカートを捲くり上げた格好で入ってきた。
「母ちゃん、ノックぐらいしろよ、年頃の男の子なんだからよう、それに拓がいるんだからスカート下げろよ、目のやり場に困ってんじゃんかよう」
「暑いんだからいいじゃない」
 そう言って両手に掴んだ裾を、ダンサーのように左右に大きく振った。拓郎は性的刺激を受けるというよりも、スカートの奥から異臭が発せられそうで目を背けていた。
「あら、拓可愛いねえ、そう恥ずかしいの、お昼は食ったの?、なんか作ろうか?」
「ありがとうございます、でも姉ちゃんが今日ラーメン屋に手伝いに行くから夕方来いって」
「まじかよ、行くべえ、行くべえ」
「どこで?」
「大船です。三叉路の角」
「ああ、あそこ新しくなるんだ?ふーんそう、じゃああたしもあとで行ってみよう」
「父ちゃんは?」
「午前中仕事だって」
 里美は大の部屋から出て、ドアを閉める寸前に顔だけを覗かせて拓郎に声をかけた。
「拓、頑張れよ、半年なんかすぐだからな」
「はい」
 里美は子供達にはわからない演歌のメロディをハミングしながら階段を下りていった。
 「大に話さなきゃならないことが二つあるんだ」
「なんだよ」
「うちの親父刑務所に行くんだ、明日から半年間」
「だからこの前話したじゃねえかそのこと、親父とおふくろが下で、大声で内緒話してたから二階まで聞こえたって」
「あれ、重大事件てそのことだったの?」
「そうだよ、こんな重大事件はないだろう、他にまだあるのか、おまえんちすげえなあ」
「うちの親父単純だから、なにも考えないでやりたいことやっちゃうんだ、俺に告白するときも他の人のせいにしていた。情けないよ。でも生涯俺の親父だし、諦めて待つことにした」
「俺んちの父ちゃんも同じだよ、俺に隠れて悪いことしてるらしい、お互い出来の悪い親を持ったと諦めてがんばろうぜ」
「うん、それともうひとつ大に言わなきゃならないことがあるんだ。家族のことじゃないよ、アッコのことなんだ」
「気にするなって、アッコが拓を好きなのはずっと前から知ってるよ」
「ごめん」
「謝るなよ、俺が優れてることもあれば拓に敵わないこともあるさ、柔道や喧嘩じゃ俺が上だけど、勉強と女は拓が上ってことだよ、前に父ちゃんが言ってた、喧嘩して降参だけはするなって、だから絶対に負けないんだ」
「中島先輩に勝ったときの雄叫びカッコよかったよ、ゴジラみたいで」
「あいててて、笑わせんなよ、首が痛いんだから」
「俺、中島先輩が卒業するまでに、もう一回挑戦する」
「ようし、走り込み行くべ、早めに終わらせてラーメン食いに行こうぜ」
「うん」
 二人は飛び出した。十キロあるコースを周り、近くの公園で腕立て伏せ百、腹筋を百、これを毎日の課題とした。打倒中島を掲げて。
 
(二十五)
 
「これは芳川様わざわざありがとうございます。さあさあどうぞどうぞ」
 開店と同時に竹内が訪れ、彼の招待した客を接待している。庶民派の黄にとって竹内のビジネススタイルに賛同できないが、この先商売を継続していく上で、竹内が贔屓にしている上客を紹介してもらうのは素直に感謝した方がいいと考えた。店内は竹内の招待客で満席となり、試食に来た一般客は中を覗いてはため息を吐き、帰って行くのであった。竹内の招待客は元々、黄の実力を『バンブー』で了承済みであり、安心して食している。しかし中にはグレードの下がった素材に不満の声を漏らす常連もいた。
「黄さん、美味い、確かに美味いけどなにか物足りないなあ」
 それもそのはずである。『バンブー』に足を運ぶ客は竹内が営業した人達で、みな裕福な暮らしをしている。中華の食事に二万円三万円支払っても、高価な食材を使い、料理人の腕に舌鼓を打ち、楽しくときを過ごせればそれでいいのである。『バンブー』で利用していた食材をこの店で使えば、メニューで案内している料金をすべて五倍以上に書き換えなければ追いつかない。それにそういう客層を黄はターゲットにしていない、肉体労働者、主婦、学生が気楽に楽しめる本格中華料理を目指している。
「ビール五本と紹興酒お願いします」
 竹内の接待客の一人が中島に注文した。
「おっす、あっはーい」
 道場で身についた返事が接客に慣れていない中島の口から思わず出てしまう。
「あの人達いつまで飲むつもりかしら、他のお客さんみんな帰っちゃう、社長もそれぐらいわかって欲しいわ」
 香織は独り言のように中島にこぼすのであった。開店してもう二時間が経とうとしている、暖簾を捲っては立ち去る客、一応中に入って、店内を眺めては苦笑いして出て行く客、その一人一人に香織はあたまを下げて見送った。これからこの店を支えてくれる人は、たまに来て大金を落としていく人達ではなく、仕事帰り、学校帰り、買い物途中に立ち寄って食事をしてくれる庶民である。開店セレモニーを企画しなかったのも、黄のそういった考え方からであった。
「黄さん、一般のお客さんがみんな帰ってしまいます。そろそろお開きにしていただくように、あたし社長にお願いして来ます」
 鍋を振りっぱなしの黄に近寄り小声で言った。
「香織さん、丁重に接待してください」
 香織は仕方なく、でき上がった料理をパーティ気分の客達の前に運んだ。気持ちが入らずに仕事をしていると、運まで落ちてきて、悪い連鎖がよく起きる。香織がトレイから皿を差し出したそのときである。化粧直しに立ち上がろうとした婦人の肩と接触して皿が引っくり返り、夫人の胸へ酢豚が雪崩のように滑り落ちた。幸い婦人は立ち上がったので熱い汁気は一気に足元まで流れ落ち、火傷を負う最悪の事態にはならなかったが、こんな場末の中華料理屋に出向くには、場違いな白のフォーマルウエアが酢豚色に塗り替えられた。
「ブタ、ブタ、スブタ♪」
 円形テーブルで婦人の対面に座っていた中年はげ親父の、励ましのつもりで口ずさんだメロディが、その場で泣き崩れそうになった太った婦人を尚更刺激した。
「申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません」
 香織が半べそをかいて平謝りしていると、黄が厨房から出て来た。そしてこぼれた酢豚の横に土下座して「ごめんなさい」と床に頭をつけて謝った。
「ふん、竹ちゃん送って」
 黄を無視して婦人が店を出ると、全員がぞろぞろとあとに続いた。列の最後の竹内が、分厚い封筒をポンとカウンターに放り投げた。
「これ、ご祝儀、運が悪いとはいえ、とんでもないことをしてくれたなあ黄さん、あの方はカネツカ紡績の社長夫人なんだよ、どうしてくれんだよまったく」
「どうもすいませんヨ、なんとお詫びしたらいいのか、ほんとに申し訳ないヨ」
 黄は少し焦っているのか中国語訛りがひどくなっていた。
「黄さんは関係ありません、あたしの不注意です。あたしが責任取ります。あの方の洋服も弁償します」
「香織ちゃん、あの方の服いくらだか知ってる?君がうちで一年間アルバイトしても弁償できる物じゃないんだよ。それにね、従業員が皿を落とそうと、レジを打ち間違えようと、すべての責任はオーナーにあるんだ、悪いこと言わないから高校ぐらい出て、技術を学ぶ前に一般常識を身に付けなさい、ママもそう言ってたよ?それじゃ明日」
「あっ社長これは受け取れませんヨ、香織ちゃんレジ叩いて」
 封筒の厚さに驚いた黄は、店を出ようとした竹内を追いかけるように言った。
「はい」
 香織は黄に言われるままにレジを叩いた。
「こんなに受け取るわけにはいきませんヨ、注文していただいた分だけお願いしますヨ。それから、弁償すればいいという問題ではないけど、私あの夫人にもう一度謝りに伺うヨ」
「なに?」
 普段の竹内からは想像つかない顔つきで言った。 
「おい、おまえよう、そういう態度取るか、あーっ、おまえクラスの料理人なんてゴロゴロしてんだよ、俺の企画に上手く乗っただけだろう、そんなことわかんないのか?折角上客紹介してやったのによう、上手くいけばうちのチェーン店として認めてやろうと考えていたけど、なにもかも終わりだな、もう日本で成功しようなんて夢諦めて、中国でも台湾でも帰って、屋台でも引っ張ってな」
 じっと堪えていた中島が厨房から飛び出して、竹内のジャケットの両襟を掴み、喉下を締め上げた。
「止めろ、幸一君、止めろ」
 黄が叫んだが中島はさらに力を入れて締め上げた。声も出せず真っ赤になった竹内は今にも気絶しそうである。
「止めろ幸一、お客さんになんてことをするんだ」
 黄のその一言で中島は手を離し、外へ飛び出して行った。
「なんだあのがき、おまえんとこはあんなの使ってんのか、てめえんとこの落ち度をつかれると、暴力で追い出すつもりだな、やくざ以下だな」
「申し訳ありません、ほんとにごめんヨ、あの子はまだ中学生ヨ、社会の仕組みわからないヨ、許してくださいヨ」
 竹内は皺のよった襟を伸ばしながらドアまで寄ると、振り返って言った。
「香織ちゃん、こんな危ない店手伝わない方がいいよ、じゃあ明日『バンブー』で」
「あたし行きません、辞めます」
「勝手にしろ、ママにヨ、ロ、シ、ク、」 
  
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