枕元の赤いベルを鳴らすとき

壺の蓋政五郎

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枕元の赤いベルを鳴らすとき 1

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 年の瀬の伊勢佐木モールは年末商戦一色になり、老舗も新進のチェーン店も、売り子が店先に出て売れ残りゼロを目指し大声を張り上げている。近年めっきり人気のなくなった正月飾りは、更に売れ残りが増えている。
「閉めるか今日は、頭(かしら)に電話しろ」
 戦前からずっと松坂屋の前でお飾りを売してきた老舗とびの若い衆は素通りする黒山にも威勢が上がらず店じまいの段取りを始めていた。
「一番小さいのでいいんだが」
 竹中史朗は鳥小屋用にひとつ購入した。すぐ近くのスーパーなら安価で見てくれのいい物があるのだが、混み合っていて入る気がしなかった。レジ袋に入ったお飾りをぶら下げて長者町の信号を越えた。古本屋の二階にあるかかりつけ医院待合室の長椅子に座った。診療予約は午前十時だがまだ二十分ある。竹中がこの医院を訪れるとき大概客はいない。開院時間に患者のいない医者は珍しい。予約制なんてシステムは忙しそうに振舞うこの医院の面目だけかもしれないと長椅子に座るたびに感じていた。
「竹中さん、まだお時間早いけどどうなさいます。先に診察受けちゃいますか?」
 受付兼看護婦兼会計まですべてを兼ねている四十過ぎの女が言った。
「だいじょうぶなの、予約の患者さんが来たら困るんじゃない」
 予約の患者などいないのはわかっているが、女の返答が聞きたかった。
「竹中さんはビップ扱いだから気にしないで、予約の患者さんには竹中さんのあとにしていただきますから」
 減らず口の典型女である。だが伊勢佐木町という横浜きっての繁華街に巣食う魑魅魍魎と相対するにはこれぐらいの減らず口を叩けなければ通用しない。
「竹中さんどうぞ」
 受付と診察室は薄い壁一枚で隔てているだけで、普通の声で話せばすべて筒抜けである。由美かおる似の斉藤洋子女医が受付の話が一段落するまで聞き耳を立てていて竹中を診察室へ呼んだ。
「どうですか竹中さん、高血圧、糖尿病」
「先生、前回検査したんだけど結果は出ましたか」
「あっそうそう、ちょっと待ってね」
 女医は検査のことなどすっかり忘れている。竹中が口にしなければ問診と処方箋でお帰りだった。
「あっはい、ええと、あっ竹中さんはやっぱりC型慢性肝炎だわキャハハ」
 これが竹中史朗への告知であった。
「先生笑っているけど告知されたこちらの身にもなってくださいよ」
「今はそれほど難しい治療じゃないしダイジョウブよ、治り易いタイプのウイルスだと九割以上の人が完治するし。それに感染者全員が肝硬変や肝癌に発展するかというとそうでもないの。竹中さん以外にも、うちにはC型慢性肝炎のお客さんが三人いるけど治療はしていないわ。そのうちのひとりはお酒も飲まないし肝臓の数値もすべて良好だから結構長生きするんじゃない。後の二人はお決まりのコースって感じかな」
 患者に対してお客さんと表現していることに竹中は笑ってしまった。
「お決まりって?」
「肝硬変になって肝臓癌になって苦しんで死ぬのよ」
 竹中は女医に紹介状を書いてもらった。大学病院より女医のおすすめ病院を選択したのだった。小さいけど家庭的な雰囲気が大病院じゃ味わえないアットホームとのことだった。大病院で一日中監視されているより自由に振舞えると聞き選択した。
「竹中さん長いことお世話になりました。無理をせずお身体を大事にしてくださいね、さようなら」
 「さようなら」とはどういうことだ。受付の女が領収証の金額を指差して言った。医院からそんなこと言われると気味が悪い。その意味がよくわからず、正月開けに診察に来た竹中は閉院の看板に唖然とした。暮れに受付の女が言った言葉はこういうことだとその閉院の案内で納得した。竹中が階下の古本屋を覗くとベレー帽の親父は人差し指で二階を指差し「脱税」と笑って言った。直木賞受賞作の『香港』を千二百円で購入して店を出た。古本屋の上で時間つぶしにも最適だと選んだ伊勢佐木町のかかりつけ医との六年間の付き合いは呆気無く幕切れとなった。
「あなた、血圧のお薬がもう二日分しかありませんよ」
 竹中は妻の芳枝に新しいかかりつけ医を探すことを勧められていたが返事はしなかった。竹中にとってかかりつけ医の存在は技術とかサービスとかそんなことより何処にあるかが重要だった。三十分ほどの診察を理由に一日を有効に使える。医者に繁忙を理由にすれば四週間分の処方箋をもらえるが、二週間分にしてもらい、月に二度の楽しみを優先していた。宅からゆっくり歩いても十分ほどの距離に内科があるが敬遠している。
「佐藤内科にしたらどうですか。お薬だけなら私が取りに寄れますし」
 それが佐藤内科にしない理由なんだと芳枝には言えなかった。
「ご近所に会うのが嫌なんだ。色々詮索されるとおまえだって面倒臭いだろう」
「いいえ、あなたが高血圧で糖尿病で肝臓が悪いのはご近所の皆さんは大概ご存知ですよ、朝の挨拶は必ずあなたの体調から始まりますから、検査結果が悪いとつい長話になって」
「おまえが喋ってしまうんだろう、あることないこと。いくら近所付き合いだからといってもそれはよくないぞ」
「そうそう、思いだしたわ。五階の吉川さん、ほら銀行の役員でいらっしゃって自治会で会計監査を三年間務めてくださった方、亡くなったそうです」
「えっ、先週公園の草刈りのときはまだ元気だったじゃないか、還暦を過ぎたばかりじゃなかったかな、私より確か五つぐらい上だった。でどうして?」
「肝臓癌ですって、長いことC型肝炎だったけど忙しくて治療しなかったらしいわ。仕事柄お酒も相当行ける口で癌とわかってから数日でおっほっほ」
 竹中は芳枝にC型肝炎と診断されたことを隠していた。気の弱い芳枝は卒倒するかもしれない。感染の可能性もゼロではない。そもそも竹中自身感染経路が特定できない。刺青もしていない、覚醒剤や麻薬にも手をつけたことがない。風俗店に出入りしてことはあるが、残念ながら血にまみれるような濃厚なプレーはしたことがない。しかしもしかしたらという経験がひとつだけあった。高校最後の夏休みツーリング中に事故に遇いかなりの出血をした。気が付いたときには輸血されていた。血を分けてくれた人の中に顔が真っ青で腕にイカリの刺青をした男が枕元にいた。
「若造、命を粗末にするんじゃないぞ」
 それが感染経路なのかどうか確かめるのは困難で、今だかってその人が誰だかわからない。
「先生、輸血してくれたのうちの家族だけですか?腕にイカリの刺青した顔色の悪い年配の男がいましたけど」
「君の叔父さんじゃないのか船乗りの?」
「うちの親戚に船乗りはいませんけど」
「そうか、一番に腕を出してくれたからてっきり君の親戚かと思ったよ、ポパイの血が君に流れたんぞ、羨ましいなこいつ」
 そのポパイが肝炎だったかどうかはわからないが三年前に会社の健診で肝臓の数値が高く、検査するよう指示された。そして去年の暮れに伊勢佐木町のクリニックでの検査で陽性反応が出るまで気にしたことはなかった。
「芳枝、話がある。驚かないで聞いて欲しい」
「自費出版のことですか?もう少し頑張って、還暦祝いに私がプレゼントします」
「そうじゃないんだ。医者のことなんだ。医者のことっていうか病気のことなんだ。ほら会社の健診で肝臓の数値が高いって三年前に、覚えているでしょ。それで去年の暮れに伊勢佐木町のクリニックで検査してもらったんだ」
「飲み過ぎでしょ原因は、週に二回は休肝日をとらなきゃ駄目なのよ」
 芳枝はポトスの霧吹きを途中で止めて竹中に言った。
「実はな、私はC型慢性肝炎らしいんだ、アッハッハ」
 伊勢佐木町の女医が竹中に告知したときやはり最後にキャハハと笑った。さっき芳江が吉川さんのご主人が肝臓がんで亡くなったと話した最後にオッホッホと笑った。竹中もそれをまねたわけではないが、芳枝に話すときも最後に笑ってしまった。笑いで閉めて空余裕を見せ付ける、照れ隠しかもしれない。芳枝は霧吹きを落とした。竹中がそれを拾った。意味もないのに芳枝にシューした。芳枝は霧吹きの一押しの圧力でソファに崩れた。その晩芳枝は泣き続けた。
「ご近所に何て報告すればいいの、特に自治会長婦人の吉田さんにそんなこと言えないわ」
 芳枝は泣き腫らした顔でオウムに餌をやる竹中に言った。
「いやそんなこと報告なんてすることはないんだ。むしろそんなことを近所に喋ることがおかしいんだ。そこんとこ勘違いしない方がいいと思うな、それがおまえの良くないとこだと思うぞ」
 自分の病気で上から目線はおかしいと感じたがここはしっかりリードしないと芳枝は倒れてしまうだろうと思ったからだ。
「何を人事みたいに、うつっているかもしれないのよ私に。今思えば子供を授からなくて良かったのよ。神様はこれを見越してそう判断してくれたんだわ」
「心配するな、おまえには感染していないと思うよ。それに子供は努力不足だよ単なる」
「あなた医者ですか?どうしてうつっていないと断言できるんですか」
「それは私なりに色々調べたんだ。私たちの夫婦関係では感染していないと私なりに確信している。ひとつ聞きたい、髭剃りで無駄毛の処理をしたでしょ、そのとき出血とかしなかったかな?それなら絶対大丈夫だと思うよ。もし心配なら検査に行ったらいいし、私が一緒に行こう。帰りに美味いもんでも食おうよ」
 慰めたつもりだったが芳枝には通じなかった。
 
 竹中は三年前まで努めていた建設会社を辞めて、設計の仕事を請け負い、自宅で作業している。毎日会社から一歩も出ずにパソコンを操作するだけの仕事なら、わざわざ会社まで足を運ばなくても自宅でこなせると感じたのが辞めるきっかけとなった。会社からの注文を月に数本こなしている。贅沢を慎めば生活には充分な収入になった。それに自分に合った労働時間を手に入れた。趣味の小説執筆時間も大幅に増えた。一人で町を散策することが執筆のネタで、パソコンの前で演歌聞きながら執筆していることが唯一の楽しみだった。
「今日検査に行ってきました」
 芳枝はドア越しに執筆中の竹中に言った。検査のことは竹中には知らせていなかった。
「あれ、聞いていないよ。一緒に行ったのに。どこの医者?結果は?」
 うつっていないと言い放ったが内心不安でならなかった。万が一感染していたら、どんな言い訳しようかそればかりを考えていた。
「吉田さんの奥さんに紹介していただいたの。自治会長の同級生に肝臓の権威がいて聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルという大きな病院を予約していただきました」
「随分と長いね名前、さぞかし立派な病院なんだろうね。結果は再来週かな、伊勢佐木のクリニックは三週間かかったから」
「あなた好みの古本屋の二階とかの診療所じゃありませんから、検査すれば診察までの一時間ほどで結果を知らせてくれます」
「そりゃスピーディーだね。それで?」
 芳枝には竹中が結果を早く知りたいのが手に取るようにわかった。返事をせずにキッチンで夕飯の支度に入った。竹中にも芳枝が答えを焦らしているのがわかった。しかし喜怒哀楽がすぐに表情や言葉に出る芳枝が、もし感染しているなら帰宅後すぐにキッチンに立つわけけがないと内心ほっとしていた。しかし直接芳枝の発声で確認したかった。パソコンを終了してリビングのソファに座った。視線が合わないように芳枝を観察した。肉の焼けるいい匂いを嗅いだ竹中は確信を強めた。
「肉だね、ステーキだね。いいねえ、ようし取って置きのワイン出しちゃおう」
「あなたお酒はやめてください、完治するまで。私も付き合いますから」
「そうか、感染していないんだね、よかった、本当によかった。それじゃ感染無し祝いで乾杯しよう」
 竹中は結婚してからこんなに妻のことを心配したのは初めてだった。子供を授からぬ責任を大きく感じて落ち込んでいた時期もあったがそれ以上に今回のことは気になっていた。
「吉田さんが治療を開始するなら早い方がいいって仰ってましたわ。すぐに手配してくれるそうよ、ねえあなた、どうですか、聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルを予約していただいたら」
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