暁が燃えるとき

宇土為名

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 就職してすぐに借りた家は、単身者用の社宅だった。特に強制されたわけでもない、そこに僕が住んだのは単に家賃が破格に安かったから、それだけだった。
 会社に入って2ヶ月程は研修に追われた。あちこちの研修施設に週単位で送り込まれる。長いときには2週間以上新入社員は緩やかに拘束された。
 そのときも長い研修──一体何の研修だったかは既に忘れている──から戻ったばかりで、僕は疲れ果てていた。金曜日。明日明後日は休日なのが有り難い。思い切り休もうと社宅として会社が借り上げている1DKのマンションの部屋の鍵を開けようとして、ふと、誰かが訪ねて来たような気がした。
 今日ではなく、少し前。
 僕が10日間留守にしていた間、誰かが、この扉の前にいたのではないか。
 真新しかったドアの下、ちょうど人の足が当たるような場所が小さく凹んでいた。
 じっと見下ろした。
 だが、それがどうした?
 僕は鍵を開けて中に入り、扉を閉ざした。
 誰が来たかなんてどうでもいい。ただとにかく眠りたかった。固く閉ざした扉のように、僕もベッドにもぐりこみ、固く目を閉じてそのことを心の中から追い出した。
 それから2週間ほどが経った夜、会社から帰宅する途中の道すがらに隣室の先輩と出くわした。
『よお、今帰り?』
 大きなスーツケースを引きずる彼は3週間の海外出張から帰って来たところだった。
『お疲れさまです、今回も長かったですね』
『あーもうほんと、参るわ』
 そのまま一緒に近くの居酒屋で夕飯を食べ、アパートへと戻った。それぞれの部屋の前で別れの挨拶を交わし、僕がドアを開けた時、先輩が、あ、と声を上げた。
『久我、おまえ妹いたよな?』
 僕は一瞬何のことか分からずに考え、ああ、と思い当たった。何かの折に互いの家族の話をしたことを思い出す。
『はい、いますよ』
『来てたぞ、その、多分おまえの妹』
『え?』
 先輩は部屋の鍵を開けながら言った。
『俺がちょうど出張に出る時に、ここに女の子が立っててさ、兄ちゃんどこ行ったかって聞くから。おまえ研修中でしばらく帰らないって言っといたんだけど』
 今思い出したよ、と先輩は苦笑した。
『あれからなんか連絡あったか?おまえしたか?』
『あ…はい、連絡、しました』
『そっか。ならいいわ』
 ほっとしたように彼は笑った。
 じゃあお休み、と言って先輩は部屋の中に消えた。
 僕も部屋に入り扉を閉めた。
 その夜遅く僕は実家に電話を掛けた。就職してから初めて…、いや、こちらから電話を掛けたことはそれが初めてだった。
 妙な胸騒ぎがしていた。
 呼び出し音の間、ドアの凹みを思い出していた。
 やはりあれはそうだったのだ。
 妹。
 呼び出し音が途切れ、母の声が聞こえた。僕の心臓は大きく重く鳴り響いていた。
 そして僕はようやくその時、妹がいなくなっていたことを知ったのだった。

***

 指はすぐに離れていった。
 なぜか名残り惜しいと──思い、そんな自分に気がつかないふりをする。
「本当は俺ね、写真見たんだよ」
 じわりと、言われた言葉の意味が僕の中に染み込んできた。
 僕は視線を常盤の指先から上へと辿り、彼の目を見た。
「親父は写真をそのまま名簿に挟んでた。それを俺が封筒に入れたんだ。封をしたのは俺だよ」
「手紙を書いたのも君?」
 僕は温いジントニックを飲んだ。
「まさか…あれは最初から一緒にあったんだ」自嘲するように常盤は笑った。「そこまでしない」
 グラスをテーブルに戻す。濡れたコースターが音を吸い取った。
 僕は常盤にあの手紙を書いたのは妹ではないと言うべきか迷った。だが、やめた。言ってどうなる?
 4年以上も前の事が今更意味を持つとも思えない。
 代わりに、僕は口にした。
「どうして今日…いてくれなかったんだ?」
 常盤は身じろいで座り直した。体を斜めに向け、足を組む。
 ビールを飲んだ。
「…俺は最初、メモにあった『久我直』っていうのが、この写真の人の名前だと思ってた」
 僕は頷いた。
 そう、そうかもしれない。僕の名前はどちらとも取れる名前だ。幼い時から今まで、実によく間違えられた。幼少期は容姿も相まって女の子のようだったから、特に。
 彼がそう思うのは当然だった。
 テーブルの上の写真の妹を、常盤は指でなぞった。
「だから電話があった時は正直驚いたよ。この人のお兄さんだって言われて」
 乾いた笑いのような、吐息のような音が常盤の口から漏れる。
 どちらでも間違いではない。その気さえあればどっちにだって聞こえるはずだ。
「俺はあんたの声を聞いて会いたくなった」
 常盤は斜めに傾いた顔の目だけをこちらに向けた。
 切れ長の目が、蜂蜜色の明かりの中で黒く光る。
「どんな人だろうって。あんたが気になってしょうがなかった」
 見つめ合う。
「そして怖くなった」
「怖い?」
「気がついたんだよ。…あんたは、本当は妹なんて捜してない」
 だろ?と、常盤は僕の方に身を寄せた。
 顔を近づけ、声を潜めて、彼は言った。
「そんなふりをしてるだけだ」
 黒い目が僕を捉えている。
 その奥底にある考えが、僕には手に取るように分かった。
 僕は微笑んだ。上手くできたかどうか自信はなかった。
「そうだよ。僕は妹を捜しているわけじゃない」
 味のしない酒を煽った。
 喉の奥を焼く苦いものが胸の中を下りていく。
 捜しているわけじゃない。見つけ出したいわけじゃない。僕の中ではもう妹は8年前にいなくなったときに死んでいる。その存在を、その命を、僕は記憶の中に封じ込めた。両親が心身を病み、死ぬ間際まで妹を愛し求めたようには僕は妹を求めなかった。
 それだけだ。
「僕はただ妹に言ってやりたいだけだ」
 グラスを煽り酒を飲み干した。
 僕は続けた。
「でも、もう、無理だ」
 掠れた声が出た。
 僕は両手で顔を覆った。
 頼みもしないのに、僕の酒のおかわりを常盤が注文していた。


 もつれるように崩れ落ちた。
 腕に抱き止められ、柔らかな何かに僕は横たえられた。
 暖かい。清潔なシーツの匂い。さらりとした手触りのそれを手のひらで撫ぜる。
「…直さん」
 重い瞼を無理やりに開けると、深い橙色の光の中にいた。視界はぼんやりとして定まらない。ゆらゆらと揺れている。
 空調の音に混じって雨の音が聞こえる。
 雨が降っている。
 ここは…
「常盤くん?…」
 覆い被さる彼が僕の顔を見下ろしている。
 僕の顔の横に手をつき、膝を立て、じっと──
 その影が僕の顔に落ちている。
「俺が分かる?」
 ぼやけた顔の輪郭が声を潜めている。
「うん…?」
 ここは、と尋ねた。
「ホテルの部屋だよ」
「ああ…」
 そうか。
 僕は酔いつぶれたのだ。最後の記憶は地下のバーで6杯目のおかわりを飲んだところで途切れている。
 ぐるぐると目が回る。世界が、僕の周りで勝手に回りだす。
 瞼の上に腕をのせた。
 遠く、どこか遠くから、どく、どく、と何かが鳴り響いている。
 耳を澄ますと、それは僕の内側から聞こえていた。
 体が重い。柔らかなマットレスが泥土のように、背中が沈んでいく。「…何してるんだ?」
 目を閉じたまま僕は聞いた。
 彼は答えなかった。
 途切れることのない雨音が窓の外からする。
「雨が降ってる…」
「うん」
 その言い方がひどく幼くて、僕は思わず目を開けた。
「帰っていいんだよ?…僕なら大丈夫…」
 見上げた顔はぼんやりと影になっていて、微笑んだように見えた。
 何も言わず、大きな手が僕の額にかかる髪を梳くようにかき上げる。肌を掠めた指先がひどく冷たい。
 震えそうになるのをぎりぎりで堪えた。
 僕は目を閉じた。それが合図になったかのように、常盤は僕の髪を撫でた。
 何度も何度も、その指が肌に触れる。
 繰り返される行為に次第に意識がまどろんでゆく。
 気持ちがいい。
 こんなにも気持ちがいい…
 酒を飲み過ぎたせいで、ふわふわと夢と現実の間を僕は漂う。どれだけ時間が経っただろう。
 意識の間に、常盤の声が滑り込んできた。
 そっと彼は囁いた。
「…ねえ」
 夢うつつに呼びかけられる。返事をするのも正直億劫だったが、僕はうん、と返事をした。
「どうして、もう無理だって思うんだ?」
「…何が?」
「妹に言いたかったって…でももう無理って、言ってただろ…?」
 どうして?
 どうしてだろう。
「見つかったら、いくらだって言えるだろ」
 見つかったら。そう、見つかれば。
 でも僕には分かる。兄妹の、どうしようもない絆や、血のせいだなどと言うつもりはない。ただ、どうしてか分かるのだ。理屈なんかではない。言葉では言い表せないことも、世の中にはたくさんある。これもそうだ。そのうちのひとつに過ぎないのだ。
 僕は出来るだけ静かに言った。
「妹は死んでるんだよ。もう──きっと」
 常盤の手が止まり、やがて、また動き出した。
 静寂が訪れて、常盤が言った。
「あんたが殺したの?」
 目を閉じたまま微笑むと、まさか、と僕は呟いた。
「妹を殺したりするもんか」
 常盤の手が僕の頬を滑り、首筋を辿った。体が重なり、のしかかる彼の体がぴったりと僕の体と密着する。体中のあらゆる凹凸を誂えたように隙間なく埋められる。常盤は僕の耳に頬を押し付け、回した腕で僕をきつく抱きしめた。
「なあ…、男が好きなのか…?」
 僕はされるがままになりながらぼんやりと呟いた。我ながらふざけた問いかけだ。男が好きなのか?馬鹿げてる。僕は──そうじゃないか?
 僕こそがそうなのに。
 常盤はその問いには答えない。耳元で僕の名を呼び、形を唇で確かめるように辿っていく。
「どうしてわかったんだ?」
 何を、と常盤が言った。
 何がだろう?
 僕が男を好むことか?
 それとも、妹を捜す優しい兄を演じていたことか?
 彼に魅力を感じていることか?
 そうだ。こんなにも…
「僕が、…」
 言葉は声にならなかった。
 お互いに服を着たままだ。常盤はコートさえ脱いでいない。僕はセーターを着ていた。足先に片方だけ引っかかった靴、上着はどこにいったんだか…
 布越しにも彼の体は熱かった。
 常盤はただ僕を抱きしめていた。
 今日会ったばかりの他人の体温を感じながら、僕は──僕らはそのまま、次の言葉を紡ぐこともせずに、ただ、深い眠りの中へと落ちていった。

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