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しおりを挟む青桐が二十歳の誕生日を迎えた翌日、由生子がプレゼントだと言って渡してきたものは、A4サイズよりもいくらか小さめな封筒だった。
『…んだよ、これ』
『いいから開けてみて』
わざわざ上京した青桐の借りる部屋にまで来て、一体なんだと青桐は訝しんだ。地元を出てから2年余り、由生子に会うのはそれ以来だった。
『おまえの顔なんか見たくねえんだよ』
玄関先で、入り口を塞ぐように立ち、共有通路に立つ由生子を見下ろした。取り繕うことのない相手にならいくらでも冷たく出来る。もうすでにそのころの青桐は、誰に対してもいい印象を与えようなどという気持ちはこれっぽっちも持ち合わせていなかったのだ。
親戚だからと甘い顔はしない。しかも由生子とくれば、中に招き入れるつもりはさらさらなかった。由生子もそれが分かっているのか、通路に立ったまま、入りたい素振りは見せなかった。
『そんなの分かってて来てるから。開けて』
『めんどくせえ』
押し付けられた封筒を放り投げようとした青桐の腕を、由生子が掴んで押さえた。いいから、と言う。
『面倒って思うのは、中を見てからにして』
いつもならとっくに引き下がっているはずの由生子が、そのときに限って退かず、じっと青桐を見上げている。
何だ?
『…分かったよ』
掴まれた腕を振りほどき、青桐は封筒を開いた。封筒は糊付けなどされておらず、するりと手を飲み込んだ。指先に当たったものを引っ張り出せば、それは一枚の紙だった。
二つ折りにされていて中は見えない。
さっさと帰って欲しくて、ぞんざいな仕草でそれを開いた。書かれた文章が目に飛び込んでくる。斜めに読んで──そして青桐は、その内容に息を呑んだ。
『──』
こめかみがきゅうと引き攣れた。
なんだ、これ。
『調べたの私、あんたが』
青桐は由生子を見た。
『どういうつもりだよ』
『あんたが──』
『どういうつもりだっつってんだよ!』
青桐の激高に、ぐっと由生子は奥歯を噛み締めた。
『だって…、あんたがなんにもしないからじゃない!』
青桐は口の端を嘲りに歪めた。
『はあ? 俺のせいだって言いたいのかよ…!』
ふざけるな。
手の中の書類を青桐は握りつぶした。
唇を噛み締めた由生子が何か言いたそうに青桐を睨みつける。
目の縁にうっすらと滲んだ涙に、青桐は苛立った。
誰のせいだと散々詰った記憶。罵り合いながらもまるで不毛なやり取りに虚しさばかりが積もっていったのは、そんなに遠い過去ではない。もうあんなことはごめんだと思ったから家を出ても一度も帰らなかった。もとより仲良し家族というわけでもない。由生子も親戚も親も、なにもかもが鬱陶しいばかりだった。そして彼女もあのときのことで大事なものを失いかけた。自分のように消えてしまわれなかっただけ、幾分かましだとはいえ。
『──…っ』
青桐は喉元まで出かかっていた言葉を無理矢理に飲み込んだ。深呼吸をして、自分を落ち着かせる。顔を背け、ドアノブに手を掛けた。
『帰れ──余計なことばっかりしやがって』
バタン、と勢いをつけてドアを閉めた。
重苦しい沈黙。お互いにドア一枚を隔てて動けなかった。
由生子の呼吸が聞こえてくる。青桐は息を詰めていた。
やがてドアの向こうの気配が動いた。ゆっくりと、遠のいていく足音。玄関の暗がりの中で握りしめた手の中に残された、ぐしゃぐしゃの書類。
開いて、ようやく青桐は深く息を吸い、ため息を落とした。
そこには朔が今どこで何をしているか、ということが事細かに記されていたのだった。
***
青桐の目の前に座る朔は、あのころとなにひとつ変わっていなかった。話し方も声も心地よくて、聞いている者を不思議と落ち着かせた。ただ少し、体つきは少年から大人の男のものになっていた。頬の丸みがなくなり、甘やかだった輪郭はすっきりとしてどこか色気を纏っている。ストイックに見えるのに、スーツから出ている細い手首やきっちりと着込まれたシャツから伸びるすっとした首筋がやけに人の目を惹きつけるのだ。青桐は目が離せずに朔を見ていた。懐かしい穏やかな目元。でも決して、その目は青桐を見ようとしなかった。
「それにしても藤本さん、どうしてまた会社員に? 司書の資格をお持ちなのに」
話の途中で、ふと思い立ったように小林が朔に訊いた。何の衒いもなくさらりと言われたそれに、困ったように朔は微笑んだ。
「ちょうど就職時期に希望するところで求人がなかなかなくて…、まあ遊んでいるわけにもいかないので、それで」
「そうでしたか。すみません、立ち入ったことを」
「いえ。それが縁でこうしたものに参加することも出来てますし、僕としては願ったりというか」
どういう意味かと首を傾げた小林に、この書店のオーナーの堂島が笑った。はじめに責任者かと思った男性はここのオーナーと紹介された。
「そうそう、藤本くんの勤めてるところは書籍販売もしてまして、うちはその販売窓口というか。新しい形の書店づくりの一環で。そのプロジェクトに藤本くんも、ね?」
「一番下っ端ですけどね」
「朗読会なんかもよく企画してくれるんです」
ああそれで、と小林が頷いた。
堂島が笑って頭を掻いた。
「まあ今回はお願いしていた読み手の方が急病になってしまって、どうしようかってなっていたときに、それじゃあ藤本くんに、って、是非」
「へえ、そうなんですか」
その辺の事情は小林もよく知らなかったようだ。
しきりにこくこくと頷きながら聞いている。
「前にも何度かこども向けの読み聞かせ会のときにお願いしてたんですよ。それがすごく好評でね」
「やめてくださいよ」
照れたように朔が堂本の肩を叩いた。
白い指先。
はは、と笑う堂島に、羨ましさを感じた。
そこは、──俺の場所だったのに。
「藤本さん声綺麗ですもんね。ね、先生」
小林が青桐を見た。
同意を求められ、どきりとしながらも青桐はぎこちなく頷いた。
「ええ、…本当に」
妙な具合に喉の奥に声が絡んだ。
皆が話している間中、小林に任せて聞いているだけでひと言も発しなかったせいか。緊張で強張る口の中でぼそりと言った言葉に、朔がわずかに顔を上げた。
その目が青桐を見て──
ひやりと胸が冷えた。
「先生もう、ずっと黙ってるから」
一瞬凍りついた空気を取り繕うように小林が青桐を茶化した。差し出されたお茶を飲むと、堂島がふふ、と笑った。
「青木先生、見かけによらずシャイなんですねえ」
「あは、そうなんです。先生かっこいいのに」
なんだそれ、と思っていると堂島がまじまじと青桐を見てしきりに頷く。
「本当、俳優さんみたいで羨ましい。座ってるだけでモデルさんみたいですねえ。まあ、でも、人は見た目では分からないものだから」
青桐を擁護するように堂島が言うと、小林も相槌を打ちながら笑った。ふたりの笑い声にふっと場の空気が解ける。青桐も内心で息を吐いた。
けれど──
「藤本くんもそう思うでしょう?」
堂島の声に、ぎく、と青桐の体が強張った。
同意を求められ、朔は──
冷汗が背中を伝う。
そんな青桐の前で、朔はこくりと頷いた。
「ええ、本当に。そうですよね」
青桐を見て微笑んでいる。
朔が俺に笑っている。
でもその笑顔は青桐に向けられたものではないと、直感的に分かった。
それから小一時間ほどで打ち合わせは終わり、青桐と小林は書店を後にした。朔はまだ仕事があるようで、オーナーと一緒に見送ってくれた。
「今日は突然にお邪魔しまして、ありがとうございました」
「いえいえ、またいつでもお越しください。先生も、また来てくださいね」
「…はい。ありがとうございます」
堂島に丁寧に頭を下げられ、青桐も頭を下げた。先生などと呼ばれるほど大したものを書いているわけでもないのに、と複雑な気持ちになる。
どうしてだろう。呼ばれれば呼ばれるほどに胸の奥が苦しい。
「では失礼します」
小林の言葉に合わせて会釈をすると、書店の入り口でふたりが揃って頭を下げた。手を振るオーナーに小さく手を振り返す小林の横で、ゆっくりと背を向けた。
肩越しにちらりと振り返る。
「堂島さん、良い人でしょう?」
「ああ…」
「藤本さんも、すごくいい人でしたね」
「…ああ」
「朗読会、楽しみですね」
「……ああ」
明るい店内の光を背に受けているためか、雨の降る夕暮れの暗さの中で、朔の顔はよく見えなかった。
大きな通りまで出ると、社に戻るという小林とそこで別れた。
青桐は雨の中を自宅に向けて数歩歩き出したが、すぐに踵を返して元来た道を足早に戻った。
朔。
朔、さく、さく──
「朔」
戻ると、ちょうど朔が書店から出てきたところだった。
反対のほうへと歩いて行く朔の背中に、青桐は声を掛けた。
傘を差した背中が立ち止まる。
「さ…、く」
雨が傘を濡らす。
音もない霧雨はふたりの間に薄い膜のように落ちてくる。
「朔」
ゆっくりと朔が振り向いた。
斜めに傾いた傘から半分だけ見える顔。
その目は青桐を見ていた。
「朔…、あの」
言葉が出てこない。
名前ばかりを繰り返して、何も言えなくなる。
けれど、言わなければ。
ちゃんと言わなければ。
「朔」
「久しぶり、青桐」
抑揚のない声で朔が言った。
体ごとこちらに向き直る。
「元気そうだね」
朔、と青桐は唇を動かした。
声が出ない。
いつも肝心なときに声を出せない。
「小説家になったなんて、知らなかった」
「お、れは…」
俺は、朔のこと知ってた。
朔が高校を辞めたあと、どうしていたか。
由生子が持って来た書類に書いてあったから。だから、知っていたんだ。
「まさか青木由が青桐なんて思わなかったな」
すごいね、と傘の下で朔が笑った。
「……何か用?」
何も返さず、ただ立ち尽くしている青桐を窺うように朔は見上げている。青桐はぎゅう、と傘の柄を握りしめた。
言わなければ。
ちゃんと、今度こそ。
「朔、あのときのこと、俺に、…説明させて」
「説明?」
「言い訳とか、そんなんじゃなくてただ」
「ただ?」
傘の縁から落ちた雨が朔の頬を濡らした。
「ただ俺は──」
朔が好きだった。
今もずっと。
ずっと、朔が好きだ。朔だけが。
朔がいたから。
「俺は、朔が、朔と──一緒にいるのが、好きだから」
肝心なことが無意識に欠落している。けれど気がついたのは言ったあとになってからだ。しまった、と思ったときには、もう遅すぎた。
ふ、と朔が自嘲めいた笑いを見せた。
「だから、なにしてもよかった?」
「違う!」
反射的に声を上げると、自嘲に歪んでいた朔の唇が、すっと表情を失くした。黒く澄んだ目が、じっと青桐を見つめる。
くそ、なんでいつも俺はこうなんだ。
「今さら何言っても無駄だって分かってる、分かってるけど、でもそれは本当だから。俺は朔とずっと一緒にいたかった。だから…!」
だから。
「青桐」
朔が静かな声で青桐を遮った。
「もう終わったことだよ」
仕方がないような笑みを朔は浮かべた。それはまだ青桐に慣れなかった朔がよく見せていた表情だった。諦めと、仕方なさと、困ったような、そんな何もかもが混じり合った表情。
「もういいか?」
「朔…!」
それじゃあ、と背を向けた朔の腕を、咄嗟に青桐は掴んでいた。
「あお──」
「頼むから、お願い、朔」
振りほどこうともがく朔の両腕を青桐はしっかりと捉えた。
「何す…っ」
「朔、信じられないのは分かってる、けどっ、俺と──」
支えを失くした傘がアスファルトに落ちる。
「また…、俺と、友達になって欲しい」
信じなくてもいい。
信じてくれなくても。
ただもう一度。
もう一度チャンスが欲しかった。
「……え?」
朔は驚いたように青桐を見返した。
見開かれた朔の目には、泣き出しそうな顔をした青桐が映っていた。
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