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枕元の赤いベルを鳴らすとき 2
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「折角だけど伊勢佐木のクリニックの女医さんに紹介状を書いてもらったんだ。阪東橋の商店街にある野々宮病院という小さいけど総合病院でアットホームが売りの院長らしいよ、ここからそう遠くもないし、それに週一の通院となるから赤坂までは通い切れないな」
「あなたはどうしてあの辺がいいんです?食事も映画も医者もすべてあの辺りじゃありませんか」
芳枝の指摘通りである。竹中は横浜の下町が好きだった。地下鉄の整備に伴い発展したみなとみらい地区に取り残された横浜の繁華街が好きだった。ぷらぷらと寄席や芝居小屋に寄ったりマイナー映画を鑑賞したり、立ち飲みで日雇い労働者の愚痴を盗み聞きしているのが楽しかった。横浜の下町を歩いていれば幸せだった。
「明日行ってくるよ野々宮病院に。もし気に入らなかったらそのなんて言ったっけ、自治会長のおすすめに行くようにする」
「いいえ、あなたは伊勢佐木町の女医さんがおすすめの商店街にあるアットホームな病院に決めてくるのは目に見えています」
竹中は地下鉄『坂東橋』駅から地上に出ると関内駅まで続く公園の中に出た。交番の前では仕事にあぶれた労務者が将棋を指していた。竹中にとってこの辺りは目を瞑っても移動できるぐらい隅々まで心得ていた。一直線に続く立派なアーケードの商店街は活況だった。道行く三割の人達が外国人と言っても過言ではない。しかし女医の紹介した病院の存在は知らなかった。
「野々宮病院てご存知でしょうか」
店頭に並んだ野菜を揃えている若い八百屋店員に尋ねたが店員はぽかんとしている。
「ああ、こいつ日本語わからない。もう少し行った右側にパン屋さんと酒屋さんの間にドアがある。しっかり見とかないと通り過ぎちゃうからね」
店主が代わりに教えてくれた。竹中は八百屋の店主の忠告通り、右側だけを注意深く確認して歩いた。間口は半間のアルミドアだった。その曇りガラスに野々宮病院と赤茶色のペンキで書いてある。ペンキは文字から垂れ下がり血が滴り落ちているように見える。何階建てなのかアーケードに隠れていてわからない。入り口の前でパジャマ姿の男が煙草を吸っている。竹中はその男が気になった。ニヤニヤしてこっちを見ている。聞くだけ聞こうと仕方なく近寄った。
「あんた肝臓だろ」
パジャマの男は竹中に言った。
「失礼な、違いますよ。検査をするように掛かりつけ医に紹介されて来ただけです」
肝臓と当てられたことに竹中は焦って余計なことまで口にしてしまった。
「まあ入んなって、ようこそ野々宮病院へ。実はこっちは裏口でこっちから入った患者は出るとき正面に迎えが来ることになっている。それも黒塗りの車だ。地獄の入り口だよこのサッシは」
パジャマの男は笑ってドアを開けて竹中をエスコートした。歯並びが悪く煙草のヤニでまっ黄色になった前歯を竹中に向けて笑い続ける。狭くて薄暗い廊下を進むと階段の踊場に小さな黒い犬がいる。竹中を見ると「カウ カウ」と二度吠えた。しかし脇腹の痒さが優先なのか竹中を無視して寝そべり左後ろ足で掻き出した。
「カウ」
小さな黒い犬は一瞥した竹中に一声見舞った。突き当りには待合室があり正面玄関は自動ドアだった。アプローチには車が一台止められるスペースがあるが駐車場はない。その先は靄がかかっているようで視界が悪い。木製のカウンター越しに竹中に話しかける看護婦がいる。下を向いているがどこかで聞き覚えのある声気がしていた。
「いらっしゃいまし~ようこそ野々宮病院へ、足は水虫からてっぺんは禿まで、内臓はとことん弄繰り回しますよ」
竹中は立ち止まった、今入ったペンキの入り口に後退りした。やばい感じがしたからである。
「カウ カウカウ」
馬鹿にするような黒犬の妨害だった。竹名の脳裏に聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルが一瞬過ぎった。長い名前だし、はなから行く気もないので覚えるつもりもなかったが不思議なくらいすらすらっと思い出せた。竹中に取って野々宮病院ほど好条件な立地はない、しかし命には変えられないと思った。黒犬に圧されてカウンターに進んだ。
「これお願いします」
一先ず紹介状を見せるだけ見せて、一端自宅に戻ってじっくりと考えよう。それでも遅くはないと紹介状をカウンターの女の前に差し出した。おもむろに顔を上げる看護婦と視線が合った。「あっ」と言うお互いが短い言葉で指差した。カウンターの女は伊勢佐木町のクリニックで受付をしていた女である。
「何やってたの竹中さん今まで、血圧や糖尿のお薬切れてるでしょ。それでいつ?」
面と向かうと言葉に詰まってしまう竹中だが、文章なら罵詈雑言を原稿用紙三十枚にまとめてこの女に突き出してやりたかった。
「いつって?」
「入院よ、入院に決まってるでしょ、手遅れになるとその人みたいに肝硬変になっちゃうよ」
ずっと竹中についてきたパジャマの男が指をパッチンと鳴らした。
「やっぱり肝臓だ」
そう言って階段を上って行った。
「まさか先生もいるのかな?」
「先生って伊勢佐木クリニックの洋子先生?今日はいない。水曜日と金曜日、アルバイトしなきゃ税金納められないでしょ。でもその額聞いてびっくりしちゃった。四千万円もホストに使い込んだのよ。あたしも連れて行ってもらったことあるけどね」
脳内を旋回していた聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルが前頭葉でピタッと止まった。
「竹中さん考えてる時間があったら早く入院して治療を始めなさい。とりあえず今日は血圧と糖尿の診察受けなさい。特別に院長先生にお願いしてあげるから。竹中さんひとつ言っておくけど病院は町医者と違って午後の診療は基本的にないのよ。だからこれからは午前中の予約診療だけ」
竹中に有無を言わさず書類を書き込みながら電話のダイヤルを回した。
「院長先生お願い、あたしの馴染みなの、診てやって。ううん、二~三日のうちにはC型慢性肝炎で検査入院する患者さん。今日は血圧と糖尿のお薬処方して欲しいのよ。お願い、先生、今度サービスするから」
受付の女は年甲斐もなく、また場所柄もわきまえることなく甘ったるい声を受話器に通す。さっき通った薄暗い廊下の途中のドアが開いた。中から白衣の老人がマンボのステップで出て来た。踊場から駆け下りてきた黒犬がちぎれんばかりに短い尾を振り老人に飛び付いた。
「うっ、マンボ♪」
「黒、無いよ今日は。そんなに毎日生の内臓があるわけないだろう。近いうちにご馳走してあげる」
院長先生と呼ばれた男が竹中を向いて笑い、黒犬にいい子いい子した。
小さな黒い犬の名前は竹中が予想した通り『黒』だった。もし自分が飼い主であったら間違いなく『黒』と名付けただろうと予想が当り自己満足だった。吉川院長が踵で踏ん付けているデッキシューズの擦り切れて飛び出した繊維にじゃれ付く黒をパジャマの男が抱え上げた。男の口臭に刺激され黒はくしゃみをした。
「汚いからキスをするんじゃない」
吉川院長はパジャマの男と黒、どちらにともなく言った。どちらかというと黒に同情しての注意だった。
「吉川院長、この人がC型肝炎で入院する竹中さん。高血圧と糖尿病を併せ持ってる歩く三大成人病の患者さん。消化器系は出川先生が担当になると思いますけど内科は院長先生お願いします。伊勢佐木のクリニックに通院されていた患者さんでビップ扱いだからお願いします。えへっ」
竹中は自分の診察予定を勝手に決めていく目の前の女が憎たらしかった。こんなに口が回るのは唇がベアリングで出来ているに違いない、それを暴いてやろうと凝視していた。すると歯がキャタピラみたいに回っていた。
「ちょっと気になるんだが、あなたが時々使うそのビップってのはどういう意味なのかな、患者として感じのいいもんじゃないんだが」
「ビップはビップよ竹中さん、ノーマルじゃないって意味」
「よくわかんないが、その表現は患者を傷つけるよきっと」
「あら竹中さん傷ついた?ごめんね、意外と可愛いのね、可愛い竹中さん。あたし佐藤春、春ちゃんでいいから、春ちゅわんて発音がいいんだ本当は」
竹中はこれ以上のやりとりに無駄を感じた。廊下の奥で院長が手招きしている。その方向に歩き出した。春ちゅわんが『バイバ~イ』と背中を押した。背中に毛虫が這っているのを想像したときに発するゾクゾク感が竹中の足を速め、院長室に逃げ込むように入室した。武者震いをして想像の毛虫を振り払った。院長室は咽るようにかび臭かった。一階の窓のない部屋は商店街に面している。人声はコンクリートの壁が薄いのか、それともこのビルが手抜き工事なのかどうか、商店街を道行く買い物客の声を通す。話の内容までは聞き取れないが、男か女か、子供か大人ぐらいはわかる。まるで晩餐の品定めを楽しんでいる宇宙人の会話のようだ。
「半世紀もここにいると会話まで聞き取れるようになる。君には宇宙人の話し声にしか聞こえんだろうがねえ」
竹中は感じたままを院長に読まれたことに驚いた。
「びっくりしなくていい、ここに入った患者全員に同じことを言っている」
「先生は半世紀も院長先生?」
「ああ、先代が早死にしたおかげで長くやっている。長くやっているが後継者はいない、いや後継者がいないから長くやっているのかもしれない。今年米寿だが恐ろしいことにまだ当分続けられそうだ。百二十まではいけそうだ」
院長は笑ってシャツの中から聴診器を引っ張り出し、チェストピース部に『ふっ』と息を吹きかけた。
「いつまでも立っていないでここに座りなさい」
竹中は座ってシャツを胸まで捲くった。院長は竹中の胸にゆっくりと聴診器を当てた。
「そういえば君は高血圧と糖尿病で、ついでに今回C型肝炎で入院するって春ちゅわんが言ってたが本当にそうなのかね?」
竹中は院長が春ちゅわんと発音したので思わず吹き出してしまった。
「私が春ちゅわんと言ったら可笑しいかね」
「いえ、おかしいとか言うよりあの人に操られてしまっているようで」
「実はそうなんだ。春ちゅわんがこないだ胸が痛むって言うから診察してやったんだ。聴診器を心臓から乳首に滑らせたら悶え始めたんで、それじゃこれはどうだねとチュパチュパ吸ってやったんだそしたらねえイッヒッヒ、不整脈があるねあなたは」
不整脈を見つけられて院長の色気話は途中で打ち切られてしまった。
「院長それでどうしたんですか?」
竹中は春ちゅわんとのエロ診察の続きを催促したのだが通じなかった。
「不整脈といってもまあ大したことはないからいいでしょう。それよりC型肝炎を早く治療しなさい。手遅れになると肝硬変になって肝臓癌になって苦しんで死ぬ。あんた上戸なんでしょ。半年辛抱すればうまい酒がまた飲めるようになる」
医者はみな同じように患者を脅して治療を勧める。苦しんで死ぬというフレーズは竹中にもショックであり、芳枝が聞いたらそれこそ貧血で倒れてしまう。竹中は芳枝に不安を抱かせることだけは避けたかった。院長室を出て受付に目をやると春ちゅわんが笑っている。
「四千八百円。それで決めた?」
佐藤春が財布を広げる竹中に聞いた。
「いつって?」
「入院に決まってんじゃない。ほっといたら苦しんで死んじゃうんだよ。いいの、奥さん悲しませても、そういう男なんだ竹中さんて、伊勢佐木のクリニックで長椅子に座っている竹中さんてダンディで素敵だとずっと憧れていたけど、洋子先生に悪いから遠慮したんだ。だって洋子先生も竹中さんて素敵ねって言ってたから。でもよかった。竹中さんがこんな自分勝手な思いやりの無い男だと思わなかったから」
受付係が患者に対して投げかける言葉とは考えられなかった。しかしその反面男心を読み切った作戦に史朗は恐れ入った。言葉が出なかった。
「来週には入院する」
五千円札を差し出した。
「おつりはいらないでしょ、毎度ありっ」
史朗は最後の「毎度ありっ」が憎たらしかった。院長の話を思い出したので嫌がらせのつもりで言った。
「これから院長に診察してもらうのかな」
顎に指を添えていやらしい顔つきで言えた。
「あらやだ、妬いてるの竹中さん。しょうがないわね、完治したらチュパチュパさせてあげるから、来週から頑張ろうね」
憎たらしいがチュパチュパも気になった。打ちひしがれて廊下を歩いているとパジャマの男に抱かれた黒が「カウカウ」と吠えた。パジャマの男は黄色い歯をむき出して笑っている。史朗は軽く頭を下げた。
「♪ 肝炎肝癌肝硬変、肝炎肝癌肝硬変、肝炎肝癌肝硬変」
史朗はおちょくる男に少し腹が立ったがリズミカルなフレーズに感心した。肝炎から肝硬変になって肝癌に発展するのだが、肝硬変を二番目にしてしまうとこうリズミカルにはならない。信号待ちで隣に立ったおばさんが不思議そうに竹中を見つめている。思わず♪肝炎肝癌肝硬変と声を出して歌ってしまったのだ。
史朗は病院を出てアーケードを抜けて交番の前で映画のビラが目に入った。数年前までは日劇という古い映画館があってよく時間を潰した。今はもうない。シネマ&ジャックという新しくこじんまりした映画館が出来た。ヨーロッパやアジアの、よっぽどの映画ファンでなければタイトルも聞いたことのない映画が上映されている。また懐かしい邦画やいわゆるB級という、都市の映画館では鑑賞できない作品が上映される。
「あなたはどうしてあの辺がいいんです?食事も映画も医者もすべてあの辺りじゃありませんか」
芳枝の指摘通りである。竹中は横浜の下町が好きだった。地下鉄の整備に伴い発展したみなとみらい地区に取り残された横浜の繁華街が好きだった。ぷらぷらと寄席や芝居小屋に寄ったりマイナー映画を鑑賞したり、立ち飲みで日雇い労働者の愚痴を盗み聞きしているのが楽しかった。横浜の下町を歩いていれば幸せだった。
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「いいえ、あなたは伊勢佐木町の女医さんがおすすめの商店街にあるアットホームな病院に決めてくるのは目に見えています」
竹中は地下鉄『坂東橋』駅から地上に出ると関内駅まで続く公園の中に出た。交番の前では仕事にあぶれた労務者が将棋を指していた。竹中にとってこの辺りは目を瞑っても移動できるぐらい隅々まで心得ていた。一直線に続く立派なアーケードの商店街は活況だった。道行く三割の人達が外国人と言っても過言ではない。しかし女医の紹介した病院の存在は知らなかった。
「野々宮病院てご存知でしょうか」
店頭に並んだ野菜を揃えている若い八百屋店員に尋ねたが店員はぽかんとしている。
「ああ、こいつ日本語わからない。もう少し行った右側にパン屋さんと酒屋さんの間にドアがある。しっかり見とかないと通り過ぎちゃうからね」
店主が代わりに教えてくれた。竹中は八百屋の店主の忠告通り、右側だけを注意深く確認して歩いた。間口は半間のアルミドアだった。その曇りガラスに野々宮病院と赤茶色のペンキで書いてある。ペンキは文字から垂れ下がり血が滴り落ちているように見える。何階建てなのかアーケードに隠れていてわからない。入り口の前でパジャマ姿の男が煙草を吸っている。竹中はその男が気になった。ニヤニヤしてこっちを見ている。聞くだけ聞こうと仕方なく近寄った。
「あんた肝臓だろ」
パジャマの男は竹中に言った。
「失礼な、違いますよ。検査をするように掛かりつけ医に紹介されて来ただけです」
肝臓と当てられたことに竹中は焦って余計なことまで口にしてしまった。
「まあ入んなって、ようこそ野々宮病院へ。実はこっちは裏口でこっちから入った患者は出るとき正面に迎えが来ることになっている。それも黒塗りの車だ。地獄の入り口だよこのサッシは」
パジャマの男は笑ってドアを開けて竹中をエスコートした。歯並びが悪く煙草のヤニでまっ黄色になった前歯を竹中に向けて笑い続ける。狭くて薄暗い廊下を進むと階段の踊場に小さな黒い犬がいる。竹中を見ると「カウ カウ」と二度吠えた。しかし脇腹の痒さが優先なのか竹中を無視して寝そべり左後ろ足で掻き出した。
「カウ」
小さな黒い犬は一瞥した竹中に一声見舞った。突き当りには待合室があり正面玄関は自動ドアだった。アプローチには車が一台止められるスペースがあるが駐車場はない。その先は靄がかかっているようで視界が悪い。木製のカウンター越しに竹中に話しかける看護婦がいる。下を向いているがどこかで聞き覚えのある声気がしていた。
「いらっしゃいまし~ようこそ野々宮病院へ、足は水虫からてっぺんは禿まで、内臓はとことん弄繰り回しますよ」
竹中は立ち止まった、今入ったペンキの入り口に後退りした。やばい感じがしたからである。
「カウ カウカウ」
馬鹿にするような黒犬の妨害だった。竹名の脳裏に聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルが一瞬過ぎった。長い名前だし、はなから行く気もないので覚えるつもりもなかったが不思議なくらいすらすらっと思い出せた。竹中に取って野々宮病院ほど好条件な立地はない、しかし命には変えられないと思った。黒犬に圧されてカウンターに進んだ。
「これお願いします」
一先ず紹介状を見せるだけ見せて、一端自宅に戻ってじっくりと考えよう。それでも遅くはないと紹介状をカウンターの女の前に差し出した。おもむろに顔を上げる看護婦と視線が合った。「あっ」と言うお互いが短い言葉で指差した。カウンターの女は伊勢佐木町のクリニックで受付をしていた女である。
「何やってたの竹中さん今まで、血圧や糖尿のお薬切れてるでしょ。それでいつ?」
面と向かうと言葉に詰まってしまう竹中だが、文章なら罵詈雑言を原稿用紙三十枚にまとめてこの女に突き出してやりたかった。
「いつって?」
「入院よ、入院に決まってるでしょ、手遅れになるとその人みたいに肝硬変になっちゃうよ」
ずっと竹中についてきたパジャマの男が指をパッチンと鳴らした。
「やっぱり肝臓だ」
そう言って階段を上って行った。
「まさか先生もいるのかな?」
「先生って伊勢佐木クリニックの洋子先生?今日はいない。水曜日と金曜日、アルバイトしなきゃ税金納められないでしょ。でもその額聞いてびっくりしちゃった。四千万円もホストに使い込んだのよ。あたしも連れて行ってもらったことあるけどね」
脳内を旋回していた聖クリスチャンセバスチャン赤坂ヒルホスピタルが前頭葉でピタッと止まった。
「竹中さん考えてる時間があったら早く入院して治療を始めなさい。とりあえず今日は血圧と糖尿の診察受けなさい。特別に院長先生にお願いしてあげるから。竹中さんひとつ言っておくけど病院は町医者と違って午後の診療は基本的にないのよ。だからこれからは午前中の予約診療だけ」
竹中に有無を言わさず書類を書き込みながら電話のダイヤルを回した。
「院長先生お願い、あたしの馴染みなの、診てやって。ううん、二~三日のうちにはC型慢性肝炎で検査入院する患者さん。今日は血圧と糖尿のお薬処方して欲しいのよ。お願い、先生、今度サービスするから」
受付の女は年甲斐もなく、また場所柄もわきまえることなく甘ったるい声を受話器に通す。さっき通った薄暗い廊下の途中のドアが開いた。中から白衣の老人がマンボのステップで出て来た。踊場から駆け下りてきた黒犬がちぎれんばかりに短い尾を振り老人に飛び付いた。
「うっ、マンボ♪」
「黒、無いよ今日は。そんなに毎日生の内臓があるわけないだろう。近いうちにご馳走してあげる」
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小さな黒い犬の名前は竹中が予想した通り『黒』だった。もし自分が飼い主であったら間違いなく『黒』と名付けただろうと予想が当り自己満足だった。吉川院長が踵で踏ん付けているデッキシューズの擦り切れて飛び出した繊維にじゃれ付く黒をパジャマの男が抱え上げた。男の口臭に刺激され黒はくしゃみをした。
「汚いからキスをするんじゃない」
吉川院長はパジャマの男と黒、どちらにともなく言った。どちらかというと黒に同情しての注意だった。
「吉川院長、この人がC型肝炎で入院する竹中さん。高血圧と糖尿病を併せ持ってる歩く三大成人病の患者さん。消化器系は出川先生が担当になると思いますけど内科は院長先生お願いします。伊勢佐木のクリニックに通院されていた患者さんでビップ扱いだからお願いします。えへっ」
竹中は自分の診察予定を勝手に決めていく目の前の女が憎たらしかった。こんなに口が回るのは唇がベアリングで出来ているに違いない、それを暴いてやろうと凝視していた。すると歯がキャタピラみたいに回っていた。
「ちょっと気になるんだが、あなたが時々使うそのビップってのはどういう意味なのかな、患者として感じのいいもんじゃないんだが」
「ビップはビップよ竹中さん、ノーマルじゃないって意味」
「よくわかんないが、その表現は患者を傷つけるよきっと」
「あら竹中さん傷ついた?ごめんね、意外と可愛いのね、可愛い竹中さん。あたし佐藤春、春ちゃんでいいから、春ちゅわんて発音がいいんだ本当は」
竹中はこれ以上のやりとりに無駄を感じた。廊下の奥で院長が手招きしている。その方向に歩き出した。春ちゅわんが『バイバ~イ』と背中を押した。背中に毛虫が這っているのを想像したときに発するゾクゾク感が竹中の足を速め、院長室に逃げ込むように入室した。武者震いをして想像の毛虫を振り払った。院長室は咽るようにかび臭かった。一階の窓のない部屋は商店街に面している。人声はコンクリートの壁が薄いのか、それともこのビルが手抜き工事なのかどうか、商店街を道行く買い物客の声を通す。話の内容までは聞き取れないが、男か女か、子供か大人ぐらいはわかる。まるで晩餐の品定めを楽しんでいる宇宙人の会話のようだ。
「半世紀もここにいると会話まで聞き取れるようになる。君には宇宙人の話し声にしか聞こえんだろうがねえ」
竹中は感じたままを院長に読まれたことに驚いた。
「びっくりしなくていい、ここに入った患者全員に同じことを言っている」
「先生は半世紀も院長先生?」
「ああ、先代が早死にしたおかげで長くやっている。長くやっているが後継者はいない、いや後継者がいないから長くやっているのかもしれない。今年米寿だが恐ろしいことにまだ当分続けられそうだ。百二十まではいけそうだ」
院長は笑ってシャツの中から聴診器を引っ張り出し、チェストピース部に『ふっ』と息を吹きかけた。
「いつまでも立っていないでここに座りなさい」
竹中は座ってシャツを胸まで捲くった。院長は竹中の胸にゆっくりと聴診器を当てた。
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竹中は院長が春ちゅわんと発音したので思わず吹き出してしまった。
「私が春ちゅわんと言ったら可笑しいかね」
「いえ、おかしいとか言うよりあの人に操られてしまっているようで」
「実はそうなんだ。春ちゅわんがこないだ胸が痛むって言うから診察してやったんだ。聴診器を心臓から乳首に滑らせたら悶え始めたんで、それじゃこれはどうだねとチュパチュパ吸ってやったんだそしたらねえイッヒッヒ、不整脈があるねあなたは」
不整脈を見つけられて院長の色気話は途中で打ち切られてしまった。
「院長それでどうしたんですか?」
竹中は春ちゅわんとのエロ診察の続きを催促したのだが通じなかった。
「不整脈といってもまあ大したことはないからいいでしょう。それよりC型肝炎を早く治療しなさい。手遅れになると肝硬変になって肝臓癌になって苦しんで死ぬ。あんた上戸なんでしょ。半年辛抱すればうまい酒がまた飲めるようになる」
医者はみな同じように患者を脅して治療を勧める。苦しんで死ぬというフレーズは竹中にもショックであり、芳枝が聞いたらそれこそ貧血で倒れてしまう。竹中は芳枝に不安を抱かせることだけは避けたかった。院長室を出て受付に目をやると春ちゅわんが笑っている。
「四千八百円。それで決めた?」
佐藤春が財布を広げる竹中に聞いた。
「いつって?」
「入院に決まってんじゃない。ほっといたら苦しんで死んじゃうんだよ。いいの、奥さん悲しませても、そういう男なんだ竹中さんて、伊勢佐木のクリニックで長椅子に座っている竹中さんてダンディで素敵だとずっと憧れていたけど、洋子先生に悪いから遠慮したんだ。だって洋子先生も竹中さんて素敵ねって言ってたから。でもよかった。竹中さんがこんな自分勝手な思いやりの無い男だと思わなかったから」
受付係が患者に対して投げかける言葉とは考えられなかった。しかしその反面男心を読み切った作戦に史朗は恐れ入った。言葉が出なかった。
「来週には入院する」
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「これから院長に診察してもらうのかな」
顎に指を添えていやらしい顔つきで言えた。
「あらやだ、妬いてるの竹中さん。しょうがないわね、完治したらチュパチュパさせてあげるから、来週から頑張ろうね」
憎たらしいがチュパチュパも気になった。打ちひしがれて廊下を歩いているとパジャマの男に抱かれた黒が「カウカウ」と吠えた。パジャマの男は黄色い歯をむき出して笑っている。史朗は軽く頭を下げた。
「♪ 肝炎肝癌肝硬変、肝炎肝癌肝硬変、肝炎肝癌肝硬変」
史朗はおちょくる男に少し腹が立ったがリズミカルなフレーズに感心した。肝炎から肝硬変になって肝癌に発展するのだが、肝硬変を二番目にしてしまうとこうリズミカルにはならない。信号待ちで隣に立ったおばさんが不思議そうに竹中を見つめている。思わず♪肝炎肝癌肝硬変と声を出して歌ってしまったのだ。
史朗は病院を出てアーケードを抜けて交番の前で映画のビラが目に入った。数年前までは日劇という古い映画館があってよく時間を潰した。今はもうない。シネマ&ジャックという新しくこじんまりした映画館が出来た。ヨーロッパやアジアの、よっぽどの映画ファンでなければタイトルも聞いたことのない映画が上映されている。また懐かしい邦画やいわゆるB級という、都市の映画館では鑑賞できない作品が上映される。
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