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枕元の赤いベルを鳴らすとき 3
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史朗はそんな作品が好きでよく通っている。若い頃に夢中になったハリウッドのアクション映画で、涙まで流して感動したことを思い出すと鳥肌が立った。この映画館に寄るのも通院する楽しみのひとつである。朝一に診療予約をしておけば十五分で診察は終わる。それから午後六時半までは自由である。七時の食事に間に合えば芳枝の機嫌を損ねることはない。誰にも干渉されない。好きなものを食べて飲んで、好きな歌をハミングして好きな映画にほろっとする。至福の空間である。また大通り公園では仕事にあぶれた労務者が安酒喰らって愚痴っている。派手な服装の外国人女性の集団が大声で笑っている。そんなのを見ているのが楽しかった。小説執筆が趣味でありプロになるのが夢である。この辺りには自分の表現したいネタがたくさん転がっている。それを拾っては言葉に返還する。それが楽しくてならなかった。しかし入院を我慢すればの話である。
「ただいま」
「いつですか?」
芳枝は野々宮病院に入院することを確信していた。入院日を知りたかった。史朗も心得ている。芳枝にはとぼけたりしないほうがいい。
「来週か再来週でいいと思う。君の都合はどうかな?」
「他人事みたいに、早いほうがいいに決まってるでしょ」
史朗は翌日会社に電話して一週間の旅行をすると嘘をついて暇をもらった。二級設計士だがそこそこ忙しかった。あちこちで耐震補強の木造住宅が増えていた。そんな小さな改修工事をほとんど史朗が請け負っていた。
「そう羨ましいね、どこに行くの一週間も?お客さんから簡単な図面でいいからって、たまってんだよね。まあ、しょうがないけどね。今晩送っておくから、出来るだけでいいから旅行前にやっといてよ」
設計事務所の今田社長は他にも優秀な設計士を何人も抱えている。だが史朗に優先して発注していた。それは史朗の作品の読者であり、史朗の描く社会観に共感していたからでもある。史朗もこの社長がいて、自分たちの生活が成り立っていることを改めて強く感じた。
「はい、ありがとうございます。戻ったら徹夜でこなしますから」
「あんたが徹夜で仕事するわけないでしょ、それより書いたの読ませて。最近は家内も君のファンになってきたよ」
その晩どっさりと仕事が送られてきた。二日や三日徹夜してもとても仕上げられる量ではなかった。メールには「急ぎじゃないから」と書き添えてあった。史朗は自分のために営業してくれている今田の気持ちがうれしかった。
「いいんですか、社長に嘘ついて、それにお土産が必要ですよ。まさか文明堂のカステラってわけにはいかないでしょ。一週間の旅行だし」
「そうだな、ハワイにするか?ユニクロでそれらしいTシャツ売ってるでしょ。奥さんとお揃いのやつ」
「あなたみたいに真っ白い顔してハワイって、社長が信用しますか。うちが生活していけるのは、社長あってじゃありませんか。何がいいんだかあなたの小説を気に入ってくださって、それでお仕事まわしていただいているんじゃありませんか。なんか嘘つくの後ろめたいわ」
「何がいいんだかはいくらなんでもそりゃないだろう。小説なんてさ、好き嫌いの世界だからね。読んでみて好きな人が多ければ売れるし、嫌いな人が多ければ売れない、それだけのことだ。僕の場合はまだその段階まで行っていないんだな。読む人が四人ぐらいしかいない。そのうちの二人が面白いと言ってくれてる、と言うことは二百万人が読めばその半分の百万人が購読することになる。例えばの話だよ例えばの。これをミリオンセラーといい僕は小説家先生と呼ばれる。あまり好きじゃないけどねその呼ばれ方」
芳江は史朗の話を聞き流していた。嬉しそうに話しているのでこの場を離れるのはさすがに気が引けた。
「文豪、それでいつですか入院は?お金も準備しないといけないし、下着とかパジャマとか、揃えるものは揃えなければなりませんから」
「お金の心配はいらないよ。私の所得だと月額一万円てことになったんだ。それに下着もパジャマも新調する必要はないよ。むしろ古くて着ていないものを利用して病院に捨ててくればいいんだ」
「そうはいきませんよ、会長の奥さんや親戚の方々の手前もありますから。あなたが擦り切れたシャツを着ていたらお母さんにまで恥を書かせてしまいますから」
「おいおい、会長夫人て、まさか言うわけじゃないだろう。いいんだよご近所に知らせなくたって。それに母さんには絶対に内緒だよ。僕が入院だなんて知ったら、兄さんとこ飛び出してくるかもしれない。実家にはくれぐれも秘密、これ約束して。兄さんには僕から話しておくから」
史朗は自分の身体より見舞い客が来ることが気になった。特に母親の梅に知られるのが恐かった。心配性で特に史朗は可愛がられた。史朗が肝臓病で入院なんて知ったらそれこそ卒倒するかもしれない。
「あなたはそれほど心配していないけど万が一ってことがあるでしょ。手術ミスとか薬の副作用とか、もしかしたら手遅れってこともないわけじゃないでしょ。死ななくても一生働けなくなることだってあるでしょ。あなたが死んだら私はどうすればいいんですか」
「死ぬ死ぬって縁起悪いよ。言霊って知ってる?言葉にも魂があってあんまり思い入れが強いとそれが現実になるってこともあるらしいよ。僕は信用しないけど。そりゃ手遅れって確立がゼロってわけじゃないけど僕はそこまでいっていないよ。それだったら医者がほっとかないよ」
そう言って史朗の頭に言葉が浮かんだ。『肝硬変になって肝臓癌になって苦しんで死ぬ』伊勢佐木の医者も受付の女も野々宮病院の院長も言っていた。
「明後日月曜日に行こうかな」
それから芳枝に引き摺られて横浜のそごうに連れて行かれた。一万円もするシルクのパジャマを着ることになった。パンツもシャツも高級ブランドの高級素材だった。
「会長夫人は縫製の先生だから生地にはうるさいのよ。それにいい物買っておけば長くなっても大事にするし」
「一週間だよ、長くても十日だって」
芳枝の落胆振りは史朗の想像をはるかに超えていた。今は何を言っても芳枝の気持ちを落ち着かせることは出来ない。一日も早く退院することしかない。史朗は芳枝の手荷物を取った。
横浜橋商店街のアーケードを潜った。芳枝は学生時代に一度来たことがあった。
「昔はアーケードなんかなくて映画館があったのを覚えているわ。随分と変わったのね」
「学生時代ったって三十年以上前の話じゃないか。そりゃ変わるよ。でもいい商店街だろう」
「あなたがこの街の病院を選んだのがわかるわ、演歌、ブルース、任侠、エロス、暴力そんな臭いがぷんぷんする。あなたの小説とおんなじ臭いだわ」
尻の付け根まで見えそうな短いパンツを穿いた浅黒い美人と擦れ違う。魚屋がしゃがれた声で「ワオッ」と冷やかした。史朗は笑って見ていたが芳枝はきつい目をしていた。
「正面玄関は隣の通りなんだが、君が買物ついでに来るなら裏口だけどこっちの方が便利がいいと思う。はいここ、到着」
芳枝は「えっ」と絶句して手提げ袋を落とした。いくら裏口とはいえこれが病院の出入り口とは信じられなかったようだ。史朗が袋を拾い上げ、ふらついた芳枝の肩を支えた。
「だいじょうぶですか、ここで。入院するんですよあなたが」
今にも泣きそうなか細い声で言った。
「私より君がだいじょうぶか、一度確認しに来てるんだから。それじゃなきゃ私だってこんなとこに決めないよ。古いからって捨てたもんじゃない。だって料理屋だってそうだろう、老舗といえば古い構えをしてるじゃないか、でも味にぶれはない、病院だって同じさ、治療は一流だ」
史朗は芳枝をなだめるためにおかしな例えでごまかした。ドアを開けると薄汚れたパジャマ姿の関野が黒を抱えて立っていた。
「いらっしゃーい。ご愁傷さまでーす」
史朗は足から崩れそうになった芳枝をしっかりと支え直した。関野は吠える黒を廊下に下ろした。黒は『カウカウ、カウワッ』と年寄りが痰を切るように唸って芳枝の靴紐に噛み付いた。芳枝はあまりのショックに気を失いかけた。史朗がロビーまで抱いて行き長椅子にそっと下ろした。関野は心配そうに芳枝を見つめている。
「うちの家内は心配性で貧血気味だからすぐに引っくり返ってしまうんだ。君がご愁傷様だなんて脅かすからだ。万が一のことがあったら責任を取ってもらいますよ」
芳枝の貧血は結婚前からで、急に立ち上がったり、息苦しいときに倒れたりした。倒れるときに頭部さえぶつけなければ、大事にはいたらない。むしろ史朗よりずっと健康だった。ただ憎たらしい関野を脅かしてやりたくて大げさに言ったのだ。
「貧血は大丈夫だよ、倒れるときに気をつける練習さえしておけば。奥さんだって自覚しているから足からしゃがむように倒れていたじゃないか。長生きするよ貧血は。それよりあんたの検査が楽しみだ。担当は若い先生だからな」
受付の佐藤春が昼食から戻って来た。長椅子で横になっている芳枝のすぐ横に立って腕を組んだ。
「奥さん貧血?受付どうする奥さんが気付いてからにしよっか、どうせ奥さんのバッグでしょ、保険証とか色々。あたし屋上で一服してくるからそれからにしよっ。そうそう竹中さんラッキー、今日から新しい先生が来てるから、竹中さんの担当医師になるわよ。若くて素敵よ」
史朗は若い先生と言うのが気になった。アスリートじゃあるまいし体力勝負の世界じゃない。若さよりベテランの方がはるかに安心できる。しかし若いと言ったって医師の世界だから二十代と言うことはないだろう。三十半ばは超えていて、肝炎の治療には十分な技術と知識を携えているからこの病院に赴任して来た、と祈るように拳を握り締めた。
「あなた、大丈夫ですか?」
芳枝の意識が戻り、頭を抱えている史朗に声をかけた。
「あっ気がついたか、良かった」
「すいません、私の人生経験では考えられないようなことが続けざまに起きたので。でももうだいじょうぶ。これ以上はないでしょうから。ねっ、あなたありませんよね?」
史朗は芳枝の念押しにしっかりと約束することが出来なかった。むしろこのくらいのことで卒倒するのであればこの先命の保障はできない。
「今日は帰ろう、日を改めて私一人で受付に来るから。なあに、病院なんてこんなもんさ、闘病生活の苦しさを紛らわす為にみんなジョークを言ってるのさ」
芳枝はため息をついて史朗の言葉を聞き流した。
「そんなため息ばかりついていないで。ほら黒が尻尾を振って君を見上げているじゃないか、よく見ると可愛いもんだ、ほらおいで」
頭を撫でようと差し出し史朗の中指に噛み付いた。
「じゃれているよ、さあ離しなさい」
黒は離さない。ペットがじゃれて噛み付く甘噛みとは違いを感じた。黒は身体を振って指を引きちぎる勢いだ。芳枝は信じられないといった表情で自分の肩を抱いて震えている。史朗は空余裕を見せて芳枝に笑って見せるが、これはもしかしたら本当に指を噛み千切られるかもしれないと思った。そうなればC型肝炎より先に外科に行かなければならない。それに中指がないとキーボードをうまく打てなくなる。
「黒っ、離しなさい、離しなさい」
佐藤春の叱責など気にすることもなくさらに大きく身体を振って引きちぎりにかかっている。史朗は痛さで芳枝に余裕を見せることも出来ない。春がポケットから何かを取り出した。テレビドラマで観たことのあるものだ。
「スタンガン?」
芳枝が気付くと春はウインクをした。そして黒の尻に乗った尾に当てた。閃光と同時に「カウ」と一声黒が仰向けに倒れた。涙目で春を見上げている。春は決闘で勝利したガンマンのように得意気にスタンガンにフッと息を吹いて黒に向かって言った。
「おととい来やがれ」
芳枝はまた意識が朦朧としてきた。しかし史朗の中指の第一間接から血が滴り落ちているのを確認すると顔を振って我慢した。バッグからハンカチを出して史朗の中指に巻こうとしたときに春に注意された。
「だめ、触っちゃ、黒の歯は雑菌が多いから。餌が餌だからやばいのよ。こっち来て、消毒しましょ」
史朗は芳枝に目配せして立ち上がり春の後に続いた。芳枝は心配そうに頷いた。院長室の診察椅子に座るよう顎で指示された。
「消毒消毒、塩素系?これでいいか」
ふたを外し容器を開けると目に染みるほど強烈な刺激がある。ピンセットで脱脂綿を挟みたっぷりと湿らせた。
「指出してみろ」
春の生意気な言い方が癪に障ったが従うしかない。そっと中指を差し出すと春はピンセットで脱脂綿を絞った。滴り落ちた瞬間史朗は唸った。大声を上げては芳枝に聞こえてしまう。ぐっと我慢した。
「な、なんだこりゃ、薬間違っていないか」
「ただいま」
「いつですか?」
芳枝は野々宮病院に入院することを確信していた。入院日を知りたかった。史朗も心得ている。芳枝にはとぼけたりしないほうがいい。
「来週か再来週でいいと思う。君の都合はどうかな?」
「他人事みたいに、早いほうがいいに決まってるでしょ」
史朗は翌日会社に電話して一週間の旅行をすると嘘をついて暇をもらった。二級設計士だがそこそこ忙しかった。あちこちで耐震補強の木造住宅が増えていた。そんな小さな改修工事をほとんど史朗が請け負っていた。
「そう羨ましいね、どこに行くの一週間も?お客さんから簡単な図面でいいからって、たまってんだよね。まあ、しょうがないけどね。今晩送っておくから、出来るだけでいいから旅行前にやっといてよ」
設計事務所の今田社長は他にも優秀な設計士を何人も抱えている。だが史朗に優先して発注していた。それは史朗の作品の読者であり、史朗の描く社会観に共感していたからでもある。史朗もこの社長がいて、自分たちの生活が成り立っていることを改めて強く感じた。
「はい、ありがとうございます。戻ったら徹夜でこなしますから」
「あんたが徹夜で仕事するわけないでしょ、それより書いたの読ませて。最近は家内も君のファンになってきたよ」
その晩どっさりと仕事が送られてきた。二日や三日徹夜してもとても仕上げられる量ではなかった。メールには「急ぎじゃないから」と書き添えてあった。史朗は自分のために営業してくれている今田の気持ちがうれしかった。
「いいんですか、社長に嘘ついて、それにお土産が必要ですよ。まさか文明堂のカステラってわけにはいかないでしょ。一週間の旅行だし」
「そうだな、ハワイにするか?ユニクロでそれらしいTシャツ売ってるでしょ。奥さんとお揃いのやつ」
「あなたみたいに真っ白い顔してハワイって、社長が信用しますか。うちが生活していけるのは、社長あってじゃありませんか。何がいいんだかあなたの小説を気に入ってくださって、それでお仕事まわしていただいているんじゃありませんか。なんか嘘つくの後ろめたいわ」
「何がいいんだかはいくらなんでもそりゃないだろう。小説なんてさ、好き嫌いの世界だからね。読んでみて好きな人が多ければ売れるし、嫌いな人が多ければ売れない、それだけのことだ。僕の場合はまだその段階まで行っていないんだな。読む人が四人ぐらいしかいない。そのうちの二人が面白いと言ってくれてる、と言うことは二百万人が読めばその半分の百万人が購読することになる。例えばの話だよ例えばの。これをミリオンセラーといい僕は小説家先生と呼ばれる。あまり好きじゃないけどねその呼ばれ方」
芳江は史朗の話を聞き流していた。嬉しそうに話しているのでこの場を離れるのはさすがに気が引けた。
「文豪、それでいつですか入院は?お金も準備しないといけないし、下着とかパジャマとか、揃えるものは揃えなければなりませんから」
「お金の心配はいらないよ。私の所得だと月額一万円てことになったんだ。それに下着もパジャマも新調する必要はないよ。むしろ古くて着ていないものを利用して病院に捨ててくればいいんだ」
「そうはいきませんよ、会長の奥さんや親戚の方々の手前もありますから。あなたが擦り切れたシャツを着ていたらお母さんにまで恥を書かせてしまいますから」
「おいおい、会長夫人て、まさか言うわけじゃないだろう。いいんだよご近所に知らせなくたって。それに母さんには絶対に内緒だよ。僕が入院だなんて知ったら、兄さんとこ飛び出してくるかもしれない。実家にはくれぐれも秘密、これ約束して。兄さんには僕から話しておくから」
史朗は自分の身体より見舞い客が来ることが気になった。特に母親の梅に知られるのが恐かった。心配性で特に史朗は可愛がられた。史朗が肝臓病で入院なんて知ったらそれこそ卒倒するかもしれない。
「あなたはそれほど心配していないけど万が一ってことがあるでしょ。手術ミスとか薬の副作用とか、もしかしたら手遅れってこともないわけじゃないでしょ。死ななくても一生働けなくなることだってあるでしょ。あなたが死んだら私はどうすればいいんですか」
「死ぬ死ぬって縁起悪いよ。言霊って知ってる?言葉にも魂があってあんまり思い入れが強いとそれが現実になるってこともあるらしいよ。僕は信用しないけど。そりゃ手遅れって確立がゼロってわけじゃないけど僕はそこまでいっていないよ。それだったら医者がほっとかないよ」
そう言って史朗の頭に言葉が浮かんだ。『肝硬変になって肝臓癌になって苦しんで死ぬ』伊勢佐木の医者も受付の女も野々宮病院の院長も言っていた。
「明後日月曜日に行こうかな」
それから芳枝に引き摺られて横浜のそごうに連れて行かれた。一万円もするシルクのパジャマを着ることになった。パンツもシャツも高級ブランドの高級素材だった。
「会長夫人は縫製の先生だから生地にはうるさいのよ。それにいい物買っておけば長くなっても大事にするし」
「一週間だよ、長くても十日だって」
芳枝の落胆振りは史朗の想像をはるかに超えていた。今は何を言っても芳枝の気持ちを落ち着かせることは出来ない。一日も早く退院することしかない。史朗は芳枝の手荷物を取った。
横浜橋商店街のアーケードを潜った。芳枝は学生時代に一度来たことがあった。
「昔はアーケードなんかなくて映画館があったのを覚えているわ。随分と変わったのね」
「学生時代ったって三十年以上前の話じゃないか。そりゃ変わるよ。でもいい商店街だろう」
「あなたがこの街の病院を選んだのがわかるわ、演歌、ブルース、任侠、エロス、暴力そんな臭いがぷんぷんする。あなたの小説とおんなじ臭いだわ」
尻の付け根まで見えそうな短いパンツを穿いた浅黒い美人と擦れ違う。魚屋がしゃがれた声で「ワオッ」と冷やかした。史朗は笑って見ていたが芳枝はきつい目をしていた。
「正面玄関は隣の通りなんだが、君が買物ついでに来るなら裏口だけどこっちの方が便利がいいと思う。はいここ、到着」
芳枝は「えっ」と絶句して手提げ袋を落とした。いくら裏口とはいえこれが病院の出入り口とは信じられなかったようだ。史朗が袋を拾い上げ、ふらついた芳枝の肩を支えた。
「だいじょうぶですか、ここで。入院するんですよあなたが」
今にも泣きそうなか細い声で言った。
「私より君がだいじょうぶか、一度確認しに来てるんだから。それじゃなきゃ私だってこんなとこに決めないよ。古いからって捨てたもんじゃない。だって料理屋だってそうだろう、老舗といえば古い構えをしてるじゃないか、でも味にぶれはない、病院だって同じさ、治療は一流だ」
史朗は芳枝をなだめるためにおかしな例えでごまかした。ドアを開けると薄汚れたパジャマ姿の関野が黒を抱えて立っていた。
「いらっしゃーい。ご愁傷さまでーす」
史朗は足から崩れそうになった芳枝をしっかりと支え直した。関野は吠える黒を廊下に下ろした。黒は『カウカウ、カウワッ』と年寄りが痰を切るように唸って芳枝の靴紐に噛み付いた。芳枝はあまりのショックに気を失いかけた。史朗がロビーまで抱いて行き長椅子にそっと下ろした。関野は心配そうに芳枝を見つめている。
「うちの家内は心配性で貧血気味だからすぐに引っくり返ってしまうんだ。君がご愁傷様だなんて脅かすからだ。万が一のことがあったら責任を取ってもらいますよ」
芳枝の貧血は結婚前からで、急に立ち上がったり、息苦しいときに倒れたりした。倒れるときに頭部さえぶつけなければ、大事にはいたらない。むしろ史朗よりずっと健康だった。ただ憎たらしい関野を脅かしてやりたくて大げさに言ったのだ。
「貧血は大丈夫だよ、倒れるときに気をつける練習さえしておけば。奥さんだって自覚しているから足からしゃがむように倒れていたじゃないか。長生きするよ貧血は。それよりあんたの検査が楽しみだ。担当は若い先生だからな」
受付の佐藤春が昼食から戻って来た。長椅子で横になっている芳枝のすぐ横に立って腕を組んだ。
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史朗は若い先生と言うのが気になった。アスリートじゃあるまいし体力勝負の世界じゃない。若さよりベテランの方がはるかに安心できる。しかし若いと言ったって医師の世界だから二十代と言うことはないだろう。三十半ばは超えていて、肝炎の治療には十分な技術と知識を携えているからこの病院に赴任して来た、と祈るように拳を握り締めた。
「あなた、大丈夫ですか?」
芳枝の意識が戻り、頭を抱えている史朗に声をかけた。
「あっ気がついたか、良かった」
「すいません、私の人生経験では考えられないようなことが続けざまに起きたので。でももうだいじょうぶ。これ以上はないでしょうから。ねっ、あなたありませんよね?」
史朗は芳枝の念押しにしっかりと約束することが出来なかった。むしろこのくらいのことで卒倒するのであればこの先命の保障はできない。
「今日は帰ろう、日を改めて私一人で受付に来るから。なあに、病院なんてこんなもんさ、闘病生活の苦しさを紛らわす為にみんなジョークを言ってるのさ」
芳枝はため息をついて史朗の言葉を聞き流した。
「そんなため息ばかりついていないで。ほら黒が尻尾を振って君を見上げているじゃないか、よく見ると可愛いもんだ、ほらおいで」
頭を撫でようと差し出し史朗の中指に噛み付いた。
「じゃれているよ、さあ離しなさい」
黒は離さない。ペットがじゃれて噛み付く甘噛みとは違いを感じた。黒は身体を振って指を引きちぎる勢いだ。芳枝は信じられないといった表情で自分の肩を抱いて震えている。史朗は空余裕を見せて芳枝に笑って見せるが、これはもしかしたら本当に指を噛み千切られるかもしれないと思った。そうなればC型肝炎より先に外科に行かなければならない。それに中指がないとキーボードをうまく打てなくなる。
「黒っ、離しなさい、離しなさい」
佐藤春の叱責など気にすることもなくさらに大きく身体を振って引きちぎりにかかっている。史朗は痛さで芳枝に余裕を見せることも出来ない。春がポケットから何かを取り出した。テレビドラマで観たことのあるものだ。
「スタンガン?」
芳枝が気付くと春はウインクをした。そして黒の尻に乗った尾に当てた。閃光と同時に「カウ」と一声黒が仰向けに倒れた。涙目で春を見上げている。春は決闘で勝利したガンマンのように得意気にスタンガンにフッと息を吹いて黒に向かって言った。
「おととい来やがれ」
芳枝はまた意識が朦朧としてきた。しかし史朗の中指の第一間接から血が滴り落ちているのを確認すると顔を振って我慢した。バッグからハンカチを出して史朗の中指に巻こうとしたときに春に注意された。
「だめ、触っちゃ、黒の歯は雑菌が多いから。餌が餌だからやばいのよ。こっち来て、消毒しましょ」
史朗は芳枝に目配せして立ち上がり春の後に続いた。芳枝は心配そうに頷いた。院長室の診察椅子に座るよう顎で指示された。
「消毒消毒、塩素系?これでいいか」
ふたを外し容器を開けると目に染みるほど強烈な刺激がある。ピンセットで脱脂綿を挟みたっぷりと湿らせた。
「指出してみろ」
春の生意気な言い方が癪に障ったが従うしかない。そっと中指を差し出すと春はピンセットで脱脂綿を絞った。滴り落ちた瞬間史朗は唸った。大声を上げては芳枝に聞こえてしまう。ぐっと我慢した。
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