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しおりを挟む「は…──」
どうにか書き直した原稿を読み直して、ふっと青桐は肩の力を抜いた。今度はどうだろう。一度客観的に見るかと、印刷にカーソルを合わせてクリックする。
少し離れた場所で静かにプリンターが作動し始めた。
ジジ、ジジ、と紙が吐き出される音を聞きながら、机の上のプライベートのスマホを手に取った。
午前3時。
真夜中だ。
ぎし、と椅子を軋ませて立ち上がると、青桐は仕事部屋を出た。廊下を歩き、リビングのドアを開ける。部屋は薄明るかった。月明かりが、開け放したままのブラインドから差し込んでいるのだ。そこを横切って奥のキッチンに向かい、ひとりには持て余すほど大きな冷蔵庫を開け、作り置いていたものを取り出した。
水切りに伏せていた皿を取り、慣れた手つきで注ぐ。満たされるそれに見る間に底は見えなくなっていった。
いつものようにキッチンに立ったまま、スプーンで掬った。何度食べても慣れない味に青桐の眉間に皺が寄っていく。
「…まず」
それでも、もうひと口。またひと口。
願うように口にする。
差し込む月明かりが皿の上にも差している。きらきらと美しい、でも青桐はどうしても好きにはなれない。
今日も底は見えないまま。
皿の中のものを半分以上残して青桐はスプーンを置いた。
ため息を落としてシンクの中にそれを捨て、適当に皿を洗った。
***
くそ、小林のやつ。
予想外に長引いた打ち合わせに胸の内で身勝手な悪態をつきながら、青桐は辿り着いたドアを開けた。
「は…っ、はあ…」
真剣に走ったのなんて何年振りだろう。
息を切らせて入った店内は暖かかった。吹き出した汗を拭いながら大股に奥に進めば、透明な間仕切りの向こうのスペースで、たくさんのこどもたちに囲まれて本を読む朔の姿があった。
間に合ってよかった。
肩で息を整えて、青桐は取り巻く母親たちの後ろにまわり、壁に寄りかかった。
「そこで手を振ると、狼の王は、高く高く、どこまでも届くような声で鳴きました。その声は遠い山を越え、川を渡り、やがて大きな湖にたどりつくと、ふわりと溶けて、まあるい月になったのです」
朔が読んでいるのは、誰もが知っている話ではなく、あまり知られていない作家のものだ。
でも、聞いているこどもたちはきらきらと目を輝かせて円の中心に座る朔を見つめている。
今日は堂島の書店で開かれている、月に一度の読み聞かせ会の日だった。毎月第3週の日曜日。先日ここを訪れたとき、入り口に貼られていたお知らせを目に留めていてよかったと心底青桐は思った。
あれから四日が経っていた。
わあ、と誰かが声を上げた。その声に朔は顔を向け、静かに微笑んだ。
「…そうして月は夜の空に昇って、いつまでも美しい姿で、森のうさぎを見下ろしているのでした」
おしまい、とぱたん、と膝の上の本を閉じると、聴き入っていたこどもたちがまるで魔法が解けたかのように一斉に息をした。ぱちぱちと鳴り出した拍手の中、少し照れたような顔の朔を、青桐は眩しい気持ちで見つめた。
好評だと言っていた堂島の言葉通り、彼は随分慕われているようだ。こどもたちの後ろに控えている若い母親たちの、朔を見ている視線で分かる。
苦い思いを青桐は飲み込んだ。
「ありがとう、またね」
読み聞かせ会は終わり、間仕切りの出入口では他のスタッフが本の販売を始めている。朔はその横に立ち、作業を手伝っていた。きちんと列を作り、今朔が読み聞かせた本を買っていく親子たちに手を振って見送っている。
最後の一組になったとき、青桐はつと、歩み寄った。平積みにされた本を手に取る。
「お願いします」
「はい、ありがとうござ…」
俯いていた朔が顔を上げ、目を瞠った。
心臓が飛び出しそうなほど速くなる。
青桐は何でもないふうに言った。
「こんにちは」
「…こ、んにちは」
差し出した本をぎこちなく朔は受け取った。女とこどもばかりの中、場違いな若い男に周りの母親たちがざわついた。好奇心剥き出しの遠慮のない視線には青桐は慣れ過ぎていて気にもならない。朔の横に立っていたスタッフが、あ、と声を上げた。
「え、青木先生? えっ?」
彼女は打ち合わせのとき部屋に居合わせたスタッフだった。
「どうも」
「ど、どう…っ、こ、こんにちは! えっと、あ、オーナー呼んできます!」
「ああ、いいです。今日は、──」
彼女が慌ただしく言うのに、青桐は手を上げて制した。
「藤本さんに会いに来たので」
えっ、と彼女は目を瞠った。
「藤本さん?」
「はい」
周りの視線が何事かと見守っている。
朔は青桐を睨むように見上げていた。
「…なにかご用ですか?」
その視線に気づかないふりで青桐は微笑んだ。
「朔」
気づいてしまったら近づけない。
こうでもしないと。
朔がぎょっとした顔をした。
名前は牽制だ。
朔、ともう一度呼んだ。
周りのざわめきがぴたりと止んだ。
「終わるまで待ってるから、一緒に帰ろう?」
真っ赤になって睨みつける朔をまっすぐに見つめた。
朔が何かを言おうとした。が、一気に戻ってきた騒々しさにタイミングを逃し、唇を震わせるだけだった。
「なに──何考えてるんだよっ!」
「なにって?」
「な、なにって…、俺は仕事中なのに、なん、なんでっなんで…!」
「だってああでもしないと逃げるだろ」
「にげ──」
ひく、と朔の顔が引き攣った。従業員用の入り口近くの裏のスペースで、壁に寄りかかる青桐を朔は睨みつけていた。
「だからってなにもあんな…!」
「あー先生」
ばし、と壁を手で叩き、朔が怒鳴り上げようとした瞬間、のんびりとした声が掛かった。
「凄いイケメンが藤本くんに詰め寄ってたって店の中騒ぎになってますよ」
あはは、と呑気に笑う堂島に青桐は身を起こして会釈した。
「すみません」
「ああ、いやいや、にぎやかになっていいことですよ。こういう仕事はたまに刺激がないとだれちゃうんでねえ」
スタッフもなんだか楽しんでますよ、と言われて青桐は内心で苦笑しつつも頭を下げた。こういう人柄の人間はあまり自分の周りにはいなかったので、物珍しい気持ちになった。いつも張り詰めたような空気を纏う者が実に多かったと、改めて気づかされる。
「それにしてもお二人が同級生だなんて、すごい偶然ですねえ」
「ええ、まあ」
ちらりと朔を見れば、ふい、と堂島に気取られぬように顔を逸らされた。あの場にいたスタッフの彼女にどういうことかと問い詰められて、あっさりと青桐はばらしていたのだった。それが堂島にも伝わったようだ。
「藤本くんも言ってくれればよかったのに」
「いや…、あの」
なんで教えてくれなかったの、と首を傾げた堂島に、朔は困ったように口籠った。青桐は横目にそれを眺めて、堂島に言った。
「俺が一方的に憶えていただけで、彼は俺のこと憶えてなかったので」
え、と隣で顔を上げた朔と、堂島が声を上げたのは同時で、青桐は朔の表情に気づかなかった。
「──」
「青木先生を憶えてないって、そんなことあるかなあ…僕だっだら死んでも忘れそうにないけど」
納得できないように言う堂島に、それは言い過ぎだろうと、青桐はふっと笑った。
実際朔は憶えていなかったのだ。
事務所でお茶でもどうですかと誘われて青桐はそれを断った。今日はプライベートだ。朔の雑務が終わるまで店内で待たせてもらえるかと言うと、本気で困っている朔に気づかない堂島は快く了承してくれた。
店内の目立つところに平積みされた本を手に取った。
今売れているというその本の作者を青桐は知らない。
雑誌の表紙に載っている有名人も、誰だか名前も分からなかった。知らない間に時間はどんどんと過ぎていたようだと思う。
小説家と呼ばれるようになってから、あまり表には出なくなった。家の外に出るのはどうしてもその必要があるときだけで、あとはずっと家の中にいる。もともとそれほど社交的ではない素の部分を、もはや隠す必要もなくなったのが、大きな要因だった。こどものころから見た目の派手さに中身までそうだと決めつけられ、自分の身を守るために別の顔で堅く武装していた。家を出て、断ち切れないものは残ったにしろ、ひとりになってしまった今では、もう必要のないものだ。それでも長年の習慣からか、見知らぬ他人であればあるほど、笑顔を向けてしまう癖が抜けずにいる。
「あの、先生」
本に目を落としていると、そっと囁きかけられ、青桐は目を向けた。書店のスタッフが、すぐそばで遠慮がちに見上げていた。確かレジにいた子だと青桐は思った。大学生くらいに見える。
「はい?」
無意識に笑顔を向けていた。
「その…、先生は藤本さんと同級生ってほんとですか」
「ええ」
「ええっと、じゃあ、藤本さんの誕生日とかって、分かります…?」
頷くと、さらに彼女は恥ずかしそうにした。その姿に青桐は思い当たる。
「気になるの?」
「え、ええっと…はい」
ふうん、と青桐は呟いた。
気になるのか。
「…そういうのは本人に聞くべきじゃない?」
「えっ、あー、ですよ、ね…っ」
少し冷めた声で言えば、びく、と彼女は怯えたように震えた。思うよりも大きな反応に、青桐はふっと表情を緩めた。
「聞けば教えてくれるよ」
「そう、そうかな…」
かあ、と真っ赤になった彼女は、青桐に詫び、ひたすらに恐縮しながらレジのほうへ戻って行った。
きっと朔が好きなのだろう。そんな相手に気安く教えてやるつもりはないけれど、少しやり過ぎたかと、胸がちくりとした。
「……」
朔に、人を傷付けるようなことはするなと言われた記憶が蘇る。
「…お待たせ」
はっと振り返れば、青桐の真後ろに朔が立っていた。書店のエプロンを外した彼は、白いスタンドカラーのシャツの上に紺のカーディガンを着込み、ライトグレーの薄手のコートを羽織っていた。細身の体にそれはよく似合っていて、一瞬青桐は見惚れて声を失くした。
「なに?」
目を眇めて小首をかしげる朔に、どきどきと鼓動が早くなる。朔は青桐をじっと見て、視線を逸らした。
「行くよ」
立ち尽くす青桐の横を朔は通り抜けた。デニムに包まれたすらりとした足が、大股て店内を横切っていく。慌てて本を置き、その背中を青桐は追いかけた。
「朔、待って」
ガラスのドアを押し開け外に出たところで朔は待っていて、出てきた青桐を振り返った。
「名前で呼ぶなよ」
「なんで?」
「なんでって、あのさ、ここは俺の職場なの! 大体──」
「あー藤本くん!」
またしても朔の声を遮ったのは堂島だった。
ドアから顔を出し、ああよかったと手を振って駆け寄って来る。よほど慌てて追いかけて来たのか、はあ、と肩で息を吐いた。
「よかった、すごい勢いで行っちゃうから…、これ、こないだ話してた物件の詳細」
はい、と堂島は書類入れを朔に渡した。
あっ、と朔は声を上げた。
「す、すみません、慌ててて…」
「はは、いいよいいよ、間に合ったから。これね、向こうは今月中に返事くれればいいって。連絡先入れてあるから、一度見に行ってみて」
「はい、ありがとうございます」
「ああ、それとこれ」
書類入れを受け取って頭を下げる朔に、堂島はポケットから取り出したものを渡した。
「こないだ開店したそこの角の店の招待券。僕甘いの駄目だから藤本くんにあげるよ」
「え?」
朔の手に押し付けられたのは、ピンクと黄緑色の綺麗なデザインのチケットが2枚。そっと覗き込めば、近隣の店に向けて配られた無料招待券と書かれてあった。
「季節のタルトっていうの? 美味しいみたいだよ。ちょうどいいから、青木先生と行って来なさい」
感想聞かせてね、と堂島はにこりと笑った。
取引先のオーナーに言われ渋々店に入った朔は、じっとテーブルを見つめている。
朔の戸惑いが手に取るように分かった。
こちらを見ない彼の目に、ちりちりと胸の奥が痛んだ。
それでも、またこんなふうに朔と向かい合っていることが夢のようだと青桐は思った。
「このあいだ、…」
ぽつりと朔が言った。
「叩いたりして、悪かったよ」
ああ、と青桐は思った。
四日前、朔は青桐の頬を叩いて走って行ってしまったのだ。
「…平気」
あんなのなんてことない。
あれくらいどうってことない。
またこうして会えたのだから。
顔を上げた朔と目が合い、青桐は微笑んだ。
はっとしたように朔が目を逸らしたとき、注文していたものが運ばれてきた。
「お待たせいたしました。こちらが姫林檎のタルト、こちらが無花果のタルトです」
それぞれの前にコーヒーと共に置かれたそれは、美しく盛りつけられ、本当に美味しそうだった。
「ミノリ屋さんにはいつもお世話になってます。どうぞゆっくりしていってくださいね」
ミノリ屋とは堂島の書店の名前だ。元々の建物の持ち主であった工場の名前をそのまま引き継いだという。白髪の年配の女性店主はにこりと笑ってテーブルを離れていった。
小さな店だった。店内にはかすかに聞こえるほどの大きさでピアノの曲が流れている。客は時間帯のせいか、こんな路地裏にあるためか、他に一組しかいなかった。
無言でフォークを手に取ったふたりは、どちらからともなくタルトをひと口食べ、目を瞠った。
「美味しい」
「うま」
同時に上げた声で顔を見合わせ、互いに赤くなる。
くすぐったいような雰囲気に、笑みを零したのは朔のほうが先だった。
「美味しい、この林檎」
「無花果も美味いよ」
朔の言葉に、青桐も笑みを浮かべた。朔が笑っていると思うだけで嬉しかった。胸が熱くなり、たまらなくなった。
『朔、それちょっとちょうだい?』
思わず、高校生のころのように言えば、朔はどうするのだろうと思った。
きっと、呆れられるんだろうな。
やめろと、もっと嫌われるかもしれない。
言い出したくて、それでも言い出せなくて、目頭がじんと痺れたように熱くなるのを悟られないようにしながら、青桐は自分のタルトを口に入れた。目の前に朔がいる、ずっとこのままでいたい。願い続けたことが少しでも届いたのなら、毎日真夜中に繰り返すあのことも、無駄ではないのだと思えた。
もっと──、もっと…
「……うん、美味い」
今のこの時間を引き延ばすように、ゆっくりと、ゆっくりと青桐は食べた。
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